第15話 歩いていく
快晴の空に、満開の桜の花が煌めく。
優しく吹き抜けていく春の風は桜の香りを含み、甘い和菓子のような匂いがした。
「あれぇ……? この辺だったと思うんだけど」
先程から隆宏と二人、ずっと同じ一角をぐるぐると巡り続けている気がする。
かねてから願っていた、彼を連れて花月さんの店に行くこと。それを今日叶えようとしているのだが、どうやら道を間違っているらしい。
「なんか記憶違いしてないか? それともいっそ夢だったとか」
「夢じゃないよ。絶対この辺りだよ。だって会社帰りだったんだもん」
「両隣の店は何だったんだよ」
「シャッター締まってたし記憶にないなぁ。お不動様の参道近くだったんだけど……」
勿論だが、あれから恐ろしい夢は一切見ていない。
それどころか、それまでの不眠を取り戻すかのように、ぐっすり眠れている上に、なんだかほこほこした幸せな気分で目覚めることの方が多くなっている。
どうやら私の不思議ごとは、本当に幸福な結末へと和合したようだ。
晴れて隆宏と婚約して、結婚が具体的になってきた私は、急にかなりバタバタした日々を送ることになってしまった。
ちょうど年度末で仕事の多忙期がやってきたことに加えて、休みを使って隆宏の実家に挨拶に行ったり、友人たちがお祝いの女子会を企画してくれたりして、気付けば一か月があっという間に経ってしまったほどだ。
これから四月になれば年度初めに入り、また暫く多忙な日々になってしまうだろう。隆宏と私の休みや都合が合う日も、きっとゴールデンウイークまで伸びてしまいそうな気もする。
今日は多忙な日々の中休みのように、二人でのんびりできる機会になったので、どうしても花月さんに婚約の報告をしたくなったのだ。
しかしまさか道を忘れてしまうなんて。
「絶対この辺なんだけどなぁ」
スマホの地図を開きながら、画面を格差縮小する。
その度に左手の薬指に、穏やかな日差しを受けたダイヤがキラキラと光る。
指を動かす度に石が乱反射して虹を作り出し、時には眩い光の線さえ放つのがとても綺麗だ。
最近はついつい嬉しくなって、さりげなく日差しに向けてキラキラさせてしまうのが癖になった。
私の新しい癖を見るたびに、嬉しそうに小さく笑ってくれる隆宏の顔を見るのも好きだ。
この石の重みに慄いていた頃が、もうずっと遠い昔のように思えるのが不思議なほどに。
「なに?」
あえて尋ねれば、隆宏は肩を竦めて目を逸らす。
「なんでもないよ」
その表情に、彼の実家に行った時のこと。そして私の実家のお墓参りに行った日のことが甦ってきた。
隆宏の実家の御両親とはもう既に何度かお会いしていて、関係も良好なのだが、やはり緊張は並みならぬものがあった。
並んで座ったご両親の前で婚約の報告を彼が切り出した時には、むしろホッとした顔をされて本当に良かったと今でも思う。
「ウチのがいつになったら結婚申し込むのかと思ってハラハラしていたけど、あんまり私たちが口を出してもねぇ……ってお父さんとも話していたのよ」
「不出来な息子ですが、茉莉枝さん、どうか宜しくお願いするよ」
優しいご両親は、そう言って私を歓待してくれた。
私の方は、父に会ってもらった。
既に再婚して新しい家庭を持っている父は、家ではなくレストランをセッティングしてくれた。
私が今の奥さんと子供に会うことに、どことなく気が引けると知っているのだろうか。
或いは父の方が、今の家族や、住んでいる小さなマンションを私に見せたくないのか。
或いはあちらの奥さんか子供が、私に会うことを好ましく思っていないのか。よく分からないけれど。
それならそれでもいい。
決して強がりではなく、それで十分だと思う。
いま現在、自分の周りを取り巻くコミュニティが一番大切なのは当然のことだし、何をおいてもいま自分が生きている世界を守ることは、とても大事なことだと思うから。
「茉莉枝の選んだ人だから、きっと大丈夫だね」
そう言って笑った父は結局やはり何処か私に無関心であり、エレナのことも聞いてみたけれど、何も覚えてはいなかった。
悲しいとは思わなかった。
父は父。私は私。
エレナとの想い出は、いつでも取り出して愛でることができる私だけの秘めた宝物だ。
彼女に会わせてくれたことと、こんなにも豊かな記憶を残す切っ掛けをくれたこと。
大切なのはそれだけで、父が覚えているかどうかは問題ではないのだから。
私の世界に、父という立場だけのこの人は無関係だ。それでいい。
母には墓前に報告する形となった。
遅まきながら私は、この件についても一歩踏み出せたのかもしれない。
どこか重い荷物を下ろしたような想いで、私は何の屈託もなく母に向き合うことができたと思う。
目を閉じて静かに手を合わせてくれている隆宏と並んで、今の想いをしっかりと伝えてきた。
母は聞いてくれたと思う。
その手ごたえは、何となく感じられたから。
私を産んで、お母さんというものになろうとしてくれた一人の女性。
彼女に、私は胸の内でこんなふうに語り掛けてきた――。
◇
お母さん。久し振り。
今日は結婚の報告に来たの。お父さんにも会ってきたよ。
紹介します。これが私の選んだ人です。
とても優しい人だから、きっと幸せにやっていけると思います。
どうでしょうか。私はわりとイケメンだと思うし、仕事もできるんだよ。最高の人です。
もしお母さんが生きていたら、私を宜しくお願いしますって、彼に言ってくれたでしょうか。
お母さん。
たぶんあなたも、お父さんと結婚した時には、こんなふうに幸せな気持ちで家庭を築いていこうと思ったんだよね。
大好きな人と結婚できて、嬉しかったはずだよね。
でも実際に結婚してみたら、思った以上に手に負えないことが多くなってきて、予想外のこともたくさん起きて、でも頑張ろうとして、それでも駄目だったんだよね。
お母さんが私にしたことを、娘としてまだ許せる気はしません。
傷は全然癒えていないし、正直まだ恨んでいます。貴女は母親として最低のことをしました。
でも、その気持ちはもう、私自身の意志で何処かに鍵を掛けて閉じ込めておくつもり。
傷付けられたことを恨んだり苦しんだりしている限り、私は幸せになれないから。
苦しみだけを散らかした暗闇に、いつまでも私だけ立ち止まっていたくないから。
お母さん。私は苦しい過去を暗闇に置いて、前へ進みます。
私は私の心を、もうこれ以上恨んだり苦しんだりすることに使わない。
涙で洗い流したまっさらな心は、これから全部を愛することに使うの。
だからね、お母さん。
不器用な貴女の生き方を、労しいと思うし、愛おしいとも思います。
他でもない私のために、そう思うことにします。
お母さんは精一杯だった。私も悪くなかった。
私たち、生きるのを頑張ってた未熟者同士だった。未熟者のひよこ同士が、ぶつかって泣いていただけ。
そんなふうに考えてしまえば、あの頃の苦しみさえも、可愛いものに思えてくるでしょう。
ねぇお母さん。
過去に戻った時に迷い悩んでいるあなたを見て、私は一つ考えたことがあるんだ。
それはね。
どんなに仲が良くても、夫婦という形になっても。彼は彼、私は私、ということ。
私は、隆宏が頑張ってくれる以上のことを、彼に求めません。
彼が私の願い通りに動いてくれることを望みません。
そして私も、無理をしてまで彼に尽くしません。
好きだからこそ頑張ってあげたいと思う時はあるけれど、私のキャパシティを越えてしまうほどの頑張りはしないようにします。
ずっとそんな無理を続けていけば、いつかそれは大きな不満となって、大きな見返りを当然のように求めてしまうだろうから。
人間はどうしても、そう考えずにはいられないものだから。
それは、いつか子供を授かっても同じです。
子供のために無理はしません。
彼も大事。子供も大事。私も大事。
そうして公平に愛を分配して、横一列に手を繋いで歩いていきたいと思います。
私が選んだ人が帰ってくる家を、居心地の良いものにしたい。
帰りたいと思える家庭を作っておくこと。
それこそが、彼を心から愛し抜くことに繋がると思います。
私もまだまだ未熟者だから、上手くできるかどうか分からないけれど、やってみます。
結婚式には来てくださいね。
きっとお母さんの隣の席には、青いドレスのエレナが微笑んでいてくれるはずだから。
愛そうとしてくれて、愛せなくて苦しんでくれて、だからこそ愛してくれて、有り難う。
小さい私が風邪を引いた時に、すり林檎を食べさせてくれて有り難う。
あれが、全てを繋ぐきっかけとなってくれました――。
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