第14話 未来へ
茉莉枝。……茉莉枝。
まただ。また誰かが私の名前を呼んでいる。
とても切迫したような、悲壮感さえ感じるような声で。
そんなに心配しないで。ちょっと不思議な所に行ってきただけだから。
私、エレナに会えたんだよ。お母さんにも会えたんだよ。お父さんは声だけだったし、色々と悲しいことも知ってしまったし思い出したけど、私は私自身に会えたんだ。
自分を理解して、自分を許せて、私自身の心と本当に仲直りできたんだ。
だから大丈夫。そんなに心配しないで。
「茉莉枝! おい、茉莉枝!」
揺り起こされて、ハッと目が覚めた。
目の前には不安げに青ざめた隆宏が、私を覗き込んでいる。
周囲を見回すまでもなく、ここが自分のアパートの部屋だと分かった。
私は着替えもせずバッグさえ肩に掛けたまま、うつぶせにベッドに倒れ込んでいるらしい。
「おい、大丈夫か? 気分が悪いのか?」
切迫した様子で問い掛けられ、ふと心が現実に帰ってきた途端、疑問符が頭の中でいっぱいになった。
「あれ……?」
慌てて置き上がり、ベッドの上に座り直す。
いつもの私の部屋だ。
今朝出掛けた時に迷った服が鏡の前に出しっぱなしのまま、朝食の後に食べようと思って時間が無かったお菓子の袋もローテーブルに転がったままだ。
壁の時計の針は、深夜の一時を回っていた。
「え? 私どうやって帰って……?」
どういうこと?
どうやって帰ってきたのかがさっぱり思い出せない。
さっきまで花月さんの甘味処にいたことは確かだ。
不思議な空間にいたのも覚えている。
そこで花月さんに閉店時間だと言われて、荷物をどうしようと思ったことも。
花月さんが赤い花弁になって消えてしまって、それからエレナに会えたことも覚えている。
そこから先の記憶がない。
エレナと抱き合っていた後の記憶が全くない。
「やばい、あれから全然何も思い出せない!」
「なに言ってんだよ。何があったんだよ。それより気分は? 眩暈とか吐き気とかするのか? 正直に言え」
とにかくそれを聞きたいという風情で問い掛けてくる隆宏に、ともかく私も頭を振った。
「ううん、ごめん全然平気。元気元気。え、というかどうしたの? 今日はうち来る日だったっけ?」
それを聞いた途端、彼は片手で顔を覆って深く吐息しながら、膝から床に崩れ落ちた。
「なんだよもう勘弁してくれよ……救急車呼ぼうかと焦った……良かった……」
声がすっかり泣き声だ。
どうやら隆宏が言うには、電話をしても一向に繋がらず、何度か送ったラインも深夜まで未読のままなので、会う予定はなかったが心配になって様子を見に来てくれたらしい。
部屋に入ってみれば、私がどう見ても帰宅直後のままベッドに倒れた様子で意識を失っており、声を掛けても揺り起こしても目を覚まさなかったので、急病から過労死の文字が頭を過ぎっていたようだ。
「大丈夫だって! 私そんなに過労になるまで頑張ってないもん」
「馬鹿! 最近ずっと夜うなされてたろ。睡眠不足もあるだろうし、めちゃくちゃ心配したんだぞ」
問題ない私の様子に、良かった良かったと繰り返す彼の後頭部を見下ろして、胸がきゅんとした。
「有り難う。そんなに心配かけちゃってごめんね」
バッグを肩から下ろしてベッドから降り、彼の頭を包み込むように抱き締めると、思わぬ強い力で抱き締め返された。
「……謝んなくていいよ。茉莉枝に何もなければもうそれでいいよ」
抱き締めた彼の身体は少し汗ばんで冷たい。鼓動も驚くほど速い。こんなに冷汗をかいて、本当に心配してくれたようだ。
連絡がつかないから、倒れているのかもしれないと助けに来てくれた人。
私がずっと悩まされている悪夢のことを気に掛けて、睡眠不足を案じ続けてくれた人。
何事も無ければそれでいいと、鷹揚に受け止めてくれる人。
決死の覚悟で申し込んでくれたのだろうプロポーズを、何か月も待たせているというのに、辛抱強く黙って待っていてくれる人。
こんなにいい人を、私どうして放っておけたんだろう。
「私、馬鹿だったなぁ……」
自分のことばかり気にして。
まだ何も分からない未来のことを、あれこれ悪い方にしか考えられなくて。
それを慎重さと言い訳して。
そうだよね、エレナ。
花月さん。
ふと気付けば、偶然にも今の隆宏と私の姿勢は、さっきまでのエレナと私そのままだった。
私の位置に隆宏がいて、エレナの位置に私がいる。
つまりそれは、エレナが私を愛してくれたように、これから私は隆宏をしっかりと愛し抜くべきなのだという啓示のように思えた。私自身、そうしてみたい。
幾つかの不安はまだあるけれど、できる限り乗り越えて前へ進んでみせる。
私にはそれができる。
そんな気がしてならない。
「あのね、お願いがあるんだけど」
そっと身体を離して、微笑しながら隆宏の顔を覗き込む。
「ん?」
改まって何だというように、隆宏が眉を上げた。
今から言おうとすることを思うと緊張する。
鼓動を速めてきた胸を押さえて、彼と向き合うように座り直した。
「あのね」
「うん」
さぁ言うぞと思ったのに、まず何から言えばいいのか切っ掛けが出てこない。
今更ながら眩暈がして息が苦しくなってきた。
場を持たせるように両手で彼の手を取り、握り、幾度か小さく振る。
「なに?」
戸惑い気味に隆宏が問う。
どこか怯えめいた気配が漂うその表情に、不謹慎ながら可愛いと思った。
「ううん、ごめん。悪い話じゃないの。ちょっと言い出すのに緊張するなって思ってるだけ」
「おう……そうか」
少しホッとしたようだ。
「そう。……あのね」
言い出す切っ掛けが見当たらない。突然これを言って、引かれないだろうか。
でも、彼は数か月前に、一人でこれを乗り越えてくれたのだ。
私がどんな返事をするか、まるで分からないゼロからの挑戦に、果敢に挑んでくれた。
引き換え私は、一度申し込んで貰っただけに、ある程度の保証はされている。
彼よりは甘い挑戦なのだから、ここで怯んではならなかった。
「……あのね、プロポーズ」
「……おお」
悪い話じゃないと前置かれたとはいえ、何を言われるのかと訝しげな隆宏に、私は愛しさの全てを込めて微笑した。
「プロポーズしてくれた時、すごく嬉しかったです」
「ああ、うん」
「有り難う。あんまり嬉しかったから、少し怖くなっちゃったんだ。ずっと待たせていてごめんなさい。でも待っていてくれて本当に有り難う。……それで」
一息に言ったせいか、息が乱れる。
ドキドキと胸の内で鼓動が主張しすぎてうるさい。
心なしか耳が熱いのは、上気しているせいなのだろうか。きっと私は今、顔が真っ赤だ。
「ええと、それでね……」
早く言わなきゃ。言うんだ。
「もし私で良ければ――改めて、あなたにお願いします。私と結婚してください!」
言えた、と思った時。
黙って聞いてくれた隆宏が、ひそやかに息を呑んだ気配がした。
驚きに見開かれた目が、みるみると光を帯びてくる。
喜びを堪えるように一度下を向き、崩していた脚を姿勢良く正す。
その一連の様子を見た時に、ああ私――この人のことが大好きなんだなと、心から思った。
「俺の方こそ、改めてお願いします。一生、大事にします」
私の目を見詰めながら、はっきりとそう言ってくれた隆宏が、ぎゅっと力を込めて私の両手を握り返してくれた。
痛いほどのその力が、数か月前の彼の覚悟を伝えてくるようだ。
「もう、痛いよ。ふふふ、すごく緊張した!」
「ああ、ごめんごめん、ふふ。……うん、緊張するだろ?」
私たちは微笑み合い、照れて笑い合い、そして額を当てて、流れるように口付けた。
目を閉じた瞼の裏に、まばゆいほどの白い光が見える。
それは瞼を透かす部屋の明かりではあるけれど、いつか歩くバージンロードに差し込む光のように思えた。
エレナ。私、幸せになるよ――。
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