第13話 過去と未来
「大丈夫?」
そこまで話したエレナが、私の頭に唇で触れながら優しく聞いてくれた。
子供のようにエレナの胸に甘えながら、私は一つ大きく頷いた。
私はずっと彼女の姉のつもりだったけれど、実際はこんなにも高潔で優しい彼女に「お姉ちゃんごっこ」をさせてもらって、どこまでも甘やかされていたのだ。
それはとても幸福で、愛おしくて、切なく甘い事実だった。
初めて知った人形やぬいぐるみの気持ち。
商業施設の店などに並んでいる色々な人形やぬいぐるみは、皆、そんな想いで持ち主との出会いを待っているのだろうか。
そんな想いで持ち主の側にいるのだろうか。
だとすれば、私が持っていた他のぬいぐるみたちも、同じ想いだったのだろう。
私は、こんなにも愛されていた。
両親、親戚、恋人、友達、そしてエレナをはじめとする人形やぬいぐるみたちにさえ、沢山の愛を与えられていたのだ。
返していかなければ。これから、沢山の人たちに。
「良かった。やっと茉莉枝に、本当の姿で出会うことができて」
「え……?」
思わぬ言葉に、ふと身を離してエレナを見た。
「茉莉枝の夢の中で、いつも茉莉枝は逃げてしまっていたから。きっと私が恐ろしい姿に見えていたのね?」
「……ごめんなさい」
子供のように謝った私に、エレナがひどく可愛いものを見るように笑みを深めた。
「茉莉枝が持っていた、深い罪悪感のせいね。私が怒っていると思っていたから」
何度も見ていた悪夢の中で。
私の名を呼ぶあの恐ろしい声は母のものだった。
それなら化け物のようになって追い掛けてくるエレナは、私の罪悪感が作り出していた幻だったのか。
私も受け入れてあげれば良かった。
勇気をもって、どんなエレナでも迎え入れてあげれば、もっと早く変わったかもしれないのに。
でもきっとこれは、花月さんに出会わなければ理解さえできなかったことだ。
「だから、あの人の力を借りたの。また逢えて良かった。貴女に本当のことを伝えることができて良かった」
「エレナ……」
もう一度抱き寄せてくれたエレナを、私もまた抱き締める。
ああ――エレナ。
できればこのまま連れて帰りたい。
もう一度、最初からやり直したい。
「ねぇ茉莉枝。恋人のプロポーズをお受けなさい。彼はとても優しい人よ」
どれだけそうしていただろうか。
不意に向けられたエレナの言葉に、驚くよりも前に胸の奥が熱くなった。
「どうしてそれを……」
「うふふ、見守っていたもの。会えなくなっても、私の心はずっと茉莉枝のそばにいたもの」
驚くというよりも狼狽えた私に、エレナは鈴が転がるような声で笑う。
「彼に返事を待たせているのは、いつか子供を産むかもしれないことが怖かったからでしょう? お母さんのようになってしまうのが怖かったのでしょう? 恐ろしい姿の私の夢を見始めたのも、その頃ね?」
その通りだ。私は小さく頷いた。
隆宏が結婚しようと言ってくれたのは、数か月前。
一緒に家庭を築いていきたいと、指輪まで用意して。
しかしその指輪の輝きに、私は怯んでしまった。
レストランの照明を受けて煌めくダイヤモンドは、それほどに彼の気持ちが真剣であることの証だったから。
子供好きの隆宏が、あえて口には出さなくとも、それとなく私との子供を欲しがっている気配は感じていた。
きっと結婚したなら、子供を産むことを視野に入れるだろう。
それが恐ろしかったのだ。
例え指輪を交わして将来を誓っても、これから先ずっと二人の仲がどんなふうに変わっていくのか分からない。
私の知り合いの中にも、子供を産んでから価値観の大きな違いに気付いてしまった二人もいた。
もし、隆宏と私の間にそんなことが起きたら。
母の血が流れている私もまた、自分がされたことを子供にしてしまうのではないか。
そう思うと、どうしても彼のプロポーズに即答することはできなかった。
即答できずに戸惑う私を、隆宏は根気よく待ってくれると言い、今もまだ何事も無かったように私と付き合い、夜毎の悪夢に悩まされ続けていることにも優しく気遣ってくれている。
彼の誠実で真面目な人柄は、それだけでも十分に明らかだというのに。
その誠実さに応えたいと思いながら、ずっと応えられずにいる引け目もまた、私を追い詰めていたことは間違いない。
「安心して、茉莉枝。ただの人形に過ぎない私のことさえ、こんなに案じてくれた貴女は、必ず良いお母さんになれるわ」
エレナがそっと身体を離し、私を見上げながら頬に触れてきた。
「貴女は、前へ進める。そう、あの人に言われたのではなかった?」
――貴女はもう、前へ進める。
花月さんの凛とした力強い声が、耳の奥に甦った。
――忘れることでもなく、無理に許すことでもなく、全てを受け止めて乗り越えた貴女は、更に高みへ昇れる。前へ進めますよ。
(花月さん……)
つい先ほど別れたばかりの、あの不思議な甘味処の店主さん。
彼の力を借りて過去に戻り、しっかりと自分自身に向き合ったという経験は、灯りたての炎のように私の中に進む力を与えてくれる。
忘れることでもなく、無理に許すことでもない。ただ、受け止めること。
言葉にしてしまえばあまりにシンプルで当たり前なそれこそが、実は一番難しく、癒せない傷を抱えたまま前を向いて生きていくためには、何より大切なことなのだと分かった。
私はこれからも色々なことを受け入れて、乗り越えて、新しい景色を見なければならない。
沢山の存在に与えられてきた愛を、他の存在に返していかなければならない。
誰でもない私の心が、それを望んでいるのだ。
「うん」
大きく頷いた私の頬にもう片手を添えて、エレナがにっこりと嬉しそうに笑った。
そしてその笑みが、ふと切なく翳った。
「さぁ、そろそろお別れの時間だわ」
恐れていた言葉に、私はきつく目を閉じた。
分かっている。
ずっとここにはいられない。
ずっとエレナとこうしていたいけれど、それは叶わない夢だということも、
「一緒に帰れないの?」
「……いいえ」
それでも万に一分の望みをかけた私の問いに、エレナが切ない笑みのまま、ゆっくりと頭を振った。
「エレナは今、どこにいるの? 私、どこかにしまい込んでる?」
もし、お世話になっていた親戚の家の物置の奥にでもしまい込まれているなら、箱から出してあげたい。連れて帰りたい。
「……いいえ」
その問い掛けにも、エレナはゆっくりと頭を振った。
「人形はね、持ち主の子に必要がなくなると、目の前から消えてしまう宿命なの。これは、人形に限ったことではないけれど。この世の全てのものは、そういう宿命なの。気付いたら側にいなくなっているものは、そういうことなのよ」
そうなんだ。
つまりエレナという人形は、もうこの世界にはいない。
きっと引っ越しの時の騒ぎに紛れたまま、捨てられてしまったのだろう。
もしかするとあの悪夢で見たエレナの姿は、ゴミとして回収され、プレスされた後の彼女だったのかもしれない。
私の罪悪感が、それを幻視させたのかもしれない。
エレナはそれを伝えたくないのだ。
目が熱くなり、視界が潤んだ。
「ごめ……」
言い掛けた私の唇に手を当てて、またエレナはゆっくりと頭を振る。
「例え器が無くなっても、私たちの魂は不滅のまま、ずっと持ち主の子を見守っているから、それでいいの。貴女がこの世で生を終えるまで、ずっと、幸せを祈りながら見守っているから、それでいいの」
「エ、レナ……」
「ほら、私、綺麗でしょう?」
空気を変えるように明るい声でそう言ったエレナは、私から少し離れて、まるで円舞を舞うようにくるりと回って見せた。
大輪の青い薔薇が咲いたようだ。
白金の巻き毛が霧のようにふわりと広がり、子供部屋の甘い匂いがする。
「うん……きれい。すごく綺麗だよ……」
涙を拭いながら何度も頷く私の顔を、エレナはまるで優雅な礼をするように覗き込み、私の小指に彼女の小指を絡めながら囁いた。
「行ってらっしゃい、茉莉枝。しっかり生きて。いつか茉莉枝が人生を終えて、ゆっくり眠る時が来たら――また、会いましょうね」
そうして私とエレナは、時間に許される限り抱き合った。
彼女の手触りと匂いを、彼女の美しさを、彼女の優しさを忘れない。もう二度と。
可愛い可愛い、泣き虫マリエ。
まるで子守歌を歌うようにフランス語でそう囁いた、彼女の声も。
忘れない。絶対に忘れない。
(初めまして、エレナ。私は茉莉枝よ。今日から私がお姉ちゃんだからね。仲良くしましょうね)
(エレナ、はいどうぞショートケーキよ。エレナは苺が好きね)
(遊ぼう。エレナ、大好き。遊ぼう――)
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