真新しい靴がステップ

新巻へもん

イライザの恋

 イライザの母が死んだ。

 具合が悪いから今日は早く寝るわと言ったのが最期の言葉となる。

 まだ幼かったイライザは母の死の意味が理解できない。

 結局、隣家のおばさんが、顔を見せないイライザの母親を心配して様子を見にきた事でその死が発覚した。

 簡単な葬儀の後、イライザは天涯孤独となる。

 イライザの母はトールハイムの町で小さな仕立て屋をやっていた。

 借金こそなかったが、イライザに遺してやれる財産と呼べるものはない。

 家も借家だったので、庇護者だけでなく住むところも失ってしまった。

 大好きだった母を亡くしてふさぎ込むようになったイライザを周囲の人々は哀れんだが、自分の家に引き取ろうという者は現れない。


 これが首都での出来事であればイライザの人生は苦難に満ちたものになってしまったかもしれない。

 まだ8歳の子供に数年間の衣食住を提供して収支をプラスにできる方法というものは限られた。

 ごく僅かな食事で家庭内の労働力としてこき使うか、十分な食事を与えられるが数年後に体を売らされるか。

 いずれにしても幸せとはほど遠い人生が待っていただろう。


 ただ、トールハイムの町はその点恵まれていた。

 町が運営する孤児院が曲がりなりにも機能している。

 ほとんど着の身着のままで孤児院に引き取られたイライザは、慣れない集団生活を始めた。

 少々騒々しく無遠慮な他の孤児たちの馴れ馴れしさには閉口したし、お腹が一杯になることはなかったがイライザは黙って運命を受け入れる。

 それでも、優しくいい香りのする母に抱きつくことや夜寝る前にお話しをしてもらうことができないのは淋しかった。


 泣きわめき世話を焼かせることがなかったのは、まだ正確なところは理解できないものの、自分はまだマシな境遇ということをなんとなく肌で感じていたからである。

 大人しくわがままを言わないイライザは、孤児院では手のかからない子として大人から好意的に受け止められた。

 それは逆に言えば大人の目が細部まで届かないということになる。

 孤児院の院長もスタッフも善良な性格をしていた。

 裏で犯罪組織と繋がっていて秘かに子供を売りとばしたり、虐待を加えたりというようなことはない。

 ただ、誰が悪いわけではないが、世話をする人数と力量が不足している。

 ふんだんに与えられていた愛情が急に断たれたことで、本人も気付いていなかったが、孤児院での生活はイライザの心を静かに蝕んでいった。


 すっかりイライザが孤児たちの中に埋没するようになった頃、篤志家の寄付により新しい服と靴が孤児たちに与えられる。

 母が仕立て屋をしていたので、イライザが孤児院に入る前は質素ではあっても新しいものを身につけていた。

 真新しい服に袖を通し、真新しい靴を履いたイライザの顔に影を潜めていた笑みが浮かぶ。

 周囲の大人たちには、やっぱり女の子なので新しいものが嬉しいのね、程度の認識でしかなかったが、イライザにとって新しい服と靴は過去の幸せな日々の象徴であった。

 晴れやかな気持ちでイライザは、孤児院の外へと出かける。

 何か素晴らしいことが起きる予感がしていた。


 昨夜激しく降っていた雨も上がり、陽射しが眩しい。

 そこにガラガラと音を立てて馬車が走ってくる。

 イライザは道の両側にある一段高い歩道におり安全だと思っていた。

 確かにぶつかる危険はなかったが、馬車はスピードを出していたため、盛大に車道の泥水を跳ね上げる。

 避ける間もなくイライザの全身は茶色に染まってしまった。

 真新しい服と靴が汚れてしまったことも悲しいが、もう幸せな日々は来ないのだと宣言されたような気がしてイライザはポロポロと涙を零す。


 そこへこの町の治安維持を行っている衛士団の制服を着た青年が駆け寄ってきた。

 イライザもその服が悪者を捕まえる人のものだというのは知っている。

 自分を捕まえに来たのかとびっくりして、イライザは泣きながら怯えた顔で青年を見上げた。

 糸のように細い目をした青年はたちまちのうちに情けない顔をする。

「ああ。いきなり近寄ったら驚くよな。ごめんよ。それで……、お嬢ちゃんが服を汚されて悲しいんじゃないかと思ってさ。せっかくの新しい服と靴なのにな」

 青年はしゃがみ込むとイライザと目線を合わせた。

「可愛いお顔にも泥がついている。これは酷い」

 青年はハンカチを出すとイライザの顔を優しく拭いてやる。

「おうちはどこだい?」


 しゃくり上げながらイライザは少し離れた孤児院の門を指さし、青年はニコリと笑った。

「そんなビチャビチャの靴じゃあ歩くのも気持ち悪いよな。よし、お兄さんが連れていって説明してあげるよ」

 青年は泥だらけのイライザをひょいと抱き上げる。

 イライザは驚いたが、抱き上げられて顔が近くなっても目がやっぱり細いことの方が気になってしまった。

 歩き始めた青年に質問をする。

「そのお目々でもちゃんと見えるの?」

「気になるかい? でも、ちゃんと見えてるよ。君が何も悪くないのに泥水をかけられたところもちゃんと見ていたからね。馬車の持ち主にごめんなさいをさせるよ。そうだ、お兄さんはブランドっていうんだ。君の名前は?」

「初めて会った人には言っちゃいけないって言われているの」

「そうか。言いつけを守れて偉いねえ」


 ちょうど孤児院の建物に入った青年は出てきた職員に目撃したことを話した。

「体を洗って着替えさせてあげてください。この子が汚したんじゃないですから、叱ったらダメですよ」

「まあ、うちの子供が御迷惑を」

 職員はイライザよりも制服を汚してしまった衛士団の青年のことを気にする。

 青年は屈託なく笑った。

「仕事着は汚れるものです。きちんと仕事をしているという勲章ですよ。あ、そうだ。申し遅れました。私の名はブランドです。その子を着替えさせたら、今着ている服をお借りできますか?」

「それは構いませんが……」


「格好いいことを言いましたけど、隊長に事情を説明するのにお借りできれば助かります」

 しばらくして奥へイライザを連れていき戻ってきた職員から、ブランドは汚れた衣類一式を借り受ける。

「確かにお預かりします。一両日中にはお返しにあがりますから」

 一礼するとブランドは孤児院を出ていった。

 その頃、体を洗われて元の継ぎだらけの服に着替えたイライザはしょんぼりとしている。

 親切にしてくれたお兄さんに名前を名乗ってお礼を言えなかったことが気になっていた。


「やーい、イライザだけボロだ」

 同室の孤児たちから囃されたことよりもそちらの方が心痛の原因になっている。

 翌日になっても元気がなかったが、午後になって呼び出されたイライザはブランドの姿を見かけると駆けよった。

「私、イライザ。ブランドさん、昨日はありがとうございました」

 ぴょこんと頭を下げるイライザを見てブランドは微笑んだ。

 すっと腰を落とす。

「イライザと言うんだね。素敵な名前だ。それに私の名前を覚えていてくれたんだね。嬉しいよ」

 もともと細い目をさらに細くするブランドにイライザもおずおずと笑顔のようなものを向けた。


 ブランドは申し訳なさそうな顔になる。

「今日はイライザに謝らなければいけないんだ。昨日、イライザに泥をかけた人にごめんなさいをさせると言ったよね。そのつもりでいたんだけど、連れてこられなかったんだ。ごめんな」

 イライザはがっかりするよりも驚いてしまった。

 孤児院では皆さんに感謝しなくてはいけませんよ、と繰り返し言われ、誰かに謝られるということは皆無である。

 そもそも、大人がイライザに何かを約束するということがない。


「ただ、イライザに代わりのものを買わせたから、これで許してくれないかな?」

 ブランドは袋から真新しい服と靴を取り出す。

「そして、こっちは昨日借りていったものだ。綺麗に洗ってもらったつもりだよ」

「……両方とも貰っていいの?」

「もちろんさ。片方はもともとイライザのものだし、もう一方もお詫びの品だからね。遠慮することはないよ」

 イライザが院長の顔色を窺おうとするが、その視線を遮るようにしてブランドは立ちあがった。

 振り返って笑みを浮かべる。

「小職が余計なことをしたのでなければいいのですが、御迷惑ではなかったですよね?」


 1人だけ新しい服が2セットになるのはもめ事になることが予想できた。

 しかし、色々と世話になることの多い衛士団の隊員に対して困るとは言えない。

 院長は作り笑いを浮かべる。

「イライザ。有難く受け取っておきなさい」

 体の向きを戻したブランドは首を縦に振った。

 イライザはまた頭を下げる。

「ブランドさん、ありがとう」

「どういたしまして。お役に立てたら嬉しいよ。それが自分の仕事だからね」

「ブランドさんは悪い人を捕まえるのが仕事なんじゃないの?」

「それだけじゃないよ。みんなが幸せに暮らせるお手伝いをするのが仕事なんだ」

「そうなんだ」


 受け取ったものを抱きしめていたイライザは顔を上げて真剣な顔をした。

「ブランドさん。また会いに来てくれる?」

「ああ。見回りのついでにイライザの顔を見にくるよ」

「約束だからね」

 ブランドは大いに真面目な顔をする。

「分かった。今度はちゃんと約束を守るよ」

 言葉通りブランドは週に2回は孤児院に寄るようになった。

 顔を合わせるうちにイライザはブランドに自然な笑顔を見せるようになる。

 そして、私も立派な衛士団員になるというのがイライザの夢となった。


 10年の時が過ぎ、イライザは優秀な成績で魔法と剣を修め衛士団員となる。

 母を失って暗い顔をしていたイライザはもう居ない。

 美しくなり、そして心身ともに強くなった。それはもう強すぎるほどに。

 それから数年で衛士団の3番隊の隊長を務めるようになる。

 今では1番隊隊長となった憧れのブランドと肩を並べるようになったことは嬉しかった。

 ブランドは昔とちっとも変わらず実直で皆の信頼が厚い。

 密かにトールハイムの町はブランドで保つとまで言われている。

 憧れのお兄さんが正しく評価されていることはイライザにとっても嬉しいことだった。

 ただ、イライザはこの数年というものはっきりとブランドへの恋心を自覚するようになっている。

 目下の悩みは、ブランドがいい人過ぎて恋が成就する見込みが全くないことだった。


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