桜の花びら、ひらり

大田康湖

桜の花びら、ひらり

 令和六年三月三十一日、午前十一時。

 マンガ家のたちばな梨里子りりこは夫の美津則みつのりと一緒に、桜まつり中の隅田すみだ公園を歩いていた。二人とも弁当や缶ビール、ペットボトルの入ったクーラーバッグを下げている。園内では花見エリアにビニールシートを敷いた人々がくつろいでおり、コロナ禍前の賑わいが戻ってきたようだ。

「予報ではもう咲いてるはずだったのにな。お義父とうさんたち、いい場所取ってくれてるといいけど」

 つぼみのままのソメイヨシノの木々を見ながら美津則が言う。梨里子の父、高橋たかはし周央すおうと母の椿つばき、今年小学六年生になる子どもの功輝こうき桃美ももみは、場所取りを兼ねて先に入っているのだ。

「でも天気が良くて良かったわ。みんなが待っているから急ぎましょ」

 そう言いながら園内を歩く梨里子は、「すみだリバーウォーク」と書かれた歩道橋の入口で不意に立ち止まった。

「どうしたんだい」

 尋ねる美津則に、梨里子はつぶやくように答えた。

「去年、横澤よこざわさんと一緒にここを渡ったのね」

「横澤さんか。来週はもう一周忌だし、時が経つのは早いな」

 美津則が相づちを打つ。梨里子の親戚である横澤よこざわ康史郎こうしろうは、回想記などを通して梨里子のマンガ『うまや橋お祭り食堂 誕生篇』の制作に協力してくれた。去年の夏、その実写映画が公開されたのだ。

「映画、横澤さんにも見てもらいたかった。私がもっと早く気づいていれば」

 ため息をつく梨里子に、美津則は優しく呼びかけた。

「横澤さんが亡くなったのは君のせいじゃないよ。八十九歳の大往生じゃないか」

「確かに亡くなられたのは早朝だとお医者さまは言ってたけど、前日一緒にいた私たちが何も気づかなかったのが悔しくて」

 梨里子は隅田川を渡る歩道橋を見ながら目をしばたかせる。

「今日は久しぶりに家族全員でお花見なんだ。きっと横澤さんたちも空の上から桜を愛でてるよ。それに」

 美津則は梨里子の顔をのぞき込んだ。

「君が新作の構想で悩んでるのも知ってるよ。僕は君のマネージャー兼アシスタントなんだから、アイディア出しの相談ならどんと来いだ」

「ありがとう。お花見で気分転換したら、いいアイディアが出るかもしれないわ」

 梨里子は美津則に微笑むと、再び歩き出した。


 梨里子たちは言問こととい橋そばまで歩き、シートの上でくつろぐ父の高橋周央たちと合流した。向かいの児童遊園には早咲きの桜が数本植わっており、人々がひっきりなしに撮影している。

「場所取りありがとう。桜も咲いてるし、いい場所ね」

 梨里子はクーラーバッグをシートに置いた。

「まるで夏みたい。日傘を持ってきて正解だったわ」

 日傘で日よけを作っている母の高橋椿が言った。その下では椿にとっては孫の橘桃美がスマートフォンを持って寝転んでいる。

「買い出しご苦労さま。もう少し早かったら、阿波踊りのパレードが見られたんだけどな」

 周央はもう空になった缶ビールを持って上機嫌だ。美津則がシートを見回しながら尋ねる。

「お義父さん、功輝はどうしたんですか」

 周央は児童遊園を指した。

「野球クラブの小森こもりくんたちが近くで花見をしてたんで、一緒にアスレチックをしに行ったよ」

「仕方ないな、僕が呼んできます」

 梨里子が児童遊園へ向かった美津則を見送っていると、桜の撮影をしている三人の男女と視線が合った。背の高い白髪の老人が梨里子に頭を下げる。

(見覚えはあるんだけど、誰だったかな)

 梨里子が悩んでいると、三人がシートに近づいてきた。老人が高橋周央に呼びかける。

「横澤さんのご親戚の方ですね。丹後たんごろんです。来週の法事へのお招き、ありがとうございました」

 「丹後論」という名前を聞いた梨里子は、ようやく彼が横澤康史郎の友人だと思い出した。康史郎の妻も息子も既に亡くなっていたので、葬儀は一番近所の親戚だった高橋周央が喪主となって内輪で済ませ、横澤家に残されていた年賀状等を参考に梨里子が訃報のハガキを送った。その後、梨里子たちの店舗兼家である服飾品卸問屋『ファッション・カイドウ』にハガキを見たという論が訪れ、仏壇で線香を供えていったのだ。

「橘梨里子です。こちらこそ、ご丁寧にありがとうございます」

 頭を下げた梨里子は、隣の二人の老女を見た。一人は髪の毛をブラウン、もう一人はパープルに染めている。

「妻の丹後たんご和世かずよです。こちらは姉の」

 ブラウン髪の老女が、パープル髪の老女を紹介した。

大口おおぐちのぞみです。映画、良かったですね。私たちの子どもの頃を思い出しました」

 論が話を次ぐ。

「私も妻たちも、若い頃横澤さんには大変お世話になりましたから、横澤さんが協力された作品がたくさんの方に見てもらえて嬉しいです。これからも楽しみにしていますよ」

「折角ですから一休みしていきませんか」

 椿がシートを勧めるが、論は丁寧に断った。

「すみません。これから開店準備をしないといけませんので」

「お店をやってらっしゃるんですか」

 周央の問いに答えたのは和世だった。

亀戸かめいどで『Ron』というダイニングバーを開いています。お近くに来られたときにはぜひ。あ、来週の土曜は臨時休業です」

「法事がありますからね。それではお先に失礼します」

 論が挨拶すると、一礼した三人は立ち去った。


「亀戸の『Ron』か。梨里子、後で場所を調べといてくれ」

 周央の声を聞きながら、梨里子は去って行く三人を見送っていた。

(大口さん、確か横澤さんが昔働いていたキャバレーの店主さんのお名前だわ。娘さんかしら)

 横澤康史郎の回想記を思い出してうなずいた梨里子の耳に、突如娘の桃美の声が飛び込んできた。

「ママ見て! 桜が咲くところ撮れたよ」

 日傘の下で寝転んでいた桃美が、梨里子に駆け寄ってスマートフォンを差し出す。そこには、咲いたばかりのソメイヨシノの花が写っていた。

「つぼみが膨らんでたんで、もうすぐ咲くんじゃないかってずっと見張ってたんだ。後でみさきちゃんにも送ろっと」

 梨里子は桜の木を見上げた。たしかに、さっきより花が咲いた枝が増えている。

「おじいちゃんもおばあちゃんも、私も子どもの頃からここでお花見をしてたの。でも、桜が咲くところを見たのは初めてかもね」

 梨里子は横澤康史郎が亡くなった後、家の仏壇に桜の花房が供えられていたのを思い出した。去年の花見の時、地面に落ちていたのを康史郎が拾って持ち帰っていたものだ。

(私もこれからの思い出をみんなと作っていこう。きっとこの子たちも、今日の桜を懐かしく思い出す日が来る)

「あ、パパたちが帰ってきた」

 スマートフォンを児童遊園から戻ってくる美津則と功輝に向かって振っている桃美を見ながら、梨里子はモヤモヤしていた気持ちが晴れていくのを感じていた。

「さあ、みんな揃ったから飲み物を出しましょ」

 椿が声をかけたので、梨里子と功輝はクーラーボックスに駆け寄った。

「俺、コーラがいいな」

「あたしもね」

 紙コップを持って椿の前に並ぶ二人を見ながら、梨里子は美津則に話しかけた。

「次回作のことなんだけど、横澤さんのご家族の話をもとに、親子の話を書こうかなって」

「そうか、いい話になりそうだな」

「横澤さんはご自分のお店が不景気で潰れ、家出した息子さんにも早く死に別れられたけれど、奥様ともう一度お店を持ってやり直した。お参りに来て下さるご友人もいらっしゃった。せめてマンガの中だけでも息子さんと和解させてあげたいな、と思ったの」

「マンガ家になりたかった征一せいいちおじいさんが、君のマンガではお店に自分のイラストを飾って評判になったようにかい」

「そうね。折角のフィクションなんですもの」

 梨里子はそう言いながら、ようやく咲いた桜の花を見つめる。早速花の蜜をついばみに来たツグミが、花びらをひらり、と散らして飛び去った。


【完】

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