春に咲くおじさん

しぇもんご

春に咲くおじさん

 上野公園のおじさんが一斉に伐採されたのは今から二十年前のことだ。

 おじさんは春になると咲いて、次の満月の夜に散った。花見客に混じって気まぐれに金言めいたことを言うおじさんを皆が面白がり、最盛期には上野公園の桜の一割ほどがおじさんに変わった。だけど、今ではもう一本も見ることができない。「桜は春しか見られませんが、おじさんにはいつでも会えるでしょう」とは当時の都知事の言葉だ。桜色のスーツを着た彼女の発言で多くの人間が目を覚まし、そしておじさんは刈られることになった。反発もあったが、長くは続かなかった。決め手になったのはおじさん刈りを知ったおじさんの一本が残した言葉だ。

「構わねえよ。もともと見せもんじゃねえしな」

 

 しかし、この日を境におじさんは喋らなくなった。喋らず、突っ立っているだけのおじさんはやがて煙たがられ、全国的にその数を減らしていった。今では研究所を兼ねた植物園の隅っこで、たまに見かける程度である。

 

 三年前、私はそんなおじさんを一本育てることにした。品種は一番オーソドックスな緑おじさんである。南大沢駅から自転車で二十分ほどの距離にある、築三十年の賃貸の五階。私が住むそのワンルームのベランダにプランターを置いた。

 一年目の春、おじさんは咲かなかった。二年目の春は、スポーツ新聞とカップ酒をプランターの近くに置いてみたが、やはりおじさんは咲かなかった。おじさんの開花条件が年々厳しくなっているという研究報告は本当のことらしい。

 三年目の今年、週刊誌や競馬の予想誌、四季報なども置いてみたが、やはり咲く気配はない。今年もダメかと肩を落とし、最後にヤケになって、父に渡すはずだった編みかけのマフラーを置いてみた。

 次の朝、おじさんが咲いた。都内の桜は既に散り始めている。随分と遅咲きなおじさんだ。


 私はその日も就活で朝から忙しかったため、せっかく咲いたおじさんをゆっくり観察する時間もなく家を出た。夕方に急いで帰ってみれば、おじさんは狭いベランダで黄昏れていた。片足はきちんとプランターの上にある。よかった。

 私は家の中からおじさんを観察した。グレーのデニムと深緑のジャケットを着た普通のおじさんである。短めに刈りそろえた白髪混じりの頭髪は清潔感がある。私がベランダの窓を開けると、私に気づいたおじさんは手に持っていた編みかけの赤いマフラーを差し出してきた。

「花粉まみれになっちまうぞ」

 喋った!

 私がその衝撃に固まっていると、おじさんは「ほれ」と言ってふわっとマフラーを投げる。胸元でそれをキャッチした私は慌てて礼を言う。

「あ、ありがとう……ございます」

「おう」

 おじさんはそれだけ言うと、欄干の上に両腕をかけ、赤く染まる街を見つめた。プランターをもう少し見晴らしのいい方向に置いておけばよかった。

 その日の夜、私はおじさんのことを調べた。やはりここ十年以上、喋った記録はないようだ。

 次の日の面接は酷い出来であった。せめて企業理念くらい覚えておけばよかった。

 その夜、私は腹いせに発泡酒を飲みながらおじさんに話しかけてみた。

「おじさんのことを調べてたら、面接ボロボロだった……でした」

 だめだ、距離感がわからない。

「就活の話か? ちゃんとSDGsって言ったのか?」

 なんだそれは。言ったけど。

「……言いました」

「じゃあ、大丈夫だろ」

 うちのおじさんは喋れてすごいけど、あまり頭はよくないのかもしれない。


 おじさんについて面白い論文を見つけた。おじさんはそこそこの知識と知能を持っている一方で、人の名前を覚えられないらしい。本当かどうか試してみることにした。

「私の名前を覚えてもらえませんか? ヒカリっていいます。錦ヒカリ」

「……コメみたいな名前だな」

 どっちだ。これは覚えたのか? よくわからない。

 おじさんの言うことに意味はないという論文も読んだ。生成AIに近い機構で言葉を発しているのではないかという説だ。だから、言葉に重みがないのだと。せっかくなので、この説を確かめるついでに、おじさんの生態についてまだわかっていないことを直接聞いてみることにした。

「おじさんは、どうして咲くんですか? 受粉しないんですよね? それは植物としておかしくないですか?」

 就活が上手くいかないせいか、八つ当たりみたいになってしまった。おじさんは少しだけ嫌そうな顔をしてから口を開いた。

「じゃあ、お前はなんで就活なんかしてんだよ。他にやりたいことがあんだろ? 行きたくもねえ会社に媚びて毎日せっせと説明会やら面接に行くなんざ、そっちの方がよっぽどおかしいだろ」

 むかつく。

「し、仕方ないじゃん! みんなやってるし、働かなきゃ生きていけないもん」

「だろ? そういうこった。俺も同じだ」

 なるほど。確かにおじさんの言葉は軽い。

「そろそろ中入れ。風邪ひいちまうぞ」

 あと、ちょっと優しい。ベランダから見える月が大きくなってきた。次の満月まであと何日だろう。


 おじさんに煙草を買ってみた。どの銘柄がいいか分からなかったから、父が吸っていたやつにした。「せったーの7みり」だったはずだ。おじさんは複雑そうな顔をしてそれを受け取った。

「火はねえのか?」

 しまった。おじさんはライターを持っていないのか。父のライターはもうお母さんが捨ててしまっただろうか。パンダが描かれたカチッと鳴るタイプのやつ。仕方がない、明日またコンビニで買ってこよう。

 

 パンダの描かれたライターは見つからなかったので、緑色の一番安いやつにした。緑おじさんだし。ついでに隣にあった携帯灰皿も買って一緒に渡してみた。

「おう、さんきゅうな」

 おじさんは、機嫌よくそれらを受け取って、そのまま上着の内ポケットにしまった。

「吸わないの?」

 なるべく不機嫌な声にならないように聞いてみた。

「まぁ、吸いたくなったら吸うわな」

 なんだそれは。そういえば父も私の前ではほとんど吸わなかった気がする。「そんな気を回すくらいなら、煙草なんかさっさとやめればいいのよ」と言っていたお母さんは、棺に大量の禁煙パッチを入れていた。


 今日は雨だ。またお祈りメールが来た。ちゃんとSDGsって言ったのに。ギチギチだったスケジュールに余裕が出てきた。もう手持ちがほとんどない。このままどこにも就職できなかったらどうなるのだろう。この時期にまだ一社も内定が出ていない人なんているのかな。ベランダを見たら、おじさんは欄干から少しだけ離れた位置でぼうっと外を眺めていた。私はコーヒーを入れたカップを二つ持って、ベランダに近づく。

「飲みます?」

 敬語になってしまった。まだうまくしゃべれない。面接と同じだ。

「さんきゅうな」

 こちらを振り返りコーヒーを受け取ったおじさんの視線は、私を通り越して何かを見つめていた。外ばかり見ているおじさんにしては珍しい。だけどすぐに元の姿勢に戻って外を眺めはじめた。半分ほど開けた窓の枠に背中を預けて、私も一緒にコーヒーを飲む。この雨で残った桜もすべて散るだろう。

「……絵、うまいな」

 おじさんが初めて自分から声をかけてきた。絵……あぁ、あれを見ていたのか。高校生の時に区の小さなコンテストで賞をとって、それで父がばかみたいに喜んで大げさな額縁を買ってきて、それで——。一人暮らしの部屋にまで持ってきてしまった下手くそな絵。

「……絵なんかどれだけうまくても、お金は稼げませんよ。ていうかうまくないし」

 天井を見ながら答えたせいで、少し声が上擦った。


 二日続いた雨が止み、今日は快晴だ。途中だったマフラーもやっと完成した。高校生の時に編んだところより、今回編んだ後半部分の方が出来が悪い。私の人生みたいだ。まぁないよりマシでしょ、春とはいえ夜は冷えるから。

「さんきゅうな」

 おじさんの語彙は少ないのかもしれない。あとたぶん遠慮を知らない。

 季節外れの赤マフラーを巻いた緑おじさんは、春どころか夏も秋も超えて一気にクリスマス仕様になってしまった。今夜は満月だ。明日は面接の予定もないし、クリスマスおじさんと飲むとしよう。

 窓際に座ってベランダに足だけを投げ出して発泡酒を飲む。ジーという虫の鳴き声、車が通り過ぎる音、遠くで電車が走る音、人の声。もう少し静かなところにプランターを置いてあげたかった。

「……錦ヒカリ、コメみたいな名前だ」

 外を眺めていたおじさんが、唐突に喋り出した。

「咲きたい時に咲く。別に条件なんてねえ。最近咲きにくいのは花粉がひどいからだ。受粉が必要ないのはそういうもんだからで、喋らねぇのはただの気まぐれだ。気に入った奴が側にいれば喋るだろうさ」

 何を言っているんだ。

「まだわかってねえんだろ? だからそういうの動画配信とかでやれば、ちったあ金になんじゃねえのか? 『本人に聞いてみた』とかなんとか言ってよ。そしたら別に就活なんかしなくても暫くは好きに生きていけるんじゃねえの、知らねえけど」

 一気に喋ったおじさんの右手は、頭をポリポリとかいてから、ジャケットの内ポケットをまさぐり、結局手ぶらで欄干の上に帰ってきた。

 やっぱりうちのおじさんはばかだ。そんな話、誰が信じるというのだ。ただの出不精を花粉のせいにするな。本当に、ばかみたいにお人好しだ――。

「煙草、吸わないの?」

「吸いたい時に吸うんだよ」

「吸いたそうだったけど?」

「……もう中入れ。風邪引くぞ」

 あと頑固だ。仕方がない、譲歩してやろう。

「じゃあ部屋の中から描いてもいい? 煙草吸ってるとこ」

 こちらを振り返ったおじさんは、しばらく私を見つめてから、少しだけ笑った。

「構わねえよ。もともと見せもんみたいなもんだしな」


 私はおじさんの背中を描いた。描いて描いて、描き終わった頃には空が明るくなっていた。出来上がった絵は所々滲んで、やっぱりどうしようもなく下手くそだった。

 朝日が差し込むベランダに出て、プランターの上の赤いマフラーを拾う。苦さの中に少しだけ甘さを含んだ、懐かしい匂いがした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春に咲くおじさん しぇもんご @shemoshemo1118

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ