最後の挨拶

大塚

第1話

 幽霊が見える。

 そう気付いたのは、いつのころだったろう。

 ほんの子どもの頃かもしれないし、はたちを越えたいい大人になってからかもしれない。子どもの頃は見えていても、それが『幽霊』だと気付かなかった可能性もある。


 鹿野かの素直すなおの父、鹿野かの迷宮めいきゅうは民俗学者だ。素直は父親の仕事内容をいまだにいまいち正確に理解していないが、彼は現在、都内にある私立大学で教授として仕事をしている。鹿野父娘の居所が関東圏の一角に落ち着いたのは今から一〇年少々前の話で、では、それ以前には父娘で何をしていたのかといえば──。日本中を。

 迷宮は、何かを調べていた。何かを調べるために、ひとり娘の素直の手を引き、日本中を彷徨った。素直は小学校の六年間すべてを違う学校で過ごした。今も友だちは少ない。同窓会に招かれることもない。迷宮は素直を中国地方にある自身の実家には預けなかった。それについて、父を恨んだことはない。


 父とともに、一〇〇を超える神社を訪問した記憶がある。ちょうどその頃ではなかっただろうか。初めて幽霊を見たのは。


 幽霊。幽霊という言葉が正しいのかどうか、良く分からない。既に生きていない人間がそこにいる、と思った。すぐに父に伝えた。父は、迷宮は顔色を変えることもなく「見えるんか。ほうか。見えるんじゃな」と呟いた。そうか、その記憶を手繰るとやはり、子どもの頃から見えてはいたのだ。

 素直が目にする幽霊たちが、素直に加害することはなかった。ただ、見える。幽霊。何らかの未練を抱えて命を落とした人間たちの残滓。彼、彼女らのどこか悲しげな、それでいて無感情な青白い顔を、素直は黙って見ていた。


 父娘の放浪の日々はある日突然終わり、中学2年生の半ばから迷宮と素直は関東圏で生活をするようになった。迷宮が大学教授として仕事をし始めたのもその頃だ。素直は──放浪の日々のお陰で同世代の子どもたちとのコミュニケーションが苦手になり、各地の方言をミキサーで混ぜたような口調で喋る奇妙な転校生として、あっという間にいじめの対象になった。

 だが、いじめ自体は素直にとってはどうでも良いことだった。そんなことよりも幽霊が見える。この学校は多い、と思った。旧校舎の女子トイレに、体育館のすぐ側にある倉庫に、理科準備室に、音楽室に、制服姿の子どもの幽霊がぼんやりと、何を言うこともなく佇んでいた。

 学校で無視される、持ち物を隠される、上履きに画鋲を入れられる──という報告とともに、


「あの学校、変なんがようけおる」


 と素直は迷宮に伝えた。迷宮はまずいじめの内容についての詳しいヒアリングを行い、それから娘の手を引いて知人の弁護士事務所に向かい、優しげな顔立ちの弁護士相手に素直は再びいじめについての証言を行い、幽霊の話もした。梅宮うめみやという名の弁護士は大きな丸い手で顎を撫で、


「なるほど」


 とだけ言った。幽霊の話を父親以外にするのは初めてだったので、否定されなかったことに少しだけ驚いた。


「迷宮さんからご連絡をいただいて、調べてみたんですがね」


 弁護士は続ける。あの学校では──何度か『』が起きている。

 事故、即ち『いじめ』行為に起因する──


 その後の記憶は曖昧だ。梅宮弁護士が集めたいじめ事件に強い弁護士たちを伴って父親・鹿野迷宮が中学に乗り込み、いじめ加害者とその保護者から謝罪を受けたりなんだりしたような気がするが、鹿野素直にとってはすべてがどうでも良かった。

 そんなことより幽霊たちだ。

 いじめ加害者の同級生とその保護者たち。いじめを見て見ぬ振りしたクラス担任に教頭、保健医、更には校長が顔を揃えた校長室。

 素直の目には生きている人間よりも死んでいる人間たちの方が鮮明に映った。


「受験を控えているので」

「内申書が」

「悪気はなかった」

「鹿野さんに興味があって」

「方言が珍しくて」

「転校生はあまり来ないから」


 言い訳が耳朶を擽って滑って落ちていく。梅宮弁護士が、


「受験を控えているのは素直さんも同じです」

「内申書? それは素直さんには無関係ですね」

「素直さんが『いじめ』を受けたと感じているのですから、悪気のあるなしは関係ない」

「興味があった? ……本気で仰っている?」

「差別発言ですよ、それ」

「転校生ならいじめの対象にしても良いという教育をなさっているんですか?」


 と景気良く打ち返すのを聞きながら、素直はひとりの幽霊と視線を合わせていた。

 素直が身に着けているのと同じ紺色の制服。肩口で揺れる黒髪、一重まぶたの切長の目。

 今はもう生きていない少女が見詰めている。じっと。見ている。

 少女の薄いくちびるが静かに動く。


「──は」


 素直が唐突に声を発したことで、室内の空気が水を打ったような静寂に包まれる。


「は・な・さ・な・い・で」


 いじめ加害者の男子学生が、悲鳴を上げて校長室から逃げ出そうとする。「どうして」と男性保健医が呟くのが聞こえる。


「どうして、それを」

「だって、おるけえ、そこに」


 指を差す先で、少女が笑っている。心底嬉しそうに、花咲くように微笑んでいる。


 いじめ加害者の男子学生は、昨年、つまり中学一年生の時、素直と同じように年度の途中で転校してきた少女を校舎の屋上から突き落としていた。殺人だ。だが、殺人としては裁かれなかった。「ゲームだった」と言い張ったのだ。仲の良い学生同士での肝試しみたいな、ゲーム。転校生の少女が仲間に入りたいというから、学生ひとりが屋上の柵の向こう側に立ち、もうひとりが柵の中でその手を取り、どれだけ高所の恐怖に耐えられるかというゲームに失敗して──転落死をしたのだと──



 それが亡くなった少女の、悲鳴にも似た最後の言葉だったのだという。


 鹿野素直は粛々と中学校に通い、卒業式の日を迎え、同じ学区の生徒たちが絶対に行かない私立高校に進学した。いじめ加害者たちのその後の人生については知らない。屋上での肝試しに関与したのは、校長室で悲鳴を上げていた男子生徒だけではないだろう。

 卒業式の日、素直を見送る者は誰もいなかった。保護者として式に出席した迷宮と、それから梅宮弁護士に連れられて、卒業証書を手に素直は中学校の正門を出た。


『ねえ、元気で』


 声が聞こえた。そんな気がした。

 振り返る。「どうしょん、素直」迷宮が声を掛ける。


「あそこ」


 卒業証書を持っていない方の手で、素直は中学校校舎の屋上を指差す。

 紺色の制服姿の少女が、嬉しそうに手を振って、それから飛び降りた。


 おしまい

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最後の挨拶 大塚 @bnnnnnz

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