路傍で薔薇を生むひとよ

未来屋 環

その路傍にはいつも薔薇が咲いている。

 8年振りの再会に感動はなく、そこには穏やかさだけがった。



 『路傍で薔薇ばらを生むひとよ』



「おや、お兄さん、久し振りだごど」


 目の前のばあちゃんは黄色とピンク色に彩られた傘の下で、人懐っこい笑みを浮かべてみせる。

 俺が部活を引退したのは高3の夏で、確かにあれから8年の歳月が経っているはずなのに、まるで時間が止まっていたかのようにその姿は変わっていなかった。


「俺のこと、覚えてるの?」

「勿論。よぐ食いに来てだでね」


 黄色い頬かむりの下で、ばあちゃんは何でもないことのように答える。

 久々に触れた人情に心がじわりと震えるが、それを悟られたくない俺は咄嗟に「それ、1個ちょうだい」とだけぶっきらぼうに告げて200円を取り出した。



 生まれてから高校卒業までの時間をこの秋田の地で過ごした俺にとって、『ババヘラ』は身近な存在だった。

 道路脇やスーパーの駐車場、時にはお祭り会場に立てられたカラフルな傘の下で、同じくカラフルな衣装に身を包んだばあちゃんが、ヘラでアイスをコーンに盛り付けて売る――ババヘラというネーミングは安直そのものだが、それ故にわかりやすく、秋田県民をはじめ観光客たちにも親しみを持って受け容れられている。


 初めてババヘラを食べたのは、確か親父と二人で海に行った時だった。退屈な釣りに付き合ったご褒美に、親父が一つ俺に買ってくれたのだ。

 黄色とピンク色のアイスがコーンの上で寄り添い合うように盛られていて、口に含むとさっと溶けていく。太陽で熱せられた身体が内からひんやりと鎮められていくようで、たまらなくおいしかったのを今でも覚えている。


 それから数え切れないくらいババヘラを食べてきたが、一番買ったのは間違いなくこのばあちゃんからだろう。

 部活の帰り道、この国道沿いにいつもばあちゃんは陣取っていた。

 コーンの上にヘラでアイスを器用に盛り付けていき、薔薇の形にして差し出してきた時には随分と驚いたものだ。その『薔薇盛り』をできる者は他にも居るらしいとあとで知ったが、俺にとっては忘れられない衝撃だった。

 真夏の放課後、部活で疲れた身体に、ババヘラのほのかな甘さと柔らかな冷たさがすうっと染み渡っていく――中学から数えて通算6年間、俺はこのばあちゃんに随分と世話になった。



 そしてそれから8年が経った今、俺は久々に帰省した故郷でばあちゃんと対峙している。


 大学受験を機に俺は秋田を出て、目まぐるしく過ぎる日々の中で都会の色に溺れていった。

 毎日生まれ出ては消えて逝く流行の波に揉まれながら、腹を壊してしまいそうな刺激と戦い、必死で日々を駆け抜け――気付いた時には、歯車は修復不可能な程にずれていた。

 最低限の話題しか振ってこない上司、遠巻きに冷ややかな視線を向けてくる同僚――いつの間にか職場に俺の居場所はなく、「少し休みましょうか」と医者に言われたのが先週のことだ。

 俺は絶望に背中を丸めながら家路を辿る。くたびれたスーツの上からじりじりと照り付けてくる太陽は、かつて俺を照らしたものと同じやつとは到底思えなかった。


 そのまま魂が抜けたように一人家で過ごしていたが、或る夜ふと昔の夢を見た。

 俺は部活帰りの心地良い疲労感に包まれながら、道の傍らに立つカラフルな傘の前で自転車を停める。

 ばあちゃんから受け取った薔薇を口に運ぼうとして――そして味わうことなくそこで目が覚めた。

 夢の中ですら、俺は俺の思う通りに生きられない。そんな自分を情けなく思いながらも、懐かしさに引き寄せられるように、俺は都心の家を飛び出した。


 目の前でばあちゃんが慣れた手付きでアイスを盛り付けていく。

 何歳だか知らないが、こんな歳を取ったばあちゃんでも、立派にこうやって仕事をしている。


 ――なのに、俺は。俺ってやつは。


「――お兄さん、ほんに久し振りだね。何年振りだべ」


 ばあちゃんに話しかけられて、はっと現実に引き戻される。

 陰鬱いんうつかすれた声を聞かれたくなくて、俺は咳払いをした後に口を開いた。


「……多分、8年振りかな」

「おや、そんなに。大ぎぐなったねぇ」


 頬かむりの下の顔がほこっとほどける。

 その笑顔で、俺の頬も少し緩んだ気がした。


「ばあちゃんは変わらないね。ここで何年働いてるの」

「んだな、30年ぐれぇかな」


 聞けば、朝の6時には工場に出勤して、巨大なアイスの缶を車に積み、この場所までやってくるらしい。

 冬の時期には店を出さないとはいえ、その繰り返しをひたすら30年――たった4年も十分に勤められない自分とは雲泥の差だ。


「――すごいね、そんなに長い間働いてるんだ。俺には絶対できないな」

「いや、何もすごくねよ。気付いだらそうなっでだ――はい、どうぞ」


 そして、ばあちゃんが出来立ての薔薇を俺に差し出した。

 久々に見た薔薇は、記憶の中のものより二回り程大きい。驚いてばあちゃんの顔を見ると、「久し振りだんて、サービスよ」とにっこり笑い――そして優しい眼差しで言った。


「お兄さん、難しいごと考えねでえぇよ。このババにでぎるごどが、お兄さんにでぎねぇわけがねんだから。これ食って一休みしたら、また時々でえぇがらババに逢いに来てね」


 その言葉は、俺の暗くとざされた胸の奥にすっと溶け込んでいく。

 不意に緩みそうになった涙腺を引き締めるように、俺はもう一度咳払いをした。


「うん、わかった。ありがとう」


 俺は両手でその薔薇を受け取る。

 一思いにかぶりつくと、懐かしい味と冷たさが口内に広がり――夢の続きが瞼の裏によみがえった。

 まだ日の高い夏の夕暮れ時、自転車の傍らで薔薇を食べ終えて俺は空を見上げる。

 その先には無限の未来が続いていると思っていた。


 ――いや、続いているんだ。少し道に迷ってしまっただけで、今もきっと。


「――うまい」


 こぼれた言葉と共に、目を開ける。


 薔薇をくれたそのひとは、穏やかな眼差しでただそこに居た。



(了) 

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