今まさに亜光速に達しようとしているこっくりさんが憑依した十円玉

@qwegat

今まさに亜光速に達しようとしているこっくりさんが憑依した十円玉

「――じゃあ、始めようか」

 夜という名の圧倒的な捕食者が、光のみならず音すらも飲み込んでしまったのでは――と。そんな錯覚すら抱かせるほどに不穏で重い沈黙がいま、不意に破られた。原因はマスミの声だった。サクラとしてもだんだん、夜という存在の暗さだったり、静けさだったり――あるいは、底知れなさだったり。そういう側面に恐怖を覚え始めていた頃だったので、マスミが話を切り出してくれたことには内心、感謝と安堵の入り混じった思いがあった。

 思えば先ほどまで一寸どころか一分の先も見えぬように感じていた視界も、ずいぶん夜目が利いてきていて、辺りにあるものがかなり認識できるようになってきている。横を見れば、おろされたカーテンの隙間から漏れ込んでくる、街たちと星たちの明かりがわかる。前を見れば、向かい合わせに座っているマスミの垂れ気味のまなざしが、どこからか拾ってきた光沢を纏っては、あたたかくサクラと目を合わせている。奥には――数十の、机たち。同じ学校の同じ教室に並べられた同じ机でも、日中と深夜では、まるで見え方が違うように思える。でも、少なくとも視認することはできている。

 何も心配はいらない。

 サクラは一通り視線を巡らせると――ふぅ、と。安堵のものとも緊張のものともとれぬ吐息を一つ漏らした。口腔を通過する空気がもたらす微かな乾いた感覚すらもが、彼女が確かにそこにいることを証明しているようでむしろ心強かった。

「サクラちゃん?」

 マスミの怪訝げで、少しだけ心配そうでもある声。

「ああごめんマスミ。いまやるよ」

 サクラは慌ててそれに応えると、だいいちに、右手の人差し指を立てた。そしてその身を包む制服に衣擦れの音を奏でさせながら、腕を伸ばした。そして……自分が座る椅子と、マスミが座る椅子。その間を隔てる一つの机を見下ろした。

 夜に溶け込んだ木目の上に、一枚の藁半紙が置かれているのが、闇を隔ててすら十全にわかった。

 藁半紙の表面には油性のマーカーで、いくつもの文字が描かれている。縦向きに連なる「あいうえお」、その左横に「かきくけこ」、更にその左に「さしすせそ」……飛んで「らりるれろ」、「わ を ん」。この五十音たちの集まりの下には「一二三四五六七八九〇」の十個の漢字が横に連なり、上には「はい」と「いいえ」の二つの言葉が左右に置かれている。「はい」と「いいえ」の中間には、暗闇の中でもわかるくらいには派手な赤色のマーカーで、簡単な鳥居のイラストが描かれている。

 鳥居に重なる、円形の影。

 それは一枚の硬貨であった。

 硬貨――十円玉の輪郭に向けて、サクラの人差し指が伸ばされる。マスミのそれも同様だ。二人の指の先のそれぞれが、青銅貨の縁にすっと触れる。伝わってくるひんやりとした感触にどこか突き刺さるようなものを感じながら、サクラはマスミとタイミングを合わせて、声を出す。

「「こっくりさん、こっくりさん――」」

 自分が唾を飲むゴクリという音が、サクラにはひどく印象深く聞こえた。

「「――どうぞ、おいでください」」

 十円玉がぴくりと動いたのは、心臓が大きく脈打ったのとちょうど同時だった。


○―○―○


 スススという摩擦音と共に、十円玉が紙の上を滑る。しばらく等速直線運動をして、いま、いったん止まった。

「『つ』」

 マスミが口にしたのは、十円玉が乗っているひらがなが何かだ。確かに――先ほどまで「は」の上にあった十円玉は、二人に触れられたままひとりでに移動し、現在は二列右の二段下に書かれた「つ」へと移っている。そしてマスミが口を閉じてわずかに経ってから、十円玉はまたしても動き出す。次は……。

「『は』」

 どうやら、出戻りのようだ。

 ついさっきまでの軌道を逆行する形で、硬貨は二列左の二段上にある「は」へと移動する。そしてしばし動きを止めると、またしても紙の上を滑り出す。少なくとも……更に出戻りして『つ』、というわけではない。サクラが唾を飲み込んで行き先を見守る中、十円玉は先ほどとは別の軌道で……。

「……あ、終わりみたい」

 藁半紙の上部の、鳥居のイラストへと戻っていった。

 触れた指先を未だ離さぬまま、暗闇の中でマスミが口を開く。

「『よはんせばすていあんはつは』……うん、間違いない。確かに『G線上のアリア』の元となった楽曲を作曲したのは、JSヨハン・セバスティアンバッハだよ」

 冷え込んだ夜更けであるというのに、サクラの額には汗が伝っていた。少なくとも自分は誓って動かしておらず、マスミだって力を加えるはずもない十円玉が……ひとりでに動き、しかも文字表をたどる形で、言語すら操って見せるとは。

 なにか、これ以上進んだら取り返しのつかないことになるのでは、というような不安すらこみあげてくる。

「ね、ねぇマスミ……」

「精度的にも問題はなさそうだね。それじゃあ――に、移るとしようか」

 しかし――サクラの消え入るような声に気づきもせずそう告げるマスミの声色からは、不安などというものは微塵も感じられない。あるのは興奮、期待……そして、好奇心。それだけだ。そんな楽しそうな人物が目の前にいたから、サクラには到底、おのれの危惧を言い出すことなどできるはずもなかった。ちょっとした友達への配慮程度の理由で、彼女は自分の命すら賭しかねない博打へと足を踏み入れようとしていた。

「こ――」

 マスミが合図もなく言葉を紡ぎ始めるので、サクラは慌ててそれに合わせる。

「……「っくりさん、こっくりさん」」

 何となく覚悟を決めきれないまま、深淵へ足を踏み入れていく。

「「UnicodeでU+200Bに割り当てられている英通称ZWSP、日本語圏では『ゼロ幅スペース』と呼称される組版用非表示文字をエスケープシーケンス不使用で出力せよ」」

 ぢょっ、

 という擬音語が、最も適切だっただろうか。

 こっくりさんの憑依した十円玉がサクラとマスミの指先と触れているままの時間なんてほんの一秒にも満たず、硬貨は藁半紙の上をコンマ数秒ほどぐるぐると旋回すると、もう二本の人差し指から離れてしまった。そして未だ見つからないゼロ幅スペースを求めながら加速を続け、天井に向けて飛んでいった。大して古くもなく、最新の耐震基準だって十分に満たしているはずの学校の硬い建材を、ものともせず掘削した。進んだ。進んで掘って進んで掘ってついには校舎の外に出た。そしてたまたま窓を開けていた数百の近隣住民の困惑の視線を受けながらいっそういっそう加速して、光軌跡を残しながらぎゅいんと星空へ飛び立った。大気圏を突き抜けるのもすぐだった。真空空間にもゼロ幅スペースは存在せず、こっくりさんはさらに進んでいく。――何より不気味であることには、どれだけ速度を光に近づけようと、十円玉は外見的に、十円玉であり続けた。

 という、出来事の下で。

「成功だねっ」

「あはは……」

 きゃぴきゃぴと笑うマスミに表面的な反応を返しながら、サクラは教室の天井に残された円形の貫通痕と、そこからはらはらと舞い落ちるコンクリートの粉なんていう、すごくちっぽけなものが気になって仕方なかった。

 風もないのに、藁半紙が揺れる。

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