或る告白 ~ 釈迦とエレキギターとシーラカンス - 濃尾

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或る告白 ~ 釈迦とエレキギターとシーラカンス










ブッダはライブしかしないアーティストで一切音源を売らなかった。





ブッダのライブはどんどんファンが集まるようになったが、それでもブッダは音源は売らなかった。





ガチのファンはライブのスタッフになってブッダの唄を聴くのが人生の一部になった。





ブッダは多くの土地へツアーをして、多くのライブをした。





そしてブッダは多くのガチ勢を残して死んだ。もうブッダの唄は誰も聴けない。





ガチ勢の中から「俺達でブッダの唄を後世に残さないか?」という意見が多く出て、古参連中が集まり、ブッダリスぺクトバンドが組まれた。





古参たちは「唄はこういうメロ、歌詞は確かこうだった。」と長い長い議論を重ねた。





とうとうスコアを作りだし、スタジオ録音が行われた。





その音源を基に古参による「仏教」というジャンルが産まれ、あちこちでライブ、音源販売が行われた。





そうして古参の唄を聴いて育った新規は古参が死んでもブッダの唄を護っていくため新しいバンドを次々と作っていった。





やがて新規の中でも、古参の音源から「ブッダの唄、ココが一番イイよね?」「イヤ、ソコじゃなく、ココが一番イイと俺は思う。」など、方向性の対立により、バンドは解散したり、新規結成されたりした。





しかし皆「俺たちのバンドが一番『ブッダ』!」という気持ちだけは同じだった。





地球の片隅で始まったブッダの唄は多くの国の境を超え、多くの言葉の境を超え、各地に広まっていった。





そこでも同じように「俺たちのバンドが一番『ブッダ』!」というようにブッダリスぺクトは留まるところを知らなかった。





同じ「仏教」という大ジャンルでも「原作厨」、「核心厨」、「神秘厨」など様々な小ジャンルに分かれ、唄は聴かれ続け、唄われ続けた。





様々に分かれた「ブッダの唄」だが、一つだけ共通点があった。





新しいバンドが興る時は、その地方の文化、歴史の変革期であった。





それまで唄われていたその地方の他ジャンルの唄の存在も重要だった。





小ジャンルの「始祖」たちは必ず「現在の問題点」について悩んでいた。





そして自分が「原点」だと思っている「ブッダの唄の中」から答えを導き出した。





それが上座部、大乗、宗旨、宗派などというものだ。





ブッダは偉大な哲学者だったと私は思う。





尊敬している。





しかし、自分が仏教徒か?と人に聞かれれば否、という外はない。





第一に私は輪廻転生を信じていない。

古生物学、中でも進化論がそれを否定していると思うからだ。





第二に私は不殺生戒に植物が含まれない事にも疑問を持つ。

ブッダの生きた時代には動物、植物は両者ともに生命でありながら、根本的な違いがあると思われていた。

感情など心の働きをもつものと、もたないもので分けられた。

「有情、非情」という。





生命とは何か?という定義は様々な解釈があるが、それはさておき、私が生きている現代の分類で言うと、やや専門的ではない分類だが解り易く言えば、地球上の生命である、動物、植物、菌類、微生物などは根本的な違いは無いと考えられている。全ての生命に連続性がある。

全ての生命は殺してはならない、というなら解るが、動物のみを殺すな、では

私は納得がいかない。





約三億年前現れ、多様な環境に放散したが、約6500万年前絶滅したと思われてきたシーラカンス類。





それが深海という過酷な環境に適応して、数億年殆ど形態を変えず生き延びてきた。





もしも「生命」の「存在意義」が種として生き延びる事のみならば、シーラカンスは「勝ち続けてきた」と言える。





そう言う「意義」だけが生命にあるならば、脳など生存に必要な分あればよい。

勿論無くとも良い。





あらゆる生命は変化する環境に適応するための「戦略」を採る。





それを進化論では、形質の変異と環境への適応が上手くいっている場合に、生命は命を繋ぎ、変化する、と説明する。





其処には何者の意思も介在しない。





偶然だけが支配する。

只、確率的変異と歴史的履歴に、物理・生理・発生の制約と環境に依存した選択が重なる過程があるのみだ。





外部環境の因果関係を「学習」する戦略で、環境に適応した生命群の中で抜群に、その戦略に特化した種が外部環境を「観察」した結果、他の生命と自らは完全に違う、と「知性」で「意識」した。





お分かりだろうが、この種とは人類の事だ。





無論、「知的生命」である人類の誕生も必然では無い。

偶然だけが支配する。

只、確率的変異と歴史的履歴に、物理・生理・発生の制約と環境に依存した選択が重なる過程があるのみだ。






「意味」、「価値」、「目的」とは生命が因果関係を「学習」して、偶然が支配する環境に適応、進化した結果、「知性」と呼ばれるものが生じ、それが「発明」したに過ぎない、と私は思っている。


予測と制御のために「発明」された表象・規範で、経験的に評価・更新可能な可塑性がある。





本質は「在るように在る」という事のみだ。


その「在る」さえも現代の宇宙論では遥かな未来において、不確かである。


そしてどのレベルでも「在り方」は関係(縁起)の網によって規定され、固定的本質は要らない。





『意味も価値も目的も世界には無い。』





そんな寂しい事があるだろうか?





私は寂しい。





しかし今の所、科学が指し示している方角はそうなのだ。





「意味」、「価値」、「目的」に「本質」は無い。「ソフィア」「般若」のような「本質的知」は存在しない。





繰り返すが、人間の知性も宇宙の進化上、偶然産まれた「生命」という物質交代のユニークな「現象」であり、進化の淘汰上「偶然と制約の相互作用(偶然の選抜×生理・物理の制限)の上」に産まれた、ただの戦略なのだ。


ここで言う『偶然』は、変異の確率性を指し、『制約』(物理・生理・発生)と『環境依存の選択』および『履歴依存性』が相互に絡む過程を含む。





私は現代人の幾分かはその様な考えを持っていると想うのだが、そんな事を声高に主張する人はまずいない。





その様な人は多少の憐みのまなざしで見られ、無視されるだろう。





人類は社会を作る知的生命体として「意味」、「価値」、「目的」を持たなければ社会を維持できないからだ。





補足するが、社会性知的生命、ヒトとして偶然生まれた私は、人類が発明したであろう『仮の』「意味」、「価値」、「目的」を否定はしない。





むしろ大いに尊重して生きている。





私は「仮の世」を愉しんでいる。





宇宙には「意味」、「価値」、「目的」は恐らく無い。





しかし、私は「生命をやっている」のが愉しい。





なぜなら私はヒトという生き物だから。





循環論法だが。





それだけじゃいけないのか?





私には十分だが。





ブッダは世間虚仮と説いた。





色即是空とも説いた。





美しい。





私は仏教徒ではないかもしれないが、仏教が嫌いではない。





                                      完

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