デイサービス物語 大魔王高橋

稲荷崎信介

デイサービス物語 大魔王高橋

【プロローグ】


 「多恵さーん!電話ですぅー!」


 (もう!全く!タイミングの悪さ極まりない電話やなぁ…

 これからレクやっちゅうねん!)


 「えーっと、誰からですかぁー?」

 「高橋さんからですー!」


 (タカハシって・・・)


 「それって、もしかして?」

 「ピンポーン!正解!介護保険課の」


 (ブッブー。そっちやないねんけど・・・まぁええか)


 「『只今取り込み中につき、また後で掛けなおします』で。お願いしまーす。」

 

 (ほな、いっちょやったりましょか!)


 「みなさーん元気ですかぁ~?ご飯も食べたし、午後からのレクも張り切ってまいりましょう!」

 

 利用者さんたちが住むこの町は、最寄り駅には普通電車しか停まらないながらも都市部に近く、ベッドタウンとして近年開発が著しい。駅前や主要道路に面した空き地は、一気に商業施設やマンションへと姿を変えた。表通りを流れる車の窓には、等間隔に並ぶ街路樹、チェーン店の看板、オープンテラスの飲食店、買い物を楽しむ若やいだ人々の姿が写る。

 しかし道を一筋入れば、大きな門構えに入母屋いりもや造りの瓦屋根といった昔ながらの家々がのきを連ね、車同士の離合ができないみちの辻には、今日も話し相手を探す高齢者が通りに目をやっている。

 『ハレル屋』はそんな新しくなりつつある古くからの町にあって築四〇年。運送会社の会長宅であったという一際大きな物件を改修して、少人数のデイサービスを営んでいる。口コミで広がる評判も上々で、社長からも「利用定員を増やしてみては」との提案を受けているが、返事は保留にしたまま決断できないでいる。事務所にあるショッキングピンクのオフィスチェアに腰掛けて目を閉じると、ハレル屋でのこれまでが、切なくも愛おしく瞼の裏に甦る。れば迷いが晴れた、聴けば心にみた、色褪せることのない記憶に足を取られて前に進むことができないでいる私は臆病者だ。

 


【叶芽ちゃん先輩】


 『やりたいことが見つかるまではしばらくの間はゆっくりする』などと、あいまいすぎる高校卒業後の進路決定をした一昨年おととしの夏。あの時の三者懇談に出席して私自身にアドバイスしてやりたい。「幼馴染の佳代ちゃんも恵子ちゃんも大学に行ってるよ!この前『大学は毎日楽しいよ。多恵ちゃんはどうしてるの?』ってバス停で声かけられたんやから。正直、みんながうらやましかったよ。やりたいことは大学に通いながらでも探せるんやし、お母さんの言う通りとりあえず進学しとく方が、今よりはまだいい」と。

 何とも言えない不完全燃焼さ、未来への漠然とした不安、何の組織にも属していないという孤独感が、私の心を押しつぶそうとする。何もせず一日ぶらぶらするほどに居心地が悪くなる家にも、そろそろ限界が近づいている。

 楽しいはずの家族がそろって食べる夕食の時間が一番辛い。

 父と母そして私、今日も三人で囲む食卓は独り言も会話として拾われてしまうほど感度がいい。「一人暮らしをしてみようかな」とつぶやく私にすぐさま父は「多恵のしたいようにすればええんちゃう」と優しく反応したが、母は私の過ごしてきた一年を一番間近で見ているだけに手厳しい。「でも仕事を見つけるのが先なんじゃない?」という正論パンチに私の脳は揺さぶられた。慌てて「ごめん、思わず・・・」と目を伏せ母は小さく固まった。母の『仕事云々うんぬん』も独り言だったと察した父だったが、フォローする言葉が見当たらずそのままブラックアウト。それぞれの茶碗に残るご飯の量が、誰の離席も許さない。

 この出口の見えない三竦さんすくみ状態に、けたたましく鳴り響く場違いな着信音が、それぞれに深く呼吸をするを与えた。

 叶芽ちゃん先輩からだ。あなたの電話はいつも突然なのだが、都度タイミングが良すぎて異能感すら感じる。


 (仕事終わりかな。『どっか行こか?』ってお誘いかも。ここは家族みんなに聞こえるようにスピーカーフォンにして・・・。うまくいけばこの場から脱出成功!よし!この手で行こう!)


 「はい、もしもーし」

 『今何してる?』

 「ご飯食べてます」

 『そうじゃなくて、仕事!今、何かやってる?』

 「今は・・・特に決まった仕事は・・・」

 『何もしてないんやったらどう?面接。多恵ちゃんなら頑張れると思うんだよねー。デイサービスなんやけど』

 

 (ちょっとちょっと!スピーカーなのよ。お父さん、お母さんも一緒に聞いちゃってるんですよ!これ以上は話をすすめないで‼お願い先輩・・・)

 

 「そう、ですね…。そうだなぁー、じゃぁ、行かせていただこうかなぁ…なんて。でも、まぁ・・・」

 『よし!決まり!多恵ちゃんにしては前向きな返事で安心したわ。じゃあ来週の土曜日、14時ってことでいい?』

 「えっ!来週ってすぐですよ!きゅうすぎませんか?今日が日曜日でしょ、だから、えーと・・・」

 『なんか予定あった?』

 「はい、いや、特に予定は・・・。でも、そのデイサービスのお仕事って、私に向いてるかどうかもわかりませんし、よく考えないと叶芽ちゃん先輩にも迷惑かけちゃうから。そんなこんなで、お返事には時間いただいてもいいですか?」

 『あのさ~。仕事は選ぶんじゃなくて仕事に選んでもらえる自分にならなきゃダメなの。“無理”とか“向いてない”の理由を探してばかりで、結局一年どうやった?』

 『別にそんな深い意味で言ったわけでは・・・。せっかく心配してもらってるのにすみません』

 『じゃあOKってことでええね。そこは最寄り駅から10分くらいかな、リサイクルショップがあってさ、その手前を右に・・・ややこしいから地図描いて写メ、メールしとくわ。ちなみにそこの所長さんは私の知り合いなんだけどしばらく会ってないんだ。だからよろしく言っといてね、じゃあ、面接の件は私から先方に連絡しておくから、がんばってね』

 「わ、わかりました。ありがとうございます。ではでは・・・」

 

(あー。また叶芽ちゃん先輩の勢いに完全に押し切られてしまったよ。どうしよう・・・私の十代最後の物語が思いもよらない方向へと進んでいってるこの感じ。本当に大丈夫か私・・・)


 電話を切って恐る恐る顔を上げた私の目を、父も母もじわっと見つめてくる。


 (はいはいはいはい・・・。わかりましたっ!わかりましたよ!行きゃいいんでしょ!)


 「ということで、お聞きの通り、面接行くことになりました!」

 そう二人にあらためて報告したとたんに、止まっていた時間が急に流れ出した。「スーツを買いに行こう」だの「パンプスはお母さんのでいいかしら」だの。面接が決まっただけなのに父は珍しくビールを飲みだすし、母は私にご飯のおかわりをすすめるし、お箸もにぎやかに転げまわるし。明るい昔の大村家の食卓が、私の一言で簡単に甦った。


 (まぁそうなるわな。昔から一人っ子の私を中心にうちの家は回っていたようなものやったし。思いがけなく叶った親孝行は叶芽ちゃん先輩のおかげ。一応感謝しとくか・・・)


 学生時代からお世話になっている叶芽ちゃん先輩。いい加減なとこだらけでハチャメチャな能天気さに周りはいつも振り回されたが、名前の通り『肝心かなめ』の場面では、皆の意見を取りまとめる力強さと決断力にいつも恐れ入ったものだった。当時から後輩の面倒見も良く、高校を卒業してからも何かと先輩に連絡を取っているのは私だけではないと聞く。


 カレンダーを見ることもなく「来週の土曜日は大安!きっといい事業所さんだと思うわ!」とご機嫌に浮かれる母、「福祉関係の仕事してる叶芽ちゃんなんやし、そのへんの情報にも詳しいやろうから安心や」と面識のない先輩を「ちゃん付け」で呼んだりする父。


 (ん?怪しい、怪しいぞ。これってやっぱりはめられた?母に?父に?…いやこれは、まさかとは思うが父と母、叶芽ちゃん先輩の三人がグル?この可能性も否定できんなぁ。あーあ、来週の土曜日まであと何日?)


 それから約束の土曜日まではあっという間に過ぎた。母の言っていた大安効果か、今一つ踏ん切りのつかない私の心とは裏腹に、朝から雲一つない気持ちの良い青空が眩しすぎて、面接を控えた私をクラクラさせる。

 先輩の言う最寄り駅へは、面接時間の30分前に着いた。「駅を降りたらゆっくり散歩でもしながら」と歩きはじめたのはいいが、目印のリサイクルショップも見つからないまま先輩情報の10分はとうに過ぎた。真夏かと思わせる強い日差しと、あい物のスーツが私に哀れなほど汗をかかせる。「あい物は通年を通して着られるからお得です」と勧めた店員の口をつねってやりたい。おまけに母のパンプスは私には少し小さく、右足の小指は駅を降りて5分と立たないうちから悲鳴を上げていた。

 成り行きで受けることになった面接とはいえ、今日は娘として最低限の務めは果たすべきだろう。このところ目新しい話題もなく食事をするだけとなった食卓に、今夜のメインディッシュ以上のものを持って帰らなければならない。朝からそわそわしていた父に、きれいに磨かれたパンプスをそっと用意してくれていた母に。

 朝は朝で先輩からも念押しの電話ももらっている。

 『デイサービスってどんなところなのかを見に行くだけでもいいじゃん!ねッ!』

 『多恵ちゃんが気に入らなかったら断ってもいいんやし。まぁ面接だけは私の顔立て行ってよね。リサイクルショップの手前の交差点を右に入って二筋目。ずっと入って行ってやから』

 携帯電話をポケットから出して「今日は体調が悪くて伺えません」と言うには直前すぎる約束までの残り時間を確認した。


 (もう!看板なら看板って言ってくれないと!リサイクルショップなんていうから店を探してたのに。引き返してきてだいぶタイムロスしたな。手前を入って二筋目。ここかな・・・)


 覗いた通りの奥のほうからは気持ちの良い風が抜けてきて、運ばれてきた沈丁花のかすかな香りが春だったことを思い出させる。『気に入らなかったら断ってもいいんやし』という先輩の言葉を杖に歩くこと約20分。目的地がこの通りの奥だとしたら、どうにか約束の時間には間に合いそうだ。


 (地図からするとやっぱりここだよね)


 数寄屋門の格子から覗くと玄関周りの槇は枝が自由奔放に伸ばされ、しばらく人の手が入っていないことを感じさせる。


 (ここ、人住んでる?本当に合ってるのか?)


 見たところデイサービスらしい看板は無く、表札すらも上がっていない。


 (ここまで来て「道に迷いました」などと電話するのも面倒だ。インターフォンを押して誰の反応もなければしかたないよね。しかたないので帰りましょ。叶芽ちゃん先輩ごめん。でも私のせいじゃないからね。元はと言えばあなたの手書きの地図が・・・)


 そんなことを考えながら人差し指をインターフォンに向けたその時、門右手に見える沈丁花の生垣の向こうから声がした。

 「そっちは玄関じゃないよ。インターフォンも壊れてるからさ、御用ならこっちから庭を通って中に声をかけてみれば?」

 軍手に刈込ばさみ、首には色あせた黄色いタオルを巻いた男性が汗をふきふき顔を出した。

 男性はすぐに作業に戻ってしまったが、プランターに植えられたキンセンカ、ペチュニア、キンギョソウらと置き石が入口へと案内してくれている。建物の角を曲がって中庭に入ると視界は一気に広がった。

 きれいに丸く形を整えられたサツキがひときわ大きな庭石の周りに幾株も植えこまれ、ちゃんと剪定された立派な枝ぶりの木々の奥にはつくばいまで置かれている。それぞれの、気持ちがいいほどに行き届いた手入れが感じ良く、眺めているだけで右足小指の痛みが薄らいでいくような気がした。


 (なるほど。こっちが玄関なのね)


 開け放たれた掃き出し窓。そのえんにかけられた手すり付きの階段をゆっくり上がって声をかけてみる。

 「すみませーん。大村と申しますが、面接のお約束で伺いました・・・けど」


 (けど、ですよ。ここ、本当にデイサービスなのか?私ってば確認もしないで声を張り上げちゃったけど大丈夫か?)


 「はいはい~。どうぞどうぞ。叶芽ちゃんから聞いてます。さぁさぁ上がって上がって」

 体格的にいかにも健康的という形容しかない女性が出迎えてくれた。年齢はうちの母親と同じくらいだろうか。

 「よかったぁ・・・えっ?いや、こちらの話です。すみません。はじめまして大村多恵と申します。本日は面接よろしくお願いいたします。所長さんですか?」

 彼女は大きく二度首を横に振り、

 「私は今日は付き添い。庭にいなかった?・・・ねえ!聞こえてるんでしょ!ほら、面接なんだから、早くあなたも入ってくださいよ!」


 (庭にいたおじさんが所長さんだったってこと?)


 「あの人ったら今日は面接があるからって朝からずっと庭掃除してたのよ。私はまずは散髪に行っとくべきだって言ったんだけどねぇ」

 「はぁ・・・。でもきれいでステキなお庭だなぁと。ご主人が手入れされているなんてますます・・・」

 「えーっ?私が?高橋さんと夫婦ってこと?」

 “ご主人”という言葉に反応して私の会話を遮った彼女は眉をひそめ、でも口元だけ笑ってみせた。その後も話を続けた彼女の様子は、まるで機関銃を乱射しているかのようだった。

 「確かに歳は近いけど。まずありえへんわ。私ここでお仕事させてもらっている杉本って言います。今日面接にお見えになるのが女性と聞いた高橋さんが「だれか一緒に付き添ってくれないかな」っていうもんだから、近くに住んでる私が同席させていただくことになっただけ。所長はあっち。でも・・・高橋さんって奥さんいるのかしら。確かお母さんが奈良だか和歌山だかにいらっしゃるって・・・。まぁあまり自分のこと話さない人でね。あっ!気になってるとかいうことは絶対にないのでお間違いなく!興味なんて全然ないのよホント。でもまぁ悪い人ではないけども・・・。やっぱり私にも選ぶ権利があると思うのでここで主張させていただきます!って、まぁどうでもいいことよね。さぁさぁこっち来て座って。で、コーヒーとお茶どっちにします?」

 「いえいえどうぞお構いなくぅ・・・」

 そう言った時には台所へと向かう彼女の後ろ姿しか見えなかった。


 しばらくすると庭掃除をしていた男性が入ってきた。すれ違ったときはそれほど気にも留めていなかったが、杉本さん同様やはり庭木の手入れよりもまずは散髪をお勧めしたいと思ったのが第一印象だ。

 「あっちの入口は使ってないんですよ。正直そっちまで手が回らなくて。でも使わなくてもここは十分広いし、庭だってきれいだし。なのでこっちを玄関にしてます。すみません、挨拶が遅れましたが所長の高橋です。やっぱり髪切っといたほうが良かったですか?」

 「そうでしたか。先ほどは失礼しました。いえいえ!髪、個性的でよろしいかと。大村多恵です。今日はよろしくお願いいたします。あのー。これ持ってきました」

 「あー履歴書ね。では拝見します」


 高校三年生の就職指導の時間にうけた面接練習。今度、教頭先生に会ったら「全然役に立たなかったじゃないか」と一言文句を言ってやりたい。面接は高橋所長が対応してくれたが、質問らしい質問も一切なく、ただじっと履歴書に目をやっている。昨日寝ずに考えた志望動機を披露しようにも、こうも続く沈黙にあっては、きっかけすら見つからない。

 とうとう耐えられなくなって

 「あのー、高橋さんってどうして福祉のお仕事をしようと思われたんですか?」

 「うーん。誘われたから」

 「もうお勤めして長いんですか?」

 「今年で五年になるかな」

 「お勤めしてて辞めたいとか辛いとか思ったことはありませんか?」

 「それは・・・ないなぁ」

 「じゃあ福祉のお仕事は高橋さんに合ってたということですね。」

 「かもね」

 このやり取りを奥で聞いていた杉本さんがコーヒーを用意して戻ってきた。

 「どっちが面接受けてるの?高橋さんが質問しなくちゃ面接にならないでしょ」

 と言って私の隣に座った。高橋所長も一つ咳払いをして

 「そうは言うけど面接に来たんだから勤務しようと思ってるのは確かでしょ。なのに何を聞くっていうの?そうだなぁ、あえて聞くとしたら・・・。じゃあ、来週月曜日からいけますか?」

 「採用ってことですか?」

 「もちろん」

 「えっ?・・・いえ、あの~大変ありがたいのですが、なんといいますか、私、未経験で知らないことばっかりですし、本当に大丈夫でしょうか?」

 「大丈夫」

 このやり取りにもしびれを切らした杉本さんがまたも割って入ってきた。

 「もう!大村さんが困っちゃってるじゃないの!ちゃんと説明してあげてください!大村さんごめんね。高橋さん!ほら!」

 「えーと。そんなに心配することないよ。今みたいな福祉の制度や資格のない時代は、おじいちゃんやおばあちゃんのお世話はみんな家族が自分の家でしてきたんだからさ。最近は資格だの経験だのと寄ってたかって必要以上に介護を難しいものに仕立て上げちゃってる感じがするんだよね・・・。

 経験が無くてもデイサービスを利用される方を『自分のおじいちゃん、自分のおばあちゃん』って考えれば案外ヒントになることも多いと思うよ。で、あとはなんだっけ?・・・杉本さんお願い!」

 「高橋さんったらもう!大村さんのサポートは私たちがバッチリサポートするから大丈夫。それ以外に不安があるとすれば・・・利用者さんとの関係づくりかな?でしょ!・・・これは一朝一夕には築けないものだから少し時間はかかるかもね。大村さんは利用者さんから見たらお孫さんたちと同年代くらいかな?だから利用者さんもきっと歓迎してくれるんじゃないかな、だからこっちも大丈夫!まずはいっしょにやってみない?来てくれるとうれしいなぁ・・・」

 「では・・・。ご迷惑をおかけするかもしれませんがよろしくお願いいたします」

 杉本さんは大きく頷いて

 「じゃあ明後日の月曜日からってことで大村さん!高橋さん!お二人ともよろしいですか?」

 「私は大丈夫です」

 「僕も」

 「決まりね。よろしくお願いします。とりあえず連絡先だけはLINE交換しとこ。あとで持ち物とか連絡するから。それではここで一旦面接を終わりとします!お疲れさまでした!」

 その後も杉本さんからデイサービス『ハレル屋』のこと、勤めているスタッフさんの紹介など、いろいろ説明を受けたのだが、居眠りする高橋所長のそのフカフカの髪がこっくりこっくりする度に大きく揺れるのが気になって、話の内容が全然頭に入ってこなかった。

 そうこうしているうちに気が付けば帰りのあいさつをしていた。

 「今日はありがとうございました。では月曜日からよろしくお願いします。それから、叶芽先輩が高橋さんによろしくとのことでした」

 「こちらこそよろしく。叶芽ちゃんに連絡する機会があれば今日のこと、ありがとうって伝えといてください。あと近くに来たときはまた顔見せてって」

 「承知いたしました。失礼いたします」

 

 ハレル屋を出て向かう駅までの帰り道、早速叶芽ちゃん先輩に連絡していた。

 「もしもーし」

 『あー多恵ちゃん!面接どうだった?』

 「採用です!月曜日から勤務させてもらうことになりました」

 『おめでとう!よかったじゃん!がんばってね』

 「あのー」

 『何?』

 「所長の高橋さんって・・・。」

 『あはははは。変わってるでしょ。ほんと変わってるけどご利用者様に向き合う姿勢はなかなかのもんよ。一回は一緒に仕事してみたいなぁって思う所長かな』

 「へぇー・・・」

 『仕事ぶりはカッコいいね』

 「ふーん・・・」

 『なによ!』

 「べつにぃ」

 『まぁあれだ、とにかく仕事頑張ってね。多恵後輩!わからないことはわたくし叶芽先輩に何でも聞いてくれたまえ』

 「はーい。今後ともご指導よろしくおねがいしまーす。」

 『OK!また連絡するね。ご飯連れて行ってあげるから仕事のことまた聞かせてね。じゃあ!お父さんお母さんによろしく~』


 (やっぱりグルだったなぁ。でもまぁいいか。月曜日かぁ・・・。とりあえすがんばってみよう!)


 あれだけ汗だくになった昼間だったのに日が傾くと風が冷たく感じられ、あい物のスーツがありがたかった。帰りの駅までの道のりが来た時よりも短く感じたのはなぜだったのだろう。


 勤務初日こそ緊張はしたが、次の日からはすぐに慣れてのびのびと仕事に取り組むことができた。一か月はあっという間に過ぎ、初めて手渡された給与明細を見ながら“自分で言うのもなんだが上々のスタートだった”と振り返った。

 杉本さんの言葉通り先輩たちのサポートのおかげもあったが、勤務してすぐからご利用者さんたちと自然と打ち解けられたのが大きかった。ハレル屋という家族に迎え入れられたような気がして毎日が心地よく“自分の居場所を見つけた”という安心感に包まれながら“この仕事はまさに天職だわ”などと本気で思っていた。



【周年行事】


 「今年は五周年やから、大魔王は記念行事やるってきっと言いだすよ」

 「『こんなのやってみようと思うんやけど、どうかな?』なんてね」

 「でも、年々派手になってない?ほら一昨年だったか、三周年記念は『マツタケとホンシメジの食べくらべ』なんて企画やったじゃん。今年は何を言い出すやら・・・」

 「今年は多恵ちゃんも入社してくれたことだし、きっとにぎやかな周年記念になりますよ。で、大魔王が『この際、思い切って企画を多恵ちゃんに任せよう』とか言いだしちゃたりしてね」

 「あーわかる!奴なら言いだしそう!」

 「でもなんだかんだ言っても、私たちも楽しみにしちゃってるわけだし」

 「そうそう、この間お風呂で河原さんも『五周年は何するの?』って。ご利用者さんたちもみんな楽しみにしてるみたい」

 スタッフルームで周年記念について話す先輩スタッフの声が部屋の外まで聞こえている。


 (大魔王?誰のこと?五周年の企画を私が?まさかそんなことがあるもんか!そうだとしたらとんでもない!飾りつけとかなら頑張るんだけど・・・)


 「多恵ちゃん!ちょっといいかな」

 「はい。なんでしょ」

 「実は、五周年が今年八月一日なんやけど、企画お願いしてもいい?」


 (はぁ~?先輩の言ってた通りやん!大魔王ってやっぱり高橋さんのことだったんだ)


 「私でいいんですか?」

 「いいのいいの。もちろん全部ってことじゃないしさ。その日にお出しする“みんなが食べたそうなデザート”みたいなものを考えてもらって・・・」

 「手作りとかは無理ですよ、お料理とか苦手だし」

 「それはクリスマスの時でいいよ」


 (クリスマスには作れ!ってこと?・・・お菓子作りは、ちょこっとやったことあるし、まぁいいけど・・・)


 「具体的には?」

 「多恵ちゃんがいいと思ったものなら何でも。だからよろしく」


 (デザートがお菓子じゃないってことは・・・フルーツとか?・・・。まぁまずはそこからか)


 桃、メロン、マンゴー、ブドウ・・・。いろいろある。どうせなら、みんなが食べたことのない珍しいものの方が周年記念にはいいだろうと、その日から時間を見つけてはインターネットで検索するようになり、周りの人たちも巻き込んで情報収集する毎日が続いた。

 今日も自分の部屋よりも居心地が良くなった食卓に早々に着いた。頬杖をつき、リビングで母の作る夕食支度の音を聞きながら周年記念のことを考えている。 

 「ねぇ、お母さん。夏の果物って言ったら何を思い浮かべる?」

 「またぁ・・・。何回聞いても答えは変わらへんよ。いいじゃないのスイカで」

 「別にスイカが悪いって言ってるわけじゃないんよ。でも、周年行事なんだからさ、特別感を出したいわけよ!」

 「お母さんは・・・、あー、やっぱりスイカしか思い浮かばんわ」

 「うわー、どうにも小市民。大村家うちが試されてるって思って、もっと真剣に考えてもらわないと。何ていうのかな、スペシャルな感じとインパクトが欲しいんやけど・・・ただただスイカって」

 この会話を聞いていたのだろう。ソファーに座ってテレビを見ていた父が

 「おい、『でんすけすいか』って知ってるか?初値が一玉80万円もする」

 「スイカが?一玉で?」

 「そう。北海道のスイカですごく甘くて美味いんだ」

 「お父さん、それ食べたことあるの?」

 「ない」

 「なんじゃそりゃ。でも・・・それ!いけるかも!」

 インターネットで調べてみると父の言った通りでかなり有名らしい。値段も一玉1万円くらいするようだ。


 (なんだかんだ言ってお父さんもちゃんと調べてくれてたんだな。ありがとうお父さん。『でんすけすいか』かぁ。インパクトもあっていいと思うんやけど、さすがに一玉1万円は予算的にダメだろうな・・・。でもまあ、一応提案だけでもしてみるか)


 次の日、

 「高橋さん、五周年のイベントの件で。あの~、スイカなんですけど」

 「『でんすけ』か?」

 「知ってるんですか?」

 「高いことと美味しいことで知る人ぞ知るスイカ。あれって・・・」

 「北海道です。でも予算的に・・・」

 「そんなにするの?」

 「はい。やっぱり一玉1万円は高いですよね」

 「いや、それで行こ!」


 (はぁ~?一玉1万円っていったら高いでしょ。高橋さんってお坊ちゃまなのかな)


 「『でんすけ』は僕も食べたことないわ。こりゃきっとみんなも喜ぶぞー。うん、インパクト的にも申し分なし!多恵ちゃん、それで行こう!大きさは?何人分とれる?」

 「何人分かはわかりませんが、大きさは6リットルって書いてありました」

 「6リットル?それ、もしかして6Lエルのことやろ。ぶはははは。多恵ちゃんっておもしろいな。いい、6リットルで注文しといて。代引きでさ。6リットルな。あはははは」


 (そうか。6Lエルだわ。私ったら恥ずかしい。でも、びっくりだわ。高橋さんが、あんな大きな声で私たちにも笑ったりするなんて意外。もしかして、私が思ってるより気さくでいい人なのかも・・・)

 

 ハレル屋に務めるようになってから大村家の食卓も随分にぎやかになった。

 「お父さん、ありがとう。五周年イベントのデザート『でんすけすいか』に決まったわ。」

 「えーほんまに?。うわぁー高かったやろぉ!でも、ほんまに決まったん?出るんやったらお父さんもデイサービス行こうかな。なぁ母さん」

 「何しに来るねん!『でんすけ』は利用者さんにお出しするの!」

 「でも多恵ちゃんも食べるんやろ?お母さんも食べたかったなぁ」


 (そうか!もしかして私も食べられるってこと?!それなら、まさに“棚からでんすけ”これはラッキーかも。企画してよかったぁ)


 「いやいや、ご利用者さんに喜んでもらうためだから。私はただ注文する係。でも、もし余ったらよ、そりゃ、いただくかも。だから、期待させないでよ」

 「イベントとか多恵の行ってるデイサービスは頑張ってはるんやね。きっと利用者さんも喜んではるやろう。ほんまにええなぁ」

 「そんなに『でんすけ』食べたかったらお父さんも買ったらええやん」

 「あのな、そういう意味じゃないねん。わしのおじいさん、多恵には曽祖父ひいじいちゃんやけど、よく言ってたんやわ。『老いて邪魔にされ 病んで嫌われ 死んで忘れられ』って。お父さんもそうなっちゃうのかなぁなんて思ったりするような歳になって。だから、みんなに大切にされたり、祝福されたり、みんなと一緒に祝ったりできる、そういうところがあって本当に“ええなぁ”って」


 (『老いて邪魔にされ 病んで嫌われ 死んで忘れられ』それが、もし、そうなのだとしたら寂しすぎやしないか?)

 

 「大丈夫!多恵はお父さんもお母さんも大事にするから・・・。で、大村家の分はどうする?この際、注文しとく?」

 「多恵が買ってプレゼントしてくれるの?お給料もらったんでしょ」

 「・・・ハレル屋の分だけにしとく」


 『注文を受け付けました。発送は生育状況によって前後しますのであらかじめご了承ください』との返信メールを確認した後、高橋にも報告した。 

 「高橋さん!おはようございます。『でんすけ』の件、注文しときましたよ」

 「ちゃんと6リットルたのんだか?」


 (誰が気さくでいい人?嫌味で悪い奴だ) 

 


【今田敏子さん】


 今田さんは独り暮らし。ご結婚もされていないとのことで身寄りは京都の弟さんお一人りだけだとご本人からうかがったことがある。お話も活舌がよく、オールバックにした短めの髪、キリっと描かれた眉のラインが、彼女を実年齢よりも相当若く見えさせる。ただ、90歳をこえていることは、すっかり白くなった髪、かなりすすんだ円背と右に強く傾いた姿勢が物語っており、スタッフからも転倒を気にする声が上がっている。


 「弟から加茂茄子が送って来たんやけど、ハレル屋で食べてくれへんかな。私一人では到底食べられっこない量で困ってますねん。ほかすのも、やっぱりもったいないですやろ!せやから、みなさんで食べてもらおうと思て。高橋さんならお昼ご飯に使うてくれると」

 そう言う今田さんの申し出をそのまま高橋に伝えると

 「ほな、ありがたく頂戴することにしょっか。業務が終わってからでいいし取りにうかがって。杉本さんと一緒に行くとええよ」

 と返事が返って来た。

 

 今田さんの家は、駅から延びる目抜き通りから随分入ったところにあった。一昔前の新興住宅地と言えばわかりやすいだろうか。あたりに代々続いているような家は無く、かと言って現代風な建物も見られない。

 「まぁここでいいか。今田さんの家からも近いし」

 杉本母さんは少し広くなった路肩を選んだが、駐車を誰かに断わろうにも人通りが全く無い。すぐに戻るだろうからと車を降りて今田さんの家に急いだ。

 町全体がひっそりとしている印象で、前を通りがかった公園にも子どもたちが遊ぶ声は聞こえない。遊具は膝くらいまでの草に包まれ、すっかりその役目を終えているようだった。

 今田さんの家にも駐車場があるにはあったがトタン屋根をちょうどよい雨除けに、ビニール紐で縛られたいくつかの新聞のたば、「かん」「びん」「ぺっとボとる」と書かれた口の開いた段ボール箱らが次の収集日を待つように置かれていた。手押し車もしばらく使われていない様子で、市のごみ収集用のナイロン袋が幾重にもかけられ、こちらも紐でわえられていた。その上に『ハレルヤ』と書かれたミカン箱が置かれている。

 「これでしょうか?ほら『ハレルヤ 』って」

 「でしょ。さぁ、どうだろ?」 

 チャイムを押すとすぐに今田さんが玄関を開けてくれた。

 「今日はわざわざすみませんね。あぁ、階段、気ぃ付けて上がってきてくださいや。さぁどうぞ」

 あらかじめ、うかがう事を伝えておいたので玄関の中で待ってくれていたようだ。駐車場側に向けて作られた階段の下から今井さんを見上げた。階段は割と急な造りで、体勢を保ちながら登るにはすぐ脇の門柱を支えにするしかなく、私たちも使わせてもらった。

 茄子だけをいただいてすぐに帰るのも愛想がない。杉本さんと顔を見合わせ「じゃあ、少しだけ」とお邪魔することにした。

 案内されたのは小さなキッチン。流し台の横には高齢者がいる家ではめっきり見なくなったガステーブルが見える。食卓の隅には広告を使って作ったごみ箱、『朝・昼・夕』と書かれた手作りの薬入れ、牛乳パックで作ったペン立て、郵便物などが寄せ固められていた。その横にステキな絵柄のついたコーヒーカップが三つ並べられている。

 「コーヒーでも飲んでいって。コーヒーだけはおいしいのをって、わざわざ取り寄せてるんよ。今、れまっさかいな」

 ご利用者さんのところで頂き物をするのは良くないのはわかっている。しかし無下にお断りするのも失礼にあたる。しかも、わざわざ私たちのための用意が整っていたりすれば尚更なおさらだ。杉本さんと相談して、コーヒーをお気持ちごといただくことにした。

 「家ではコーヒーだけが楽しみなんよ。もう早く“お迎え”来てくれたらって、いっつも仏壇にお願いしてるんやけど、ぜんぜん。私、いつまで生きるんやろ・・・」

 「そんな!今田さんは、まだまだしっかりしてらっしゃいますし、これからも元気で頑張ってもらわないと!ねぇ多恵ちゃん」

 「そうですよ。今田さんとお話しするのを私、楽しみにしてるんですから」

 そう声をかけると今田さんは照れながら郵便物の下敷きになっていた灰皿を取り出した。

 「ありがとね。でも、私ら年寄りの話って辛気臭い話ばっかりやから、ほんとはつまらんでしょ」 

 「そんなことないですよ」

 「そうかえ?」

 そう言って今田さんはおもむろに煙草に火をつけた。一息「ふー」っと煙を吐き出した後

 「弟には黙っといてくださいよ。これ、煙草。『火事になったらどうするねん』っていつも怒られてますねん。『体にも良うないし』って。もう命なんてなんにも惜しないし、いつお迎え来てもいいと思ってるんやけど」

 「またぁ。そんなことばっかり」

 「私なんかは身寄りは弟くらいのもので、その弟も80を超えてますやろ。私も私ですけど弟ももう歳ですさかい。私なんか、もうええ加減死んだらええのにって毎日思うてますねん。そやのにご飯はおいしいから三度三度食べまっしゃろ。そら、食べたら死ぬもんも死なへんってことなんですけど、ごうが深いんでっしゃろな。それから、ご飯のたんびにお薬もいただいてますし、何の薬かようわかりまへんのやけど。デイサービスまで行くようになってますます元気になってきて。なんやかんやで、そら死にまへんわな」

 「お話聞いてるとまだまだ元気で、あと50年くらいは行けると思います」

 「50年って、そんななったらバケモンですやんか。でも、もうしばらくはハレル屋さんにお世話になれそうですし。どうぞよろしゅう」

 「コーヒーごちそうさまでした。キレがあって飲みやすかったです!」

 そう言って席を立とうとしたとき、表の通りから「ゴトン、ゴトン」と大きな音がした。

 「あー、またですわ。あれね歩道のコンクリの溝蓋みぞぶたなんですわ。割れてるのか、ずれてるのか。この辺も私と同じでだいぶんきてますのや。自転車が溝蓋の上を通った時なんかに、あんな音が鳴りますねん。この前も高橋さんが直してくれて。それからしばらくは良かったのに・・・」

 「私、ちょっと見てみましょうか?」

 「やめといて、やめといて。女の子にはコンクリの溝蓋は重たいと思うし、怪我でもしたら大変やさかい」  

 「そしたら高橋に任せます。ちゃんと伝えておきますね。それから手すり、玄関に着けたほうがいいんじゃないですか?」

 「実は、手すりも高橋さんから同じようなこと言われとりますのや。やっぱりつけたほうがええでしゃろな。何やごめんなさいね。お忙しいのにお引止めした上、いらん溝蓋の件まで押し付けてしもて。高橋さんにもいつも気にかけてもろて、ほんま、よろしゅう伝えといてください。杉本さんも多恵ちゃんも、これに懲りんと気軽に寄ってくださいや。

 そやそや、加茂茄子取りに来てもろたんやったね。玄関の外の段ボールに入ったりますさかい、箱ごと持って帰ってくださいや。置いといて食べられんとほかすのはもったいないさかい、全部」

 「では、お預かりして。高橋にも腕によりをかけてもらって、“加茂茄子のみそ田楽”とかどうでしょ、楽しみにしておいてくださいね。もちろん溝蓋の件も高橋に伝えておきますね」

 帰りの車の中で、お話し好きな今井さんにとって「加茂茄子」は口実にすぎず、私たちとの会話を楽しみたかったのだろうと杉本母さんが説明してくれた。


 (だから今日は杉本母さんにしては静かだったんだ。その辺、気を使ってたんだな)

 

 楽しみにしてもらっていたはずの“加茂茄子のみそ田楽”だったが、今田さんが食べることはなかった。うかがった日の翌日に、自宅の玄関先の階段で転倒して大腿骨骨折。手術が必要でそのまま入院することとなった。

 手術は問題なく終了したが、その後しばらくして回復期に集中してリハビリテーションを行うための専門病院へ転院。今回の転倒を機に、今後は弟さんのいる京都で入所されることを念頭に、ケアの方針をケアマネージャーとご家族で相談しているとの話が、ハレル屋利用の終了という事実とあわせて高橋から報告された。

 その報告の翌日は、杉本さんと私が入浴介助の担当だった。最後に二人で風呂掃除をしているときも自然と今田さんの話になった。

 「杉本さんと一緒に訪問した時が今田さんにお会いできた最後になるなんて。ご利用の中止って突然やってくるんですね。なんだか悲しむいとまもないっていうか、あっけないっていうか・・・」

 「そうね・・・」

 杉本さんは掃除の手を止め、立てたデッキブラシの柄に乗せた腕にあごを重ねた。

 「私もこの仕事に務めだした頃は多恵ちゃんみたいに思ったわ。でも今は慣れちゃった。デイサービスの宿命って言ったら大げさかしらね。ほら、ご利用者さんの体調だって私たちよりも急に変化することが多いでしょ。だから突然ってことが多いんだけど。そもそも、最期の日までずっとデイサービスを利用できることのほうが少ないんだし、だから、今回のことも“仕方がない”って気持ちを切り替えてる」

 在宅生活がデイサービス利用の土台。本人の体調、家族の事情その他、様々な理由で在宅生活が送れなくなると、デイサービスの利用も中止になってしまう。そんなことはわかっているのだが、『もうしばらくはハレル屋さんにお世話になれそうですし』と笑っていた今田さんの顔を思い出すと残念で仕方ない。自分も突然のお別れにやがて慣れてしまうのだろうか。

 「明日は土曜日で休み!お掃除さっさと切り上げて帰りましょ。そっち、水流していい?そうだ、叶芽ちゃんにも会うんでしょ。叶芽ちゃんの勤めるグループホームとは同じ介護サービスでも目的や役割は全然ちがうから、また聞いてみたら?」

 「はい」

 私の返事がどちらの『?』にしたものだったのかはお構いなしにバケツの水が流された。流された水にクルクルとただよう塵は、排水溝に入ることなく床に残った。

 

 業務も終わりタイムカードを押してすぐに帰ればよかったのだが、帰ろうと荷物を握る度、先輩たちがポツリポツリとスタッフルームに戻ってくるものだから、部屋を出るタイミングを失ってしまった。


 (あとは、たあ子先輩だけか・・・)


 手持無沙汰にスタッフルームにある本棚から『介護の基礎知識』と書かれた本を手に取ってページをめくり待つことにした。

 

『《通所介護(デイサービス)》

 利用者ができる限り自宅で自立した生活を送れるように、日帰りで食事や入浴、排せつなどの介助・支援や機能訓練などのサービスを受ける。移住を伴わず、自宅で暮らしつつ、本人にとっては心身の機能やコミュニティー意識の維持が期待でき、家族においてはその介護負担の軽減を目的とする・・・』

 

 読みながら金曜日の夕方になるとよくかかってくる叶芽ちゃん先輩の電話を思い出し、働いているグループホームについても話が聞きたくなった。


 (今日はかかってこないなぁ・・・たまにはこっちから連絡してみるか)


 「もしもーし」

 『あー、多恵ちゃん!どうした?』

 「今日あたりご飯でもどうかなって」

 『ごめーん。今日は夜勤やわ。また今度ね。じゃ』


 (あっ!切れちゃった。あいかわらず忙しそうやな・・・。そうよね、叶芽ちゃん先輩は夜勤もあるんだよね。なんだか申し訳なかったかな。こっちからの連絡はやっぱり控えて待つほうがよかったな) 


 電話を眺めながら自分の無神経さと向き合っていると

 「なんや?まだおったんかいな。はよ帰りや」

 コンビニ弁当の袋を手にぶら下げた高橋から声がかかった。

 「高橋さん!ちょうどよかった!」

 「何が?」

 「デイサービスって何ですか?」

 「デイサービスは、デイサービスやろ」

 「はぁ~?」

 

 (これ絶対、めんどくさがってる!)


 「ごめんごめん。明日の忘れ物は今日にあるはずやから、ご利用者さんも私たちスタッフも今日と言う日にやり残しを作らない。僕にとっては全力で打ち込めるステキな仕事ってことで、こんなもんでどうかな?・・・さあ、今日は帰った帰った!」


 (『全力で打ち込めるステキな仕事』ってところはわかったけど、その前の『明日の忘れ物は今日』?なんだ?歌の歌詞か何かか?つくづく読めへんおっさんやなぁ)

  


【相田和江さん】 


 「和ちゃん!体調どう?」

 「何がええかわからんけど、今日も何とかね。ここまで長生きさせてもろて。家族がな、ほんまにようやってくれてるから今日もハレル屋に来させてもろて。ありがたいことやわ、ほんまに。私ら家族に感謝せなあかんよね」

 相田さんに限らずご利用者さんからは『感謝』という言葉がよく聞かれる。でも相田さんは特別多かった。やはり、戦中戦後の物のない時代の経験がそうさせるのだろうなどと勝手に思ったりしていた。

 

 この日、「高橋さん!ちょっと聞いてくださいよ!」と言ってノックもせずに飛び込んだのは所長室。

 所長室と言えば聞こえこそ良いが、実はただの縁側の突き当り。ふすまの取り払われた押し入れとその手前のスペースを無理やり部屋に見立てるために扉が備え付けられている、たったそれだけのものだ。広さはせいぜい二畳程度。その二畳も手前は書庫と複合機が幅を利かせ、奥に追いやられた机代わりのレンジラックに到達するには細身の私でも半身になる必要があった。“頭の中と部屋の様子はよく似ている”と誰かが言っていたが「これで十分」という高橋の頭の中もこんな感じなのだろうか。

 オフィスチェアだけはわりとしっかりしたものが用意されていたが、聞けばただのもらい物。どうりで「この色はないよな」と思わせるショッキングピンクのそれに高橋はこちらに背を向けて腰かけていた。 

 「さっき電話があって、和ちゃんのお母さん、あっ!相田さんです。来月からしばらくの間ショートステイを利用されるそうでお休みなんですって。なんかお孫さんが出産して赤ちゃんと里帰りされるそうなんですが、でもその間は相田さんがショートを利用されるっていうの、なんだかおかしいと思いませんか?」

 聞こえているはずなのに高橋は背を向けたままこちらを振り返ろうともしないので少し声を張り気味に続けた。

 「だってそうじゃないですか!相田さんにとってもひ孫ちゃんなんだし、一緒にお祝いしたいだろうに。高橋さん!高橋さんはどう思います?」

 「電話に出たって言ってたけど、誰からだった?」

 返事は低いトーン。全くこちらを向く様子もない。


 (人と話すときは相手の目を見てって教わらなかったのか?)


 「居宅ゆめの小林ケアマネージャーさんですけど!それが何か?」

 「そう」

 と言ったっきり書類に目をやったまま。それ以降もこちらの質問に答えてくれそうにない高橋の態度にも納得できない。


 (あーあー。今度はパソコンまで触り始めちゃったよ。我慢比べなら負けませんからね!多恵ちゃんは『耐えちゃん』なんだから!)


 「えっ?それだけですか?私なんか納得できないんですけど」

 そのまま高橋に “こっちを向け!”と念を送りながら回答を待った。

 しばらくして老眼鏡をおもむろに外した高橋が、まるで砲口をこちらに向けるかのようにオフィスチェアごと体を動かし、私の心を見透かしたような初撃を静かに打ち込んできた。

 「相田さんの代弁のつもり?それとも感情をぶちまけているだけ?」

 「はい、いいえ、いや、いいえ・・・」

 着弾時の爆音は大きなものではなかったが、私の戦意をくじくのには十分な威力があった。 

 「多恵ちゃん。相田さん本人からあなたに相談に乗ってほしいとか、家族に気持ちを伝えてほしいってお願いされたの?違うでしょ。だったらさ、そこまでにしときなよ」

 「でも・・・」

 「相田さんの気持ちを借りて自分の気持ちを代弁させてはダメ」

 「だって・・・」

 ここで高橋が大きく息を吸い込んだ。


 (しまった!危ないのが来る!高橋からとどめの一撃が)


 だが「ふぅー」と一息ついただけで、表情一つ変えずに静かに続けた。

 「いい?相田さんの気持ちは、もしかしたら多恵ちゃんが言ってた通りかもしれない。でもそこから一歩踏み込んで、家族の調和を優先して相田さん自身がショートステイを利用することに決めたんだったとしたら。今回の件で、家族と相田さんの関係に入り込む余地が僕たちにあると思う?相田さんをどういうお母さんだと思ってる?」

 相田さんは利用者さんの中でも最古参。高橋とは開所の時からずっと一緒で、庭にある畑は二人で作ったものだという。


 『今はね、こんなにたくさんの人がおるけど、最初は高橋さんといっつも二人でね。畑でとれた豆を湯掻ゆがいて、縁側でサイダー飲みながら食べたんよ。おいしかったんよ~』


 これまで何度も何度も何度も何度も・・・相田さんから聞いた話。そんな間柄の二人だから、今回の事も私と同じように感じているはずだと思っていた。

 でもそれ以上だった。相田さんの気持ちを代弁してくれたのは高橋だった。加えて相田さんの判断がその人柄によって出された結論である以上、私たちが口出しすべきではないと言いたいのだろう。高橋が「誰からの電話だった?」と聞いたのはそれらの確認だったに違いない。

 常日頃、高橋は「本人の気持ち・家族の気持ちを越えてはならない」と言う。独り善がりになりがちな職員の気持ちの押し付けで、利用者・家族を困らせないために。そのためには「お一人おひとりに寄り添い、利用者・家族を知るところから始めないと」とも。


 「そうだ!高橋さん!ケアマネージャーさんから預かる利用者さんの情報、何て言いましたっけ?そう基本情報、フェイスシート!見せてもらっていいですか?私、相田さんのこともっともっと知らないとダメでした」

 「・・・勤め始めてもうすぐ3か月かぁ。ちょっと早いかもやけど、ええやろ」

 そう言って書庫を開け

 「多恵ちゃんはきっといい職員さんになるよ。ほら、これ相田さんのファイル。あとみんなの分もあるからお好きに。見たいときはいつでも声をかけてね」

 と、書庫のカギにつけられたリングを指に掛けクルクルと回して見せた。

 「私、高橋さんの期待を超える所長になるつもりですからよろしく!」

 「ほー、それはなんとも頼もしいことやなぁ」

 

『相田和江(アイダ カズエ)


 昭和5年生まれ。高知県で夫と二人暮らしをしていたが、夫が5年前に他界。しばらく一人暮らしをしていたが、長男夫婦が呼び寄せ同居開始。こちらでは友人もおらず引きこもりがちな本人を見て心配になった長男が相談。デイサービスの利用を勧める。穏やかで控えめな性格。趣味は畑作業(夫と野菜作りを楽しんでいたが同居してからはやっていない)。既往歴は・・・』


 (私ってば相田さんのことを見ているようで見ていなかった。週に3回も利用されていて、家族以上に長い時間を過ごしている日もあるのに・・・。

 少し丸まった小さな背中が背負っているのは住み慣れた街を離れた覚悟、持つ杖が支えていたのは知り合いがいなくなった寂しさ、大きく真っ黒な瞳が見ていたのはこれからの生活、リウマチで変形した両手に包まれていた折り鶴は相手を思いやる気持ち。自分よりも他者を気遣う慈悲深い心の持ち主・・・)


 フェイスシートから顔を上げると高橋と目が合った。

 「ケアマネが作った基本情報からいろんな想像をめぐらすことは大切やけど、真に受けての思い込みは禁物。あと、僕たちは相田さんの家族にはどうやったってなれない。でも、ただの他人でもいられない。自分の気持ちの出し入れは立場をわきまえなきゃ。今回のことは多恵ちゃんらしいって言えば多恵ちゃんらしいってことなんやけどね」

 言い終わるとオフィスチェアのロッキング機能を目いっぱいに使って持たれながら天井に視線をそらした。


 (なんだ?心の声が漏れてる?

 “偉そうに言ってるけど、畑作ったのってこの基本情報からなんでしょ”って言ったら怒るかな?)


 「趣味が畑作業ってのは基本情報からやったけど、畑づくりは相田さんと相談して決めたんやからね。やっぱりちゃんと自分の目と耳で確認が大切。これ、くれぐれもお忘れなく」


 (うわぁ怖っ!)


 高橋は思いやその考えに至るプロセスを最初からは口にしない。「なぜ?」と謎解きをせがんでも「別に」とか「いいと思ったから」などで簡単に片づけようとするのがほとんど。そうかと思えば、尋ねずともこちらの心を見透かしたように話しかけてきたりするので、スタッフはみんな少し気味悪がって、高橋のことをこっそり『不思議大魔王』と呼んでいる。


 私とのやり取りの後、大魔王は相田さんを担当するケアマネージャーに連絡をとってショートステイ利用の日程を淡々と確認し、静かに受話器を置いた。

 「そっかぁ」

 と、寂しそうにため息をつく高橋の横顔は魔王などという異世界の者ではなく、全くのこの世の者でやっぱり私と同じただの人間でしかないと感じさせた。


 この日以来、時間を見つけては基本情報を見るのがマイブームとなった。その度カギを借りに行く私を面倒がった高橋は、とうとう書庫のカギ管理を私に任せることにした。



【長谷川千代さん】


『長谷川千代(ハセガワ チヨ)


 昭和16年佐賀県生まれ。夫との結婚を機に現住所へ。長女が近くに住んでいて週に一、二度生活用品や食材を届けている。認知症が進み近所とのトラブルが増え相談・・・』


 その様子はデイサービスでも見られた。「うちの財布がない」と大騒ぎしてみたり、他人の上着を「うちのものだ」と言い張ったり。このところの職員で開くケース会議では、毎回と言っていいほどに彼女の名前が挙がっている。

 チヨさんはハレル屋が大好きなのだろう。私の知る限りデイサービスを休んだところを見たことがない。お迎えの時間は9時過ぎと伝えてあって毎回その通りなのだが、早いときは7時くらいから玄関先に出て待っていると聞く。楽しみにしてもらっていることはうれしいのだが、そんな時は決まって「迎えに来るのが遅い。どれだけ待ったかわかる?」と車中でもご立腹なので、送迎担当も対応に工夫が必要となる。

 帰りも帰りでちゃんとご自宅までお送りしたはずなのに、しばらくするとなぜかチヨさんがハレル屋に居て驚かされる。どうして居るのかと尋ねると

 「うちなんやけど、明日はハレル屋(の利用は)あるんやろか?気になって来たんよ」

 と確認するためにわざわざ歩いて戻ってきたと、あっけらかんに答える。職員が驚くのはお送りしたはずのチヨさんがそこに居ることもそうだが、むしろ、ハレル屋からチヨさんの自宅までは車で5分とかからない距離とはいえ、よく道に迷わずたどりつけたことの方にだ。これが続くと、いつか道がわからなくなって事件や事故に合われるのではないかと心配で、利用の都度手紙を書いたり、特別なカレンダーを用意したりするのだが、どれも決定的な解決策にはなっておらず“チヨさんが戻ってきた”がしばしば繰り返されている。


 今日の午後のレク担当はまあこ先輩。「お手玉を使っての運動レクをするので手伝ってほしい」と朝から頼まれていた。不公平にならないようにと、お手玉の重さと大きさを仕分けている食後のコーヒータイムの時だった。

 「うちの財布がない!盗られた!」と背中越しに大きな声が聞こえる。よく通る少し甲高いしゃがれた声はチヨさんのものだ。振り返って真っ先に目に入ったのは、他の利用者さんたちの(またか・・・)という表情。それからチヨさんの方に目をやったが、いつもより興奮している様子がすぐにわかった。

 このところ“うちの財布がない!”は頻回になっている。いつもなら「まぁまぁ」などと声をかけるとおさまるはずなのだが、今日はなぜか火に油。

 「わかった!(盗ったの)あんたか!」

 と、怒りのボルテージは上がる一方。

 「一緒に探しましょう」などと提案しても「あんたじゃ話にならん」と収まる様子も見られない。


 (さてさてどうしたものやら。しかし、こんな時に不思議大魔王はどこをほっつき歩いてる?確か、お昼ご飯の時までは居たはずなのに、ふらっと出て行ったきり。『今日は記録的な猛暑になるでしょう』と朝のテレビニュースで言ってたし、いくら変わり者の髙橋であっても、まさかこんな日に散歩もないだろうに・・・。もう役立たずめ!)


 などと心の中でつぶやいた瞬間

 「ただいま帰りましたよー!」


 (うわっ!もう!びっくりしたぁ!ってか、え?どこから出てきた?もしかして隠れてた?)


 皆に聞こえるような大きい声を張り上げて、汗を拭きふきフロアーに入ってきた高橋は、横目にちらっとチヨさんを見ただけでその大混乱にも特に驚く様子はなく、それどころか

 「ほな行こか!ではでは、行ってきまーす!」

 とチヨさんを連れて外に出ようとする。玄関でチヨさんの靴を用意しながら 「悪いけど誰か(スタッフ)一人一緒に来てくれるか?」との高橋の呼びかけは小さく、結果一番近くにいた私がそれに応えることになった。

 高橋はチヨさんの誘導を私に任せさっさと運転席に乗り込んだのだが、その様子で(早く)と急かしていることがわかった。後部座席に転がり込むように並んで座ったチヨさんと私のシートベルトがしめられたのを確認するや否やすぐさま駐車場から車を出そうとしている。「どこへ行くんですか?」と尋ねると「長谷川さんち」と短く答えるだけ。当のチヨさんと言えば、高橋の顔を見てからはひとまず少し落ち着いた様子にも見えるが、未だ興奮冷めやらずだ。


 (“なぜチヨさんちに行くのか?”なんて謎解きをせがんでも、今は無理そうだな。まぁ、ここは大人しくしておこう。でもチヨさんちに行ってどうするんだろう?)


などと考えている間に、気が付けば車は長谷川さんの家の前に着いていた。

 「さぁ降りて」

 と高橋は私たちに降車をうながしてさっさと玄関へ向かっていく。後をついていく私たちには全くかまう様子もなく、チャイムを押して家族の返事を待たずに玄関の扉を開けた。

 「高橋でーす。お邪魔しまーす」

 と奥の居間にご主人がいるのを知っているかのように声をかけてそのまま玄関を入ってすぐの階段を二階へとトントントンと勢いよく駆け上がっていく。私もチヨさんもその背中を遅れずに追うしかない。ご主人の「どうぞー」の声を聞いたのはもう階段の三分の二を過ぎたあたりだった。


 「入りますよー」

 そこはチヨさんの部屋だった。承諾を待つまでもなく高橋は足を踏み入れる。

 季節外れの秋冬の衣類が何着も重ねかけられている壁の長押し越しに見えたのは、六畳二間続きの和室。天井からは年代を感じさせる和風のペンダントライトがぶら下がる。引き紐には座ったままこれを操作できるようビニール紐が継ぎ足され、だらしなく下まで垂れさがり、締め切られたこの部屋では風に揺れる様子もない。どの窓にも遮光カーテンはかけられておらず、今日のような晴れた日中であれば電気をつける必要もなく二間とも部屋の隅まで十分に見通すことができた。

 手前の部屋にはもうすぐお盆だというのに炬燵こたつが出されたままで、天板の上の5、6本のペットボトルはすべて飲みし。それらを端のほうに押し寄せて出来たスペースには、封の空いた菓子袋、食べかけの饅頭が見えた。その向こうにある飯粒が固くなってこびりついたカレー皿は一体何時いつのものだろう。

 足元にはとにかく物が散乱していて、押し入れの前には着る前のものか着た後のものかがわからない衣類が畳まれることなく山のように積み上げられていた。

 奥の部屋の散らかりようは手前の部屋よりは幾分ましだったが、こちらもしばらくの間掃除された様子はない。締め切られたその部屋の暑さと埃っぽさに自然と眉が寄った。

 ひときわ明るい南窓の壁際には掛け敷きまとめて二つ折りにされた布団。東側の壁には使っているのか使っていないのかわからないたくさんの瓶が並んだ化粧台。西側に目をやると箪笥たんすが二さお。背の低いほうにはガラスが白く濁った日本人形のケースと、日常使いの細々としたものが最近使われた様子もなく雑然と置かれていた。


 私は足元に気を付けながら箪笥の前で話す二人に近づいて、やり取りを静かに聞いた。

 「さぁ、チヨさん。何が盗られたんやった?」

 「財布!あそこ(ハレル屋)で誰かが盗ったんじゃ!そうに決まってる!今すぐ警察呼んで!」

 と、チヨさんの興奮はハレル屋にいた時に逆戻り。

 「こっちの箪笥の一番下の引き出し、開けてみて」

 高橋は、自分で開けずにチヨさんに開けさせようとしている。チヨさんは訳が分からない様子だったが、言われるがまま引き開けると、ほとんど空っぽの引き出しにチヨさんが探していたと思われる財布が見えた。

 「あ!なんでここにあるん?」

 そう言って尋ねるチヨさんに高橋は“今日は財布を持ってきていなかった”という事実を丁寧に口調優しく説明し始めた。時間は少しかかったが、財布が出てきたことで安心できたのが大きかったのだろう。次第に落ち着いたチヨさんが戻ってきた。


 (やれやれ、一件落着ですな)


 などと思ったものだが高橋はここでは終わらなかった。チヨさんに興奮した様子がないことを確認すると座るよう促し、向かいあって正座した。そして今度は語気に強さを持たせて

 「ハレル屋のみんなを勘違いとは言え、泥棒呼ばわりをするとは何事か!」

 とチヨさんに迫った。

 「ごめんなさい。私、私、恥ずかしい。もう殺してー・・・」

 「そんなことはしません!それに何も死ぬほどのことでもない。よく考えて。ほら泣かんと。これからみんなに謝りに行こ。僕も一緒に謝ってあげるから。みんな優しいいい人ばっかり。心配ないよ。どう?」

 「うん。そうする」

 二人が並んで降りるには狭すぎる階段を肩を抱くように、抱かれるようにして何事もなかったかのようにクスクス笑いながら下っていくチヨさんと高橋。


 (このお芝居にキャストとしても、観客としても招かれていない私の“置いてけぼり感”をどうしてくれる?今日の業務が終わったら謎解きしてもらわねば、腹の虫がおさまらん!) 


 一階の奥の居間からご主人と高橋の会話が聞こえる。

 「やっぱりだめでしたかぁ」

 「まぁ、そんなとこです。お騒がせしてすみません。お邪魔しました」

 高橋は暖簾から片手だけを出して、チヨさんと一緒に車に先に乗り込んでおくよう手振りをして見せた。しばらくして遅れて乗り込んできた高橋は、運転席から後部座席に身を乗り出すようにしてチヨさんに

 「さぁ一緒にハレル屋に帰ろ」

 と優しく声をかけた。チヨさんにはもういら立ちや不安は少しも見られない。


 ハレル屋に帰ってくると三人ですぐデイルームに向かった。デイルームに入って皆の顔を見渡せる位置まで来た高橋は

 「この度はお騒がせいたしました。財布は家にありました。みなさんすみませんでした」

 と深々と頭を下げた。それを見たチヨさんもあわてて同じようにするものだから横にいた私も勢いで・・・。三人が並ぶ姿に野次を飛ばす者もない。すでに“何のこと”となっている人もあったが、一部の利用者さんには「あって良かったね。勘違いは誰にでもよくあることよ」と慰める人まで出た。その後は何もなかったかのようにいつもどおりのハレル屋時間が流れ、帰りのお送りも施設の掃除もすべて終わった。 


 (さてと本日の任務も全て終了。念のためタイムカードも押しておくとしよう。さぁ、ここからは私の時間だ。不思議大魔王よ、今日はとことんつきあってもらうからな!あっ!いたいた)


 「高橋さん、所長室にいらっしゃいましたか。お時間いいですか?ちなみに私は時間がたっぷりあるのでご心配なく。で、今日のことなんですけど・・・」

 「あれね。そうするのがいいと思ったから」

 「はぁ~?」


 (いかん!心の声が漏れてしまった)


 「このところ増えたでしょ“財布がない”っていうの。もしかして今日もあるかなって思って。あらかじめご主人に対応を相談しておいたの」

 「どんな相談?」

 「『今日もし、“財布がない”が始まって収拾がつかなくなったら、一旦ご自宅へお連れします。財布をいつもどちらに片づけておられるか、そこに財布があるかどうかだけ教えてください。財布さえ確認できればチヨさんはきっと落ち着かれるはずなので』と」

 「じゃあ、お昼にいらっしゃらなかったのはチヨさんのご自宅へ?何?ご家族と面談?」

 「そういうこと」

 

 (で、「お邪魔しまーす」だったわけか)


 「じゃあ、私が同行する必要については?」

 「一応、他人様のおうち、お部屋に入らせてもらうから念のため」

 「デイに帰って来てみんなに謝ってましたが、あれは?」

 「中には“またか!”って怒ってた人もいたでしょ。あと心配してくれてる人も何名か。だから報告を兼ねて“本日の騒動はこれにておしまい”ってのと、これからの人間関係のことも考えて“いろいろあったかもだけど水に流してくださいね”と区切りをつけておきたかったの。もちろんチヨさんの気持ちの整理のためにもね」


 (ふーん。そんなこと考えてたんだ。なるほどね)


 「こらこら。頭ン中で“誰でもいつでも”みたいなマニュアルを作ってるんやないでー」

 と付け加えて自分の作業に戻った。

 何をしているのかと思えば明日のレクの準備のようだ。少し気になって様子をうかがっていると

 「これ、いいレクになると思うんやけどなぁ。そうや!時間あるって言ってたな。手伝ってよ」

 私に断るタイミングを失わせるかのように高橋はこれからの作業の説明をしながら所長室からいそいそと出てきてしまった。


 (「謎解き終わったし失礼しまーす」って心の声は伝わらないの?いやわかってて無視してるのか?だったらごうことなき大魔王)


 「どんなレクをするかを考えるとき、一番大切なのは利用者さんの心と体の状態の把握で、そこがスタート。脚を使ったほうがいいのか、腕を使ったほうがいいのか、歌がいいのか、ものづくりがいいのか、脳トレみたいな感じがいいのか・・・。明日予定しているレクはボールを転がすんだけど、そのボールは大きいほうがいいのか、小さいほうがいいのか、重いほうがいいのか、軽いほうがいいのか、どれくらいの力加減が必要か、傾斜をつけたほうがいいか、障害物は置いたほうがいいかとか。考えるってほんとワクワクするなぁ」

 

 (まぁ確かに。あなた程ではないと思いますが)


 「ちなみに明日はボールを使うとしてどんなレクになるんですか?」

 「よくぞ聞いてくれた。これさっき書いたメモ。ちょっと見てくれる?」


 (割と細かいところまで書き込んであるな)


 「へぇー。こんなレク見たことないです。初お目見えですね。明日の利用メンバーさんだったら・・・そう!ゴルフ好きな山岡のお父さんとか喜んでくれそうですね!」

 「そう!最近、山岡さん少し元気なさげに見えへん?だから明日は山岡さんを狙ってのレクにしようかと!多恵ちゃん、なかなかセンスあるなぁ。見直したで!」


 (大魔王高橋のセンスってどんなだろ。まあ、褒め言葉として使ってるつもりなんやろうけど。なんか心の底からは喜べない感じ)


 「でも高橋さん、ルールの設定が少し単純すぎませんか?」

 「そこは甘いな。ルールが複雑だと面白そうに感じるけど、それはこっち側の感覚。参加していただく利用者さんにとってわかりやすいことの方が重要。レクは、自分がやりたいのをするんじゃなくて、利用者さんが参加して楽しいレクが一番なんや」


 (普段はあまり考えてることを口にしたりしない高橋が、レクについてはこんなにも熱く語りだすなんて・・・。不思議大魔王ではなくこりゃ“レク大魔王”降臨ってとこだな)


 「じゃぁ、お手伝いしますからパパっとやっちゃいましょう」

 「よっしゃ!ほな、いっちょやったりましょか!」

 「・・・」


 (正直午後6時を回って、このハイテンションについていくのはちょっと辛いかも)


 レクの道具を作りこんだり、試しにやってみたり、“あーでもない”“こーでもない”と遅くまで頑張ったかいもあって、次の日の高橋のレクは大成功。大盛り上がりだった。おまけに優勝したのは山岡さんで、これも高橋の狙い通りだったとすればレク大魔王の面目躍如というところか。山岡さんも終始ご機嫌で「皆さんのおかげで優勝することができました。最近いろいろあったので・・・。でもなんかスカッとしましたわ。皆さんおおきに、おおきに」と何度も何度も繰り返し礼を言う姿と笑顔を見て、私までうれしくなった。


 夕方5時を回るとご利用者さんを送りに出ていた担当者がハレル屋に戻ってきた。高橋はいつも通り、担当一人ひとりから送迎中の様子や家庭訪問時に気づいたこと、ご家族からの問い合わせなどの報告を細かく聞き取りしている。どうやら特に問題はなかったようなのだが、高橋の表情が一向にゆるむ気配もなくむしろ考え込んでいる。 


 「高橋さん!今日のレクよかったですね」

 「明後日は何しよ」

 「は?今日のは?もうやらないんですか?」

 「二度とやらないとは言わへんけど、でも新しいレクのほうがこっちも新鮮な気持ちで取り組めるし。で明後日どうする?」

 「えっ!まぁ・・・ねぇ~。あの~ところで、そうだ!高橋さんはレクのネタをどこで思いつくんですか?パッと降りてくるとか?」

 「利用者さんと一緒にいるときが多いかな。フロアーこそ僕の居場所。いいレクはフロアーで思いつくんやわ」


 確かに高橋は日中に所長室にこもったりすることはない。それどころか事務仕事をする姿もほとんど見ない。その分月末月初は私たちスタッフも処理に駆り出されることもしばしばで大変なのだが、そんな高橋と数か月一緒に働いてみて自分の気持ちに気付いたことがある。“利用者さんがいるときは利用者さんと一緒に”という高橋のこのスタンス、ご利用者さんへの向き合い方を私は嫌いではないということに。きっと先輩スタッフさんたちも同じで、だから不思議大魔王であっても長く一緒にやれているのだろう。


 「あの~。レクを一緒に考えたいところですが、あいにく今日は叶芽ちゃん先輩とご飯に行くので帰りますね。高橋さんのレク、私も楽しみにしてます。お疲れさまでしたぁ」

 「ちょっと待って。叶芽ちゃんと?・・・もしよかったら・・・」


 (ん?まさか一緒に来るとか言わんだろうな)


 「もしよかったら、最近どんなレクをやったか、聞いといて。じゃ、お疲れ~」


 (焦ったぁ~)


 「がははは!高橋所長ってやっぱりおもしろいな!」

 いつものラーメン屋『大天竜』に叶芽ちゃん先輩の大きな笑い声が響く。

 「ちょっと叶芽ちゃん先輩ったら、大きな声出さないでくださいよ~。みんなが見てるじゃないですか!でも『もしよかったら』なんて切り出すから一緒に来るのかと思っちゃうじゃないですか!それが『最近どんなレクしてるか聞いといて』ですもん。いつもの醤油拉麺でいいですか?私注文しますよ!」

 「わるいわるい。でも高橋所長もさることながら、スタッフさんもみんなキャラ濃いよねハレル屋って。私は、やっぱりあっさり塩とんこつにする。」

 「そうそう!みんな超個性的というか。それぞれが“らしく”仕事してるというか。で、餃子は注文します?どうします?」

 「で、多恵ちゃんものびのびってことなんや。いらない、ライスはたのむ」

 「はい。楽しくさせてもらっています。私だけじゃなく、ほかのスタッフさんにもあまり細かいことを高橋さんは注意したりしないんです。所長さんってどこもそんな感じですか?叶芽ちゃん先輩!ライスは太りますよ。大丈夫ですか?」

 「さぁ、どうかな。でもデイサービスでもどこでも管理者が変わると雰囲気は良くも悪くもガラッと変わるんだよね。だってうちがそうだったもん。だからハレル屋の雰囲気は、高橋所長が作ってる。これは間違いないね。日曜日はやってるんだっけ?ハレル屋。人は足りてる?バイトさせてもらえへんかな。また聞いといて」

 「ちょっと!先輩、それ本気ですか?うちはパート勤務のママさんも多いから、日曜日は私も勤務すること多いんで超助かります!」

 「うーん・・・・。ちょっとトイレ行ってくる。やっぱりライスも“大”にしといて」

 「ちょっともう!なんて下品な!あの~すみませーん!注文お願いしまーす」



【初物七十五日】


 「あらためましておはようございます。今日もよろしくお願いいたします。さて今日は『初物七十五日』って言葉からスタートです。これって皆さんご存じですか?知ってる人!いらっしゃいますか~?」

 ハレル屋では所長の高橋が毎朝『朝の会』を行うことになっている。


 「はいはーい!知ってる知ってる!」

 自然とご利用者さんの手が上がる。手が上がらないご利用者さんにも「長生きするっていう、あれだよね」などと隣同士で声を掛け合う様子が見られる。この朝の会の時間が、利用者さんたちに一体感を生ませる感じがする。


 (毎日毎回違うネタを仕込んでくる大魔王の頭の中はどんなだろう。所長室みたいな感じをイメージしてたけど、実際はもっとすっきりしてるのかな・・・)


 「はい、みなさんありがとうございます。僕がお話しするまでもないって感じですが、今日はもう少し踏み込んで『初物四天王』について。こっちは初耳の方も多いんじゃないかな。四天王っていうくらいだから4つあるんですけど・・・。思いついたものどんどん言っちゃってください!」


 「まつたけ~!」

 「ハイ正解!。あと3つ!」

 「かつお~!」

 「『目には青葉山ほととぎす初鰹』 ハイ正解!。あと2つ!」

 「すき焼き~!」

 「もう!それは自分が食べたいだけでしょ!違いまーす。ほか・・・ありませんか?じゃあ、出なさそうなので言っちゃいますよー。残りの二つは茄子と秋鮭です!」

 「言おうと思ってたのにぃ」

 「ほんとですか~?」


 利用者さんが気軽に冗談を言えたりする進行は高橋ならではだ。リラックスした雰囲気づくりで利用者さんを一層和ませる。


 「で、今日は秋鮭でホイル焼きを作ってみようと思いまーす!最近は茄子でもトマトでも魚でも、季節関係なく年中出回ってて食べられますが、旬の時期は味わいも一入ひとしお。旬の食材はおいしいし、栄養価も高いのです!というわけで秋鮭です。いかがでしょ?」

 「賛成!おいしいの作ってやぁ」

 「おまかせあれ~!それでは、今日もおいしくお昼ご飯を食べられるように頑張って朝の体操行ってみましょう。さぁ、今日もみんなで頑張るぞ!えいえいおー!」


 高橋は料理が上手である。レパートリーも豊富でお昼ご飯を楽しみにしているご利用者さんも多い。節句などの行事食はもちろん、四季折々の旬の食材を使うことを大切にしているのがよくわかる。

 少し前に、どうしてそこまでこだわるのか、高橋に聞いたことがあった。その時もどうせ「その方がいいでしょ」とはぐらかされるだろうと思ったのだが

 「あと何回桜を見られるか、あと何回蝉の声を聞けるか、あと何回紅葉を楽しめるか、あと何回雪を踏みしめることができるか・・・。今まで楽しんできた以上に回数が残されている人は誰もいないから、食事でも行事でも季節を思い切り感じてほしいねん」

 その時は妙に感動した。実際、私はこれからもこれまで以上に何度も何度も季節を越えていくだろう。でもご利用者さんたちはそうじゃない。『人生百年時代』だとしてみんな65歳以上。吹雪く桜も、やかましい蝉の声も、色づく紅葉も、雪の朝の静けさもこれまで経験した回数以上にそれらを見聞きすることはない。それらは残り少なくて・・・。


 「おまちどうさま!できたよー!」

 キッチンからいい香りがする。テーブルで待つご利用者さんに食事が運ばれるたび、歓声があがる。

 「ホイルは熱くなってますから気を付けて開けてくださいね。スタッフさんも開けるの手伝ってあげてくださーい」

 「わー、おいしそー!」

 「『おいしそー!』ではありません。おいしいんです!」

 「なんで言い切れる?」

 「愛情がこもってますから。あと、誰と食べるかも大切ですね」

 「独りで食べてもおいしくないもんね」

 「さぁ、みなさん揃いましたか。ではではいただきましょうか!佐藤さんはバターがお好きでないということで、佐藤さんのだけはバター抜きになってます。ご安心ください。それでは、合掌です!いたーだきます!」

 「いたーだきまーす!

・・・うん。鮭おいしい!。これで七十五日長生きできるわ~。そしたら九十一や。」

 「小田さん。この前も同じようなこと言ってませんでした?」

 「あははは・・・。長生きできるのはここで初物いただいているからやわ。ありがたやー、ありがたや」


 (大魔王が今日もみんなに元気になる魔法をかけている)



【上田 薫さん】


 正社員は私以外に男性職員の町田さん。高橋と同い年で52歳。登場にテーマソングが必要ならば間違いなく『森のくまさん』だろう。ご利用者さんたちも同じように思っているのか、町田さんを名前では呼ばず「クマさん」が通り名となっている。大きな体のわりに軽快な身のこなし、細かな作業も得意で案外器用、部屋の季節の飾りつけを担当したり花の世話をしたりと結構まめなところもあって、存在感も十分で只者ではない雰囲気を感じさせる。介護経験の長さからかご利用者さん好みの話題の引き出しも多く、頼りになる先輩の一人ではある。

 ただ、私とは正直合わない。何かにつけて介護経験でマウントを取ってくるし、口うるさく時に感情的。そのため利用者さんとも些細なことで言い合いになることもある。そんなこんなで、もっぱら業務の相談は面接の時からお世話になっている杉本母さんか看護スタッフのアキ姉さんらに尋ねて、その都度対応するようにしている。

 以前、杉本母さんが町田さんのフォローの件で高橋に相談するというので同席することがあったが、高橋は「フォローありがとう。助かります」とことわった上で

 「まぁ、悪い人ではないし、事なかれ主義よりはええんちゃうかな。トラブルがあるのも距離感が近ければこそ。人間味があってのぶつかり合いやから」

と、あまり気にもしていない様子。

 「高橋さんはいつもそうやって!もう!次は知りませんよ、ねぇ多恵ちゃん!」

 「えっ!まぁ、はい・・・」


 でも、そんな高橋が一度だけ怖い目をして私と町田さんに対応した出来事があった。


 『上田 薫(ウエダ カオル)


 昭和18年石川県生まれ。若いころは新聞社に勤務。5年前、妻・息子を立て続けに亡くされ、現在は一人暮らし・・・』


 「おいっす!」

 ご利用日はハレル屋の玄関先で元気な声が聞こえる。上田さんだ。腰を悪くされてからコルセットが手放せず、足元も不安定で杖歩行。歩行器の使用もケアマネージャーからもすすめられているそうだが

 「使いづらいし、いらん!そんなもん使こうたら余計にこける!」

 の一点張りで、案の定自宅での転倒を繰り返している頑固なお父さんだ。

 体験利用の面談の時も高橋が自宅の場所を確認しようと上田さんに電話をかけると

 「そんなもん!自分で調べてこい!」

 と怒鳴られ電話を切られたらしい。だから、初めて上田さんの入浴介助を担当した時はかなり緊張した。


 (入浴介助はご利用者さんと一対一。フロアーでの上田さんのままならいいんだけど)


 「多恵ちゃんや、どうしたん?」

 「失敗して怒られたらどうしようかと思ったりして・・・」

 「誰に?」

 「上田さんに・・・」

 「そんなんわしが怒るかいな。でもなんで?」

 「怒らないで聞いてくださいよ」

 「よっしゃ!」

 話の流れとは言え、体験利用の面談の時の高橋とのエピソードについてたずねざるを得なくなって、恐る恐る聞いてみると

 「あーははは。あー!それな、あったわ。あの時はほんまにすまんかったわ。いやな、ハレル屋の所長さんとは思わんとどっかの勧誘の電話かと思ってな、あの時はほんま申し訳ないことをしたわ。高橋さん、まだ言うとるか?もし気にしとったら、あんたからも謝っといてな、頼んだで!」

 と照れ臭そうに笑ってガシガシと頭をかく上田さんは、私の知っているいつもどおりの上田さんのままだった。


 そんな上田さんの誕生日のこと。ハレル屋では、高橋が利用者さんの誕生日にあわせてプレゼントを渡すのが慣例となっていて、上田さんにはかわいいハンチング帽が用意されていた。

 「わし!こんなんかぶらへんでぇ~!」

 と言いながらも、結局ちょこんと頭にのせてみたりしてまんざらでもない様子だったが、一同が「似合ってる!」「かっこいいね」などと一斉にほめたり冷やかしたりするものだから『ハッピーバースデー』を皆で歌う前には帽子をとって包みにしまい込んでしまった。

 その日の夕方、デイルームを片付けていると上田さんに渡したはずのプレゼントが椅子の下に落ちているのに気が付いた。

 「どうしましょう?」

 近くにいた町田さんに相談すると

 「明後日来はるし、まぁその時に渡したらええやろ」

 と返事が返ってきた。それもそうなのだが気になって念のため高橋にも確認すると

 「そりゃ大変!すぐに持って行ってあげて」

 と言う。実際こういうのが一番困る。(さてどうしたものか)と思案していると、改めて高橋が私たちを集めて声をかけてきた。

 「持っていくことが可能な人間はここにいる三人だけ。さて、幸運の持ち主はだれでしょう!ここはじゃんけんに勝った人が行くってことにしよう!」

 との提案にふざけているのかと思ったら、高橋はどうやら大まじめのようだ。この後の予定は夕食もかねてミーティングをすることになっていたので、三人とも忘れ物を届けに行くことは可能なはずだったが、町田さんは渋っていた。きっと自分の意見が通らなかったのが気に入らなかったのだろう。

 そんな様子にも高橋は気にする素振りを見せず

 「さぁ!じゃーんけーん・・・ぽん!」

 じゃんけんに勝ったのはなんと高橋だった。

 「ハレルヤー!」と雄たけびを上げて偽りなく喜んでいる。その後もあからさまに不貞腐れた態度を見せる町田さんを見て、いよいよ腹に据えかねたのだろう。独り言のように呟いて私たちに聞かせた。

 「上田さんは今困っているかもしれない。いや、困っているに違いない。だとして、助けることができるのはここにいる三人だけ。上田さんを安心させてあげられる方法がわかっていてそれをしないという選択は僕にはありません。明後日あさって?明後日では遅いんです。明日だって会えるかどうかもわからない、だからいつだって今なんです。電話で済ますこともできますが、ご自宅での様子も気になりますし、今回はうかがうのが一番いいと思いました。みなさんとは少し考え方にずれがあるようですね。今日のミーティングは延期ということでお願いします。では」

 施設に施錠して早く帰るように指示したときの、クワッと瞳孔が開ききった高橋の目は今でも忘れられない。


 (やばい!これ絶対やばいやつ!)


 「高橋さーん!あのーっ!私も行きます!町田さんあとカギお願いしますね!」

そう言い残してすぐに施設を出て、エンジンがかかったばかりの車の助手席に飛び込んだ。

 「私も行っていいですか?」

 「事後承諾か。同行を強要したようで気が引けるけど」

 「いえ!私の意思です。お気になさらず。ところでさっきの『ハレルヤー!』って何ですか?」

 「“神を讃えよ”っていう意味。」


 (大魔王が神を讃えてるってウケる。でも、落とし物を届けるんだったら“森のくまさん”のほうがおもしろかったのにな。神様センス無し)


 「その・・・高橋さんは行くの面倒だとか思わないんですか?」

 「全然。むしろありがたいくらいやわ。あまり遅くなると上田さんにも迷惑やし。車出すで」


 時計は午後7時を少し回ったところで、あたりはすっかり暗くなっていた。上田さんの家はハレル屋から車で10分程度なのだが、特に会話のない車中での時間はそれ以上に長く感じた。

 上田さんは家にいて、玄関まで出てきてくれた。私たちの顔を見ても「こんな時間にどうした?」と言うだけで、いつもと変わった様子はない。


 (プレゼントを忘れて帰ったことすら忘れているんじゃ?)


 「そやけど、ここ最近でお客さんが来るなんてめったとないことや。まぁせっかく来たんや、お茶でも飲んでいって。座ってもらうところも・・・もうないんやが、まぁ気にせず上がって上がって」

 と上田さんは続けた。

 通されたところは洋室と和室が二間続きになっていて、現在も和室は仏間として使用されていたが、洋室は上田さんが寝起きする居室となっている。おそらく以前はあったであろう応接セットのソファーなどは転倒転落防止の助言から片づけられ、その代わりに介護用ベッドがテレビの見やすさと生活導線を最優先に考えられた配置で据え付けられている。

 きれい好きな上田さんにしては足元のあちらこちらに小物が転がっていて、デイサービスで使っている連絡帳や、今日の入浴サービス時に着替えた洗濯物、整容道具の入った小物入れなどはカバンから引っ張り出されて、ベッドの上に散らかされていた。


 (ここまで何もおっしゃらなかったけど、やっぱり今日のプレゼント探しておられたんだな・・・)


 ベッドの上のそれらを少しわきに寄せてまずは上田さんにベッドに腰掛けてもらい、向かいあう形で私たちも並んで床に腰を下ろした。

 「お探し物をされていたようですが、上田さんの探しているものってこれですか?」

 と、高橋は自分のカバンからプレゼントの包みを取り出した。

 「おー!どこにあった?」

 「あのね、デイに忘れ・・・」

 そう言いかけた私の膝をポンっとたたいた高橋は(あとは任せて)とばかりに話を進めた。

 「上田さん、すみませんでした。帰りにうちのスタッフがおカバンに入れるのを忘れたようで」


 (ん?入れ忘れた?だれが?私?)


 これが高橋が咄嗟についた嘘だと気づくのに少し時間がかかった。

 「そうか、そうか。かまへんかまへん。いやな、帰って来てお母ちゃんと息子に『もろたぞ』って報告しようと思たら、あらへんのや。カバンをひっくり返しても。  

外に落としたのかと探しに行こうにも最近は日がはよ暮れるやろ。暗ろなるし、どうしようかと思っとったんやわ。

 電話?そんなもんできるかいな。プレゼントもろた相手に『忘れてませんでしたか?』なんてそんな間抜けなこと誰が聞けるねん!いや、ほんまにありがとう、ありがとう・・・。さてと」

 掛け声をかけて立ち上がった上田さんを見ると、ハレル屋では恥ずかしがって頭にちょこんと乗せただけのハンチング帽が深々とかぶられている。

 「報告せな。悪いけどちょっと仏壇の前まで連れて行ってくれるか。そこはつかまるもんがないし、一人ではなかなか行かれんのやわ」

 上田さんは高橋に抱えられるようにして連れていってもらった仏壇の前で足を投げ出すようにして床に座ると

 「どうや?似合うか?でもいくら似合っててもなぁ、もったいのうて、わしゃ、よう冠らんわ」

 と並んだ位牌を見つめて話しかけていた。


 その後、せっかくだからと三人で散らかっていた部屋を片付けた。上田さんは「それはここがええな」とか「洗濯機に放り込んどいて」と指示監督役。私たちが掃除の合間に調度品や写真の扱いについてたずねると、それらにまつわる奥さん、息子さんとの思い出を大切な宝物を扱うかのように丁寧に、そして懐かしそうに話してくれた。

 初めて聞く話もたくさんあって、高橋も私も驚いたり感心したりと心も体も忙しい時間となった。


 すっかり片付いたころ「そしたらそろそろ帰らしてもらいますわ」と切り出す高橋に、“もう?”と上田さんが小さく呟やいたような気がした。

 「いやいや。そやな、掃除までしてもろてありがとうな。わざわざ持って来てもろて、多恵ちゃんもえらい迷惑やったやろ、わしが忘れたのに。ごめんやったで」

 「いえいえ!わたしなんて・・・」

 そこまで言って、高橋の『そりゃ大変!すぐに持って行ってあげて』との提案がなければ動けなかったうしろめたさと、上田さんが自分で忘れたことに気付いていたのに驚いて、続く言葉が出なかった。

 「見送りは結構ですよ」というのに上田さんはわざわざ門の外まで出てきてくれた。家の前の路地を抜けるまで、ブレーキランプが踏まれるたび上田さんの手を振る姿が赤くサイドミラーに映しだされた。高橋もバックミラーで確認していたのだろう。突き当りに差し掛かるとハザードランプを三回焚いてからウインカーに切り替え、通りに誰もいないことを確認したあと、いつも以上にゆっくりとハンドルを切った。

 

 この日から数日後、上田さんがハレル屋に来所してすぐに体調不良を訴えてきた。次第に意識レベルが下がり一時は受け答えもままならない状態だった。しばらく様子を見守っていると徐々に回復して私たちから見れば大丈夫そうにも見えたが、既往歴(これまでにかかった病気などの記録)、現病歴(現在抱えている病気や症状についての記録)などを総合的に判断して高橋とアキちゃん先輩がやはり救急搬送を依頼することを決めた。

 私も含めてスタッフもその他のご利用者さんも救急車で運ばれていった上田さんのことが気になって仕方がないのだが、その事を口にするものは誰一人としていない。この“意識しないように意識することのぎこちなさ”は、いつもと変わらない会話にも時折妙な間を挟ませた。


 午後2時をまわって「おいっす!」というかけ声が玄関から聞こえ、向かうとそこには上田さんが立っていた。

 「なんでハレル屋にいるんですか?確か病院に・・・」

 上田さんは、いつもどおりのやんちゃな笑顔を見せながら

 「おう!点滴打ったら良うなった。そんなことはええから、腹減ったし、なんか食わしてぇな」

 「っていうか、ご自宅に帰らなくていいんですか?」

 「わしの家はここやから。タクシーの運ちゃんにハレル屋っていうデイサービスに行ってくれって言うたら『知らん』とかぬかしやがって。ほんま、ここまで案内するのに苦労したで」 

 このやりとりはフロアーの奥で作業をしていた高橋にも聞こえたのであろう。すぐに玄関にやってきて

 「おかえり。ちょっと待てる?。いまからご飯炊くし。おかずは・・・」

 「かまへんかまへん。なんでも結構!」

 「じゃあ、テーブルまで多恵ちゃん、よろしく」


 (ちょいちょいちょい・・・。こういう場合ってご自宅にお帰りいただかなければいけなかったんじゃ?まぁ、あなたがいいって言うなら私は特になにも申しませんが・・・)


 フロアーにいたご利用者さんたちも上田さんに気付いて、めいめいに「おかえり~」「帰ってきたんやな」「思ったより元気そうやん」などと声をかける。その一つ一つに「おう」「おう」と左手を上げたり、杖を上げたりして応えていた。

 ご飯が炊きあがるまでの間、アキ姉さんが病院でのこと、帰宅後の注意点や医師から指示されたことなどの聞き取りを入念にしていた。

 今日のお昼用に用意した豚汁、炊きたてのご飯、それとほうれん草のお浸し。たったそれだけだったが上田さんは

 「美味い!ここで食う飯は、なんでこんなに美味いんやろう。ここでずっとみんなと飯が食えたらええのに・・・」

 と何度も何度も繰り返し言うのだった。


 高橋が頃合いを見計らってやってきた。

 「お済みですか?ちゃんとお召し上がりですね。

 安心しました。ではそろそろ・・・。町田さん!準備はできてる?上田さんのお送りお願い」

 先日の名誉挽回とばかりに町田さんが「よっしゃ!“くまさん”にまかしとき!」   

と張り切って近づいてくる。

 私は上田さんを乗せた送迎車がハレル屋を離れるのを高橋と一緒に見送りながら

 「上田さんにとってハレル屋が家なんですって。なんか嬉しかったです」

 と声をかけたのだが

 「でも、ここはデイサービスでしかないんよね。ハレル屋は家にも、ましてや終の棲家にもなれへんのやわ・・・」

 と言い残してフロアーへと戻っていく後ろ姿は寂しそうだった。


 (なんで?ここ素直に喜んでいいとこなんじゃないの?まぁいつもの天邪鬼がでてるんだろう)


くらいにしか思わず、特に気に留める事もなかった。でもこの時、高橋らがした緊急搬送の判断が、上田さんのこれまでの生活を一変させるということに気づいていたとしたら、高橋の様子も腑に落ちる。

 独居の方が救急搬送された事実は、在宅生活継続の可否判断に重大な影響を及ぼす。デイサービスは在宅を前提としたサービスなので、施設入所となるとデイサービスは利用できなくなる。 


 上田さんの施設入所が決まったのはそれから二か月後のことだった。そしてもうひと月が過ぎ、迎えた上田さんの最終のご利用日。私は帰りのお送りに同乗することになった。入所が決まってからも上田さんが施設入所の事については一切口にしないので、私たちスタッフも務めていつも通りの毎日を心掛けてこれまでやってきた。今日の今日に至っても上田さんは、他のご利用者さんへの帰りの挨拶も「じゃあ!」といつもどおりだった。

 「上田さん、ご自宅に着きましたよ。玄関までお送りします」

 降車後は、右手に持った杖で自分の体を支える上田さんを左側から腕で抱えるようにして寄り添い、空いた左手で荷物を持って玄関前まで。玄関前では上田さんが用意してくれるカギで扉を開き玄関の中へ。上がりかまちに高さがあるので備え付けの手すりを案内し、その手すりを支えに靴を脱いでもらい、上がると居室まで続く廊下の手すりにつかまってもらって・・・。

 ここまで全くいつも通りだったのだが、上田さんに最後にかける言葉はいつも通りとはいかない。戸惑う私の様子に気づいた上田さんから先に声がかかった。

 「今までほんまにありがとう。最後の最後まで良うしてもらって。ほんまにありがとう。何て言うてええかわからんかったから、職員さんにもみんなにも挨拶できんまま、今日も帰って来てしもたけど、多恵ちゃんからよろしゅう言うといてや。

 ケアマネジャーに聞いたけど、わしはもう、ハレル屋にはいかれへんのやてな・・・。 この家もしばらくしたら処分されることになってしもてるらしいし。あーぁ、みんな、わしがハレル屋にいたこと、この家に住んでたこともぜーんぶ忘れてしまうんやろうなあ・・・」

 そこまで話すと“もう笑顔も限界”と今度は顔をクシャクシャにした。ぼろぼろと頬をつたう大粒の涙、それをぬぐうはずの上田さんの両手は私の両手としっかり結ばれていた。

 「もう一回、ハレル屋に行かれへんやろか、もう一回だけでも・・・」

 夕べあれだけ泣いたのに下の瞼に熱く涙が滲んで上田さんの顔がぼやける。思いつく言葉が見当たらず声も出ない。

 「つまらんことを最後に言うてしもうたなぁ、多恵ちゃんごめんやで」

 私は首を横に何度も降るのが精いっぱいだった。

 「毎日高橋さんがわしらのために昼ご飯作ってくれてるやろ。あれな、今日はわしのためにやったと思うねん。だまって出しよったけど“ブリの照り焼き”。あれ、わしの好物でな。ハレル屋に初めて寄せてもろた日もあれやってん。ちゃんと覚えてくれとったんがうれしかったぁ。高橋さんにもこれまでの礼も何にも言わんと帰って来てしもた・・・。あんたからも謝っといてな、頼んだで!」

 首を何度も縦に振る私の肩に手をあて

 「さぁ、車の中のみんなが心配しよるから、もう行き。多恵ちゃん、今日もありがとう。あんたには元気をいっぱいもろた。これからもみんなにその元気、いっぱいいっぱい分けたってな。ほんで、またどこかで逢えたら声かけてな。わしは大丈夫やから。さぁ、はよ行き」

 上田さんは私の肩にあてた手に力を入れ、クルっと私に背を向けさせると「ぽん」と背中を押した。その勢いで玄関の外に足が出る。もう振り返れなかった。振り返ったら声を出して泣いてしまいそうで、もっと上田さんとお話したくなって、帰れなくなりそうで。頬をつたう涙を顔を洗うように拭って走って車へと戻った。

 上田さんが最後にかけてくれた『あんたには元気をいっぱいもろた。これからもみんなにその元気、いっぱいいっぱい分けたってな』という言葉は、この介護の世界に飛び込んだ際の“先輩に勧められたのだからとりあえすがんばってみよう”などというあやふやで消極的な動機を“今の私にできることはこれしかない、そして私の居場所はここしかない”という前向きな決意に変えさせた。



【西尾ヤスノさん(叶芽ちゃん先輩のおばあちゃん)】


 後輩の面倒見がいい叶芽ちゃん先輩のことだ、そろそろ電話がかかってくる頃だと思っていたらやっぱり


 『もしもーし、最近どうよ。仕事慣れてきた?』

 「はいはいこちらは順調です。最近なんて“私の居場所はここしかない”って感じてます。まあ、あいかわらず大魔王には振り回されてますけど」

 『調子いいなぁ。ところで大魔王ってだれよ』

 「わかるでしょ!」

 『あー、高橋さんか。多恵ちゃんがつけたの?そのあだ名』

 「私が勤務した時にはスタッフ間ではもう呼ばれてましたよ。不思議大魔王って」

 『あははは!それ面白そうな話、聞かせてよ。ご飯おごったげるし』

 「ご飯はおごってもらいますけど、私も守秘義務ってやつがありますから仕事の内容までについては、詳しくお話しできませんよ」

 『おおー。言うようになったね。早速今夜どうよ。お母さん仕事で帰り遅いんやわ』

 「お供しましょう。で、どこ行きます?焼肉とか?」

 『うーん、考えとく。とりあえず、夕方にそっちの近くまで迎えに行くわ』

 「そしたら仕事終わるの5時半過ぎなので、6時頃・・・」

 『うーん。余裕見て7時でお願い。遅れるかもだけどなるべく早く行くし。近くに着いたら連絡するから、じゃあね』

 

 そのままスタッフルームで叶芽ちゃん先輩の電話を待ったが、約束の時間を過ぎてもかかってこなかった。

 「あれ?多恵ちゃん帰ってなかったの?」

 「ちょっと叶芽ちゃん先輩と約束してて、待ってるんですけどまだ・・・」

 「そっか、じゃあ私、子どものお迎えもあるし。お先でーす。」

 「お疲れさまでしたぁ」


 高橋を除く先輩スタッフ全員を見送ることになってしまった午後8時。スタッフルームの時計がチャイムを鳴らしたのと同時に


 (あ!やっとかかって来た!)


 『ごめんごめん遅れたぁ。夜勤のスタッフさんへの引継ぎが長引いちゃってさ』

 「もう!一時間も遅刻ですよ。今日行く焼肉って『食べ放題の藤十郎』でしょ。あそこ人気があって、予約とか大丈夫だったんですか?」

 『今日はとりあえずラーメンにしよう。で、もう出れる?』

 「出れますけど、またラーメンですか・・・で、行くのって大天竜でしょ。先輩も好きですね・・・」

 『おいしいし、いいじゃん。今日は麺大盛りにしていいからさ。通りに出たとこのリサイクルショップの前で待ってるから。よろしく~』


 リサイクルショップののところで真っ赤なスポーツカーがハザードを焚いている。叶芽ちゃん先輩のだ。助手席側の窓から中を覗くと、手を合わせて“ごめんごめん”と謝る叶芽ちゃん先輩がいた。すぐに乗り込み、私のペコペコのお腹にも詫びてもらった。

 「聞いたんですけど、叶芽ちゃん先輩のおばあちゃん、ハレル屋に来てたんですか?」

 「あれ?言ってなかったっけ?うちのおばあちゃん元気だったんだけど、家のリビングでこけた拍子に大腿骨骨折して手術、入院は回復期病院でのリハビリも含めると6か月くらいだったかな。元気になって帰って来てくれたけど、ほら、うち母子家庭やん。お母さんも仕事行かなくちゃだし、その時私も高校生やろ。で、日中独りで置いとくのは心配だったからデイサービスを勧めたんだけど、何せおばあちゃんが頑固でさ、そんな所にはいかないの一点張り。そしたら案の定・・・」

 退院しておよそひと月後、家族の心配が的中し再転倒につながった。この時は幸い軽い打撲程度で済んだものの、やはり独りで過ごす日中が心配だという家族の粘り強い説得が、ヤスノさんの口に「体験だけなら行く」と言わしめたのだった。本人の気持ちが変わらないうちにと、ケアマネージャーが用意した資料にハレル屋のパンフレットがあって、高橋とは体験の説明に来た時に初めて会ったのだという。

 「お母さんにはあらかじめ説明に来る日を伝えてあったらしいんやけど、特に本人には伝えなくていいって話やったみたい。私にも知らされてなかったし。学校から帰ったら、駐車場のところでおばあちゃんと高橋さんが仲良く話しててさ。おばあちゃんったら、『この人のやってるデイサービスに行くわ。体験?体験なんて面倒やしええわ、明日からでもデイサービス行く』って。一体何があったのか、おばあちゃんに尋ねても『所長さんがええ人やったから』ってだけ。利用が始まっても、ぐずったりせず毎回喜んで行く日の用意をしてるんよ。変われば変わるもんやなぁって。でも、そんなおばあちゃんの様子を見てると嬉しくて、デイサービスでどんなことしてるのか気になって連絡帳を見せてもらうようになったのよ。そしたらおばあちゃんが楽しみにしてる理由が何となくわかってん。ん?その連絡帳?もうないよ。おばあちゃんのひつぎに一緒に入れてあげたから。時間があれば何度も何度も読み返してたし。でもまた読んでるんとちゃうかな。さぁ着いたよ。今日は餃子もたのもっか!」


(ここでも大魔王降臨って感じやな。でも、いったいどんな話をしたんやろう。連絡帳って、高橋が書いてることが多いよな。内容まであんまり気にしたことなかったけど・・・)


 それ以降は高橋の名前は話題に上がらず、叶芽ちゃん先輩の勤める入所施設、特に夜勤の苦労話の聞き役となった。入居者さんの体調急変時の対応、予期しない事故やトラブルの危険性、日勤に比べてどうしてもスタッフの人数が少なくなること、日勤・準夜勤・夜勤の三交代制で体調管理が大変など、注文していた醤油ラーメンがテーブルに運ばれてこなければ、他にも色々出てきそうな勢いで叶芽ちゃん先輩が話してくれた。苦労話もためになったが、デイサービスに努める私とは似ているようで全く異なる入居者さんへの関わりも勉強になった。


 「でも、大変ですね。・・・最後の餃子いただきますね」

 「あっ!もう!・・・まあ大変っちゃ大変だけど、不安や緊張感があるから気持ちも引き締まるっていうか、大変だからこそやりがいもあるっていうか・・・。デザートにプリン食べる?半分こしよ」

 「とかいいながら全部食べるつもりでしょ。知りませんよ、最近太ったんじゃないですか?」

 「明後日も夜勤あるから体力つけとかなくちゃ!これも仕事のためです!」

 「これじゃ彼氏もできないわけだ」

 「お互いにね」


 翌日、ご利用者さんの帰りの支度をしながら連絡帳を読んでみた。今日もコメント欄の端に“たかはし”のサインが書かれてある。皆の連絡帳に一通り目を通したのだが、誰一人として同じ内容のものは無い。お一人おひとりに寄り添ったコメントと言うのか、その日にあったご利用者さんとのエピソードが必ず添えられていた。


 (そりゃ、みんな帰っても楽しみに読んでいる理由わけだ)


 「高橋さん、連絡帳なんですけど」

 「そのほうがいいでしょ」


 (まただ。質問内容先読みして適当に答えてくる)


 「そのほかに気を付けてることとかありますか?」

 「そやね。悪いことは書かない」

 「悪いことって?」

 「便失禁や尿失禁があったとか。そんなのが書かれてる連絡帳、多恵ちゃんだったら読みたい?」

 「破って捨てたいです」

 「そういうこと」


 高橋は「連絡帳はご利用者さんとの交換日記なんだ」と付け加えた。「交換日記なのだから連絡帳にそれ以上の役割を持たせないようにしている」とも。その通りだ。家族にどうしても伝えなければならないことがあるのなら、電話だって、メールだってある。直接面談して伝えたっていい。だから連絡帳は、連絡帳以上でも連絡帳以下でもあってはならない。高橋はそう思ってお一人おひとりとの連絡帳と言う名の交換日記を今日も書いたのだろう。

 「そうそう。安部さんの体温記録、連絡帳に記入できてなかったよ」

 「私が担当でした。すみません」


 (こういうところは、さりげなく抜け目ない)



【面接】

 

 「今日の夜、新しいスタッフさんの面接があるんやけど」

 

 「私、今日は用事がありまして」と町田さん。

 「帰って晩御飯の支度が」とれいちゃん先輩。

 「今日は主人が早く帰ってきますので」と杉本母さん。

 「子どもをお風呂に入れる当番なんです」とアキちゃん先輩。


 呼びかけに、同席できない理由を早々に並べられた高橋の視線は、私に向けられた。

 「いやいやいやいや・・・そんな!私は用事ないですけど、面接なんて無理ですからね。私では絶対務まりませんから」

 「ほな、多恵ちゃん頼むね」


 (ハァ~?ミスタータカハシ!アナタ、ニホンゴワカリマスカ?)


 「何もできませんよ。お茶、用意するくらいで良ければ・・・」

 「じゃあよろしく~」

 と口々に言ったのは面接に同席できない理由を並べた先輩たちだった。


 この業界は慢性的な人手不足。求人を出してもなかなか応募がないらしい。よく言われる「キツイ」とか「キタナイ」というイメージが敬遠されてしまう大きな要因のようだ。でも、私自身そんな風に感じたことは一度もない。一体だれが言い出したことなのだろうと不思議に思っている。

 面接は午後7時から。どうやらデイサービスで勤務した経験のある方で、介護福祉士の資格もお持ちらしい。

 面接に立ち会うことになったが、自分の時の杉本母さんみたいな役割を任せられるとしたら・・・と心配になり、いやがうえにも緊張が高まる。大魔王のことだ。突然に『多恵さんがデイサービスで働くのに一番大切にしていることは?』とか『先輩スタッフとして一言どうぞ』と意地悪く面接に引きずり込んだりする可能性も十分にある。

 そうを考えると、居ても立っても居られずスタッフルームの本棚へと急いだ。そして並べられている業界誌を片っ端から手に取り、何か気の利いた言い回しはないものかと言葉を探し始めた。

 

 「こんばんは~。本日面接に伺いました鈴木と申します」


 (来た!来た来た来た来た!女性だ。どんな人だろう・・・。声から想像するに三十五、六歳くらいかな。経験があるって言ってもここじゃ私の方が先輩なんだし、最初からビシッといっとかないとだめだよな。できるかな私。どうしよう私・・・。『こちらは、うちのスタッフで大村多恵さん。わからないことがあったら多恵さんに相談するといいよ』なんて紹介されちゃったりして。

 で、私は答えちゃう。『何でも相談してくださいね。お力になりますから』って。いや、待てよ。正直そんなに頼られても困る、ダメダメダメダメ。

 それなら、『応援します』ってのは・・・。あー、これはイマイチ。最初から上から目線で生意気って思われるかもしれない・・・)


 「多恵ちゃん、多恵ちゃんってば」

 振り向くとスタッフルームの入口に高橋が立っていた。


 「あっ!いらっしゃいませ」

 「ここは喫茶店か何かか?冗談言ってないでさ、早く玄関へ行って!お待ちかねですよ。それからデイルームまでご案内して」

 「はい、よろこんで」

 「ここは居酒屋だったか・・・。もうどっちでもええわ。とりあえず急いで」

 「はい。ただいま」


 玄関には声のぬしが立っていた。彼女は仕事帰りなのだろう。ジャージに綿パン、スニーカーというおよそ面接とは程遠い服装で、おまけにジャージの胸には現在勤めているデイサービスの名前とロゴが刺繍されていた。


 「鈴木と申します。夜分にお時間を頂戴し申し訳ありません。今日は仕事だったのでこのような格好ですみません」

 「いえいえ、どうぞお気になされず。さぁ、おあがりください。所長の高橋は只今参ります。デイフロアーまでご案内いたします。どうぞ」


 前髪を斜めに流し、後ろ髪はひとつに結ばれ、耳周りのおくれ毛にも乱れはない。はきはきとした口調、にこやかな口元、控えめな化粧といったそのいずれもが、今日の服装とマッチしている。私は彼女とはもちろん初対面なのだが、たとえ事前情報が無くても一目で職業を言い当てる自信があるほどに介護スタッフさんらしい介護スタッフさんだった。


 「本日はよろしくお願いします。鈴木と申します」

 「所長の高橋です。固くならずにどうぞリラックスしてください。ハレル屋ですが・・・」

 「はい。わたくし、現在の勤務先では生活相談員をしております。隣の地域ではありますが、友人のヘルパーからこちらの取り組みを聞き、ぜひ勤務させていただきたいと思い伺いました」

 「そうですか。それは、ありがとうございます」

 「活動にも活気があり、ご利用者様も活き活きとされておられると聞きました。何よりテレビがなく、レクリエーションが活発というところが素晴らしいと思いました。私の勤務するデイでは、テレビがずっとつけっぱなしでぼんやりそれを見ているご利用者様が多くて・・・。レクも毎日塗り絵が中心だったり・・・。他のスタッフもそういう雰囲気に慣れてしまっていて。正直、これでいいのかと悩んでいます」

 

 (そういえば、ハレル屋にはテレビが無いなぁ。でも、デイサービスってテレビがあるのが普通だったの?知らなかった・・・)


 鈴木さんの志望動機を黙って聞いていた高橋がゆっくりと落ち着いた口調で話し始める。

 「ちなみに、テレビがうちにないのは、ご利用者様が必要ないって仰られたからで、必要だという声があればいつでも置きますよ」

 「えっ?」

 「塗り絵もいいレクだと思いますよ。ご利用者様がやりたいと仰られないので、うちはしてませんが」

 「・・・」


 高橋は返答の言葉を失う鈴木さんにかまう様子もなく続ける。

 「いろんな形のデイサービスがあっていいと僕は思っています。ただ、ご利用者様が何をされたいかという意見がちゃんと反映された取り組みであればという前提付きですが。職員がやりたいことをするのがデイサービスではなく、ご利用者様がやりたいことをお手伝いするのがデイサービスだと思っています」

 「そ、そうですね」

 「そちらのご利用者様方はどうですか?どんなことをデイサービスに期待されていますか?体を動かしたいというご意見が多ければ体操に力を入れてみてはどうでしょう。認知症予防のために脳トレをという意見があれば是非やってみてはどうでしょう。いずれにせよ、一度スタッフの皆さんといろんな意見交換をして取り組みの見直しをしてみるというのは」


 (えっ?お悩み相談?面接・・・だったはずだよね)

 

 「採用いただくのは難しいということですか?」

 「いえいえ、そういうことではありません。本日も面接に来ていただいて本当にうれしく思っています。でもお話をうかがっていて、結論を出すのは今回ではないような気がするのです。今の勤め先の現状に『悩んでいる』とおっしゃってましたし、生活相談員として勤務されているあなただからこそ、現在お勤めの事業所でやるべきことがまだ残っているのではないかと思いましたので。差し出がましく・・・申し訳ありません」

 「わかりました。考えてみます。それでは・・・失礼します」


 (あらら高橋さん、相手さんちょっと怒ってない?帰っちゃうよ。大丈夫?ってか、私の紹介は?一応考えてたのに・・・。あーあ行っちゃった)


 「高橋さん!いいんですか?感じの良さそうな介護スタッフさんだったと思うんですがね」

 「そうやね。自分の意見や、やりたいことを明確に持ってるステキな方やったと思う」

 「ならなんで?あれじゃ、お断りしているようにしか・・・」

 「そう感じた?・・・そんなつもりでもなかったんやけどなぁ」


 (はぁ~?じゃあ、どんなつもりやったんよ)


 「面接のつもり。でもまぁ会ってすっきりしたんじゃないかな、お互いに。直接話をしないとわからないこともあるしさ」


 (でた!でた!大魔王降臨のお時間ですね)


 「今日の面接に来られた鈴木さんは、“こういうデイサービスはダメ”とか“デイサービスはこうあるべき”って気持ちが強すぎるような気がするねん」

 「介護に対するしっかりとした意見をお持ちのようでしたね」

 「そやけど介護ってさ、ご利用になるみなさんそれぞれごとに期待するところがちがうのよ。静かな落ち着いた雰囲気を求められる方にとってはハレル屋はうるさすぎるかもしれへんし、ゆっくり過ごしたいと思っている方にとっては忙しすぎるかも。鈴木さんには、まず介護に対する先入観?固定観念?を一回取り払って、今勤めている事業所でご利用者さんに向き合ってみたらどうかなって、思ったりしたわけよ」

 「私の面接のときにはそんな話なかったですよ」

 「あー。多恵ちゃんはそこは大丈夫だと思ったさ。履歴書を見る限り、介護のこともデイサービスのことも全然知らなさそうだったし」

 「それじゃ、なんか私、ただのバカみたいじゃないですか!」

 「ちがうちがう。伸びしろなかったから採用したんやで」


 (私ってば褒められてる?)


 「万人から一〇〇点満点をもらえるデイサービスって無理やと思うねん。ハレル屋のご利用者さんからだけでいい、一〇〇点満点をもらえるハレル屋を目指してきた結果が『テレビがない』『レクが活発』『手作りのお昼ご飯』っていうことやってん。ハレル屋が今こんな感じになってるのは、ご利用者さんの意見を取り入れながらやってきたからやねん」


 性別、年齢、性格、生活環境、身体機能、既往歴や現病歴・・・。誰一人として同じ方はいない。だからたとえ一日10人の定員と言っても利用者さんのニーズに応えていくのは簡単ではない。


 「ということは?」

 「そう!いいところは残して新しいものをどんどん取り入れる。進化していくハレル屋であり続けたいとも思ってる」

 「なるほど・・・」

 「ご利用者さんの意見から、ハレル屋で新しくできそうなこととかない?」

 「じゃあ、食後のコーヒーですけど、インスタントじゃなくドリップコーヒー出してみませんか?今田さん!覚えてらっしゃいます?コーヒーが大好きだったでしょ。だからってだけではないですけど、他にもお好きな方がいらっしゃるかも。どうでしょ。『本格的なコーヒーをハレル屋で』って企画でアンケートとってみたら」

 「アンケートをとるってところがいいね。じゃあそれやってみよう」


 (えっ?そんな簡単に?)


 「いいものはいいに決まってるはず。それから実施するときにいろいろ買い揃える物もあるやろうし、どれくらい費用が掛かるかだけは先に調べて教えてや」


 (私が?)


 「言い出しっぺが率先して動かないと他のスタッフはついてこないからね。後はよろしく」


 と言って所長室に戻る高橋の背中を見送った。正直少し面倒だと感じたが、私のような新人スタッフの意見も聞き届けてくれる高橋をいい上司だとも思った。


 (これからは心の中でもちゃんと『所長』と呼ぶようにしよう)


 などと思っていたら高橋が振り返って

 「いいと思ったらすぐに行動できるのも多恵ちゃんのいいところやねんけどなぁ」


 (それってすぐに調べろってことなん?やっぱり『所長』って呼ぶのは延期!高橋に私のことを『所長』と呼ばせて、こき使ってやる!)


 「楽しみやね」


 (何が?ドリップコーヒーの件?それとも私にこき使われるのが?)



【佐藤 隆さん】


 「高橋さーん!先ほどえんケアプランセンターの清水さんから電話ありました。ご新規さんの相談ですって。こちらから電話することになっているのでよろしくお願いしますねー」

 「はーいー」

 「清水さんの携帯電話の番号、机にメモを残してありますので必ずお願いしますよ~」と付け加えた。

 所長室の扉の向こうから高橋のぬるい返事が返ってきたときは要注意である。聞いているんだか聞いていないんだか。この間も別件でのことだが、ちゃんと報告したはずなのに「僕、聞いたっけ?」とか「そうだった?」となることが多い。


 「もしもし、お世話になります。高橋です。お電話いただいたそうで・・・」


 (よしよし。ちゃんと電話してくれてる。やればできるじゃん!っていうか、まぁ当たり前か。アキ姉さんの言った通り、やっぱりメモを机に張り付けるっていうのが確かな方法やな)


 「はい。今近くにいますのでFAX受け取れます。

 お名前、住所、電話番号は控えさせていただきますので、

 はい、基本情報は墨消しで。

 お名前が・・・。はい、ご住所が・・・。

 はい、ご連絡先が・・・はい。

 では届き次第拝見します。連絡はまた明日にでも・・・。

 お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。失礼します・・・」


 しばらくして届いたFAXに高橋は目を通し終え

 「アキちゃーん。アキちゃんいますかー?」

 「はーい。いますよー。およびですかー」

 「あー、アキちゃん。これ新規体験の方の基本情報。アキちゃんも目を通して、気づいたことや気になることがあったら教えて。よろしく」

 「承知しました」


 アキ姉さんは看護スタッフさんと言うだけではなく、高橋の秘書的な業務も請け負っている。眼鏡の真ん中のブリッジを右手の中指で上げるしぐさが何とも格好良くて、真似するために私もコンタクトレンズから眼鏡に変えようかと思っている。仕事は文句なしに“できる”の一言に尽きるというのが周りからの評価だが、かと言って“仕事一辺倒”というわけではなく、私のような新人スタッフにも親身に相談に乗ってくれるところが素敵すぎる。

 入社した時にお祝いだと言って私の名前入りのボールペンをプレゼントしてくれた。その時はうれしくて居合わせたスタッフさんたちがドン引きするほどしまった。それほどの私の宝物を高橋が無断で使っていた時は、すっかり動転して、相手が所長であるのも忘れて思わず「こらー!勝手になにしとんねん!」と大声を上げ、周囲を驚かせたことがある。

 お子さんがまだ小さいので時々急遽のお休みもあるが、アキ姉さんがハレル屋にいるのといないのでは大違い。それぞれの仕事量が二倍増くらいに感じる。

 高橋にとっては魔法の杖、スタッフさんたちにとってはHPヒットポイントを回復してくれる僧侶、私にとっては憧れの賢者がアキ姉さんなのである。

 

 「後で私も見せてもらっていいですか?」

 高橋から受け取った基本情報に目を通すアキ姉さんにたずねると即答で 

 「高橋さんに聞いてごらん」

 と帰って来た。


 (げっ!)


 「高橋さん、私もいいですか?」

 「・・・。アキちゃんに基本情報の見方を教えてもらういい機会かもね。くれぐれもアキちゃんの邪魔にならないように」


 (邪魔って!子ども扱いかよ!)


 「高橋さん!何言ってるんですか!多恵ちゃんは書庫の責任者なんですよ!。さぁ、多恵ちゃん行こ」    

 「はーい。アキ姉さんよろしくおねがいしまーす!高橋さんさようなら!」

 「ほら、行くわよ」


 相田和江(アイダカズエ)さんの一件以来、時間があればご利用者さんの基本情報に目を通すことが日課となっている。看護スタッフのアキ姉さんと一緒に確認できるのは、またとないチャンスとなり、いろいろたずねることができた。アキ姉さんが主にみるのは既往歴、現病歴などらしい。


 「それからお薬の情報はちゃんと確認しておかないとね。薬についてはインターネットでも確認できるし、実は私はそっち派。本もあるんだけど今はあんまり使ってなくて。そうだ、よかったら見てみる?明日にでも持ってきてあげるけど」


 (もしかして『悟りの書』的な?) 


 「さすがアキ姉さん!ありがとうございます!ぜひぜひ!」

 「っていうか、その本は借りものなんだけど・・・」

 「だれのですか?」

 「高橋さんの」


 (『魔王の書』ってことか)  

 

 基本情報に目を通したアキ姉さんが所長室に報告に行くというので、私もついて行った。

 「高橋さーん、今いいですか?」

 「あー、アキちゃん。どうぞ」

 「先ほど拝見した基本情報ですが、見たところご利用に際して特に大きな問題はないと思います」

 「ありがとう。いつも助かります。そしたら早速明日にでもケアマネージャーの清水さんに連絡して事前面談の日を決めるわ。で、一緒に行く?多恵ちゃん?」

 「えっ!私」

 事前面談に私が行かせてもらっていいのか判断できず返答に迷っていると

 「無理にとは言わへんけど、基本情報も気になってたようだし・・・」

 「い、行きます!面談。」

 「じゃあ、明日には面談日と時間がわかると思うから」


 高橋がそう言った後、「じゃあ私の代わりだね。頑張って来てね」とアキ姉さんに言われ気がついた。


 (アキ姉さんと一緒じゃないってことは、げっ!大魔王と二人きりかよ)


 面談日はすぐにやってきた。先方の都合もあって土曜日の午後。ハレル屋は休館日だったので私の休日も飛んでしまうことになったのだが、アキ姉さんの代役となれたことが嬉しく、気合十分すぎていつも通りの出勤に間に合う電車に乗ってしまった。


 (まぁ、もう一度基本情報に目を通しておくか、時間もあることだし)


 ハレル屋に着くと高橋はもう既にいて庭掃除をしている。

 「あ、多恵ちゃんか。今日は休館日やけど、どうしたん?何か忘れ物?」


 (はぁ~?今日は面談に一緒に行くって言うてたやろがい!)


 「でも、ちょうどいいところに。軒先の雨樋あまどいが詰まってるみたいなんよ。このあいだみたいな雨がまた降っても困るし」

 「あのー、私、今日は事前面談に同行させていただくことになってたかと・・・」

 「そうやったっけ?でも、それって午後からのはずやから」


 (手伝えばいいんでしょ!こんなことなら昼まで寝とけばよかったわ)


 「はいはい、手伝います!」

 「では早速お願いします!」


 雨樋の掃除は思ったよりもすぐに終わって、やれやれなどと思っていたのもつかの間

 「ついでに雨戸も掃除しよか」


 (そんなついでがあってたまるか!)


 「せっかくきれいになったのですから、窓も拭いとこう」


 (なにがせっかくなもんか!あれ?せっかくって漢字でどう書くんだったっけ?)


 「『せっかく』は『折』れるに『つの』って書くんやで。『切』る『角』って書いちゃう人もいるみたいやけど、そもそもの語源を知れば・・・」


 (『折角』の語源なんてどうでもええわ!それよりなんで考えてることがばれるの?解説するならそこしてほしいわ!もう!)

 

 庭の手入れと掃除に付き合わされている間に昼時になっていた。

 「多恵ちゃんはお昼ご飯どうするの?」

 「なんだか疲れちゃって、今は食べる気しません」

 「ふーん。じゃあ僕もええわ」

 「いいですよ、気になされずどうぞ」

 「それよりも面談までに・・・」


 (はぁ~!今度は一体どこを掃除するんですか!)


 「もう一度基本情報をおさらいしとこうか」


 (よかったぁ~掃除じゃないんだ。助かった・・・)


 「そうですね。そうしましょう・・・」


 『佐藤 隆(サトウ タカシ)


 昭和16年 大阪府生まれ、大阪府育ち。奥さんと二人暮らし・・・』


 「御三家か・・・」

 「高橋さん今、『御三家』って言いました?佐藤さんって北野?天王寺?大手前?」

 「そこは尾張・紀伊・水戸とか言えんかな・・・。僕の言ってる御三家は、『佐藤さん』『工藤さん』そして『髙橋さん』をさすんやけど、このあたりでよく聞かれる苗字で、三つとも古くから代々続く家柄なんよ」

 「じゃあ高橋さんも御三家?」

 「いやいや。僕の家は、もともとこのあたりとは所縁ゆかりがないから。先祖も紀州の出。それに御三家のタカハシさんは『髙(はしごだか)』のほう」


 表札だけでは“佐藤さん間違い”もしかねないので早い目に出発することにした。

 「やっぱりこのあたり、二丁目は『佐藤』さんの表札が多いですね。あったあった、『佐藤 隆』って。こちらのようです」

 自然石の門柱、屋根は一文字軒瓦いちもんじのきがわらに銅製の雨樋、弁柄塗りの玄関周り、農機具が収められていたであろう離れ家、小さくも均整の取れた庭には石灯籠・・・。目立って大きくこそないが、落ち着いた日本建築のたたずまいに高橋が言っていた『御三家』感が感じられる。

 時間前だったが、洋装割烹着に腕抜きをした70歳を少しまわったと思われる女性が勝手口からこちらに向かって歩いてきて、私たちの車の誘導をすると手振りをして見せた。


 車から降りて「ありがとうございます。奥さまですか?」と尋ねると、

 「今日はうちの主人がお世話になります。どうぞどうぞよろしくお願いします」

 と、深々と頭を下げられた。

 高橋に続いてあわてて私も頭を下げ、次に頭を上げた瞬間何となく違和感を感じた。原因は離れのガレージにおさまる真っ白なスポーツタイプの新型車のためだった。


 (だれのだろう?奥さんが乗っているようには思えないけど・・・確か二人暮らしだったはず・・・)


 玄関の入口近くまできて、さらに違和感が大きくなる。奥さんが履くには無理があるヒールが高めのブーツと、その横にはご主人のものだろうか、だとすればかなり大柄な体格をイメージさせるサイズのブランド物のスニーカーが並べて陰干しされていた。のっけから私が読んだ“サトウタカシ”さんの基本情報に、たくさんの『?』が浮かんでくる。

 玄関は広く、大きな下駄箱の上には花瓶に花が生けられていたが、それはとうに枯れ、茎は干乾び、落ちた花殻は片づけられずに散らばっていた。

 私の目線に気づいた奥さんが、花殻をつまんでは左手に集めながら部屋へと案内してくれた。

 「すみません、散らかっていて。どうぞ上がってください。さぁどうぞ、どうぞ・・・いやいやどうぞこちらへ」

 玄関を上がってすぐ左の和室に上がらせてもらい、案内されるままに座敷の上座についた。座敷机には手作りだとすぐわかるレースの敷物、茶箪笥ちゃだんすの上には干支のあみぐるみが順序良く並べられ、これらを作られたのが奥さんだとしたら、かなり熱心に取り組まれていたことが想像できる。

 開け放たれた縁に目をやると、そこから望む庭はまぶしく、さらさらと入ってくる風がなんとも気持ちいい。

 「まだサツキが?・・・」と思って見たものだが、どの株もあるじの剪定を待ちくたびれてすでに花はしおれていた。

 柱から聞こえる今では珍しくなった振り子時計の「カッチンカッチン」という響きにあわせてひざに指先でリズムをとりながら、部屋の調度品や壁の長押しに掛けられた写真をぼんやり眺めて5分、10分・・・どれくらいの時間がすぎただろう。


 「わしは行かへんぞ!」

 「何言うてるの、せっかく来てくれてはるんやから、はよ!」

 台所の方から奥さんと男性の言い争う声に、あれほど大きく聞こえていた振り子時計の響きは耳に届かなくなっていた。

 「今の声、隆さんですかね・・・」

 小声で尋ねると、高橋は目をつむったまま、小さく頷いた。

 そこからもしばらく時間がたって、やがて何事もなかったかのように

 「いやぁ~、すまんなぁ~」

 とすっかり頭髪の薄くなった小柄ではあるががっしりとした体格の男性が、にこにこしながら部屋を覗く。その男性をお茶をのせた盆で後ろから押すように奥さんが「すみませんねぇ」と続いて入って来た。この『すみませんねぇ』はおそらく台所のやり取りが、私たちに聞こえていたことに対するものだろう。二人は下座に並んで座り

 「改めまして、こっちは主人の隆です。ご挨拶おくれましたが私は妻の芳江です。今日はデイサービスはお休みだと聞いていましたのに、わざわざ申し訳ありません。よろしくお願いいたします」

 と一息で奥さんから自己紹介とねぎらいの挨拶があった。

 「いえいえ。土曜日のほうが私たちもありがたいです。開業日はご利用者さんの対応で時間の都合がつかないことが多いので。申し遅れました。高橋と申します、で」

 「スタッフの大村です」

 「奥様、さっそくですが、縁ケアプランセンターの清水さんから聞いていただいてるとは思いますが、今日は体験を控えての事前面談に伺いました。少しでも隆さんのことをお聞かせいただきたくて・・・」

 そこまで言って隆さんの方へ眼をやると“我関せず”とでも言いたげに、ずっと庭を眺めたまま。芳江さんからの聞き取りが中心になるかと思っていると

 「あれはサツキですか?ツツジですか?」

 高橋が隆さんを巻き込もうと声をかけた。

 「あれはサツキや。これ全部わしがやっとんのやで」

 「へーっ!すごいですね。お好きなんですね」

 「まあな。あんたも花すきなんか?」

 「うちにも庭があって。よかったらまた見に来てくださいね」

 「家はどこや?」

 「車で10分くらいですかね」

 「ほな、またいっぺん行ったるわ」

 「ご指導よろしくお願いします。ところで・・・こちらのお写真はどちらで?」

 「これは外国行った時のや。仕事でいろんなとこ行ったで。これはどこやったかいな」

 「お仕事忙しくされてたんですね」

 「そらもう!いろんなとこ行ったで。外国とか・・・。ちょっとこれから畑行ってくるわ」

 隆さんと高橋の他愛もない会話が途切れそうになったところで、芳江さんが割って入った。

 「お父さん!畑なんかもうどこにもないでしょ!」

 「まぁまぁ」と高橋が芳江さんをなだめながら、出ていくといって立ち上がった隆さんに

 「お忙しくされているところ申し訳ありませんでした。お話ありがとうございました」

 と頭を下げた。

 ここから芳江さんからの聞き取りが始まったのだが、部屋を出て行った隆さんが玄関を通ることはなく、かと言って勝手口にまわる様子もない。時折、台所から隆さんの咳払いが聞こえる。

 「お父さんも少し前までは庭もきれいに手入れしてくれてたんですけどね・・・。見てください、今はもうほったらかしですよ」

 芳江さんの目線は、庭のあちらこちらにぬかれもせず好きに生えている雑草へとやられている。その目線のまま“最近は5分前のことも忘れてしまう”“何度もお風呂に入ろうとしたり何度もご飯を食べようとする”“用もないのに家の中を一日中ソワソワウロウロする”など、目を離すことができなくなっている現状を声を詰まらせながら話してくださった。

 高橋はメモを取ろうとする私の手を止める。芳江さんが少し落ち着くのを待って、高橋も気になっていたのであろう。「あの車はどなたがお使いですか?」「玄関にかっこいいスニーカーがありましたが」などと、それとなく現在の家族構成を確認し始めた。

 基本情報にはなかった事実として、離婚された一人娘さんが帰ってきていること、お孫さんも一緒に帰ってきたが転入した高校になじめず引きこもっていることなどがわかった。昔ながらのこの町にあって隣近所に隠し事などできたものではないが、ただ自らの口で話す内容としては重いものだったのが、基本情報に乗らなかった理由かもしれない。

 その後も30分ほど芳江さんからの聞き取りが続いた。


 予定していた一時間を10分ほど過ぎたあたりで高橋が面談の終了を切り出した。

 「明後日でしたね、体験予定。朝の9時ごろにお迎えに私が上がります。用意していただくものはこちらのプリントでご確認ください。あと、お昼ごはんはこちらで用意するのですが隆さんのお好きなもの、お嫌いなものなどがあればお教えいただけませんか?」

 「うちの人は何でも好き嫌いなく・・・。ただ昔からチーズやバターはあまり好きではなかったような。洋食か和食かで言えば・・・どちらかと言えば和食が好みだと思いますが・・・。ごめんなさい」

 「いえいえ、十分参考になります。ありがとうございます」

 「あの~、あの人、体験に行ってくれるでしょうか?」

 「さあ、わかりません・・・今は」

 「えっ?」

 「でもご安心ください。必ず明後日の朝にはわかります」

 「まぁ!」

 ひとしきり胸の内を話すことができたのであろう。芳江さんには笑顔が戻っていた。

 「今日はお時間を頂戴し誠にありがとうございました。隆さんにもよろしくお伝えください。お見送りは大丈夫です。それより、隆さんが心配されていることでしょう。どうぞおそばに」

 

 帰りの車の中は静かだった。


 (高橋はなんでだまっている?しゃべりすぎてお疲れか?)


 「違う。安全第一」

 

 (出たぁ!大魔王降臨!)


 「高橋さん、隆さんですけど明後日来ますかね・・・」

 「絶対来る」


 (なんで?あんなに嫌がっていたのに?どこからそんな自信たっぷりの発言ができるのかね。全く・・・)


 「根拠ならある」

 そう言って高橋は車のスピードを上げた。


 (なら根拠ってやつを聞かせてもらおうじゃねえか!さぁじっくり聞いたろう!)

 (さあ!早くいってみな!)

 (おーい!デタラメ言ってんじゃねーぞ!)


 などと心に言葉を浮かべたがさっぱり大魔王からの返答はない。それどころか

 「お腹、すいたわ。カレーでいいか?」


 (はぁ~っ?こっちはカレーどころとちゃうねん!)


 「カレーじゃなければ、多恵ちゃんはラーメン派?」


 (“派”ってなんやねん。あんたの頭の中はカレーかラーメンかのたった二択かよ!っていうか、もうあかん!心の声が漏れてんのか、漏れてへんのか・・・。ペースが乱されるぅ!!あー!もうあきらめよ、カレーかラーメンか・・・・だったら)


 「私はラーメン派です!」

 「じゃあラーメンにしよう!この先の・・・」

 「大天竜?」

 「そう!よく知ってるね。僕よく行くんやわ。叶芽ちゃんに教えてもらったお店なんやけど」

 「私も叶芽ちゃん先輩に教えてもらって。ついこの間も一緒に行ったところなんです。あの~、一つ聞いてもいいですか?叶芽ちゃん先輩のおばあちゃんが以前ハレル屋に来てたとか。高橋さんと叶芽ちゃん先輩ってそれだけの関係ですか?」

 「それだけって?」


 (実は、付き合ってるとか?)


 「叶芽ちゃんのおばあちゃんはヤスノさん。もう亡くならはってんけど。あれ、いつ頃やったかなぁ、叶芽ちゃんが高校2年生の秋の彼岸やったと思うんやけど、それまでハレル屋に来てくれててね。叶芽ちゃんはおばあちゃん子でね、連絡帳にもいつも丁寧にコメントくれるようなやさしい子やってん。ヤスノさんが利用の日曜日には、ハレル屋にも何度か顔を出してくれたりしてね。あと、本当か冗談かはわからへんけど、ハレル屋に来ていたのが介護の世界に入るきっかけになったって。それだけ」


 (なんじゃそりゃ!どこまでも美談。スクープ期待して損したわ。まぁ隆さんの件も、明後日になったらわかるんやし、朝からの庭掃除のご褒美にラーメンおごってもらっとこ。塩とんこつで餃子セットにしたら怒るかな・・・)

 

 翌日に控えた『佐藤 隆』さんの体験に向けて“体験前スタッフミーティング”が開かれた。体験希望があると体験前日までに必ず実施されるもので、担当から基本情報と事前面談での様子についての説明が行われる。これに対し“体験後ミーティング”も開かれるのであるが、こちらは、あらかじめの情報との相違について確認するとともに新しく情報を書き換え、今後の本利用に際しスタッフ間でそれを共有することを目的とする。

 今回の“体験前”の説明は私が担当することになって、基本情報を手に事前面談の様子を丁寧に話したつもりだった。ミーティングの内容は各自が思い思いに記録してもよいが、許可なく施設外に持ち出すことは認められていない。スタッフは皆、漏れのないよう注意深く聞き入ってるのが常である。今回も手元の資料と私を行き来する皆の視線に緊張した。

 説明も終盤にさしかかり、私も事前面談で気になった行渋りについてアキ姉さんから質問を受けた。

 「はい。ご本人はご利用に対し、かなり抵抗がおありだと感じました。明日のご体験も来られるかどうかは・・・」

 とそこまで話した時、高橋が

 「絶対来られます」

 と私の回答を自信満々に遮った。


 (はぁ~、出ましたよ。根拠あるんですか?私にここまで説明させておいて!でもまぁいい。それは許そう。だから『絶対来られます』って根拠を言ってみろ!ねぇ!みなさん!そう思いませんか?あれ?だれもそれ尋ねないの?なんで?)


 そう思っているうちに、高橋からは特にその根拠に触れられることもなく“体験前”は終わった。

 ハレル屋の体験に来られた方のほとんどが本利用につながるのだが、つい先日のこと“体験後”で「今日のお母さん、ステキな方でしたね」「そうそう、すっかりみんなとも打ち解けた感じで」「いつ頃からご利用になるんでしょう」などと盛り上がるスタッフをしり目に「今日の体験者さん、多分ご利用はないと思います」と高橋がつぶやくように言って場が白けたことがあった。私も、帰りに『またよろしくお願いします』っておっしゃってたのになぜ?などと不思議に思ったことがあったが、結果は高橋の言う通り。その女性はやっぱり本利用につながらなかった。

 帰り支度の際、他のスタッフさんにも『絶対来られます』と言い切った高橋の根拠について尋ねてみたが「不思議大魔王やからわかるんとちゃう?」としか返事は帰ってこなかった。高橋がピタリと言い当てるのはよくあることで、そんな大魔王の一言はみんなにとって信用に値するということなのだろう。

 

 体験当日の朝、隆さんのお迎えは高橋が担当することになっていた。


 (さあ!どうなるよ!大魔王。もしかしたら『今回はダメでしたぁ~』て泣き言聞けるかも。あー、いかんいかん不謹慎にも程がある。でも“大魔王屈服”が見出しの壁新聞も作ってみたいし・・・。おっ!来た!車が入ってくる!隆さんは・・・


 えっ!乗ってる!

 いやいや!これはきっと強引に連れ込んだに違いない!そうに決まってる!)


 「今日はよろしく頼むわ~!」

 隆さんがにこやかに車から降りてきた。


 この間とは明らかに様子が違う。事前面談の日は、顔が赤らんで目もきつく感じたのに、柔らかな視線といい、自然に緩んだ頬、無精髭もキレイに剃られ、ハツラツとした声色に「本当に隆さん?」などと思ってしまった。

 運転席から降りてくる高橋に「どうでしたか隆さん?」と突撃取材を敢行すると、

 「トイレ行ってくる」とかわされた。


 (「はぁ~?」って今日は何回言わせるつもり?意味不明なおっさんに付き合ってられへんわあー!もう聞くのやーめよ!)


 そう思って自分の業務に取り掛かった。

 デイサービスの朝はとりわけ忙しい。利用者さんの迎え入れ、席への誘導、お茶の用意、体温・血圧の測定とあわせ体調の確認・記録、看護スタッフへの報告、連絡帳の確認、服薬・・・。もうバタバタなのだ。

 ひと段落した頃、ゆっくりとフロアーに入って来た高橋が私の方へ近づいてくる。


 (このやろう!えらく長かったな。この忙しいタイミングでトイレでう〇ちとは・・・)


 そして開口一番

 「すっきりやったわ」


 (はぁ~?おっさんの朝のう〇ちなんかにゃ興味はねぇんだよ!こっちは忙しいってのに!)


 「隆さん、グズグズもなく。芳江さんもびっくりやったって。「前の夜『明日やで。お父さん、デイサービス行ってな』ってたった一言声をかけただけだったのに、朝から髭もちゃんと剃って『何時や?今日来はるのは』って言ってたらしい」


 (はぁ~?「でしたよ」って朝の突撃取材の報告の方かい!あたしゃてっきり・・・。でも、やっぱり当たった。大魔王の『絶対来られます』が。一体、今度はどんな魔法を使ったのやら、考えてると熱出そうやわ・・・)  

 

 隆さんの体験は無事終了した。“体験後”では、昼を過ぎると『畑を見に行ってくる』『田んぼの水を見てくる』などと席を何度も立つ様子が見られたなどの報告があった。その都度スタッフが声掛けをして席に戻って、何もなかったかのように活動に参加されていたのだが、本利用には至らないのではというのがおおよその意見だった。一人を除いて・・・。

 「隆さんは来るでしょう」

 そう言ったのは、やはり高橋だった。


 翌日、隆さん担当の清水ケアマネージャーから、驚きを隠せない様子の電話があった。「まさかあの隆さんが『今日のところへ行ってみる』ってご自分でおっしゃったので、いったい何があったのか、是非詳しく・・・」などとせがまれたが、正直私もびっくりしていて、何があったのかについては「さあ・・・」なのであるから答えようもない。

 私がそれ以上に驚いたのは本利用に入ってからだった。隆さんは休まない、一日も。誰が迎えに行っても、雨だろうが晴れだろうが、毎朝、門の横に立っていた。迎えに来たことを伝えると

 「いやー、すまんなぁー」

 と笑顔で答え、車にもすんなり乗ってくれる。

 しかし、相変わらず昼過ぎになると「畑に行く」だの「田んぼの用事」などと言って立ち上がってウロウロし始めるのだ。少しすると「わしどこに座ったらええのかな」とスタッフに尋ねて着席。またしばらくすると「畑」「田んぼ」がはじまり・・・を繰り返している。それでも席に着くと歌を歌ったり、ゲームを楽しんだり、他の利用者さんたちともそれなりにうまく付き合って過ごしているようにも見える。そこはスタッフの力によるところが大きいことは言うまでもない。

 杉本母さんはよく気が付く。隆さんがウロウロ仕掛ける時間を見計らって先手先手で声掛けするのを心掛けているようだ。隆さんともよく冗談を言い合ってみんなの輪の中に引き入れるのが上手い。

 れいちゃん先輩は見るからにかわいいお人形さんタイプ。利用者さんからの人気も高い。”かわいいのは得だ”などで片づけてしまうものではない。歩行介助のときなどの細やかな気遣いと優しい声掛けなどは、なかなか見事なもので私もお手本にしている。優しい上にかわいいから人気があるのだ。隆さんのれいちゃん先輩に見せる笑顔は特別輝いているように見える。

 町田さんは歌のレクが得意で隆さんの好みをバッチリ押さえて進行していく。この時間が隆さんが一番リラックスして過ごしているように見える。介護経験20年のなせる業なのかもしれない。

 たあこ先輩は隆さんが計算が得意なのに気づいて、ゲームの点数計算は隆さんにおまかせ。そのおかげもあってか、他の利用者さんたちからも「隆さん!計算おねがい」などと気軽に声が掛かるようになってきた。

 まあこ先輩はなんといってもトイレの誘導が上手。ほかのスタッフが声掛けしても「今は行かへん!」などとかたくなに固辞されてしまうのだが、まあこ先輩の「今行っとこか!」に隆さんが断ったのを見たことがない。

 もちろん私は私で・・・それなりに頑張っている。


 利用開始からひと月が経ち、ふた月が経ち、8月も終えようかという頃事件が起こった。

 帰りの掃除をしているとき、扉の空いていた所長室を覗くと、いつになく神妙な面持ちで高橋が受話器に耳を傾けている。相手はどこかのケアマネージャーのようだ。


 「高橋さん、何でした?さっきの電話」

 「隆さん、入院したって」

 私と高橋のやり取りが聞こえたのか、デイルームにいた職員が集まって来た。

 隆さんは体力は十分ありそうな感じだったし食欲も旺盛。体調不良の報告も家族からは上がっていなかっただけに、他のスタッフさんたちも私と同じように驚いて、続く高橋の言葉を待った。

 「昨日の夕方にふらっと出かけてしまわれて。そう徘徊。日中に一人で散歩に出かけてもこれまではそう遠くまでは行かれずすぐに帰ってきてたみたいなんやけど、昨日は結局一晩お戻りにならず。朝にだいぶ離れた工場の倉庫の横でうずくまっているのを出勤して来た従業員さんが発見して・・・」

 「で、どうなんですか?」

 「今は、病院。軽い脱水症状で検査もかねて2週間くらい入院するって。命には別状ないってことやけど・・・」

 「よかったぁ。」

 高橋は一同の声に軽く頷いた後

 「2週間、もたないかも」


 (はぁ~?命に別状ないってお医者さんが言ってるのに不謹慎な奴。あんたは占い師か何かですか?仕事変えたらどうですか?いいとこ紹介しましょうか!)


 1週間後、

 「芳江さんから電話。隆さん!退院したって!」

 そう言いながら、デイフロアーに杉本母さんが入って来た。帰りの清掃と消毒をしていたスタッフらが、杉本母さんの報告を聞こうと集まってくる。

 隆さんの入院は2週間の予定だったが、認知症の症状が強く出て点滴を勝手に抜いたり、徘徊傾向も昼夜問わず頻回となり「退院はまだ先」と説明しても「帰る」の一点張りで挙句あげく大暴れする始末・・・。病院側も一通り検査も済んで脱水症状には特に問題はないと判断したのが予定を待たずして早期退院となった理由だった。これが高橋の2週間持たないということだったのか。

 杉本母さんの報告を私たちと一緒に聞いていた高橋だったが、暗くなって窓に映る自分と見つめ合いながら

「ここからが大変やけど、いっちょやったりましょか」

 とつぶやくのを私は見逃さなかった。  

 退院して来た隆さんは入院前と明らかに違っていた。朝のお迎え時はいつも門の横で待っていた隆さんだったが、その姿が見られないこともしばしばで「布団から出ず、起きようとすらしないので今日は休ませます」の返事が芳江さんから聞かれる日が増えてきた。

 利用できてもハレル屋に着くなりそわそわし始め外へ出ていこうとする様子が見られる。これまでスムースに行えていた入浴の実施についても強い拒否が続き、週に2回の予定がこのところ週に1回程度しか実施できていない。

 「もうそろそろちゃうかなぁ、芳江さんもお家で面倒を見られるのも限界って感じがするし、うちでも難しくなってきたみたいに思うんやけど。みんなはどう思う?」

 と杉本母さんがスタッフルームで皆の意見を求めることも多くなった。私もそうだったが、皆「そうですねぇ・・・」の後の言葉が続かない。


 そんなある日、皆の意見らしい意見が聞けないのにしびれを切らした杉本母さんが「私、今日高橋さんに一回相談してみる」と朝から息巻いている。


 (確かに気になる。高橋はどう見ているのか)


 その日の業務終了後、デイフロアーの隅で高橋はいつものようにレクの準備をしていた。明日のものだろう。9月9日『重陽の節句』にちなんだと思われる菊型の花飾りが段ボールにあしらわれようとしている。


 「あのー。高橋さん、お話聞いてもらえますか?」

 切り出した杉本母さんの後ろには、出勤していたスタッフが一堂に並び、私もそこにいた。

 「隆さんの件?」

 杉本母さんは小さく頷いて、そのまま高橋の言葉を待った。

 「隆さん、誕生日はいつだったっけ?」

 この質問は私に向けられたものだろうとすぐにわかった。基本情報を確認しなくても、生まれ月くらいは頭に入っている。誕生日のメッセージカードの作製は私の役割なので、くれぐれも忘れないようにとスタッフルームにも大きく月ごとに誕生日リストを作って張り付けている。

 「たしか3月だったと」

 「ちょうど半年・・・。あと半年しかありませんがお付き合いください。みなさんよろしくお願いします。そこまでは残された日を可能な限り様子を見ていこうと思っています」

 半年という明確な期限がしめされたがそれは入所に向けての準備期間か、はたまたサービス内容の変更・見直しを予定しているのか。いずれにせよ隆さんの誕生日がどう関係するのかはさっぱりなのだが、高橋の柔らかくも力強い言い切りには迫力があり、さすがの杉本さんもその場では「わかりました」としか答えようがなかった。

 しかし案の定、スタッフルームに戻って来て皆が集まったところであらためて皆に問いかけた。

 「ああは言うたけど、半年ってちょっと長い気せーへん?で、誕生日とどう関係あんのよ!」

 その通りである。一方で「あの高橋さんの言い切り方には何かしらの根拠があるはず」という意見も聞かれ“納得できるかできないかは一先ひとまず別にしてしばらく様子を見てみては”いうところにしか着地点はなさそうである。

 一同が言葉を探す沈黙の時間がしばらく続いた。

 「そやけど、今日はもう9月やっちゅうのになんか蒸し暑いなぁ・・・。こんな日はみんな早う家帰って汗流して、ご飯食べて、ゆっくり寝ましょ!さぁみんな帰ろ帰ろ」

 町田さんの呼びかけのおかげで皆の肩の力がスッと抜け、なんとか空中分解せず無事不時着できたことにそれぞれが安堵した。

 当の隆さんだが、その後もあいかわらず来たり来なかったりが続いた。変化と言えば「畑に」「田んぼに」は減ってきてニコニコと笑って頷くだけで自慢の海外を飛び回っていたという話もすっかりしなくなってしまったのと、入浴の拒否が無くなりこちらはスムースに定期実施できるようになった。


 この日も

 「隆さん、また一段と変わってしまいましたね。もうここがどこかもわからなくなっちゃったんでしょうか・・・」

 とスタッフルームで話題に上がった。

 そこへ居合わせた町田さんが

 「それでもええやん。忘れてしまってても。その時楽しいって感情はほんまもんなんやし、楽しんでもらうために俺らがせなあかんこともかわらんのやし」


 (ちょいちょいやけど、町田さんもええこというやないかい!そうだ、それでいい。私は私ができること、みんなに元気になってもらうことだけを目標にこれまでもやってきた。これからも私らしく隆さんに関わっていくだけだ!)


 それからもこれまで以上に“楽しい一日を一日でも多く”を心掛け、10月はお月見、12月はクリスマス、1月はお正月、2月は節分などの行事イベントでは私自身率先して飾りつけや工作に取り組み、忙しくはあったが充実した毎日が続いていた。

 ハレル屋での私はそれでよかったのだろうが、隆さんの家での様子は生活のあらゆる部分で支障が大きくなっていた。送迎の際などに芳江さんから隆さんの様子をうかがうと“毎日のように続く尿失禁”、“家族の顔も忘れて他人行儀な挨拶”、“口にはできないものまで食べようとしたり”で以前よりも目が離せなくなってきたと報告が返ってくる。認知症を原因とするさまざまな変化は徐々にではなく、ある日の何かを境に一気に進んでいくような気がする。会うたび芳江さんの表情も憔悴して見え大変な状況にあるご家族の心情を思うと、あらためて自分の無力さがくやしく胸が痛くなる。


 3月に誕生日を迎える隆さんの誕生日カードを作り始めたのは2月も後半に入った頃だった。台紙にハレル屋での活動の様子がわかるスナップ写真を張ったり、マスキングテープでデコレートしたり、ポップアップにしたり。元々こういった作業は嫌いではなかったので喜んで担当を引き受けたものだったが、前任のれいちゃん先輩の「大変だろうけど頑張って」の意味が今更ながらよくわかる。スタッフ全員分のお祝いコメントが揃うまで催促し続ける日々がお渡しする日の前日まで続くからだ。


(みんなにコメントをお願いし始めてから1週間と少し。そろそろみんなのコメントも揃ってきた頃じゃないかな。いつものごとく不思議大魔王は?・・・やっぱり書いてない!でも他のスタッフさんたちは・・・みんな書いてくれてる!よしよし)


 “隆さん!いつも机の片づけを手伝ってくれてありがとうございます。とっても助かっています。私はそんな優しい隆さんが大好きです♥。これからも一緒にハレル屋を盛り上げていってください”  


 (これは・・・れいちゃん先輩だな。はい!正解!)


 “隆さん!おめでとう!石原裕次郎と言えば隆さん!夜霧よ今夜もおめでとう!”


 (これは町田さんでしょ。隆さん歌レク好きやもんね。それにしても『夜霧よ今夜もおめでとう』って。そこは『ありがとう』やろがい!)


 筆跡と内容で誰のコメントかすぐわかる。それぞれ隆さんにまつわるエピソードが盛り込まれていて、みんなのコメントを確認できるのは役得とばかりに楽しみにしている。


 (あとは高橋と私だけやな。もう一回催促しておくか。お渡しまでもう1週間しかないんやから!)


 「高橋さん!早く書いてくださいよー!」

 ノックもせずに所長室を訪ねると高橋は電話中だった。

 「あっ!すいません、失礼しました。」

 と小声で詫び、小さくなって部屋を出ようとする私に手振りで“ちょっと待って”とサインを出している。電話の相手はどこかのケアマネージャーのようだ。

 電話を切ったあと

 「待たせてごめん。今の電話は隆さんのところの清水ケアマネージャー・・・。今、多恵ちゃんが中心になって作ってもらっている隆さんの誕生日カードなんやけど、渡せへんかも」

 「えっ?もうみんなに書いてもらって、まだなのは高橋さんだけなんですけど」

 「急な話なんやけど、隆さんの施設入所が決まって」

 「へっ?いつですか?」

 「ご家族さんが希望されればすぐにでも」

 「そうですかぁ。近頃のご様子から実は私も覚悟はしてたんですが・・・。今日から1週間後が隆さんの誕生日、その前後で一番近いご利用日は誕生日の翌日。今週の残りはショートステイの利用も入っていて・・・。確かそうでしたよね」

 「もしかしたら、今日がご利用最終日になったかも」

 「そうですか・・・でも、きっと大丈夫ですよ。芳江さんも「誕生日カード楽しみにしてます」っておっしゃってましたから。でも、もし入所が先になってしまったとしてもお届けしましょ。だからちゃんと高橋さんもコメント書いておいてくださいよ。あと私のコメントは読まないでくださいね。それじゃぁお先に失礼しまーす」


 次の日の夕方、残っていたスタッフがフロアーに「隆さんの件で」と集められた。

 「お帰りの方も・・・いらっしゃいますね。ではおられる方だけでもお知らせします。先ほど、隆さんのケアマネージャーから施設入所日の連絡がありました。明後日です。報告は以上です。お疲れさまでした。募る話もあるかもしれませんが、早く上がってくださいね」

 デイルームで明日の予定を確認していてスタッフルームに戻ったのは私が一番遅かった。高橋の忠告もあったので、もうみんなとっくに帰っているだろうと思っていたが、杉本母さん、町田さん、たあこ先輩が残っていた。

 「隆さん、入所か・・・。さみしくなるね」「でも仕方ないことやん。家族さんも大変やったろうし」そんな会話が繰り返されたあと、別れを惜しむかのように隆さんとのエピソード披露大会が始まった。

 「そうなん?そんなんあったんや!ええ話やなぁ~それ!」

 「ところで多恵ちゃんの隆さんとのエピソードって言えばどんな?」

 急に振られてドキッとした。しっかり隆さんのことは見ていたはずなのに、先輩スタッフのエピソード披露には私の知らない隆さんがたくさんいたことと、私が思い出せるエピソードと言えば先輩たちとかぶるものばかりで自分がただそこにたまたま居合わせた傍観者だったのかもしれないと、恥ずかしく思ったからだ。

 「私は・・・私は・・・えーと」

 しばらく考えて、

 「そうだ!体験の事前面談のことなんですが・・・」

 もう10か月も前のことなのに鮮明に思い出される。

 「あの日、隆さん『わしは行かへんぞ!』って奥さんに怒ってて、これは無理やろうなって思ったんですけど体験にはちゃんと来られて、表情も面談の時よりも穏やかで。にこやかなあの時の笑顔は忘れられませんね」

 「そやけど、そんな拒否が強かったのに何で隆さん体験に来れたん?」

 「実は、私もわからないんです。体験の日は高橋さんがお迎え行ってますし・・・」

 「もうあの笑顔に会われへんのは寂しいけど、隆さん、施設でも元気でやってくれるとええなぁ。さぁ!明日も仕事。みなさん早よ帰って休みましょう。僕らはもう出るで。多恵ちゃんも早よ支度して早よ帰りや」

 「じゃあ多恵ちゃんお先に~」


 先輩たちが帰って独りになったスタッフルームで、拒否が強かった隆さんがなぜスムースに体験の日に来られたのが気になっていたことを今ごろになって思い出した。


 (デイルームにはまだ電気がついてるし、大魔王に今更やけど聞いてみよう。今回ははぐらかされないように眉に唾でも塗っとくか)


 「高橋さんちょっといいですか~?」

 所長室の高橋は電話中で、私の顔を見るなり「キッ」と厳しい視線を飛ばしてきた。


 (ノックしないですみませんでした!でもそんなにおこんなよ、大人げないなぁ全く)


 そう思いながら待つのだが、高橋の電話は終わる様子がない。そのうち高橋が“帰れ”とでも言いたげに私に向かって手をはらって見せたが、私は(嫌だ)と首を振り返す。高橋はあきらめたように小さく二、三度頷いた。


 随分待たされた。電話中の高橋の表情は厳しく、たまに小声で「はい」「はい」と答えるだけで、他は言葉らしい言葉を発しないでいる。電話を切るときも聞き取れないほどの小声でボソボソと・・・。


 (ははーん!こりゃ何か苦情の電話に違いない。だれだ?やらかしたのは?わかった!町田さんだわ、きっと・・・)


 電話を終えた高橋に

 「どこから(苦情)ですか?」

 「芳江さんからでした」

 「ほんとに?で、(苦情の)内容は何ですか?」


 (みんな一生懸命やって来た。最近なんて娘さんやお孫さんとも隆さんのことを話したりで関係も良好だった。そう!娘さんも働き出して、お孫さんも通信制高校へ行くようになってバイトも始めたみたいな話もしたくらい。なのに苦情って・・・)


 「隆さん、今しがた病院で亡くなったそうです」

 「えっ?」


 (うそうそううそ・・・。ちょっとなんで?)


 泣いた。しばらく泣いた。泣いている間、高橋は外に出てくれた。ひとしきり泣いた後、高橋を探すと庭石に登って月に煙草の煙をかけていた。

 私に気づいて一瞬こちらに目をやったが、私がもう泣いていないのを確認すると視線を月に戻して

「さぁ、今日はもうお帰り」と声をかけてきた。高橋の(僕も少し一人になりたいので)という声が聞こえたような気がして素直にこれを聞き入れた。


 次の日、始業前にはスタッフに隆さんのご不幸が伝えられると思っていたがそれはなく、いつも通りの朝となった。いつもと違う点と言えば、私の目が赤くなって瞼も腫れていることくらい。これに気付いた先輩スタッフさんたちが「なんかあった?」「大丈夫?」と代わる代わる心配して声をかけてくれるのだが、その都度「何でもないです」と答えるのが何とも心苦しかった。

 高橋はというと、全くいつも通りで冗談を言ってご利用者さんといる。


 (いや、いつもと違う。なんとなくわかる。目が笑ってない、声の張りがいつもより弱い、冗談の返しが微妙に少し遅れる・・・。こんな高橋を見るのは初めてだ。間違いなく隆さんのことを引きずっている)


 時刻は夕方6時を少し回っている。一日の通常業務がすべて終了したのを見計らってスタッフがデイフロアーに集められた。ミーティングならいざ知らず、要件も言わずに「話があるので集まってほしい」などと声をかけられたことなどないものだから先輩スタッフたちも「一体何の話だろう」と当惑している。

 高橋が「実は・・・」と切り出した瞬間、とうとうこらえきれずに私は泣き出してしまった。

 一同は驚くというよりもその場の状況を理解しようと各々が努めた結果「きっと高橋と私に何かあったに違いない」という結論に至ったようだった。

 町田さんはいつも通りだったが、杉本母さんは「キッ」と高橋をにらんでいる。アキ姉さんは呆れたようにため息をついてはずした眼鏡のレンズを上着の裾で拭き始めた。れいちゃん先輩、まあこ先輩、たあこ先輩はうずくまる私に胸を貸してくれたり、涙を拭いてくれたり、頭を優しくなでてくれたり。


 (ちがう、ちがうんです。私のせいでみんなが誤解している)


 「わたし聞いてしまったんです、昨日。隆さんが・・・隆さんが亡くなったって・・・」

 「えっ?」

 ふり絞った声は小さく、きっと聞き取れなくての「えっ?」だと思い込み、二度目の報告は皆がびっくりするほどの大きな声になってしまった。

 「だから、佐藤さんが・・・昨日死んじゃったんです」


 町田さんはポカンと口をあいたまま、アキ姉さんは慌てて掛けなおした眼鏡の傾きを直せずにいる。杉本母さんとたあこ先輩、まあこ先輩はお互いにきょろきょろ顔を見合わすばかり。     

 高橋は・・・いつもと同じ調子で

 「通夜は今日の午後7時から。葬儀は明日午後1時から。明日は通常通り営業ですから本日、通夜にうかがってお別れしてきます」

 と静かに伝えた。

 「私も行きます!用意もしてきました」

 私がそう答えることができたのは高橋ならきっとそうすると思ったからだ。喪服は、叶芽ちゃん先輩の「お別れする日は必ずやってくる。もう子どもじゃないなんだから、そのへんちゃんと用意しとけよ!」の一言に“それもそうか”と冬のボーナスで買っておいた。もちろん今日初めて袖を通すのだが、まさかこんなに早く使うことになるとは思ってもみなかった。

 「ですから、連れて行ってもらえますか?」

 「では、多恵ちゃん。みんなの分もしっかりお別れ、お願いします」

 「はい。あと、みなさんには心配をおかけしてすみませんでした。昨日の夜に芳江さんからハレル屋に電話があって、そこにたまたま居合わせた私が隆さんのことを知ってしまって、今日一日みなさんにお伝えしようかどうしようかと迷って、結果黙っていたせいで変な誤解まで・・・高橋さんにも。すみませんでした」

 「いいのいいの!私たちも高橋さんも全然気にしてないから。高橋さんはそういうの全然平気な感じの人だから大丈夫。それより早く支度しないと。私たちの分も、ちゃんとお願いね」

 杉本母さんの一言で、高橋を除いて皆がやっと身動きできるようになった。


 皆に見送られて通夜に向かった車の中では隆さんの話は避けた。あれやこれやと思い出すだけでも鼻の奥が「ツンッ」と痛くなりそうで、努めて違う話題を探した。

 「高橋さん、さっきのみんな、完全に高橋さんを悪者扱いでしたね」

 「そうやったな」

 「でも、なんですぐ否定しなかったんですか?」

 「別に。いつも心の中では僕のことを『おっさん』呼ばわりするくらいだから、すぐに否定するだろうと思ってた」

 「高橋さんって、人の心読めるんですか?」

 「やっぱり『おっさん』って、そう思ってたんやな。人は考えてることや思いが表情や態度に現れるねん。ご利用者さんからもちょいちょい感じることあるやろ?特に多恵ちゃんは考えてることが顔や声に出やすいので心の声が筒抜け。でも考えてることすべてがわかるということはないからご安心を」


 (よかったぁ~。大魔王だけになんか不思議な力を持ってるのかと真剣に思い始めてたもん。ビビらせやがって!バーカ!大魔王バーカ!)


 「またどうせ(バーカ!)とか悪口言ってるやろ。ばれてるよ、気ぃつけな」


 (はーい。すみません・・・)


 「ところで、あのー高橋さん。いろいろ聞きたいことあるんですけど、隆さんの件・・・」

 「こんな日にまで謎解き?してあげなくもないけど、もう着くし。それに通夜に行けば奥さんが謎解きしてくれるよ。きっと・・・」


 車から降りる私に高橋は

 「何も言わずに頭だけ下げておきな。あとは僕と同じように」とアドバイスしてくれた。通夜や葬儀に最後に出たのは中学2年生の時のおじいちゃんの時だったと思う。それ以前の記憶はない。親族としてしか参列したことのない通夜や葬儀に私は不安でいっぱいだったのだが、高橋はそれも見通していた。


 (あたらしい喪服やな。タグとかついてへんか?)

 (見てくださいよ。クルっとまわるから)

 (大丈夫。ほな行こか、ちゃんと着いてこいよ)


 しめやかに淡々と営まれた通夜式は高橋の横について見よう見まねで受付、挨拶、焼香をやり過ごし、最後まで芳江さんの閉式の挨拶を聞いた。

 

 (そろそろ失礼しよか)

 (はい)


 帰ろうとする私たちのところへ奥さんが近づいてきた。後ろには娘さん、お孫さんの姿もあった。深々と頭を下げられる姿に、はじめてご自宅に伺った時のことを思い出す。

 「最期のお別れをしてやってください」

 と棺の傍へと案内された。ゆっくりとお顔を見させていただくことができたのだが、とても安らかな表情でうっすらと微笑んでいるようにさえ見えた。胸元を見ると私が隆さんに作ったバースデーカードが収めれている。


 (いつの間に・・・)


 「お忙しいのに今日はご参列いただきありがとうございました。主人も喜んでいると思います。最期は脳梗塞でした。夕ご飯を食べて横になっていたかと思ったら急に『ガァー』って変ないびきをかき始めて、様子が変だと思ってすぐに救急車を呼んだんですが、病院で・・・」

 泣きそうになるのをこらえて奥さんは続けた。

 「主人も最後は休み休みでしたが、そちらに伺うのを楽しみにしていたんですよ。昨日だって、『明日は行くのか?』って気にして聞いてましたから。『明日はお父さんはよ』っていったら、残念そうでしたもん。

 このところの口癖は『大丈夫やな』だったんです。『何が?』って聞くと黙っちゃうんですが、今思えば娘と孫のことを心配しての言葉だったと感じてます。特に孫のことは。

 小さい頃は公園へよく遊びに連れて行ってましたね、あの人。そんな孫に『おじいちゃん、長生きする?』って聞かれて『するする~!お前が一人でちゃんとやっていけるってわかるまではな!』って。元気なころはその話を引っ張り出しては『まだまだ死なれへんな』って。孫が高校に行かれへんくなってしまったときも『ゆっくり待ってやろう。きっと大丈夫やから』って。ただオロオロするばかりの私まで励ましてくれました。その孫も通信制高校に行くようになって。でも、もうそのころにはあんなでしたけど。あんなでしたけどわかって喜んでいたんじゃないでしょうか。

 それからこんな席でお話しするのもなんですが、娘も再婚することが決まりまして。お相手は、ほら、あの方。今日も参列してくださってます。みんなそれぞれにこれからの人生の見通しが立ったといういうか・・・。お父さんもそれを見届けて安心して逝けたんじゃないかと思うんです。私自身、正直、お父さんが片付いてほっとしているところもあるんです。こんなこと言うとダメなのはわかっているんですが、“この先、どうしよう・・・”って考えない日はなかったですから。でも、今日からそれもなくなりました。お父さんが『お前も好きにやりなさい』って言ってくれてるような気がしてます。

 また、私がハレル屋さんにお世話になる日も近いと思いますから、その時はよろしくお願いいたします。今日は本当にありがとうございました。スタッフの皆さんにもよろしくお伝えください。どうぞお気をつけて・・・」


 もう一度、手を合わせようと見た祭壇の遺影を見て「はっ!」とした。


 (私が初めて担当したレクリエーションで、それも隆さんの優勝した時に記念に撮った・・・。そうだ、私が撮影して高橋にメールで送ったきりになっていた写真)

 

 帰りの車の中は静かだった。もう謎解きをせがむこともない。奥さんがしてくれたからだ。人には“お役目”みたいなものがあってそれが終わると・・・ということだったのだろう。本当にそうなのかはわからないが残されたご家族がそう思っておられるのであればそれでいい。

 「もう必要ないみたいやね」

 「はい。でも隆さんが体験に来た日、なんで“来る”ってわかったんですか?」

 「隆さんやけど、どこのデイサービスの体験も体験だけはちゃんと行ってたから」

 「そんな情報あったんですか!知ってたら私だって・・・でも、そんなんだけじゃ・・・」

 「それにね、玄関の花瓶見たでしょ。芳江さんも限界が近かったんじゃないかな。ご自身でテーブルかけのレースをお編みになるくらいの方が花が枯れているのをほおっておくわけもなく。だから」

 “だから・・・”で終わったのだが、(隆さんもいつまでもサービスを断り続けてお母さんに心配をかけてはいけないって思っていたのかもしれへんね。優しい隆さんがいよいよ覚悟を決めたので本利用につながった、だから一日も休まずに門の横で待っていたのでは)という高橋の謎解きが続いて聞こえたような気がした。 

 「あと、最期まで隆さんがご利用いただけたのはスタッフさんのおかげ。みんなにありがとうって伝えておいてね」

 「そんなの自分で言ってくださいよ。照れる歳でもないでしょ。明日みんなに通夜の報告もあるし・・・大体、高橋さんってただでさえよくわからない人だと思われているんですから。知ってます?不思議大魔王って呼ばれてるの」

 「多恵ちゃんも呼んでるの?」

 「いえ、まぁ、その・・・はい」

 「いくら何でも大魔王は言い過ぎやなぁ、自分では『魔女の教育係』くらいだと思ってるんやけど」

 と高橋は笑っている。てっきり生意気だと怒るかと思っていたのに、続けて

 「多恵ちゃんはきっといい所長さんになるよ」

 などと言う。さすがに所長という年齢でもないだろうなどとも思ったが、高橋に少し認められたような気がした。

 「そうですね。私、高橋さんの期待以上の所長になる自信があります。見ててくださいね」

 「まぁ見てるだけなら。これからも多恵ちゃんは多恵ちゃんらしくね。さてさて、これで私もお役御免がますます近くなりましたかね」

 「話変わりますけど、誕生日のメッセージカード。高橋さんは何て書いたんですか?」

 「忘れた」


 (もう!毎回楽しみにしてたのにぃ)


 髙橋と話をするのはこれが最後となった。この日、高橋はアパートに帰ってすぐ玄関先で倒れたのだ。心筋梗塞だった。高橋の部屋で大きなものが倒れたような音に気付いた隣の住人が駆けつけ発見してすぐ救急搬送したらしい。処置の甲斐なく高橋は自分の誕生日を1週間後に控えた春彼岸の中日の夜に一人逝ってしまった。


 “もう必要ないみたいやね”

 (もう少し一緒に仕事させていただきたかったです。短すぎましたよ)


 “見てるだけなら”

 (もう声を聞くこともできませんね。一体、あなたはどこで何をしていることやら)


 “お役御免”

 (いえいえ、今でもいろいろ相談したいことが山ほどあるんです)


 “みんなにありがとうって伝えておいてね”

 (もしかして、自分で伝えられないかもってわかってたみたいですが、なぜあんなことを言ったんですか?あと半年って言ったのは隆さんの事じゃなくて自分の事だったんですか?)


 “多恵ちゃんはきっといい所長さんになるよ”

 (私がいい所長になれるって思ったのは一体どんなところからだったんですか?)


 私の指定席となったものの、未だ慣れないショッキングピンクのオフィスチェアに腰かけながら会話の内容をぽつりぽつりと思い出しては尋ねてみる。


 「高橋さんの期待以上の所長を私は目指せていますか?」



【私たちの休日】


 「多恵ちゃん、今度、休みの日あわせて旅行に行かない?」

 「旅行ですか?いいですけど、叶芽ちゃん先輩と一緒にハレル屋休んだらほかのスタッフさんが困るでしょ」

 「もう・・・。いい加減その『叶芽ちゃん』ってのやめてくれるかな。多恵ちゃんが所長で私は管理者と言ってもスタッフなんだから。『叶芽ちゃん』でいいよ」

 「すみません。でも、旅行って例えばどこへ行くんですか?」

 「和歌山とかどうよ」

 「それって高橋さんの三回忌の法要にってことですか」

 「なんでわかる?」

 「叶芽ちゃんセンパ・・・の考えてることくらいわかります」

 「怖っ!さすが大魔王の血を引く子よ」

 「行くのは構わないんですけど、でも私、高橋さんが死んじゃったって実感が正直ないんですよね。今もその辺からひょっこり出てきそうな気がして、法要って言われても」

 「多恵ちゃん!。そりゃお葬式も和歌山だったし、私たちも出てないわけだからそうかもしれないけど。『ハレル屋を所長として引き継いで頑張ってます』って報告するつもりで、ねっ!」

 「はぁ・・・」

 「おいおい!なんかずっとひきずってるっていうか、足を取られてるっていうか。多恵ちゃんは多恵ちゃん、高橋さんは高橋さんなんだから。しっかりしてくださいよ所長!」 

 自分でもわかっている。“こんな時、高橋さんならどうするか?”ってすぐに考えてしまう自分がいることを。それでうまくやれてるし、利用者さんも喜んでくれてるわけだし、何も問題はない。でも、どうやら周囲はそうではないらしい。「多恵ちゃんらしくやればいい」ってみんなが口をそろえて言ってくる。


(そもそも私らしさってなんなんだろう。そういえば高橋さんもそんなこと言ってたなぁ)


 「わかりました。叶芽ちゃん先輩、一緒に行きましょう、和歌山!」


 ハレル屋は土曜日が休館日で、祝日は通常通りの営業としている。毎年シフトの調整で頭を悩ませるのが、4月の新学期シーズンと5月の大型連休。その両方とも私も叶芽ちゃんもフルで出勤することを約束して、3月に二人あわせて休みをもらえるようお願いした。働くママさんたちが多いハレル屋。4月、5月はお子さんたちや家族の用事で何かとあわただしくされるご家庭が多いので、私たちの提案はむしろ歓迎された。


 『祝日って本当に不便。特にゴールデンウイークなんかは大変なのよ。病院も薬局も役所もみーんなずーっとしまっちゃうでしょ。私たち年寄りはどこに行けっていうのよ。国はその辺わかってくれてるのかしら。万が一、デイサービスまで閉まってしまったらもう・・・。その点、ハレル屋さんは助かるわ。スタッフさんは大変だと思うけど』


 デイサービスに務めるまで、高齢者の方が過ごす大型連休なんて気にもしていなかった。ご利用者さんの言うとおりである。でもスタッフさんたちだって休みたい、家族と一緒に楽しみたい。「でもご利用者さんを思うと・・・」と連休中も通常営業するデイサービスも多い。国もいい加減私たちの善意に頼る前提の施策をどうにか変えてほしいものである。


 「まぁまぁ、そう怒りなさんなって。今日はこうやって多恵ちゃんと旅行できてるんだから。でも運転、上手くなったね。免許取りたての頃なんかは利用者さんにいっつも心配されてたもんね」

 「そうそう。『右から人が来てる』とか『信号、青になったよ』とか『ちゃんと前見て!』とか。そういう口で『あ!桜が咲いてる!見て!』なんて」

 「あー。それ山本さんでしょ。助手席がお気に入りなんだよね。たまに後ろに乗るとチョー不機嫌だったり」

 「私の時だけかと思ってましたが、叶芽ちゃん先輩のときもでしたか」

 「また『先輩』って」

 「もう!旅行の時ぐらいいいでじゃないですか!

 プライベートな旅行であっても話す話題はご利用者さんのことばかり。休憩に立ち寄った道の駅でも「この人形、安井さんに似てる!」とか「これ、おやつに出したら川田さんが喜んでくださるかも」と何らハレル屋に居る時と変わらず、ご利用者さんのことばかり考えてしまう。

 

 「この先もうすぐ、あの有名な吊り橋。行ってみよう!伊達さんが奥さんと行ったことがあるって言ってたとこ・・・。えーと、『谷瀬たにぜの吊り橋』」

 「吊り橋?叶芽ちゃん先輩は、高いのとか大丈夫なんですか?私ダメですよ。めちゃくちゃ苦手なんですよね」

 「あー、多分無理。でも多恵ちゃんの朝の会の話題に使えそうじゃん。渡れなくても」

 「そうですね。いいネタになるかも。ほら、ここ!『村営駐車場』って。入りますよ。先輩なんだから、駐車場代早く出してください。ほら、おじさんはそっち」

 「こんにちは。お嬢さんたちは今日は旅行かい?天気がいいし良かったね。最高だよ。今日はちょっと風が強いけど」

 「やっぱり吊り橋、揺れますかね?。向こうまで渡れますかね?私たちどうですかね?」

 「大丈夫、大丈夫だよ。たまに途中で引き返して来る人もいるみたいだけど。せっかくだし、行ってらっしゃい」

 そびえ立つ深い山々に囲まれ眼下には清澄せいちょうな熊野川が流々と流れている。観光のためと思っていた吊り橋が生活用として造られていた歴史にも驚いたが、村民がお金を出し合って完成させたという話に感動したほうが大きかった。

 「うわぁ!『危険ですから一度に20人以上は渡れません』 って書いてあるわ」

 「私やっぱり無理です。先輩が行ってください。私ここで待ってますから」

 「よし。ここは先輩が思い切って・・・やめとくわ。でも記念の写真は撮っておこう!」

 吊り橋の管理事務所のおじさんをはじめ、近くの売店のおばさんも、出会う人皆気さくな方ばかりでついつい話し込んでしまう。観光客らしき方であっても高齢者とみると思わず声をかけてしまうのは職業病かもしれない。

 名物だという串こんにゃくで腹ごしらえは万全。一息ついて今夜の旅館までの距離を確認した。

 「ここまでの距離を考えるとそんなに遠くないやん。今夜のお宿は『源泉かけ流しと郷土料理が自慢の宿』って。温泉も食事も楽しみやわ」


 (叶芽ちゃん先輩・・・。今、串こんにゃく食べたとこで晩ご飯のことよく考えられますねっ!。こっちは食欲大魔王だったわ)


 「でも高橋さんもこの風景みながら串こんにゃく食べたのかなぁ。先輩、どう思います?」

 「案外近くの観光スポットに地元の人は興味がないってことあるやん。高橋さんも案外その口だったりして。名前は『高橋』なのに」

 「本当だ『高橋』なのにね。あーあー、そりゃもったいないことをしたなぁ。こんな素敵な風景見られずじまいだったなんて!今頃後悔してるかもですね」

 「後悔してても後悔してるって言わなさそうやん」

 「言えてる~!」

 吊り橋の中央で記念写真をとる親子にハラハラしながら、熊野川を渡る気持ちの良い風を胸いっぱいに高橋の分まで吸い込んだ。


 宿は口コミの評価以上で私たちの期待を裏切らなかった。

 部屋に入ると、背もたれのある座椅子に座って、香りが清々すがすがしい畳の上に脚を延ばした。「田舎に帰って来た感じがする」「そうそう田舎っていいよね」などと二人とも勢いで口にしたものだが、よくよく考えればそもそも私たちに田舎は無く、正確には「田舎っぽい雰囲気が潜在的に懐かしく感じられて心地よい」って言い直さなければという結論に至り落着して笑った。


 「私、ちょっと表を散歩してきますけど、先輩はどうします?」

 「ここでゴロゴロしとく。早く帰っておいでよ山間やまあいは暗くなるのが早いから」


 (せっかく来たのに・・・。まぁいいか)


 「じゃあ、行ってきますね」

 

 温泉の中心地からも離れた宿は静かで川のせせらぎが耳に心地よい。川沿いの道を上流へと一人歩く。歩き始めてすれ違う人も車もなかったが、反対側の歩道に一輪車を押しながら下ってくる農作業を終えたであろう年配の男性が見え、挨拶をした。「このあたりはどのへんですか?」と尋ねると宿からはだいぶ離れているという。気付かないうちに、かなり歩いてしまっていたようだ。

 「でもそろそろ引き返さないと。こんな村でも暗くなると物騒ですよ。この間も隣の地区で熊の目撃情報があったから、気ぃ付けてくださいね」

 「熊が出るんですか?」

 「出ます出ます。鹿も狐も狸も猿も」

 「じゃあ、そろそろ引き返した方がいいですかね」

 「そうじゃね。そうしなしゃんせ。わしも帰り道。一緒にこの先まで行きましょか」

 「ご一緒お願いします」

 思いがけなく住人の方とお話しする機会となった。


 「このあたりにもデイサービスってありますか?」

 「あるよ。なんだい?お嬢さんもデイサービスにお勤めかい?」

 「ええ、まあ」

 「うちの婆さんもデイサービスに行ってるよ。楽しんで行ってくれてるみたいでわしらも喜んどるよ。お嬢さんのところの利用者さんはどうや?」

 「ご利用を楽しみにしていただけるよう頑張ってるつもりですが、どうでしょう。でも、ご利用に対して拒否のある方はお見受けしませんね」

 「そりゃええことやわ。下の世話やとかお風呂に入れたりすることも大変やけど、それよりも本人が嫌やって言ってるのに無理に送り出したりすることの方が家族としては一番つらいことなんよ。だから、これからも利用者さんが楽しんで行けるデイサービス、頑張ってな。ほな、わしこっちやから。気を付けてな」

 「ありがとうございました。おじさんも気を付けてね」


 帰る道々「本人が嫌やって言ってるものを無理に送り出すのは家族としては一番つらいことなんよ」という言葉を何度も何度も思い返した。ご利用者さんに喜んでもらえる施設づくりは、ご家族の心を支えることにもつながるのだと言えば少し仰々しいだろうか。

 おじさんと別れてしばらくすると、辺りはところどころにある街灯と、ちらほらと見える家々の窓が放つあたたかな灯りしか映らないほど暮れてきたが、一方で雲一つない夜空に煌々と照る月のおかげで道に迷うこともなかった。

 

 散歩を終えて部屋に戻ると叶芽ちゃん先輩は電話中だった。

 「もしもーし、ご無沙汰してます。・・・

 はい。今、宿です。・・・

 はい。多恵ちゃんも来てます。・・・

 そうそう。お話しした通りの子ですよ。・・・

 最近調子は?・・・

 でも早いものですね。・・・

 はい、明日ですね。・・・

 はい、お時間は11時で。よろしくお願いします。・・・はい、おやすみなさい。」

 誰と話しているのかは、すぐにわかった。

 「ところで、叶芽ちゃん先輩はどうして高橋さんのお母さんをご存じなんですか?」

 「あれ?言ってなかったっけ?おばあちゃんによくよく聞いてみると、高橋さんのお母さんとうちのおばあちゃんは同じ小学校に通う同級生だったの。びっくりでしょ。こんな広い日本でしかも他府県で小学校の同級生の存在を知るって。五十年以上ぶりによ。『お母さんの旧姓は?小沢?高橋さんって、あー!あんた冴ちゃんとこの?お母さん元気?』から始まって。それからはおばあちゃんと冴子さんで勝手に二人で連絡しあってたみたい。ハレル屋の利用を決めたのも冴子さんの息子さんが高橋さんだったからっていうのも大きかったんじゃないかな」

 「そうだったんですか?そんなの初めて聞きました。いや実は、謎だったんだぁ。ヤスノさんだっけ?叶芽ちゃん先輩のおばあさん。嫌がっていたのにサービスにすんなりつながってハレル屋に来るようになったって言うから、てっきり高橋さんが何かしらの大魔王ぶりを発揮したものとばかり」

 「あー。でも、それはあったと思うよ。うちのおばあちゃん、高橋さんのことが大好きだったもん。家に帰って来てからも『高橋さんがね』『高橋さんったら』って、いつも楽しそうに話してたから。恋する乙女って感じやったなぁ。そのハレル屋にお世話になれたのは、おばあちゃんに高橋さんのお母さんとのご縁があったからこそ、そして、そのご縁を届けてくれたのは間違いなく高橋さん。私にはそこの方が大魔王っぽく感じるわ。

 さてと、そんなことより温泉!温泉!一緒に入ろ!ひと風呂浴びて宿泊宴会じゃ!」

 

 (そうだ!今日は何もかも忘れて楽しもう)

 

 ここは古くから湯治場と親しまれてきた温泉郷。「美肌効果があるので女性にも人気なんです」とフロントで教えてくれた女将さんも確かに美人だった。毎日温泉に入ればきっと私たちもなどと思ってみたが、そんなことは叶うはずもなく、ならばと温泉に何度も頭をくぐらせたり、かけあったりして貸し切りとなった湯船で。そんな私たちでもカランにかかった『神経痛や筋肉痛、関節痛にも効果効能がある』との温泉の紹介文を見つけると、とたんに「どうすればこのご利益をご利用者さんに届けられるか」などと、湯船につかったまま真剣に考えこんでしまい、あやうく二人とものぼせるところだった。こんなところでもやっぱりちょいちょい職業病が顔を出す。

 温泉を楽しんだ後は地元の食材を使ったという夕食を楽しんだ。川鱒のお造り、鮎の塩焼き、鹿肉のロティ・・・。どれもこれもおいしかった。二人で食レポにも挑戦してみたが、どちらのレポートも使い物にするには程度が低くタレントさんの苦労がわかり、「お互い介護職員で良かったね」と慰めあったりもした。

 部屋に戻ったときには、一日の疲れがどっと出て、予定していた『枕投げレク』は企画だけで終わった。

 起床係は私。携帯電話の目覚まし機能を午前9時ちょうどにセットしてすぐに布団に入った。叶芽ちゃん先輩の提案で部屋の明かりは月明かりで十分だと電気はすべて落とし、川のせせらぎとカジカの鳴く声だけの静かな夜は更けていった。

 布団に入ってどれくらいが経っただろうか。“枕が変わると眠れない”などと言う繊細さは持ち合わせていないはずなのだが、疲れているはずなのに、今日に限って何故かなかなか寝付けないでいた。

 「多恵ちゃん、起きてる?」

 「はい」

 「早く寝なよ。明日も運転あるんだから」

 「えー。明日も私ですか?」

 「あのさ、高橋さんと一緒にラーメンに行ったとき、ハレル屋で一緒に働いてもらえないだろうかって相談受けたの」

 

 (そんな話寝る前にしたら余計に寝れなくなるでしょうが!)


 「それって私がハレル屋に来る前ですか?」

 「ううん違う。高橋さんが亡くなる少し前だったかな。気持ちはあったんだけど、返事ができないまま高橋さんは逝っちゃって。こんなことになるなら、ちゃんと伝えておけばよかったなぁって思ってる」

 「その時来てくれてれば、今、所長は叶芽ちゃん先輩だったんじゃないですか!」

 「いや違う。その時に『次の所長は多恵ちゃんで行くから』って言ってたもん。『ぜひ支えてやってほしい』って・・・。さあ、明日は私が運転してやるから、もう寝るね。おやすみぃ~」


 (はぁ~?どういうこと?)


 次の所長に一体どうして私が選ばれたのかわからず、考えれば考えるほど目が冴えてくる。私に背を向けて布団をかぶっている叶芽ちゃん先輩は、まだきっと寝ていない。でも、私の疑問をどう言葉にして聞けばいいのかわからなくて声がかけられなかった。

 いなくなってからも存在感たっぷりに私を翻弄してくる大魔王にまた振り回されている。



【高橋さんと叶芽ちゃん先輩】


 目が覚めて、いつもとは違う方向から差し込む朝の光に混乱する。

 「ここはどこ?」

 ぼんやりした頭にかぶさった布団の隙間からまわりを確認した。

 宿に泊まっていたのだと思い出し、勢いよく布団を跳ね上げ

 「おはようござ・・・。あれ?どこいった?」

 敷かれた布団は、叶芽ちゃん先輩がそこから這い出た様子がありありとわかる形でそのままだったが、部屋に姿はなかった。

 音のない一人の朝は落ち着かない。とりあえずテレビのスイッチを入れ、画面端の時間表示を見ると9時までまだ20分以上あった。特に番組の内容は興味を引くものではなかったが、かと言ってチャンネルを変えようとも思わず、ただ聞き流すようにして先輩の帰りを時々うつらうつらしながら待った。

 どれくらい時間がたっただろう。ドアのノブが小さく音を立ててまわったのに気が付いて体を起こすと、部屋の様子を確認するように慎重に中に入って来た叶芽ちゃん先輩と目が合った。

 「なんや、起きてたんか!寝坊助さんおはよう!」

 「・・・おはようございます。どこへ行ってたんですか?・・・」

 買い物袋を私にゆらゆら見せながら

 「近くにコンビニとか全然ないの。朝から思わぬ大遠征のドライブだっけど、気持ちよかったわ。コンビニとかなくて、結局近くのスーパーが開くのを待って。朝ごはん、食べるでしょ?ほら。早く食べて!私も道がよくわからないから少し早い目に出たいの。すぐ支度できる?」

 渡された缶コーヒーは少しぬるくなっていた。

 「いただきまーす!何時に出ます?」

 「多恵ちゃんの準備ができたら」

 糊のきいた真っ白なシャツに折り目の正しくついた紺色のスラックス、後ろでキュッと束ねられた長い髪、清潔感ある控えめな化粧という叶芽ちゃんの姿を見て思い出した。


 (今日は法要に行くんだった)


 私はカツサンドを口にくわえたままあわてて支度にとりかかった。いつもの朝とはちがう支度にバタバタする。荷物も増えていないはずはないのに、カバンがいっぱいで締まりにくいのはなぜだろう。最後はお土産の袋にまで化粧道具を入れて支度を整えた。先にチェックアウトを済ませて悠々と車で待つ叶芽ちゃん先輩が大人に見えた。


 車の中は、お互い昨日までの会話の軽快さがない。昨日布団に入ってから聞いた叶芽ちゃん先輩の話。高橋さんから“ハレル屋への入社を勧められていた”というだけの話ならそれほどでもなかったのだろうが、“私が所長になることを前提に高橋さんが叶芽ちゃん先輩を誘っていた”というあのくだりが気になる。でもその話を切り出そうにも言葉が出てこない。まず第一にそれを聞いてどうしようというのか。


 「ねえ、どうしたの?さっきからため息ばっかりついて」

 「いえ、何でもないですよ。朝からカツサンドっていうのがどうもダメだったみたいで。朝ごはんにあのチョイスは無しですよ」

 「でもため息の本当の理由は、ズバリ昨日の話。気になるなら続き、話してあげようか?」

 図星だった。きっと叶芽ちゃん先輩も昨日の話が中途半端で終わっていたことを気にしていたに違いない。

 「いえ、別に。気になってないわけじゃないですけど、話したかったら話してもいいですよ」

 「あれはさ、多恵ちゃんがお仕事を始めて半年くらいたった時だったかなぁ。ハレル屋でバイト募集してないかなぁって。覚えてない?大天竜で」

 「あった、あった、ありました。てっきり冗談かと思ってましたけど」

 「実は本気だったんだ。で、高橋さんに相談してみたの。やっぱり大天竜で。そしたら喜んでくれてね。喜んでくれたんだけど、『もう少し今のところで経験を積みなさい』って。そのあと「僕からも相談があるって」言われたの。それが多恵ちゃんの話で」

 私の気持ちを察してだったのか、自分が話したかったからなのかは、もうどっちでもよくなっていた。いよいよ近づく本題に私はおじけづいている。続きを聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが交錯し、心が汗をかいている。手先は自分で感じ取れるほど冷たいのに顔は火照る。心も体もバラバラになりそうだ。

 「続きの話って私が聞いても倒れたりしませんか?」

 「さあ、どうかしらね」


 (もう限界)

  

 ハザードスイッチを押してゆっくり減速した車は、峠のカーブで見晴らしの良い路肩に停車した。

 大天竜で高橋さんと待ち合わせしたけど大遅刻してしまったことや注文するのも忘れて長々と話し込んだという前置きが、私には本題に入るカウントダウンに聞こえた。叶芽ちゃん先輩は私の方を向く様子もなく、前方に広がる山並みを遠くに見つめながら前置きと変わらないトーンで本題に入った。


 「あの子にもさ、なんか可能性を感じるんやわ。叶芽ちゃんとはまた違った可能性をね。そもそもあの子には福祉に対して“こう”という概念がないねん。考え方も自由奔放。危うさもあるけど、あそこまで行くとむしろ能力者やと思うんやわ」

 「まあ、よく言えばそうかもしれませんね」

 「加えて、誤解を恐れず言うとやで、“中身がからっぽ”。からっぽだからどんどん吸収する。もともと優しくて人情味のある明るい性格はこの仕事に向いているのは間違いないねんけど、もともとの本能?面白いもの持ってるやん。その本能だけで生きてきたのが、最近になってだんだんと思考が伴ってきてるねん」

 「ご飯食べに行っても、遊びに行っても、すぐに仕事の話になるんです。それも、『なんで?』『どうして?』って。別にいいんですよ、そうやって聞いてくれるのは嬉しいし、でも簡単に説明できそうなんだけど言葉で伝えにくい、そんな質問ばっかりで・・・」

 「思考を整理しようと一生懸命なんやろうね」

 「はい。そんな感じです」

 「彼女に必要なのは、まずは経験やと思うねん。経験こそが、そのぎこちない思考を本能を超越した“直観”ってやつにまで引き上げる。それができそうな子やと思うねん」

 「高橋さんの言う危うさっていう意味わかります。考えよりも行動が先にでちゃうってとこですよね。そのくせ引っ込み思案で。でもみんなに最後は応援してもらえる。いい意味で目が離せないとこも彼女の能力かもしれませんね」

 「福祉って独りじゃ何もでけへんし、導いてあげる確かな土壌が必要。どやろ、あの子絶対化けると思うんやわ。支えてやってもらえへんかな。僕?僕は無理やわ。僕のコピーを作るのならいいかもしれへんけど、僕が近くにいると小物で終わらせてしまいそうで。彼女にはこじんまりおさまってほしくないんやわ。叶芽ちゃんの決断力と入所施設で培った経験は、きっと彼女を成長させるはず」

 「えらく多恵ちゃんに熱入ってますね」

 「これからの福祉ってどんどん難しくなっていくと思うんやわ。乗り越えていく壁も厚く高く・・・。今までのやり方とは全く違う新しい介護を目指さないとご利用者さんの気持ちにいずれ応えられなくなってしまう。だから爆発力のある子を所長に、堅実に業務ができて決断力のある経験者を施設管理者に置きたいんやわ。で、多恵ちゃんを所長に叶芽ちゃんを施設管理者にってこと。この贅沢なタッグは僕からしたら理想なんやわ」

 「でも、その時、高橋さんはどうするんですか?」

 「さぁ?どうしようかね。雇ってくれるのならご飯当番でどう?」

 「また冗談ばっかり。もしそんなだったら私たちやりにくくてしょうがないですよ」

 「じゃあ、引退かな。引退して田舎に帰るわ」


 「って話だったんだわ。高橋さん、ある意味本当に引退しちゃったわけだけど。それもあって一年後。だから、結局グループホームには三年務めたかな。そしていよいよハレル屋にてスタッフ兼施設管理者叶芽ちゃん爆誕の運びとなるわけですよ。会社の人事方にもこの話が通ってたみたい。もちろんハレル屋にいてるスタッフさんにも」

 あまり自分の考えを口にしない高橋さんが、叶芽ちゃん先輩やスタッフさんたちにはすっかりその思いを話していたことにまず驚いた。高橋さんが亡くなった後、叶芽ちゃん先輩をはじめ施設の先輩たちが、私が困っていた時や悩んでいた時にかけてくれていたた言葉の一つひとつが、その時のエピソードを合わせて甦り胸を詰まらせる。

 「さあ、もうすぐ高橋さんの実家、着くよ。今のうちに化粧直しときなや」

 叶芽ちゃん先輩にそういわれて、ずっと涙がこぼれ続けていたことにやっと気付いた。



【高橋さんの母 冴子さん】


 高橋さんの実家だという大屋根は、旧道きゅうみちにつながる三叉路さんさろまで来ると見えた。もともと茅葺きだったのだろう。今はトタンがかぶせられており、破風には『水』の文字も見える。旧道から家の前まで垂直に伸びた土の道は周囲の風景ともよく調和していて美しい。

 玄関の引き戸は開け放たれていた。叶芽ちゃん先輩は“開け放たれた引き戸は入っておいでの合図なんだから心配無用”とヤスノさんに聞いたというローカルルールを信じて自分の家のように入っていく。そう言い切られて私も玄関に入るために少し高い敷居をまたいだ。一歩入った家の中はひんやりとして気持ちよかった。また、それとは別に、外とは全く違った空気に包まれていて時間の流れが止まっているか止まっていないか、わからないぐらい緩やかになったようにも感じた。広い土間の奥に使われなくなって久しいと思われるかまどが見えたせいかもしれない。

 土間の小上りは腰かけて靴を脱ぎ履きするにはちょうど良い高さだが、昇り降りには支えが欲しかった。そこから座敷へはもう一段、10センチほどの段差を上がらなければならなかった。そこから見上げた柱には、最近見かけなくなったネジ巻き式の時計がその踏み台とともに現役で使用されている。

 一見、高齢者には不便そうに見える造りだが、見ると導線にあって邪魔に見える柱や壁のさんが手垢で黒ずんでいたり、格子戸や戸棚の角のぬりが薄剥がれたりで、それらがこの家での手すりの代わりをしているのだとわかった。

 勝手にここまで上がって、ようやく先輩は「こんにちは~。冴子さん、いる~?」と挨拶した。

「あで~、よう来てくれたぁ。つかれたっしょ。さあさ、どうぞどうぞ」

「ご無沙汰してます。その節はいろいろお世話になりました」

「ヤスノちゃんな。急だったもんね。あんなに元気だったのにね。私の方がヨボヨボで先に逝くと思ってたのに・・・。こんなとこではなんだから、こっちに、奥、上がって」

 私たちを出迎えてくれた冴子さんは左足をかばい、その太ももをさすりながら座敷へと案内してくれた。昭和16年生まれで、今年で83歳。髪は白くなっているので年相応といえばそうなのだが黒染めしていればもっと若く見えるだろう。頬の血色もよく、肌にも張りがある。 

 「ねぇねぇ、こちらがいつも電話で話してたうちの所長の多恵ちゃん」

 「はじめまして。大村多恵と言います。高橋さんにはお世話になって・・・」

 「聞いてる聞いてる。よぉー聞いてたよ。うちの子が『期待の新人が入って来た』って、言うとった。ほんにええ子そうじゃね」

 

 (“いえいえ。そんなことないです”は、悪い子みたいだし、 “はい、いい子です”っていうのも図々しい。ここは笑っとくか)


 「どうでしょう。あはは・・・」

 「・・・あー、もうそろそろ帰って来るころやで、お茶でも飲んでちょっと待っといてな」


 (私の笑いは完全にスルーされてなんだか恥ずかしい・・・。ところで、「そろそろ帰って来るころやで」って誰のこと?)


 もともと三回忌の法要は簡素に家族だけで済ますつもりだったそうなのだが「生前の息子の様子も聞いてみたい」との冴子さんの要望で、私たちが招かれたのだという話。高橋さんの家族は冴子さん以外知らない。

 「あれ?今、車の音したか?帰って来たか?」

 そう言った冴子さんの声が、近づいてくる足音の方へ私たちの視線を向けさせた。

 「えっ?」

 私たちは驚かずにはいられなかった。本物にしては若すぎる。でも、そっくりなのだ。あの高橋さんに。年齢は私たちより4,5歳くらい上くらいだろうか。

 「今日はお忙しいところわざわざお参りくださりありがとうございます」

 そう言って頭を少し下げた男性に私たちは声をかけられずにいた。

 「あー、これはせがれの浩二です。よく似てるからびっくりされたでしょ」

 冴子さんが私たちの様子にあわてて紹介した。

 「初めまして。浩二です。生前は父・一志が大変お世話になりました」

 「父・一志って!まさか高橋さんのお子さん?」

 少し猫背なところ、腕を組んで頷く様子、髪をかき上げるしぐさまで高橋そのままだ。でも、話し方に高橋さんのような強い関西弁は無い。

 「父は僕とは違って紀州弁がなかなか抜けなくて。初対面の人やよその地域の人からは、少し当たりがきついと受け止められることが多かったみたいです。このあたりは、年上年下あまり関係なく敬語らしい敬語も使わないことが多いし。その調子でほかの地域に行ったりするもんだから誤解されたりすることも多くて。だから余計に言葉足らずにしか話さなくなって・・・。そちらではどうでしたか?大丈夫でしたか?」

 「いえいえ。まあまあ・・・」

 そういって私は叶芽ちゃん先輩と目を合わせた。

 「やっぱりね。うちに帰ったときは仕事のことやスタッフさんの話をうれしそうにしてくれてたから、うまくやってくれているものとばかり。いろいろすみませんでした。でも、今日は話に聞いていた叶芽さんと多恵さんにお会いできてうれしいです。お二人のことは特によく聞いてましたから。

 そろそろ時間ですね。おばあちゃんと私はお寺へ行きます。ご一緒していただけますか?」

 「は、はい」


 (マイルドな高橋さんって感じ・・・。調子狂うよな。・・・ねぇ先輩)


 目をやった先の叶芽ちゃん先輩も私と同じことを考えているようだった。


 参列するのが家族と私たちだけなので、簡単に済まされるのかと思っていたが丁寧な法要だった。お寺でのお勤めの後はお墓で、それが終わるともう一度家でのお念仏。ご近所には粗供養も用意されていて、こちらはあとで配りに行かれるのだという。このあたりが昔ながらの慣習やしきたりを色濃く残す地域であることが感じられる。「ちょっと一服しましょ。ゆっくりしていってな」と冴子さんに案内された奥の座敷には仕出しも届けられていた。

 席に着くと浩二さんがお茶をれてくれた。「庭にある桑の葉で作ったおばあちゃんお手製の桑の葉茶なんです」と勧めながら、私たちの知らない高橋さんの話を始めた。

 「父は一見気難しそうに見えますが、とてもわかりやすい人間なんだったんですよ。ねぇ、おばあちゃん」

 「そうねぇ。好き嫌いがはっきりしてるから尚更なおさらだったねぇ」


 (“みんなには不思議大魔王って呼ばれてました”とは言えないな)


 「ちなみに、一志さんはこちらではいつまでお過ごしだったんですか?」

 「学校は高校まで。大学は京都の方へいって下宿してたから。でもあんまりなじめなかったみたいで。下宿してすぐに『水がまずい。水道の水がぬるくてペットボトルに水を詰めて送ってぇ』って電話がかかってきてねぇ。食べてるのはカレーとラーメンばっかり。『それしか口に合わへん』ってよう言うてたわ。『はよ、和歌山に帰りたい、はよ、和歌山に帰りたい』っていいながらの四年やったねぇ。そやから、就職はまたこっちで・・・。」


 (カレーとラーメン。あの食生活は大学時代からなのか)


 「小さい頃は?」

 「あー、ご近所さんにもすごくかわいがられた子やったよ。特におじいちゃんおばあちゃんに。小っちゃい時から大人びたことを言ったり、ちょっと生意気な受け答えをするところもあって、でもそれがなぜか嫌味に聞こえず、だから可愛かわいがってもらえたんでしょね。会う人会う人に『しばらく見んかったけどまだ生きとったんかいなぁ』とか言ってまわる子で、こっちは冷や冷やしましたわ」


 (あー。それわかる。そのまんま大きくなってる。朝の会でもよく言ってたわ)

 

 「倅の浩二はそんな田舎臭い父が苦手だったみたいで、高校から寮のある大阪の学校へ行ってそのまんま大学。就職した仕事の配属先も大阪で。だからゆくゆくは、一志も田舎に帰って私の面倒をみることを考えてくれてたみたいです。最後に帰って来た時も『わし、和歌山に帰ってお母ちゃんと暮らす。独りで置いとけへんやろ』って」

 

 (ハレル屋を引退するって言うのは本気だったんだ)


 「だから『お前、デイサービスはどうするの?』って聞いたんです。そしたら、『いい後継者ができたからお役御免になる日も近いし、こっちは何の心配もいらん』って。さあて、本気だったかどうかはわかりませんけどね」


 ここまで黙っていた叶芽ちゃん先輩が口を開いた。

 「高橋さんの冴子さんを思う気持ちは本当で、和歌山に帰るっていうのも、きっと本気だったと思います。今も力不足な私たちですが、高橋さんが大切にしていたデイサービスを託され、身が引き締まる思いです」

 私も力強く何度も頷いた。

 「そうですかそうですか。一志もいいスタッフさんに出会えて幸せだったと思います。ほんとよかったね一志・・・。さあ、せっかく用意したんだから残さず食べていってちょうだいね。ほら、お寿司も。一志はこの『柿の葉寿司』が大好物でね。こっちに帰ってくるときは自分で買ってきてたんよ」

 

 (こっちに帰って?あんまり帰省した話も聞いたことなかったけど。帰ってきたときは何してたんだろう・・・)


 「父は帰省したら、熊野本宮にかならずお参りしてました。よかったら後でご案内しましょうか?」


 (怖っ!さすが親子。大魔王感は一緒やな。もしかしたら大魔王的能力は熊野本宮で授けられたものなのか?)


 「差し出がましくすみません。父の話をしていたら僕も行きたくなって。おばあちゃんはどうする?」

 「私は足が痛いし、家にいてるわ」


 浩二さんからの熊野本宮へは車で3、40分ほどかかるという情報を最後に、そのあとの説明は全く頭に入ってこない。


 (見れば見るほど高橋さんにそっくりな息子さんだなぁ。お母さんはどんな人だったんだろう?って、お母さんは?)


 「そんなに見つめられると照れるなぁ。そんなに父に似てますか?

 で『お母さんは?』って聞きたいんでしょ?」

 「そんな、いえ、はぁ、まぁ・・・」


 (質問を聞き返してくるところが大魔王より大魔王)


 浩二さんと目が合っている私の脇腹を叶芽ちゃん先輩が肘で突いてくる。少し寄った眉は

 「(多恵ちゃん!そういうことは聞かないの、普通!)」

と言っているようだったので、

 「(私?何にも言ってないでしょ!)」

と言ったつもりで先輩の脇腹を突き返した。

 浩二さんは私たちのやり取りを気にするでもなく続けた。

 「母は僕を生んですぐに亡くなりました。それからは、おばあちゃんが僕の母親代わりです。僕、家を離れて高校から大学まで大阪だったでしょ。父は心配してたみたいで。ほら、うちは和歌山でも南の方じゃないですか。なんかあってもすぐに駆け付けられないって思ったんでしょうね。だから、僕がいる大阪で仕事を探してたみたいです。そんな時、母の同級生だったそちらの社長さんにお声掛けいただいてハレル屋さんにお世話になった・・・っていう話を聞いたことがあります」


 (高橋さんが前に『誘われたから』って言ってたのはそういうことだったんだ・・・)


 「おばあちゃんも歳をとってくるし、僕も心配だったし『今度和歌山への転属希望出そうと思ってる』って父に言ったら、『お前の人生やから、好きにしたらええ。そろそろわしが実家に戻るから。大丈夫や』って。それが、僕の言葉を聞いて決めたような口ぶりじゃなく、ずっと前から決めていたみたいな感じで・・・。

 さあ、腹ごしらえがすんだら熊野本宮にお詣りしましょう。大きな鳥居があるんですよ」


 食後は浩二さんの提案の通り、熊野本宮にお参りすることにした。浩二さんの先導が必要だったのは大通りに出るまでで、山の間を縫うようにして熊野川と並走する道は、熊野本宮直通と言って良い程迷いようがなかった。

 深い山間やまあいからぬける大きく右に曲がるカーブを立ち上がると、これまどの風景と一変した人の賑わいが感じられた。

 「そろそろじゃない?熊野本宮」

 叶芽ちゃん先輩の声に車のスピードを緩めた。沿道に目をやると、大勢の観光客の中に駐車場の係の方が振る誘導棒が目に入った。浩二さんもウインカーを出している。

 「ここみたいですね。浩二さんに続いて入りますね」

 車から降りると朝の情報番組を思い出した。予報どおりの暑さを感じる。近づいてきた浩二さんが手をかざしながら

 「上着は置いて行った方かいいですよ。階段もありますし」

 と声をかけてきた。


 (神社とかお寺は、おじいちゃんおばあちゃんの大好物なのに、階段が多いせいで“おまいり”をあきらめちゃう人が多いんよね。今日はご利用者さんの分もしっかりお詣りしなくちゃ)


 礼をして大鳥居をくぐると喧騒は遠のき空気感も一気に変わった。杉木立の中、進む参道は『熊野大権現』の奉納のぼりに囲まれる石段へと続く。漂う厳かな雰囲気に参拝者も自然と小声になる。いにしえより続く人々の深い熊野信仰。そのなかに私たちも包まれている。

 石段を登りきった先の神門をくぐると檜皮葺ひわだぶきの立派な社殿が目の前に広がった。参拝の列に並び、財布の中に五円玉を探す。

『お詣りのときは五円玉を用意しましょう。十円とうえんはよしましょう。縁が遠くなるから』と朝の会で話していた高橋さんを思い出す。


 参拝を終えた叶芽ちゃん先輩が聞いてくる。

 「ねえねえ、多恵ちゃんは神様に何お願いした?」

 「えっ?お詣りには日ごろの感謝をするんですよ」

 「そうなの?私、なんかいっぱいお願いしちゃったよ。図々しい奴って神様に思われてたらどうしよう・・・」

 「大丈夫ですよ。神様はそんなに心狭くないでしょうし。でも『ご利用者さんやスタッフさんが元気でハレル屋に来れますように』くらいはお願いしちゃいますよね」

 「私、もう一回並びなおしてお詣りしてこようかな・・・」

 二人の妙な会話をクスクスと笑いながら見ていた浩二さんが提案して来た。

 「熊野三山ってご存じですか?熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社のことなんですが、並びなおしてお詣りするくらいなら、速玉大社さん、那智大社さんもお詣りしてみては?こちらに来られた記念にもなりますし、新たにご利益が得られるかもしれませんよ。近くの那智勝浦港は生マグロ水揚げ高日本一。おいしいマグロも楽しめますよ」

 「どうする!多恵ちゃん!明日は土曜日で休みだし。今度和歌山に来れるのいつかわからへんし。ぼんやりしてたら、私たちおばあちゃんになっちゃうよ。そしたら後悔するかもしれへんし、ここは行っとこう!」

 

 (歳ってそんな急にとるもんですか?スーツケースの中の箱はありゃ玉手箱?もう!叶芽ちゃん先輩は食べ物にめっぽう弱いんだから・・・。熊野三山か。別にマグロがなくてもお参りしたいけど・・・。そうやね、もう一泊して和歌山を楽しんでもいいかも!)


 「そうですね、そうしましょ。」

 「さては、多恵ちゃん!マグロにやられたな!」


 (やられたのは“あなたに”で、マグロにではありません)


 「それじゃあ、お二人さん、僕はここで失礼します。祖母も待っているだろうし。父が大好きな和歌山は、いいところがいっぱいです。思いっきり楽しんでいってください。それが何よりの供養です。今日はありがとうございました」

 「こちらこそありがとうございました。冴子さんにもよろしくお伝えください。和歌山!思いっきり楽しみたいと思います。ね、多恵ちゃん!」


 帰りの挨拶に深々と頭を下げた後、私たちに背を向け歩き始めた浩二さんが、振り向いた。

 「最後に一つ聞いてもいいですか?」

 「ええ」

 「父はデイサービスの仕事を楽しんでましたか?父はデイサービスの仕事をどう思っていたでしょうか?」

 「楽しんでらっしゃいましたよ。それに『全力で打ち込めるステキな仕事』っておっしゃってました」

 「そうですか。それなら良かったです。変なこと聞いてすみません。それじゃ。叶芽さん、多恵さん。道中お気をつけて。さようなら」


 浩二さんを見送ってからは熊野速玉大社へお詣りした。朱色の社殿と真っ青に晴れ渡った空のコントラストが美しかった。ここでも叶芽ちゃん先輩の食いしん坊おばけが顔を出し『もうで餅』を買ってとせがまれ、一緒に食べた。香ばしい米粉の風味、程よい柔らかいあんこの甘さ、餅の柔らかさが気に入って迷っていた家族への土産もここで購入できた。

 速玉大社は駐車場からすぐに本殿へとお詣りできたので、続く熊野那智大社も気軽にお詣りできると思っていたのが大間違い。土産物屋の店主が、「一段一段数えて上がるとしんどいから数はで四百六十七段」と語呂合わせで教えてくれた階段数は、今日のお詣りを“またの機会にでも”とまで思わせた。


 「腹ごしらえして行くか!」

 「先輩、まだ食べるんですか?」

 「ほら!『おたき餅』が呼んでいる」

 「あなた、どんだけ餅好きなんですか!」


 熊野那智大社のあとは、青岸渡寺、那智御滝・飛瀧ひろう神社とおまいりし、熊野三山を堪能した和歌山二日目の宿は、那智勝浦港近くのビジネスホテルに決め、予約もせずに飛び込んだ。フロントのスタッフさんは慣れた口調でこちらの返答は二の次に、


 「本日ご宿泊ですね。

 お部屋はご一緒で良ければご用意できます。

 お二人とも勝浦は初めて?

 夕食ですが何かご予定は?

 よかったらこちらの『生マグロマップ』ご覧いただいて。おすすめはこちらのお店。マグロの希少部位を食べさせてくれるんですよ。あともう一つはこちら、マグロ定食が人気のお店で・・・」

 

 (『生マグロマップ』ってすごいな。那智勝浦にはそれだけマグロを楽しみに来られる方が多いということなのか。でも、たぶん叶芽ちゃん先輩はおすすめされた店は全部行くだろうな。私のお腹には『もうで餅』と『おたき餅』が・・・)


 「多恵ちゃん!どうする?私迷っちゃうわ。どっちにしよ?」

 「せっかくですし、両方行ったらどうですか?」

 「もう!多恵ちゃんったら食いしん坊なんだから!でも所長がそこまでおっしゃるのなら、わたくしお供いたします!!」


 (冗談のつもりで言っただけなんですけど。“両方なんて私は行かないよ”って言ったら怒るかな・・・)


 チェックインを済ませ、普段着に着替え直して外に出た。

 観光客を相手にする飲食店や土産物屋が多いのに、生活感が強く感じられるのはなぜだろう。観光客の姿があまり見られないからだろうか。遊覧船で楽しめるという『紀の松島めぐり』も、大きなマグロの看板が目印の『那智勝浦にぎわい市場』も今日の営業を終えている。

 どちらが言い出すでもなく自然な流れで、ホテルで勧められたお店が開くまでの時間は、観光桟橋に近いベンチに腰かけて海を見ながら過ごすことになった。時折、頬をなでてくる風が何とも心地いい。海は、港内を行きかう船の引き波が近づいてくるのがはっきり見えるほど穏やかで、波が桟橋にあたるたび優しく音を立てた。風も音も慌ただしかった今日の疲れを癒してくれている。

 あたりが薄暗くなるのにあわせて町の飲食店の看板に灯がともり、観光客と思われる人々の姿があちらこちらに見られるようになってきた。

 「そろそろ5時だね」とどちらからともなく声をかけ、いつまでも過ごせそうなベンチを後にした。

 歩く商店街のひなびた雰囲気がいい。そんな商店街にあって端の方、潮風が届くのは時折程度のところに店はあった。


 「いらっしゃい。お二人さん?カウンターへどうぞ」

 店の暖簾のれんをくぐると、すぐに店の女将さんが私たちに声をかけてきた。「おすすめは“マグロ定食”と“マグロお造り盛り合わせ”になってます」と言って出されたおしぼり。私たちのことが観光客とすぐに分かったのだろう。

 「じゃあ、そのおすすめを2つずつお願いします。それから、ビールを・・・。多恵ちゃんは?・・・じゃあ、それは一つでいいです。あとマグロの内臓を二つ」

 注文した中で一番早くに運ばれてきた生ビールを、勢いよく飲む叶芽ちゃん先輩の横顔に大人感が感じられる。“私も飲めたらもう少し大人っぽく見えるのかなぁ”などと思いながら、飲み干したジョッキを高く上げおかわりを注文する叶芽ちゃん先輩を見ていた。

 「お待たせしました。マグロお造り盛り合わせです」

 「おー!来た来た。これこれ!いただきまーす!・・・なにこれ!おいしー!」

 “旨みたっぷりの生マグロは食感も良く味わいも濃厚”と聞いていたがその評判に偽りは無かった。お酒を飲まない私にも「これはお酒が進むよね」と言わしめる。叶芽ちゃん先輩は「子どもにわかるんか?」と大人を気取って、今度は日本酒を注文していた。

 

 「ごちそうさま~。おいしかったです!また来まーす」

 そういって店を出た時には、すっかり日が暮れていた。 


 「マグロのお刺身おいしかったね。酢味噌で食べたあれも!」

 「先輩、美味しそうに食べてましたよね、あれマグロの内臓でしたね。私も初めて食べました。さすが生マグロ水揚げ日本一那智勝浦って感じですよね。」

 「こりゃ探せば、まだまだおいしいものがみつけられそうだねぇ。どうだね多恵くん、もう一軒?」

 さっきまでカッコいい大人の女性だったはずなのに、妙なおじさん感が出てきてしまっている。


 (カッコよかったのはビール二杯目くらいまでだったなぁ) 


「ちょっとぉ!先輩、ただの酔っぱらいって感じですよ。ってか、お酒飲めたんですか?」

 「今日・・・初めて飲んだ・・・」

 「あーもう。明日もあるんですから。今日はこのへんにしときましょ。」

 「もう!多恵ちゃんったら・・・夜は長いんだよ~。君は先輩に付き合えないって言うのか!」


 (あらら。しかし、叶芽ちゃん先輩って飲むとこんなになっちゃうんだ・・・。一緒に行くのはラーメンだけにしようかなぁ。何はともあれ、これ以上飲ますわけにはいかないなぁ)


 「さあさあ!先輩。勝浦って言ったらマグロだけじゃありませんよ!温泉だって超有名なんです。知ってます?港に足湯があるそうなんで、行ってみましょうよ」

 「・・・そうか!よし!行こう。では案内せい!」


 (あなたがお供してくれるって話はどこ行った?)


 港の桟橋では、夜の海が真っ黒な口を開けていた。穏やかで波の音も聞こえない。歩く人影もなく、漁の準備をする船の明かりだけが海面に映ってゆらゆらゆれている。

 午後9時をまわっていたこともあって、港内の足湯を利用するものは私たち以外にだれもいない。全く贅沢な時間だった。貸し切り状態で海を眼前に、二人並んで至福の時間。足を揺らすたび大きく小さくを繰り返しながら湯船からこぼれでる湯の音に自然とまぶたが閉じていく。湯船前の台座の高さがちょうどよく、二人ともそこに頬杖をつくと楽だとわかり、私たちの体も心も一層落ち着いた。

 

 「・・・ねえ、多恵ちゃん。知ってる?」


 そう言って話し始めたのは『熊野詣』の話だった。「熊野は、生きる力をもう一度いただく遥かな『よみがえりの地』であり『新たな出発の地』であるという。


 (ただの酔っぱらいかと思ってたけど。いったいいつそんなこと調べたんだろう。そうか!叶芽ちゃんちのおばあちゃんも確か和歌山だっけ。きっとおばあちゃんの受け売りなんだろうけど。『新たな出発の地』かぁ)


 ふと見た叶芽ちゃん先輩は、頬杖をついた姿勢を崩すことなく目を閉じたままだ。


 (やれやれ。寝ちゃったか。世話の焼ける大きな子どもだこと)


などど思っていたら、再び話し始めた。

 

 「・・・多恵ちゃんさ、どんどん大人になっていくんだよね。まぁ、そりゃ、あたりまえっちゃあ、あたりまえなんだけどさ。・・・安定感?っていうのかな・・・。いいんやで、それはそれでいいんやけど。・・・でも、最近の多恵ちゃん、このまま、こじんまりおさまっちゃいそうなで・・・。

 多恵ちゃんはさ、・・・まだ若いんだからさ。若さってさ、物事を切り開いていくパワーだったり、失敗してもやり直せる根拠だったりすると・・・思うねん。守りに入るのはまだ早いって・・・。

 落ち着いたって言えば・・・聞こえはいいかもしれへんけど、歳より心が老けちゃってない?早く歳をとりたいとかさ・・なんか、そんなつまらん事とか考えたり・・・してない?・・・」


 かなり酔った口調で聞き取りにくいところもあったが、私に言わんとすることは十分に理解できた。自分でも思い当たる。


 「反論が無いわけではないですが、でも、あらためて言われるとほんとそうやなぁって。実はうすうす気づいていた感じもあるんです。みんなに『多恵ちゃんらしく』って言われるたび『私ってどんなだったっけ?』って彷徨さまよってもいました。でもわかったかもしれません。ちょっとおりこうさんになりすぎてたかも。

 高橋さんの後を継いで私なりにやってきたつもりだったんだけど、“高橋さんならどうするか”ばかりを考えてしまっていたような気がします。

 それじゃあダメってことですよね。そうだよね。一体私はどこを向いてたんだろうね。“高橋さんなら”じゃなくて“私なら”って気持ちで利用者さんと向き合っていかなくちゃね。そういうことでしょ、ねぇ・・・、ねぇ・・・先輩?・・・。あれ?・・・なんだ寝ちゃったか」


 (ほんとにもう!ほんとに・・・いつもありがとう)


 「さぁ、先輩!こんなところで寝たら風邪ひきますよ。明日は潮岬で日の出見るんでしょ。早く帰って休みましょう・・・。

 さぁ、帰りますよ。支度できます?・・・

 あー、もう!さあ、ちょっとこっち向いて、しっかり私の肩を持っててくださいね。今、脚拭きますから」


 (旅先で先輩を介護するとは思ってなかったなぁ。我ながら靴下履かせるの上手だわ。まぁそりゃそうか。私ってばプロだったわ)


 「ちょっとトイレ行ってくる」

 「ダメダメそっちは男性の方ですよ・・・女性はこっち・・・。あーあ、行っちゃった。まあ、飲んでおっさん化してるし、男性の方でもいいか・・・」



【本州最南端】


 「ほら、時間よ!起きて!」

 「・・・えー・・・。先輩、まだ4時ですよ。いくらなんでも早すぎませんか?」

 天気と日の出の時刻は昨日のうちに確認しておいた。目的地の天気は晴れ、降水確率10パーセント。日の出は確か午前6時4分のはずだ。

 「何言ってるの!ここから潮岬までは1時間くらいかかるんだから。絶対見逃せないんだからね、この二人旅のフィナーレ!遅れたら大変なんだから!さあ早く早く!」


 (昨日フラフラの先輩をホテルまで連れて帰って、服を着替えさせて・・・。一体だれがしたと思ってるんですか?あなたって人はもう全く!)


 「はいはい・・・。ちょっと待ってくださいねぇ、今、支度しますから。」

 「その言い方、なんかおばあちゃんみたい。私、これからコンビニに朝ご飯買いに行ってくるから。ちゃんと支度しといてね。そうそう、忘れ物のないように。ほんと多恵ちゃんはそういうとこ、子どもなんだから」


 (人のことを、おばあちゃんにしたり、子ども扱いしてみたり・・・。全くお忙しいことで)


 潮岬と言えば本州最南端。そこで日の出を見るなんて何て贅沢な一日の始まりだろう。そう思えば叶芽ちゃん先輩のも理解できる。


 チェックアウトを済ませ、叶芽ちゃん先輩に急かされるまま潮岬を目指した。カーナビは「景色の良いルートに入りました」と海沿いの道に入ったことを教えてくれていたが、あたりは真っ暗でヘッドライトが映し出す眼前の道とガードレールの反射板しか見えない。


 「ちょっと早く着きすぎませんかね。到着予定時刻は5時30分くらいですよ。だとしたら日の出まで30分以上あるし」

 「最高の場所で最高の朝日を見るんだから。場所取りよ!場所取り!」


 そう言われればそうかもと気持ちアクセルを踏み込んではみたものの、元日の朝ならいざ知らず、今日みたいな日に人なんているのかなと思ってしまうほど、すれ違う車も少なく前にも後ろにも車のライトは見えない。

 ようやくついた潮岬では、『本州最南端』と書かれた石碑だけがと私たちを迎えてくれた。思った通りこの時期、このタイミングでの日の出鑑賞のニーズは一般的には薄かったようだ。

 「すごいじゃん!多恵ちゃんと私、二人で独り占めだよ!」


 (二人なのに独り占めって・・・。でも、まあ意味は分からなくはない)


 あたりが白々してくると真っ黒だった海に表情が現れる。岩にあたって白くしぶきを上げる波、大きくやさしいうねり、遠くには大きな船が行き交っているのも見えた。

 展望台から少し左手の空が赤らんでくると、それまで口数多く叶芽ちゃん先輩も次第に静かになってじっとその時が来るのを見守っている。

 私の腕時計のアラームが午前6時を告げた。

 「多恵ちゃん!もうすぐだよ!」

 「なんか緊張してきました、私」


 「うわぁ、出そう・・・やった!出た!」


 (こういうところなんですよ。叶芽ちゃん先輩にはもう少しデリカシーさを身に着けてもらいたいものだ)


 「きれい・・・」

 人は本当にきれいなものを見た時、それ以外の言葉は出てこないらしい。こんなに大きく、赤く、真ん丸な太陽は始めてだ。あたりの景色もまぶしく黄金色に照らされ、まるで命が吹き込まれたように浮かび上がる。


 「あのね、先輩」

 「ん?」

 「和歌山の旅、誘ってくれてありがとうございました。すごく素敵な時間になりました。熊野は、生きる力をもう一度いただく遥かな『よみがえりの地』であり『新たな出発の地』っていう話。今の私にはぴったりでした。なんか私、元気出てきました!」

 「熊野?甦り?新たな出発?なんだそりゃ?そんな話どこで聞いた?」

 「昨日、先輩が・・・」

 「どんな話?教えて!」

 「うそぉ~。もう、何かに憑依ひょういでもされてたんですか?なんか怖いんですけど!サブいぼ出てくるぅー」

 「えー!そんなこと言われてもぜんぜん知らんし。ってか帰りに温泉入っていこう!南紀は温泉が有名なんだよ!知ってる?」

 

 (はぁ~?昨日足湯につれていってあげたでしょうが!でもまあいいか・・・) 


 帰りの車の中でもそれとなく昨日の夜のことを尋ねてはみたが、出てくるのはマグロのお刺身の話ばかり。熊野詣の話については『熊野詣』自体を叶芽ちゃん先輩は全く知らないとのことだった。嘘をつけない人だと知っているだけに、それ以上昨日の夜のことをあれこれ質問するのはやめた。


(だとして、あの話をしてくれたのは誰だろう?熊野の神様だったのか?。でも、なんかどっかで聞き覚えのあるあの口調・・・だれだったかなぁ。


 わかった!思い出した!大魔王。間違いない!あの時、降臨してたんや。だとして、いつから?どこまで?)



【胎動】 


 『新たな出発の地』への旅から一年が経とうとしている。あれからも傍目はためには何ら変わったことは無いように見えるだろうが、私の心の在り様は少し違っている。高橋の名前が出てくるのは叶芽ちゃんと二人で飲みに行ったときくらいで、もちろんハレル屋の中では話題に上がることもない。それはご利用者さんに高橋を知る人がいなくなったということを意味していた。意識しなくていい分“こんな時、高橋さんなら”と考えることも少なくなっている。


 「ねえ、叶芽ちゃん。だれか一緒に働いてくれるいい人おらんのですか?前の職場とか、知り合いとか、知り合いの知り合いとか・・・」

 「あのねぇ。そんな人がおったらもう呼んでるって」

 「そうやんね。このところ求人出しても全然電話も鳴る気配すらないし。弱ったねぇ。どうしたもんでしょ」

 「どこの事業所もおんなじこと言うてるわ」


 “スタッフ急募”として、ハローワークや求人広告を使って告知しているが世間の反応は薄い。来月のシフトをどうするか、叶芽ちゃんと二人、庭で草引きをしながら今月も頭を悩ましている。


 『多恵ちゃーん。職安から電話です。求人の応募があったそうで。外線3番です』


 そう言って、杉本母さんから電話の子機を窓越しに預かった。スキップしてデイルームにもどる杉本母さんの後ろ姿からも嬉しさがにじみ出ている。シフトの調整では、働くスタッフさんにもだいぶ無理を聞いてもらっていることが思い出され、あらためて皆に感謝した。


 「やったね!多恵ちゃん!噂をすればなんとやらって!」

 「久々やし緊張するわー。はいはーい只今出ますよー。外線3番っと」

 「頑張って!所長!」


 受け取った子機を片手に(任しといて!)とばかりにガッツポーズを決め、一つ咳払いをして電話に出た。


 「お待たせしました。担当の大村です。

 ・・・はい。現在も募集中です。

 ・・・はい。特に資格の有無は問いません。

 ・・・はい。できればすぐにでも面接を?

 ・・・はい。

 ・・・お名前が

 ・・・はぁ~?

 ・・・いえいえ。すみません。大丈夫です。

 ・・・はい。来週ですね。土曜日ならお時間は14時で。

 ・・・ご本人に。はいご連絡ください。

 ・・・念のため、はい。電話番号が・・・わかりました。ありがとうございました」


 私が電話を切るのを確認した叶芽ちゃんがすぐに聞いてきた。

 「ねえねえ、どうだったよ。新しい人、男性?女性?」

 「男性。」

 「ほー、珍しいね。男性か・・・で、歳は?」

 「私たちよりちょい上、30は行ってない感じ」

 「『感じ』って、見たことあんの?まさか知り合い?」

 「知り合い。ってか、叶芽ちゃんも知ってると」

 「誰よ誰よ。もう~!・・・わかった!大天竜の店員さん?」

 「んなわけないでしょ。聞いたら驚きますよ。きっと」

 「なんだよ~。もったいぶらないで早く早く!」

 「あらためましてそれでは発表します!その人とは


 ・・・高橋ジュニア!」

 

 叶芽ちゃんの時間がほんの2、3秒だったが、止まったように見えた。思考が追い付いていない様子がわかる。その後、止まっていた時間を取り戻すかのように叶芽ちゃんが早口でまくし立てる。

 「うっそ!まじで?なんで?だって、和歌山やろジュニアは。同姓同名の別人ってことは?」

 “ちょっとちょっとおちついて”と叶芽ちゃんの暴走をいさめながら、さも自分が落ち着いている風で返答をした。

 「無いな『現在は和歌山県にお住まいです』『そちらの事業所さんのこともよく知っておられる方で』って職安の人が言ってたもん。なんでうちに応募して来たのかなんてそんなん知らんし。面接のときに聞いてみたらいいじゃないですか。で、面接は今度の土曜日なんやけど、どうします?叶芽ちゃんも出ます?」

 私の問いに(答えを出すのに時間は必要ない)とでも言いたげに、すぐ返事が返って来た。

 「出る出る。そんなん出んでおれますかいな!そうと決まれば予約してた美容室断っとこ。いや待てよ。私・・・金曜日に休みもらえる?」

 「無理無理。そんな急に休みとってもらえませんから。でも、休みとって何するの?」

 「美容室行く!」

 「はぁ~?」

 「多恵ちゃんは行っとかんでええの?美容室」

 「やっぱり行っといたほうがいいですか」

 「そら、行っといたほうがええやろ。面接官が頭ボサボサって。そんな人、多恵ちゃんから聞いたあの人一人しか知らんで」

 「ほな、私も行っときます」

 「しかし、しもたなぁ・・・。こんなことやったらもうちょいダイエットしといたらよかったわ」

 「そやね、叶芽ちゃん最近一段と太りましたもんね。そやからラーメンにライスはやめときって・・・」

 「言わんとって!あかん。あかんわ。もう、あかん。なんか緊張してきた。ちょっとトイレ行って出してくる。せやけど間に合うやろか・・・」


 (トイレか?ダイエットか?デリカシー・・・)


 それからというもの面接の日まで毎日早く出勤して、庭木の手入れをしたり、塗油のつまりをなおしたり、雨戸を拭いたりと忙しく掃除に励んだ。これまでも特にサボっていたわけではないが、落ち葉の一つも以前よりも気になって仕方がない。

 前日には二人そろって夕方から美容室へ行った。鏡越しに打ち合わせをする私たちが頭を右へ左へよく動かすものだから、その度にそれぞれの美容師さんが頭を押さえた。

 「ねえ。でも、どうしてだと思う?わざわざ大阪にまでって。なんぼ隣りや言うても京都寄りやでここ。和歌山にもあるでしょうよ、デイサービス」

 「ね。私もそう思います」

 「はぁ~わからん。わからんわ~。多恵ちゃんはその後ジュニアとは連絡とったりしてたの?」

 「いやいやいやいや。そもそも連絡先とか知りませんし。叶芽ちゃんこそどうだったんですか?」

 「右に同じ」

 「まあ、明日になったらわかることなんだし。平常心で臨みましょう。」

 「平常心?なんじゃそりゃ。こっちが面接されるみたいやん。あかんわ~緊張してきた。緊張しすぎて・・・お腹すいてきた。この後、大天竜行く?」

 「行っときます!腹が減っては戦はできませんから」

 「さすが多恵ちゃん!よく言った!」

 

 二人ともアドレナリンが異常に分泌しているのか、大天竜でもラーメンもテンションも普段の1.5割増しだった。

 考えても無駄とわかっているはずなのに、浩二さんの志望動機をあれこれと詮索した。もちろん自分たちが運営しているハレル屋に自信はある。けれども遠く離れた和歌山にまで噂がとどろくほどのことはない。小規模の地域密着型のデイサービスはその地域に根差した取り組みを目的としていて、保険者・被保険者の関係からも他の市区町村からの利用者の受け入れには制限があるからだ。

 考えれば考えるほどわからないことだらけで、今日のところはひとまずお開きとし、面接時間は14時なので“お昼に集合すれば十分だろう”と約束をして大天竜を後にした。


 “お昼に集合すれば十分だろう”はずだったのに、翌朝になってみるとやはり落ち着かず、結局普段通りに出勤してしまった。“もしかして”と施設の駐車場に立ち寄ると、すでにやっぱり叶芽ちゃんの真っ赤なスポーツカーが止まっていた。

 「おはようございます。やっぱり来てましたか。叶芽ちゃんはどうでした?昨日、寝れました?」

 「おはようさん。多恵ちゃんこそ。お昼集合やったはずやん。私?私はあかんかった。ぜんぜん・・・。寝不足」

 「そうみたいですね。目の下にくまできてますよ」

 「そういうお主は?」

 「右に同じです」

 「顔に疲れが出てるわぁ。だって毛穴が開いておる」

 二人でため息をついて、その後お互いの顔を見て笑いあった。優に6時間はある面接までの時間をどうやって過ごしたものかと二人で考えたが妙案は浮かばず、普段通り叶芽ちゃんは通所介護計画書の作成、私は個人ファイルの整理をして過ごすことにした。無理なくちゃんと過ごすいつもどおりは心地いい。


 約束の時間まで30分あまりとなったその時、玄関先で男性の声がした。

 「すみません。本日面接のお約束をいただきました高橋です。どなたかいらっしゃいませんか」

 「・・・はいー。ただいまー(叶芽ちゃん出てくださいよ!)」

 「・・・少々お待ちくださーい(ここは所長が行ってよ!)」 

 いつもならば、“面接官は自分が”と言わんばかりに前に出てくる叶芽ちゃんなのに、今日は私の後ろに隠れようとする。立ち位置が定まらないばかりか、どうやってお招きしていいのか、掛ける最初の一言すら思い浮かんでこない。

 「こん・ちは。ご無沙汰・・・してます。大村多恵です」

 「お、同じく・・・です。すみません。西尾叶芽・・・です」

 浩二さんに私が用意した飛び切りの笑顔は、さぞ引きって見えたことだろう。そんな表情にさせたのは、主たる面接官としての立ち位置を押し付けられたからというだけではない。朝から雲一つない気持ちの良い青空が眩しすぎて、浩二さんの表情は逆光で暗くしか見えず、それがかえって高橋父に一段とそっくりに見せたからだ。

 「高橋浩二です。その節はお世話になりました。また本日は面接を快くお引き受けいただき誠にありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」

 目がだんだんと慣れてきて、浩二さんの表情が確認できる。浩二さんにはいささかの緊張も見られない。襟足と耳周りを短く切りそろえた黒髪、アイロンの良く当たったワイシャツに黄色と青のレジメンタルストライプのネクタイ、しわのないプレスのきいたスーツパンツ、きれいに磨かれた先のとがった革靴、左腕の小脇に抱えたジャケットの先には靴と同じ色の皮素材で合わせられたカバンが握られている。


 (面接官として、“この時点で採否を決めなければならない”と言われたら、即採用する)


 そんなことをぼんやり考えていると叶芽ちゃんに先手を取られた。

 「まぁまぁまぁまぁ、こんなとこですけど、どうぞおあがりください。私、お茶入れてきます。あと所長お願いします」

 「ずるい!お茶は私が!先輩の叶芽ちゃんにお願いできません!」

 そそくさとキッチンに入っていく叶芽ちゃんの後ろ姿に「どうぞお構いなくー」と声をかけた後、浩二さんは続けた。

 「お庭、素敵ですね。行き届いたお手入れに季節のお花。ご利用者さんも楽しみにしておられることでしょう」

 「はい。まぁー。お父さんも庭の手入れを熱心にされていました。ご利用者さんに喜んでもらうんだって・・・。立ち話もなんですので、どうぞ」

 デイフロアーは面接用のセッティングにしておいた。休館日と言うこともあって普段使いの机といすは部屋の端に寄せられていて、フロアーが普段より広く感じる。 向かい合って席に着いたが、浩二さんの後ろに見える景色がいつもと違って見えて、自分たちの職場なのにアウェー感を感じる。

 「あのー。大村です。覚えてくださってますか?」

 「もちろんですよ」

 「で、浩二さん、今日はうちの面接に来られたということですが・・・」

 「はい。職業安定所でこちらの求人を拝見いたしましたので応募させていただきましたが」

 「でしたね。でも、どうして?」

 「ダメでしたか?」

 「いえいえいえいえ。とんでもないです!ありがたい限りなんです」

 こちらが面接官であるのに緊張が解けず、続く言葉も見つからないで座も持たない。やっとのことで出る言葉もどこかで借りてきたよう。いつもなら好き勝手しゃべっている私、おまけにその姿をみて笑うご利用者さんたちもおらず、全く調子がつかめないでいる。

 「ねぇ!叶芽ちゃん、叶芽ちゃんったら。もう早く来てよ!早く早く!」

 いつまでたっても私の隣に現れない叶芽ちゃんを応援にとフロアーから呼ぶと、キッチンから、

 「わかったって、わかってるから急かさないで。だってお湯沸いてないんだから!ってか、いつもお湯ってどうやって沸かしてるの?」

 と叶芽ちゃんの焦る声がした。

 「あはははは。それじゃあ、お湯が沸くまでの間、せっかくですし、お庭を拝見させていただきながらお話しませんか。お時間いいですか?叶芽さんもどうぞー」

 私たちに対して浩二さんのどっしりと落ち着いた様子が施設とよく馴染んでいる。施設も本来のあるじを迎え入れたかのように思える空気感をまとっている。

 

 (アウェー感の正体はこれか)


 浩二さんの提案の通り、庭に面した縁側に三人並んで足を投げ出した。沈丁花が今年もきれいに咲き、その甘い香りが土と苔の香りの合間に風に乗って運ばれてくる。

 「浩二さんは、これまでは何を?」

 「やっぱり面接みたいになっちゃいますね」

 「いや、そういうわけじゃなくて」

 「あはは。なら、これ履歴書と職務経歴書です」

 「あっ、どうも拝見します・・・」


 書かれている一字一字に懐かしさを感じた。見覚えのあるその字は高橋さんのものにそっくりだった。筆圧が濃く直線的でありながらどこか丸みがあるきれいに整った読みやすい文字。ご利用者さんに書かれた連絡帳で幾度となく見た文字だった。

 そんな懐かしさを感じながら履歴書を眺めていると、横からのぞく叶芽ちゃんが声を上げた。 

 「えっ!看護師⁉」

 「はい。和歌山の方で勤めていました」

 


【父 高橋一志】


 「おかえり。」

 「なんや、父さんも帰ってたん?。最近どう調子は?ちゃんと病院で診てもらってる?」

 「まあなんとかやね。浩二は?」

 「『浩二は?』って、俺のことはいいから。ちゃんと薬飲んでよね。それから煙草、病院でもやめるように言われてるやろ!暴飲暴食もダメ。ちゃんと守ってる?」

 よく言ってくれたと言わんばかりに祖母が頷く。

 「あーあー。和歌山にはお母ちゃんが二人もおるから、うるそうてかなわんわ。さてと、明日も仕事やし、そろそろ帰るといたしましょ」

 「もう!あんまり無理せんと。体、気ぃつけや」

 「おう。浩二もな。ほな、また来るわ」


 大学卒業後は勤め先の近くで独り暮らしをしている。父と会うのは実家の和歌山でだけ。それもごくたまにで、聞きあうのはせいぜい近況程度と仕事の話。それ以外は祖母から聞く情報でお互い補完している。

 仕事は資格を生かして和歌山にある病院で看護師として勤めている。勤務しているのは緩和ケア病棟。まだまだ看護師としての経験も浅く、それは人生経験についても同じことが言えて、毎日が勉強と言った具合だ。それでも自分なりに成長できたと実感できる日もあり、この仕事のやりがいにもつながっている。

 入院されている方は末期のがん患者さんが多い。一口にがんと言っても頭部・頭頚部とうけいぶ・胸部・消化器・泌尿器など部位も違うし、それぞれステージも違う。同じ人であっても、日・時間帯によっても調子が大きく異なる。やりがいがあるとは言ったものの、病気と体の調子で常に揺れ動く心、気持ちに寄り添うことの難しさを痛感する日々を重ねている。

 今思えば、勤め出した最初の頃は必要以上に寄り添おうと思いすぎて“何かをしなければ”とついつい先回りをしていたような気がする。そのせいで自身で些細なことでも問題として仕立て上げ、結果悩むことが多かった。

 そんな時、父から聞いたアドバイスが『曖昧さを受け入れる』だった。


 「浩二には偉そうに言ってるけど、これが難しいのなんのって・・・。父さんが日々関わってるおじいちゃんやおばあちゃんにとっては『老(い)』、浩二がお世話している患者さんたちにっとっては『病』なんかな。人がそれを意識した日から心は常に揺れ動き、一秒として同じところにとどまってないんやわ。だから一日一日、一回一回出す答えが違っててもいいと思うし、儂らはその曖昧さをまずは受け入れることが大事やと思うねん」


 私たちにとって『老(い)』『病』は、自分たちの生活の対極に位置する。だからこそ無意識でいられる。無意識で過ごすからこそ、本当の意味での『苦』を共感することは難しい。


 「『曖昧さを受け入れる』かぁ。でもそれをしなくちゃならないとして、僕たちがそれをできる近道ってないの?」

 「そやなぁ。遠回りに見えるかもしれへんけど、日ごろからの関係づくりが近道やろうな」


 悩み、悲しみ、不安や焦りを人は隠したがる。だからそれらは見えづらい。話してさえくれれば、多少なりとも分かり合えることもある。だから相手が心の声を出しやすくするために、日ごろからの関係づくりが大切ということなのだそうだ。

 加えて、生き方については正解も不正解もなく、ましてや他人の『どう生きたいのか、どんな自分でありたいのか』なんてわからないことの方が普通で、もしわかったとしても関係が終わった後であることが多いのだと、父は自身の経験を踏まえて一言一言丁寧に言葉を選びながら話してくれた。


 「なるほどね。それ誰に教えてもろたん?」

 「小嶋先生」

 「やっぱりな。最近あってるの?小嶋先生と」

 「あんまりかな。そや!お前もそろそろあってみるか?勉強になるから」


 僕自身、話によく登場する父の恩師にあってみたい気もするのだが、父が小嶋先生とご一緒した日は決まって酔っぱらって帰ってきて玄関でそのまま寝こけている。「勉強になるから」と誘っているが、自分の介抱要員にという気持ちが半分以上を占めている気がしてこれまでの誘いは遠慮してきた。


 父と二人で夢中になることは仕事の話ばかり。お互い休みが重なったりしたときは、父から時間を取ってくれたりしていろいろ相談にも乗ってもらった。


 「ところで、父さんがイメージするいい介護職員さんってどんな?」

 「そやなぁ。『水』みたいな人かな」

 「『水』?って」

 「そう。『水』ってな、四角い容器に入れたら四角くなるし、まあるい器にいれれば丸くなる。どんな形にも変われるのが『水』やねん。父さんに、亡くなった息子さんをイメージする人もおるやろう。友達を期待する人もおるやろう。もしかしたら恋人を連想する人もおるかもしれんな。だから相手の用意した器の形にあわせて自分の形を変えられる、そんな人がいい介護職員さんなんとちゃうかな」

 「父さんはなれてる?」

 「さぁ、どうかな。一応頑張ってるけど・・・。『水』ってなすごいんやぞ。冷やせば『氷』になって固まるやろ。煮詰めれば『湯気』になってとんでいくやろ。形は変わっても本質は一緒で『水』やねん」

 「誰に教えてもろたん?それも小嶋先生?」

 「これは、戦国時代の軍師、黒田官兵衛やがな。『水五訓』ちゅうてな・・・」

 「俺、歴史きらーい」

 「こらこら、『賢者は歴史に学ぶ』って知らんのか?」

 「知らーん。でも、父さんの知ってる人で、そんな『水』みたいな介護スタッフさんっておるの?」

 気になって聞いてみた。父のこんな話に付き合ってくれそうな人なんて、そうはいないはずだと思ったからだ。すると以外にも

 「それがおるんよ。『水』みたいな子が。今のところに一人。一緒にお仕事しようって誘ってる子でもう一人。二人とも浩二よりも若いけどおもしろい子たちなんやわ。一回あってみるとええわ」

 「それって、いつも話に出てくる子ら?」

 「そう。わしに言わせたら、ありゃきっと魔女やわ。いや、今んとこと『魔女っ子』って感じやけどな。この間もな・・・」


 今思えば、何でもいい、少しでもいい、お小言でもいい。父からもっともっと聞いておきたかった。


 「一志の息子、浩二です。

 本日は雨の中をご会葬くださいまして、まことにありがとうございました。おかげさまをもちまして、父の葬儀ならびに告別式をとどこおりなく終えることができ、これより出棺の運びとなりました。

 このように多くの皆様にご参列いただき、父もさぞ喜んでいることと思います・・・。

 すでに皆さまご承知かとは存じますが、父は一昨日、心筋梗塞のため帰らぬ人となりました。享年五十三歳でございました。


 早くに母を亡くしてからは、父と祖母が私を育ててくれました。社会に出て、これで少しは父にも楽をさせてやることができる、これから親孝行ができると思っていた矢先に旅立たれてしまいました。あまりに突然のことで、父の死をどのように受け入れればよいか、正直わからないでいます。祖母も気持ちの整理がつかず、本日は参列できないでおります。失礼しておりますが、なにとぞご容赦ください。


 地元、和歌山のこのあたりでは、どこへ行っても、だれに合っても『あぁ!一志さんとこの浩ちゃんか』と呼ばれ、自分でも無意識に『一志の息子の浩二です』と自己紹介してしまいます。成人してからも、父・一志の名前を出さなければ、話を切り出すこともできない自分を情けなく思うのと同時に、父に追いつけないまま逃げ切られてしまったという残念さと、思った通り素敵な父であったことが誇らしく・・・。いろいろな感情が入り混じった複雑な気持ちです。


 父には将来のことや悩んでいることなどを相談したかったのですが、それも今は叶わなくなりました。

 これからは、父に及ばなくとも少しでも近づけるよう、その面影を追い求めつつ回向に努めてまいりたいと存じます。


 皆様には、故人が生前賜りましたご厚情にあらためてお礼申し上げます。残された祖母も何分高齢、父の生前と変わりないご支援、ご助力を賜りますようお願い申し上げます。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

 本日は、本当にありがとうございました」

 


【大魔王降誕】 

 

 浩二さんの話を二人で静かに聞いた。お話し好きだったというのは本当だったようだ。家族のことなどはあまり口にはしなかったが、“いいお父さん”だったこともわかった。でも、通院してたなんて・・・。

 

 「お父さん、お体良くなかったんですか?」

 「ええ、まぁ。健康診断でも『要検査』ばっかり。実際体調が悪かった日もあったみたいですよ。“通院してる”とか“薬飲んでる”とか言ってましたけど、私たちを安心させるために嘘をついてたかもしれません。何といってもまぁ病院嫌いな父でしたから。わかりませんけど・・・」

 「冴子さんは?」

 「今は、おばあちゃんの妹と一緒に老人ホームに」

 「そうですか」

 「多分、僕に気を使ってのことだと思います。自分がいることで僕を田舎に縛ってしまうと思ったんじゃないでしょうか。僕が入所のことを聞いた時には手続きまで済ませてましたから。で・・・」

 「で?」

 「僕も好きなことをやろうって」

 「で?」

 「デイサービスに」

 「で!デイサービス?もしかして、それでハレル屋?」

 「そうです。父がいたデイサービスハレル屋さんで。おばあちゃんも賛成してくれました。魔女っ子さんたちのもとで、修行させていただけませんか?熊野本宮さんに一緒にお詣りした時に決めました」


 (熊野本宮さん、『新たな出発の地』ってこと?高橋さんに私ら魔女っ子って呼ばれてたん?)


 「人の心の中にも気が付けば水みたいに“すぅー”って入っていくところがこの世のものではないようだと。あと周りを巻き込んでいく迫力、壁にぶつかって尚増す勢い、あと得体のしれない可能性と将来性を感じるとかで・・・。だから魔界の女の子で『魔女っ子』と。あと・・・」


 (うわぁ~この大魔王感は久々。やっぱり大魔王の子は大魔王より大魔王。血は争えん。「あと・・・」って止まってるけど何よ)


 「所長や管理者になってもらった人を信じるより、信じた人に所長や管理者になってもらいたいとも父は言ってました」

 

 「ゴホン」と叶芽ちゃんの咳払いが聞こえた。

 叶芽ちゃんの一足先にアウェー感から脱出した合図が、今日が面接だったことを私に思い出させた。

 「では、管理者の私からは二点。よろしいですか?まずは一つ目。お給料ですが病院で勤務されたときの方がいいかもしれませんよ。大丈夫ですか?」

 ズバっと切り込む叶芽ちゃん。さすがと言うしかない。普段の面接でもこの話を私自身はうまく切り出せないでいる。介護職員に言われるイメージの『3K』。ほかの二つは否定できても、三つ目の「給料が安い」は正直その通りだと思うことがある。一体どう答えるのだろうかなどとこちらが身構える間も無く、浩二さんは

 「『お金は使うもの、お金に使われるようになったらおしまい』と父が常々申しておりました。もちろん少ないよりは多いほうがありがたいですが、特に気にしません。で、もう一つというのは?」

 

 (カッコええこと言うやんか。浩二さんには『3K』なんてことは全く気にならないんだろうな)


 「住むとこです。もう決められましたか?」

 「はい。先日電話で面接をお願いした日、大阪に来てました。電話を切ってその足で不動産屋さんに行って。実はもう住んでます。住所変更の手続きはこれからですが」


 (なんちゅう行動力。思い切りが良すぎない?面接で不採用ってことになったらどうするつもり?もしかして、“不採用になるはずなんてない”とか思ってるわけ?自己肯定感も大魔王級ってか?ちょっとうらやましいなぁ。わたしなんて・・・)


 「・・・所長!所長ったら!只今面接中ですよ!ほら!所長からはなんかないの?」

 「え!私?私が、あえて聞くとしたら、


 ・・・じゃあ、来週月曜日からいけますか?」


 大魔王から白い歯がこぼれる。

 「もちろんです。よろしくお願いいたします」



【エピローグ】


 一日の業務が終わってみんなが一息ついているスタッフルームに、浩二さんと叶芽ちゃんと私の三人で入っていった。みんなを驚かすつもりなんてなかったが


「明日からお世話になりなす。高橋浩二です。どうぞよろしくお願いいたします」


 と、自己紹介する浩二さんに、杉本母さんは、「ワッ」と声を上げた。町田さんは、座っていた椅子を後ろにすっ飛ばして立ち上がった。アキ姉さんは、眼鏡の真ん中のブリッジを右手の中指で上げては下げを繰り返している。れいちゃん先輩は、たあ子先輩とまあ子先輩に報告するためだろう、携帯電話のカメラを浩二さんに向けている。

 それぞれが想像した通りのリアクションで、私たちと同じように驚いたことに安心した。


 (そりゃそうなるわな)


 「そうです。高橋さんの息子さんです。縁あってハレル屋で明日から勤務していただくことになりました。浩二さんは・・・」

 と叶芽ちゃんが紹介を始めたのだが、その内容は誰の耳には届いていないのがわかる。説明したすぐそばからその内容を質問し直す様子が見られたからだ。


 「えっと、お父さんって高橋さんなの?」

 「杉本さん!それはさっき私が説明したでしょ!」

 「そうだったかしら。でもそっくりよね。もうほんとびっくりしちゃって」

 「おいくつ?」

 「町田さん!それも私がさっき・・・。もう!」


 「スギモトさん、マチダさん、アキさん、レイコさんですね。皆さんのことは父から伺っていました。お会いできてうれしいです。タカコさん、マサコさんにもよろしくお伝えください。

 私、デイサービスの勤務は初めてです。みなさん、どうぞご指導のほどよろしくお願いいたします。

 早速なんですが、多恵さん。明日お見えのご利用者様のフェイスシート、差し支えなければ拝見させていただけませんか?お名前くらいは覚えておきたいので」

 「そういうことならいいでしょう。書庫はこっち」

 そう言って浩二さんを事務所に案内した。


 「浩二さんはきっといい職員さんになるよ。ほら、これ明日のご利用者さんのリスト。あと個人ファイルはみんなの分もあるからお好きに。見たいときはいつでも声をかけてね」

 と書庫のカギにつけられたリングを指に掛けクルクルと回して見せた。

 「僕、多恵さんの期待を超える所長になるつもりですからよろしくお願いします」

 「ほー、それはなんとも頼もしいことやなぁ」


 (あれ?これ、なんか夢で見たことあるような・・・。で、この後どうなるんだったっけ?)



 

 

  


 

 



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デイサービス物語 大魔王高橋 稲荷崎信介 @yoshiki365

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