第3話 邂逅

「キュゥ……」


 大結晶の下、地下水の流れ込む美しい地底湖の湖畔。柔らかな苔が絨毯のように繁茂しているこの場所で、仔竜は不安そうに鳴きながら、寝かされた一人の少女の顔を覗き込んでいた。


「すぅ……」


 少女の寝顔は穏やかであり、寝息も静かなものだ。しかし、果たして今のその状態が正常な状態であるのかをこの仔竜は知るよしもない。何せ、この人間という生き物を見るのが初めてなのだから。


 そう、仔竜は洞窟の入り口に倒れていたこの少女を、最深部であるこの湖畔まで運び、介抱しているのである。

 小動物にすら怯えるこの臆病な竜が、自分より小さいとはいえこんな未知の生物をわざわざ自身の巣の近くにまで運び、面倒を見ようとしているというのは驚くべき事だろう。何なら今でも、眼前の少女がほんの僅かにでも身動ぎするたびに仔竜はびくりと跳ね、不安そうに様子を伺っている。


「クルル……」


 それでもなお、仔竜は少しずつ世話を焼こうと行動する。この生き物の小さな口に入りそうな小柄な魚を捕まえ、湖畔の低木から甘い実を集める。形の違う生き物がそれぞれ別のものを食べる事は、この洞窟にいる僅かな生物達を観察して知っていた。だから何でも食べられるように、この洞窟にある色々なものを集め、眠る少女の横に並べていく。

 何故怯えながらもこんな事をしているのか、それは仔竜自身も理解できていないだろう。しかし仔竜は、未知への恐怖と同時に僅かな親近感、そして確かな期待感のようなものを感じ、心の臓を高鳴らせていた。


「……キュ」


 すぐ隣の湖に鼻先を沈め、ついた雫をそっと少女の唇へ向けて、溺れないよう量に気を遣いながら落とす。若干腰が引けたままながらも必然的に少女の顔を覗き込んだ仔竜は、相変わらず目覚める様子の無い少女の姿に安堵すると同時に、一抹の不安を覚える。


 ――もし、このまま目覚めなかったら?


 残った水滴と一緒にそんな思考を払うように、その長い首をしならせて頭を振る。とにかく今はできることをしなくては、と立ち上がろうとした……その時だった。


「う、つめた……」

「キュァ……!?」


 突如、むくりと身体を起こした少女。頬についた水の雫を手で払い、ぼやけた視線を整えるように目を擦る。ようやく整った視界で最初に目にしたのは、すぐ眼前で驚愕から奇怪なポーズで硬直している、一匹の竜。

 その場を静寂が支配していたのは、ほんの一瞬だった。


「りゅ、竜……!」


 寝ぼけていた頭を一瞬にして覚醒させた少女は、その華奢な肢体からは想像もできないような俊敏な動きで立ち上がり、同時に後方へと跳んで距離をとる。一方の仔竜はというと、あまりの急な出来事に小さくぴぃぴぃと情けない声を上げながら、ばたばたと苔に足を滑らせつつ最寄りの大きな鍾乳石の裏へと身を隠した。


「この場所、もしかしてアイツは伝承の!? とにかく応戦を……っ」


 臨戦態勢をとる少女は慣れた動きで懐から懐中時計を取り出し、即座に時間を確認する。星の位置に応じて魔力を練る占星魔術の性質上、星が観測できない環境であろうとも最適な魔術行使を行うために時間の把握は必須。そして時計を見るに、どうやら自分が半日近くも眠っていたらしい事を認識した少女は驚愕し自責の念を覚えると共に、脳内で急速に演算を開始する。今この状況において最適な星をいくつか選定し、並列思考でその一つ一つの位置とそれに応じて変動する魔力の流れを導き出してゆく。

 あの竜は、未だにあの鍾乳石の裏に隠れている。が、あの位置ならこちらから先手を打つ方法もある、ならば仕掛けるべきか。いつ動いてもおかしくない相手を最大限警戒し、魔力を自身の周囲へ展開する少女。洗練された技能で編み上げられた魔力は輝くいくつもの光点とそれを結ぶ線――まるで星座を示す図のような形で表出し、少女の周囲、そしてすぐにでも攻撃に転じられるよう手先に集中する。


 しかし。


「っくぁ……!」


 突如、周囲に展開していた魔力が点滅しながら消失し、同時に少女も膝をつく。鍾乳石の裏から顔を出す仔竜に意識を向ける余裕もなく、少女は服の胸元をぎゅっと握りながら目を白黒させていた。


「なにっ、ここ……!? 魔力がっ……」


 魔術行使の失敗。それ自体は、魔術師ならば誰もが経験したことのあるありふれた現象。が、今回の事態は、少女も経験したことがない極めて異質なものだった。


(この空間、魔力潮位が高いだけじゃない……。ここに満ちている魔力が“馴染みすぎる”!)


 立て続けに起こる予想外の事態に混乱する頭を無理やり回転させ、何とか体制を整えようと力を込める少女。再び魔術を行使するため演算を再開するが、自身に馴染む魔力がこれほど満ち溢れた環境での魔術行使など経験がない。先程の失敗も、馴染んでしまうが故に勝手に流入した外部魔力によって、出力のキャパシティを大幅に上回ってしまったのを止めるための咄嗟の防衛反応のようなものだ。あのまま魔術を行使していれば、彼女の命にも関わっていた可能性もあっただろう。


 その頃、鍾乳石の裏にいる仔竜は仔竜で、パニック状態となっていた。他者と関わった事のないこの引きこもり竜であっても、あの少女から向けられているのがある種の敵意であるという事は理解できた。自分の行動が浅はかだったのかと一瞬考え慌てたものの、どうも向こうの様子がおかしい。恐る恐る鍾乳石から長い首だけを出して様子を見ると、少女は膝をついて何やら苦しそうに呻いていた。


「キュ……」


 敵意を向けられ怯えているこの期に及んでも心配で半身を乗り出してしまうのは、仔竜の生来の性格故だろうか。しかし、こういう時のイレギュラーというものは得てして、連鎖して起こるものであった。


 コォーン――。


 突如、洞窟の中に音叉のような音が反響する。何事かと仔竜が見上げると、その瞳孔が縦に割れた目を見開かざるを得ない光景が広がっていた。

 洞窟の天井が、波打っていた。

 否、その表現は適切ではないだろう。この洞窟の天井を星空の如く覆っている数多の結晶、それらは普段明滅を繰り返しているが、その周期は結晶それぞれでバラバラだ。故にそのタイミングが揃うなんて光景は、長い時をこの洞窟で過ごしている仔竜であっても見たことがない。しかし今、この場所――正確にはあの少女のいる地点の直上にあたる場所を中心に、まるで波紋が広がるかのように、結晶の発光が伝播しているのだ。

 光の波紋は少しずつ、まるで増幅されるように輝きを増してゆく。次々に発生していく波紋は重なり、眩い光を伴って再び直上の中心へと戻ってくる。少女が再び立ち上がってなんとか体勢を立て直すのと、いくつかの光の波紋が中心点で重なったのは、ほぼ同時であった。


 パァン!


「ひゃ……!?」


 頭上から響き渡る、大きな破裂音。臆病な仔竜は勿論の事、必死に眼前の脅威に対応しようとしていた少女もまた、意識外からの大きな音に怯む。直後、ごすっと鈍い音を立てて少女のすぐ近くに落下してきたのは、人が抱える程の大きさの結晶だった。

 それを見た少女は青ざめる。この高い天井から落下してきた結晶が、もし頭に直撃していたら、と想像したからか? 否、それも確かにあるだろうが、今彼女が危惧しているのは既に落下した眼前の結晶の状態であった。


 その結晶は、視界に入れ続けるのも難しい程に眩く光り輝いていたのだから。


 “爆発”。先程の天井で響いた音と眼前の状況から、直後に起こるであろう破壊的な悲劇を示す言葉が少女の脳裏に過る。どこかへ身を隠すような猶予は、恐らくない。即座に魔術による防壁の構築を試みるが、まだ慣れないこの魔力環境ではとてもではないが間に合わないだろう。

 視界がゆっくりになったような感覚を覚える。極めて特殊な環境であった事を差し引いても、自分の未熟さを後悔する。結晶に入った亀裂から溢れだす光に、少女は思わず瞑目し――再び目を開けた時に視界を覆った黒い何かに、えっ、と声を漏らした。


 直後、轟く甲高い爆音。魔術を経由せずとも物理現象を引き起こす程の凄まじい魔力の奔流は、爆心地の苔だけでなく硬い岩の地面を抉り、いくつもの結晶の破片は散弾の如く飛び散り周辺に傷跡を残していく。

 洞窟内に反響する爆音と土煙がようやく収まり、聞こえるのが地底湖に流れ込む水のせせらぎのみになった頃。もぞり、と黒い膜のようなものを押しのけるようにして、少女が顔を出した。


「うく、ぁ……。一体、どうなって……?」


 回る視界を整えるように頭を振り、状況を確認する。あの爆心地に限りなく近い位置にいながら、少女は軽い脳震盪以外に外傷らしい外傷は負っていない。魔術防壁の展開は進めていたはずだが、構築完了前に炸裂に巻き込まれた事は術者である少女自身がよく分かっている。奇跡としか言いようのない状況であるように思えたが、何故そうなったのかはすぐ近く――少女を覆う黒いそれを見れば、一目瞭然だった。


「君、さっきの……!?」


 そう、少女の事を包み込んでいたのは、竜の翼。少女の事を翼で抱え込むようにして、あの小さな竜が地面に倒れ伏していたのである。


 声を聞いてか、仔竜はゆっくりと首をもたげる。少女を守るためその背に爆発を受けた仔竜は固い甲殻に守られているとはいえダメージはそれなりにあったらしく、その動きは弱々しい。頭に生える枝分かれした立派な角に至っては、その枝のうち一つの先端が折れて欠損してしまっていた。


「キュァ……」


 安堵したような鳴き声をあげながら少女の顔を見つめた仔竜は、続けてゆっくりと周囲を見回す。ふと、何かを見つけてそちらへ首を伸ばすとそれを咥え、少女の前へと差し出した。


「え……」


 混乱もあって最早この眼前の弱った竜に対する警戒心も失せてしまっていた少女は、差し出されるそれをつい咄嗟に受け止める。そんな彼女の手の中にぽとりと落とされたのは、指先程の大きさの小さなキイチゴのような実。先程の爆発によって飛び散ってしまった、眠る少女に食べてもらおうと仔竜が集めていた食べ物の一つであった。


 はっとした表情を浮かべ、周囲を見渡す少女。爆発によって散乱していたが、他にもいくつかの実や魚、キノコといったものが目に入る。元々頭の回転が早い事もあり、この状況が何を示しているかに思い至るのにはさして時間はかからなかった。


「……助けて、くれたの?」

「クルル……キュゥ」

「あっちょっと君!?」


 少女を守れた事と木の実を渡せた安心からか、糸が切れたように首をどさりと地面に伏せる仔竜。翼膜の下から抜け出した少女の声には困惑の色こそあるものの、最早敵意は含まれていなかった。




○ホラアナキイチゴ


 洞窟内等の地底環境で生育する低木、およびその果実。特殊な鉱石や発光生物由来の僅かな光を利用して極めてゆっくりと成長し、発芽から実をつけるようになるまでには50年近い歳月が必要とされている。果実はその高い希少性から「甘い宝石」とも呼ばれる。

 生息していた洞窟に人が訪れるようになった途端に枯死する例が後を絶たず、その希少性と市場価格は高まる一方である。

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星詠みと仔竜 つばリン @Tubarin

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