ドリップコーヒーを飲みたい日。

大田康湖

ドリップコーヒーを飲みたい日。

 五十二歳の遠山とおやま富士美ふじみは、中学校の同窓会出席のため久しぶりに故郷の茅土ぼうど市に帰っていた。茅土駅近くのレストランでは、二十人ほどの元クラスメイトが当時の担任とテーブルを囲んで乾杯したところだ。

「本日は茅土中一九八六年度、三年二組の同窓会にお集まりいただきありがとうございました。卒業以来の再会の方もいらっしゃるでしょう。今日は心ゆくまでご歓談ください」

 幹事の高山たかやま青次せいじが挨拶するのを聞きながら、富士美はテーブルを囲む元クラスメイトたちを見回し、そっと息を吐いた。隣でビールを飲む小川おがわ砂喜さきに礼を述べる。

「同窓会の連絡ありがとう。みんな私のことなんて忘れてるかと思ったけど、思い切って来て良かった」

「どういたしまして。まさか高山君と理穂りほちゃんが結婚して同窓会の幹事になるなんて思わなかったな。その点、富士美は変わらないね」

 富士美もビールを一口飲むと答えた。

「砂喜もとても五十代とは思えないじゃない」

「これでもビューティーアドバイザーだからね。化粧品を使って自分を磨くのも仕事のうち。富士美はどこにお勤めしてるの」

「銀行よ。入社したときは利息もたくさん付くからお客さまが殺到して大忙しだったけど、今は利息も付かないのに人が減って大忙し。うまくいかないわね」

 富士美はため息をついた。

「それにしても、今日集まった女性陣で未婚なのは私たちだけみたい」

「あたしも既婚者よ。一年で離婚したけどね」

 砂喜はすまなそうに目配せするとグラスをテーブルに置く。その時、高山がハガキの束を取り上げ、話し出した。

「今回残念ながら都合が付かずにご欠席された方から、皆様へのメッセージをお預かりしております。まずは、望月もちづき哉大かなた様」

 富士美はビールの入ったグラスをテーブルに置き、幹事を見つめた。

「『本日は是非とも参加したかったのですが、娘の結婚式と重なってしまいました。皆様のご多幸をお祈り申し上げます』」

「へえ、望月君にそんな大きな娘さんがいるなんて」

 砂喜の感想を聞きながら、富士美は突然の情報に戸惑っていた。宴会の喧噪が遠くなる。

(哉大君が結婚してて、子どもがいる)


 富士美にとって、中学校時代の望月哉大は気になるクラスメイトだった。演劇部に所属している哉大は、整った顔立ちで女子受けも良かったが、同じ演劇部の仲野なかの敏恵としえとつきあっているという噂だった。

 文化祭で演劇部は『ロミオとジュリエット』の舞台を演じ、哉大はロミオ、恋人と噂されていた敏恵がジュリエットを演じた。ジュリエットの手に口づけるふりをするロミオを見ながら、富士美は自分とは縁のない出来事だろうと感じていた。


 一九九二年のことだ。東京の大学に進学した富士美は、当時よく行っていたミニシアターで偶然同じ映画を見ていた望月哉大に再会した。中学時代よりも背が伸び、一人前の男性らしい引き締まった表情をしている。

「実は友達を誘ったんだけど、興味がないって断られてさ。良かったら映画の感想でも話さないか」

 「友達」というのが敏恵のことなのか尋ねたかったが、答えを聞くのが怖かった富士美は哉大の誘いに同意した。

 ミニシアター近くの喫茶店に入ると、哉大はドリップコーヒーを頼んだ。

「家でもコーヒーメーカーでれてるんだ。君は何がいい」

「私もそれで」

 富士美はコーヒーより紅茶派だったが、ティーパックで手軽に飲めれば十分だった。それでも哉大には格好いいところを見せたかった。

 映画の話題でひとしきり盛り上がった後、哉大は富士美に呼びかけた。

「良かったらまたここで一緒に映画を見ないか」


 それから半年ほど、富士美は哉大と時々映画を見て、喫茶店でドリップコーヒーを飲む休日を過ごした。デートと言われればそうなのだろう。しかし、作品の感想では対等に語り合えても、富士美は哉大に気後れするものを感じていた。革ジャンを羽織り、服の着こなしにも気を遣っている哉大は、化粧も服も地味な自分に不満を持っているのではないかと感じていたのだ。

 それでも形から入ろうと、富士美は店でコーヒードリッパーやペーパーフィルターを買いそろえ、哉大が家に来たらドリップコーヒーを淹れようと準備をしていた。


 そんなある日、いつものように一緒に駅へ戻る途中のことだった。地下鉄の駅への入口がある建物のそばで、哉大が不意に立ち止まり、そのまま富士美を抱きしめると唇を重ねた。哉大の湿った舌が唇をこじ開け、中に入ってくる。富士美は抵抗できずに身を任せるままになった。唇を離すと哉大はささやいた。

「もう俺たちは恋人だ、そうだろ」

 そのまま哉大は駅への階段を降りていく。富士美は唇の冷たさを感じながら呆然と見送った。


 次に富士美が哉大と会ったのは、クリスマスも迫る土曜の夜だった。喫茶店ではなくイタリアンレストランで食事をしながら、哉大は富士美に切りだした。

「今夜、空いているかい」

 ホテルへの誘いだ。覚悟していた富士美は無言でうなずく。

「良かった。君はもっと綺麗になるよ」

 哉大はそう言うと、グラスから赤ワインを飲み干した。


 食事を終えると、哉大は富士美と手を繋ぎ、駅とは反対方向のラブホテルが立ち並ぶ一角へ足を向けた。富士美は無言で付いていく。自分にとって初めての体験がこれから始まろうとしているのだ。

 一軒のホテルの前で哉大は立ち止まると、富士美に顔を向けた。

「ここでいいかい」

 ホテルのロビーには部屋の写真付きのパネルが掲示されている。それを見た途端、富士美は思わず繋いでいた手を放してしまった。あの部屋の中で行われる出来事を自分がきちんとできるのか、その後どうなってしまうのか、想像したくてもできなかった。

「ごめんなさい」

 それだけ言うと、富士美はホテルを飛び出し、駅へ一目散に駈けだす。哉大は追ってこなかった。それが二人が最後に会った日となり、ドリップコーヒー用の道具は食器棚の奥深くしまわれた。


(結局、あれが私の最初で最後のキスだったな。哉大君はあれから結婚して、子どももできたのに、私は)

 考え込む富士美は、担任の赤坂あかさか親一しんいち先生が挨拶に回ってきたのに気づかなかった。すっかり髪も薄くなり、顔には皺が刻まれている。

「遠山さん、元気そうで安心したよ」

「い、いえ。先生にお会いしたくて参加したようなものですし」

 富士美は頭を下げた。

「教え子のみんながこうやって顔を見せてくれる、それだけで私には誇らしいよ。お天道様に顔向けできる生き方をしてしてきた証拠みたいなものさ」

 赤坂先生は微笑む。富士美は自分を納得させようと心でつぶやいた。

(あの時私がホテルに行っていたら、違う未来があったのかもしれない。でも、哉大くんの娘さんはこの世にはいなかった。あれが哉大君のためだった。きっとそうなんだ)

「最近、良かったことはあるかい」

 赤坂先生の問いかけに、富士美は気を取り直して答えた。

「ダイヤモンド富士の写真、今年はいいのが撮れました」


 同窓会も終わり、富士美は茅土駅に来ていた。砂喜が声をかける。

「あたしは実家暮らしだから、こっちに来たらいつでも連絡ちょうだいね」

「ありがとう。砂喜も体に気をつけて」

 砂喜に手を振ると、富士美は構内に入った。東京行きの特急が着くまでにはまだ時間がある。コンコースそばにある喫茶店に富士美は入ると、店員にオーダーした。

「ドリップコーヒーのM、持ち帰りで一つ」


【完】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドリップコーヒーを飲みたい日。 大田康湖 @ootayasuko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ