『ハルちゃん』

ヒニヨル

『ハルちゃん』

 春の雨は、冷たい。

 体育の授業中は少し汗ばむくらいだったのに、降り出した雨が髪を濡らしはじめると、急に寒くなってきた。


 私は両手をグーにして、ただひたすらに早歩きをしている。はやく家に帰ろう。何も考えちゃダメだ。私は考えすぎると苦しくなってしまう性格だから。それに——。


「ハル! ハルちゃん! 待ってくれよ、なぁ」


 徐々に君の声が近づいてきて——すぐ後ろで聞こえたかと思うと、不意に強い力で右手首を掴まれた。私は立ち止まる。両手はグーにしたままだ。


「ハルちゃん、こっちを向いてくれよ」

「向けない。ひどい顔してるから」

「ひどい顔なんてもう見慣れてるよ。俺たち幼なじみだろ?」

 ガキタ君は少し乱暴で、でも優しい声でそう言った。私は渋々、うつむいたままで振り返る。


「ハルちゃん?」


 ガキタ君が心配そうな顔で覗き込んできた。きっと私の目は充血している。雨粒で、気づかれなきゃ良いのに——でも、この幼なじみは気がついてしまう。そう言うヤツだ。他の男子よりも私の気持ちに敏感なんだ。


「どうして泣いてるの。失恋したのは俺なのに」


 やっぱり雨粒なんかで、ごまかせなかった。男子の癖に。他の男子みたいに鈍感でいてくれたら良かったのに。


「そこで雨宿りしよう」


 雨足が強くなってきた。少し強引に、私の右手首が引っ張られる。私たちは人気ひとけの無いバス停に入ると、しばらく黙り込んだ。ほとんどの生徒は帰宅した後の時間帯だから、道ゆく人はいない。


「まだしばらく止みそうに無いな」

「ガキタ君、今日、隣のクラスの女子に告白されてたね」

 私は意地悪な口調で、愛想笑いを浮かべて言った。ガキタ君は頭のてっぺんあたりを掻きながら「知ってたのか」と困り顔で呟いた。


「クラスで噂になっていたよ……なのに、舌の根も乾かぬうちに、私に告白するなんてさ」

 私は笑った。とても嘘くさい、自分でもイヤになるような笑い方。


「隣のクラスの女子は断ったよ。俺には他に好きな子がいるって。……と言うか、『舌の根も乾かぬうちに』って使いかた間違ってるだろ。それだとまるで、俺が今日、二人の女子に告白したみたいじゃん!」

「違うの?」

「全然違う! 俺が告白したのは、ハルちゃんだけだ」

 後半の言葉は、ガキタ君はハッキリと、それでいて恥ずかしそうに言った。目が泳いでいる——私は耳の先まで赤くなっているガキタ君を見て、思わず微笑んでしまう。


 私の様子にホッとしたような息を吐くと、ガキタ君は真面目な顔に戻った。私の目を見つめてくる。

「ハル、俺、やっぱり好きだ。……どうして俺の告白を断ったのか教えて欲しい」


 ガキタ君は真剣だ。私は少し表情を強張こわばらせた。


 断った理由、それは、私が意気地無しだからだ。いつまでも幼なじみとして、一番の友達としてずっとそばにいて欲しかった。もしそれ以上の関係になってしまったら、別れてしまったら、もう元には戻れないかも知れない。


 でも——私も気がついている。

 今日ガキタ君が隣のクラスの子に告白されたと聞いて、とても胸が苦しくなった。仲の良い友達とたわいも無い話をしている時も、授業中も、うわの空で。少し思考を巡らせば、涙が出てしまいそうになった。


 ずっと、ずっと今日一日堪えていた。

 それなのに、誰もいない教室で、気持ちを改めて出ようとしたところにガキタ君がやって来た。そして、私に告白をしてきたから、思わず、頭が回らなくて「ごめん」と言ったっきり、無我夢中で傘も持たず、学校を出てしまった。


「ハルちゃん」


 私が考え込んでしまったからだろう、ガキタ君は躊躇ためらいがちに、私の名前を呼ぶ。心配そうな顔をして——私はふと思う。ガキタ君は真剣に気持ちを伝えてくれたのに、私は何も言えていない。伝えていない。このままだと、大好きなガキタ君を傷つけてしまう事になる。


 勇気を振り絞って、見上げるようにガキタ君の顔を見た。


「ガキタ君……私も、好き」


 いつからだろう。小さい頃は私の方が背が高かったのに、追い抜かれてしまった。可愛い声で私の名前を呼んでいたのに、ある時掠れた声変わりした声で名前を呼ばれてドキッとした。教室の窓から、休み時間にサッカーをしている姿を見ていたら「ガキタ君ってカッコイイかも」と言っている女の子がいて、胸が締め付けられている自分の心をはじめて感じた。


「つまり、それは……一度フラれたけど、俺の告白は成功したって事で良いのかな?」

 ガキタ君はすぐには状況を読み込めない様子だった。改めて、私にフラれると思っていたのかもしれない。次第に嬉しそうな表情になっていく。


「うん。……それと、もう手は離して良いよ。逃げたりしないから」

 私がそう言うと、「ごめん、忘れてた」と言って右手首を離してくれた。強く掴まれていたから、あとが残っている。少し、じんじんする。


「俺もハルちゃんに言いたい事が、とても言いにくいんだけど……」

「何よ今更、告白までして、私に言えない事なんてあるの?」

 気持ちを伝えたせいか、少し恥ずかしい気持ちは残るけど、私の心は晴れやかになっていた。いつものからかい口調で話すと、「ブラウスが透けています、童貞の俺には刺激が強すぎて」と視線を宙に泳がせながらガキタ君は指差した。


「嘘、ウソでしょ! いつから気が付いていたの。ガキタのえっち!!」

「……このバス停に入ったあたりからです」


 私は両手で胸を隠してガキタ君に「変態!」と叫ぶ。ガキタ君は「ごめん、ごめん。すごく言いにくいシチュエーションだったから」と謝った。


 一通り騒いだ後、フワッと肩から何か掛けられた。ガキタ君のにおいがする。

「俺の上着貸してあげる。そのままじゃ帰れないだろ」

「あ、ありがとう」

 こういう気遣いが出来るところ、本当はすごく好き。


「なぁ、ハル。二人っきりの時はガキタって呼ぶなよ……もう俺、炭酸飲めるし、ガキじゃ無いし」

 ガキタ君は照れくさそうな顔をして、首の後ろを触った。


 あだ名は小学生の時、私が彼に付けた。家へ遊びに来てくれた時、炭酸入りのジュースを飲ませてあげたら「辛い」と言って酷い顔をになった。今でも思い出すと笑ってしまう——苗字の垣田かきたを文字って「ガキタ君だね!」とからかっていたら、あっという間にクラス中に広まってしまった。進学した後も、誰かが言っているのを聞いて、知らず知らずこのあだ名が定着してしまっている。


 思わず昔を思い出して、私はふふと笑っていた。

「呼んでくれないの?」

 ガキタ君はしょんぼり顔になっている。

「ごめん。思い出し笑してただけ」

 私は謝ると、向き直って、彼の下の名前を呼んだ。


「恥ずかしいな」

 彼は下の名前で呼んでくれるけれど、私は一度も呼んだことが無かったかもしれない。ものすごく今、赤面していると思う。


「ハルちゃん。その……キスしても良い?」

 そう言って、私に触れるか触れないかの距離まで近づいてくる。耳先まで赤くなっているけれど、とても真剣な顔だ。私は心の準備が出来ていなくて、咄嗟とっさに右手で前髪を上げた。


「おでこなら、しても良いよ」


 頭上にあった彼の顔が、私の顔に近づいてくる。心臓が私の胸から飛び出してしまいそうだ。我慢できなくなって、私は両目をつぶる。おでこに、私のじゃ無い質感の髪が触れる——それから唇に、くちびる、アレッ。私は思わず目を開ける。それに気づいた彼は、気不味そうに私から離れて「ごめん」と言った。


「……いいよ、別に」

「もう一回しても良い?」

「それはダメ」

 普通を装っていたけれど、全然普通じゃ無かった。心の距離は近くなった気がするけれど、触れられたところを意識してしまって熱い。今まで感じていた全ての距離感が変わってしまった。私はまだ戸惑っている。


「雨、小雨になったな。今なら帰れそう」

 私たちはバス停から離れた。前を歩いていた彼が、振り返って「ハルちゃん、手ぇ繋ごうよ」と言った。


 ずっと握りしめていた手は汗ばんでいた。私はそっと手を開き、自分のスカートの裾でこすると、彼が伸ばした手に重ねた。




     Fin.





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『ハルちゃん』 ヒニヨル @hiniyoru

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