5.内容から形式へ
物語の内容水準で考えるとライトノベルには可能性と危険性があるように見えます。批評家としての大塚英志などは、この境界線上に立ち、「仕分け」をする役割を担うことを自らに課しているように思えます。この境界線の基準は、おそらく文学作品や文芸批評と呼ばれるものが連綿と築き上げてきたのでしょう。書くことの自由と仕分けという緊張感の中で、文学は自らを陶冶してきたと考えます。
これは、書くことだけではなく、読むことにも関わっています。物語を読む際にはいくつもの快楽性があります。その快楽の1つとして、物語に自分を肯定してもらう、というものがあります。物語に「私」にとって都合の良い部分を見出し、「私も作者と同じような人間である」という裏書をする仕草で、「私小説」のようなものに読み替えてしまうのです。作品の内容に同意するかのような振る舞いがそこにあります。
文学は、単純な物語ではなく、確かに一人一人の読み手に自由な読みを許すものの、文芸批評という別の読みも提示されます。これによって読み手は「自分自身の読み方は間違っていたのではないか」と反省する機会を持ちうるのです。読み手は、読むことの自由と反省との緊張感の中で、文学とともにあったということができます。
これらの緊張感は、同時に新たな快楽を提供してきたでしょう。一定の制約の中で、テクストの全体性を捉えるために針の穴を通すように、言葉を整序し、新たな書き方や解釈を導き出すことは、知的な快楽を伴っていると思われます。近代文学が文学作品と文芸批評という両輪を持つことによって、文学の書き手や読み手(以下、文学の担い手)に一種の責任を担わせる緊張感を与えつつ、その緊張感の中にある者に快楽を提供してきたとも言えます。
しかし、ライトノベルの書き手と読み手は、近代において文学という場で担われてきたものと同じ役割を果たさなければならないのでしょうか。また、そもそも、果たすことができるのでしょうか。
本論では、ライトノベルが「私小説」のふりをしない限りにおいて文学の役割から逃げることが許される、という立場をとります。文学と同じ役割を引き受けていくことはライトノベルにとって難しいことだからです。なぜなら、エンターテイメントであるライトノベルでは、近代文学が文芸批評を求めたようには、批評は必要とされていないからです。
ですが、ライトノベルを批評することが無意味であると言いたいわけではありません。責任を引き受ける文学の担い手たちに緊張感という快楽を提供するという交換形式を取りました。社会の大きな変化とは別の水準の問題として、そもそもエンターテイメントであるライトノベルは、様々な快楽に満ちているため、批評によって生み出される快楽がワンノブゼムになってしまうジャンルなのです。担い手に共通した何らかの責任を引き受けさせるためには、ライトノベル批評は十分なインセンティブを持っていないと言っても良いでしょう。
それでも、ライトノベル作品やライトノベル批評には役割があると考えられます。それは、ライトノベルが様々な快楽を活性化し、ライトノベルの担い手が快楽に基づく意見表明をおこなっていることに起因します。
ライトノベル批評は、作品について述べつつも、多様な読みの快楽を明らかにしていくことができるでしょう。また、批評はこの快楽についての言説と社会批評と接続し、この快楽に身を委ねた読み手が社会においてどのような役割を既に担っているのかを可視化していくことができます。それは、文芸批評が、時として作品から抽出してきた素材をもとに、人のあるべき形や役割を暗に規定していこうとしたことから完全に手を切るやり方です。
このライトノベル批評という方法は、快楽が果たしてきた足跡を記述しながら受容の理論を形成することを求めていくことになります。そうして、誰が何をすべきか、から、誰が何をできるかへと記述を転換していきます。できるからといってやらなくて良い。できなくてもやりたければ良い。人を役割関係から解放する言葉を紡いでいくことになるのです。
ライトノベルの快楽 序論 とり @takuma2323
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