4.「水平」な言葉と「私」小説としてのライトノベル
現代詩人渡辺玄英は、ライトノベルの書き方を意識した詩人の一人です。彼は、あるトークイベントで少し古いタイプの詩の言葉とライトノベルの言葉を「垂直」と「水平」と比喩しました。
以下、これについて説明を行いますが、現在、同トークイベントの模様はネットで公開されていないため、私の記憶を頼りにまとめ直しますが、記憶を頼りに、ということで、書いたことの責任は私に帰属するものと考えていただきたいです。
現代詩と特に『マリア様がみてる』(以下、『マリみて』)を比較し、両者がどちらも「ロマンチック」(おそらく、ロマン主義的という含意)という一方で、「垂直」な言葉と「水平」な言葉という違いがあると指摘していました。
私なりの言葉で言い換えるならば、前者の代表である従来の現代詩は、一種のイデオロギーをもとに描かれる、上にある理念に下に配置された言葉という関係に陥ることがあります。
それは、言葉やそこで表現されているものが理念に従属させられる関係性であり、作品中の言葉やそこでの個々の表現も理念に応じて階層秩序化されているとなります。例えば、ある詩の中で、2つの出来事が描かれるとして、一方が理念に向かって真に迫っており、もう一方は幾分か偽に近いものとして扱われてしまうという関係性を読み取ってしまうことになる、ということです。そして、読者はこの真偽の関係をどれだけ読み取れるかに応じて、理念に近い、もしくは自らを総括しなければならない存在にしてしまいます。これは、これは解放を目指している文学作品でさえも、言葉のありようによっては人間の階層秩序化に寄与してしまう、という危うさのお話でもあります。
一方で、後者の『マリみて』についても、私なりの言葉で言い換えてみると、言葉の水平な関係性をもっている、という形式であるということかと思われます。それは、理念を明確に打ち出すような言葉でない、というところに起因しています。
『マリみて』を読む人は言葉自体や言葉が表現するものの「うっとりする」(という言葉を使っていた記憶があります)ような関係性の中で読みを展開することになるのでしょう。そこで、どの出来事が、どのキャラクターが真に近いか、偽の側なのか、といったことはありません。私が島津由乃を好きであること「令ちゃんのばか」ということに何かしらの価値を感じたとして、それが理念からのずれとして計測されることはありません。別の誰かが福沢祐巳を好きであることと並列されるものです。
渡邉の議論は、ライトノベルの言葉に上下の関係性がないことを指摘しています。さらには、それだけではなく、文学が(ミシェル・ド=セルトーがいう意味での)社会の階層秩序化に寄与しないための射程を持ったお話であるとも考えられます。
このことは、とても難しい問題を孕みます。ライトノベルの言葉で作られた物語(ストーリー)はともするとメリハリのない物語になりかねないのです。描かれるべき、あるいは指し示されるべき理念が空洞ともいえるからです。
実際には、ライトノベルは物語の構造を作品作りのパターンとして採用することでこの問題を回避しているように思われます。いくつもの作品論のようなものが出ていますが、例えば、プロップの昔話の形態学は、90年代にTRPGの指南書などを通じて読者たちに紹介されていました。また、近年ではアプリ「ストーリープロッター」では、プロットの各段階について「キャラや関係性の紹介」や「王道演出と関係の進展」といった指定をしています。キャラクターや世界観についても、単に各要素を書くメモ欄があるだけではなく、その背景について記載するようになっています。
ライトノベルはこれによって、少し難しさを持ってしまいました。大塚英志は、いささかマッチポンプのように思われるところもありますが、構造に「私」を代入することで一見すると「私小説」のようなものが出来上がってしまうこと、ライトノベルがそのような危険性を孕んでいることに警鐘を鳴らします。
渡邉と大塚の話を合わせてみると、ライトノベルは言葉の間に水平な言葉を導入することができたはずなのに、「私」語りの小説になってしまうと、作者がそこに込めたい「私」を理念にして「垂直」な言葉になってしまうのです。しかも、その「垂直」性たるや、多くの批判や社会の中での多くの悲惨な出来事とともに陶冶されてきた「思想」との関係でさえないのです。
近代の「思想」と呼ばれてきたものは社会を設計するベースとなっていたものです。それはそれで問題がありました。多くの人を「殺してきた」といっても過言ではありません。それは共産主義が、とか、資本主義が、ではありません。どの思想もある程度以上のポピュラリティを獲得したときに同じ道を辿ってきたのです。殺した、とまでは言わないまでも、社会の階層秩序化に寄与してきました。思想を語る、理念を語るとは、この歴史を背負うということでもあります。ところが、ライトノベル的なものが「私小説」のふりをしたときに、歴史を背負うことなく思想のような顔ができてしまうのです。
一種の反省のようなものとしての「水平」な言葉を紡ぎ出してきたライトノベルが、あっさりと反省をかなぐり捨ててしまうということかもしれません。これは、メディアと反省という展開としては北田暁大がテレビ研究の中で見出した反省しない反省のようなものと、その後の頽落の関係に似ているかもしれません。
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