3.「柔らかい」と「硬い」(2)

 ライトノベルの「柔らかさ」を出すための技法には、言葉の言い換えや省略だけではなく、登場人物同士の会話にする、ということがあります。

 この技法に則ったリライトも試みてみたいと思います。

 Aが自己弁護する側、Bは問い詰める側で、二人の会話を聞いている「俺」の一人称という設定となります。


 ※※※※※(以下、改変2)※※※※※

 「古代の異教哲学が無秩序に世間に広がってしまうことが怖かったのだ」


 その発言にAは、何か差し迫った危機を感じているかのように見える。

 俺には嘘を言っているように見えなかった。


 だが━━


「単に昔の哲学者たちの著作がそのまま読まれるということの何が悪いと言うんだ。その中には、苦しんでいる人を救う方法も書かれていたのに」


 Bは声を荒げて言った。Aは、単に読むことを禁じているわけではない。救われる人を救える手段を無くしてしまう、そんなことが許されるのだろうか。


 驚いたことに、優しいまなざしでAは頷く。


「確かにそうだろう」


 しかし、すぐに、十字架にかけられた救い主の方を向きながら、語り始める。


「だが、そんなそれだけにとどまらないのだ。『ヘルメス選書』一冊を許せばどうなる。誰もがより苦しみから逃れたいと思って、もっと同じような本を、と望むだろう」


 嘆息か、一呼吸置く。


「心ある者の中は、そのために新たに異教哲学書を探してくるようになるに違いない。その勢いは、きっとそのうち、このヨーロッパを覆う大洪水のようなものだろう」


 たまらずにBは叫ぶ。


「それの何が悪いと言うのか」


 Aは再び頷きながら聞いている。しかし、目には決意の色が宿っている。


「異教哲学の考え方の中には、キリスト教が連綿と作り上げてきた人々を守るための社会秩序を壊してしまうものもあるのだ」


 諭すような言い方。自分達の立場、考えを理解してもらうために、ゆっくりと話す。


「今やキリスト教は、このヨーロッパ全土という視野で秩序を考えている。地中海という規模とは違う、もっと広い範囲、多様な社会や風土、政治的な状況を踏まえ、致命的な腐敗を防ごうとしているのだ」


 しかし、徐々にAの声は震え始める。


「もしも、どこかの領主が異教哲学の考え方にかぶれて信仰を失ったらどうなるか。中途半端に異教哲学にかぶれるだけで、自分自身が腐敗することを防ぐ方法まで鑑みなければどうなると思う。━━人災が起こるのだ。」


 Bは何も言い返さない。


「お前はなんの権利があって、どんな責任を負うつもりで、自分の親しい者のために、どこかの誰かが苦しむことを我慢しろ、と言えるのだ」


 いや、言い返せないのか。


「聖トマスを思い出せ。アリストテレス哲学について同じようなことをした。当時、そうしなければ、どうなったと思う。一部の国を思い起こせばわかる」


 Aは、暗澹たる闇を湛えた瞳でBを睥睨する。


「━━絶望的な状況だ。」


 あり得た過去を述べた後、再び、神に言葉を宣誓するように救世主の像を仰ぎ、述べる。


「だから、私はこの哲学が社会秩序を揺るがしてしまわないように、神学の観点からこの『ヘルメス選集』を位置付け直す必要があったのだ。

 古代の異教哲学の整理は神から与えられた唯一の使命だと信じている。

 ※※※※※(改変2、終わり)※※※※※


 会話に変えて間を持たせるために無駄に描写をいれましたが、このような形でしょうか。さて、省略する、会話調で柔らかくすると書きました。しかし、本当にそのようなことができたのでしょうか。


 原文の段落の中では、「迫劫する巨大な海嘯」から「鎮めむとする」までは、異教哲学によって社会秩序が揺るがされるであろうという語り手の予測が「海嘯」の比喩で描かれています。そして、この段落は、「己の唯一つの使命」が「秩序を守る」ことであると述べることを目的としています。この「海嘯」の比喩で語らなければならなかったものを私の書き換えでは十分に表現できていないように思います。私の能力が足りていないということもありますが、省略や会話体程度の機械的な修正で「柔らかく」してしまうと、こぼれ落ちてしまうものがあるのです。

 このこぼれ落ちてしまうものについて、『日蝕』がどういう作品であったのかという批評は私の手に余ります。しかし、例えば、発表当時に読んだ私の感想を平野の文章の中から読者が読み取った可能性のある内容の例として位置付けて考えてみたいと思います。


 同書が書かれたのは1998年。1995年にIT革命などと言われていた時代で、世間の人たちが情報工学という知によって社会を大きく変わると実感され始めた時代でもありました。当時高校生だった私は、この段落を読んだ瞬間に「今、新しい知の奔流が生まれる中で『これまで世界の全体像として見えていたものが、代わりのものがない中で失われてしまう』と感じる側の人の心境」みたいなものを勝手に読み込んでいたと思います。「喪失感や危機感があり、それらを感じとる一種の美学がある。そして美が見出されうるということは、今の私には何も大切だと思えないが、何か社会にとって価値のあるものが隠されているのかもしれない」ということを感じたものです。

 さて、一方で、私の要約では、危機感を説明することができていたとしても、語り手の喪失感や美学のようなものまで解釈してしまうことは難しいように思われます。表現の変更による情報の減少によって、文章自体が質的に大きく減衰してしまうのです。

 上記の私の感想が単なる誤読だったとしても、平野(1998)は、そのような読みに開かれていたのです。この「解釈に開かれているための情報」が機械的なライトノベルの文章への翻訳では難しいと言えます。


 また「柔らかければ誰にでも読みやすいか」と言われれば、そうでもなさそうです。ある有名アニメ監督の自作のアニメのコミカライズ作品が「独特の文体」であると指摘されていたのを読んだ記憶があります。いわゆる「硬くない」ものだからといって誰にでも読みやすいとは限りません。また、世間には「村上春樹の小説はスムーズに読めるが、ライトノベルは読めない」という人は一定数います。


 ライトノベルの書き方には「柔らかい」では説明できない何かがあると考えた方が良いと思われます。平野(1998)やアニメ監督の文体はライトノベル的な「柔らかい」文章はあくまで、ライトノベルを読むときの「わかりやすさ」であり、ライトノベルの読み方を身につけた人が読みたいことに奉仕する書き方なのだと注意は必要なのでしょう。

 そして、そのようなライトノベルの「柔らかい」文章には何かを突破する可能性があるとも思っています。


 次節では、その可能性の1つについて説明しつつ、その上で現れるもう1つの限界をお示ししたいと思います。


【参考文献】

平野啓一郎, 1998, 『日蝕』, 新潮社

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