きょうのぶぶ漬け

〇鴉

東西の味を揮う小料理屋


都内某区。

繁華街の中枢から外れた路地に、慎ましい店構えの小料理屋がある。


昼は定食を、夜は肴と酒を出しているその店は、京都の老舗に生まれ育ち、下京して江戸前の修業を積んだ店主が、西と東の技術を合わせた味を振舞う、知る人ぞ知る名店だった。


そしてこの店には、品書きに載せられている料理を全て注文したとしても、どれほど通いつめて店主と顔馴染みになったとしても、滅多に出されることのない、とある一品が存在していた。





時刻は22時と半分を過ぎた頃。

今は居酒屋として開かれている店内は、繁華街に軒を連ねる飲食店ほどではないにしろ、酔いどれ客達で賑わっていた。


「いやぁ……それにしてもこの店のメシはうまいっすねぇ!何を食っても酒に合うくらいしっかりした味付けなのに、どこか上品っていうか繊細っていうか……」

「だろ?なんかうまいモンでも食いながらしっぽり呑みてーなぁ……なんてときはここが一番よ。俺のお気に入りなんだよ」

小さなテーブル席に付いていた、スーツ姿の男達が、数皿の料理とグラスを前にして、しみじみと語り合う。


「ホントは誰にも教えたくないんだけどな、あの頑固な担当のいる会社から契約むしり取ってきたお前へのご褒美だ!感謝しろよ?」

「あざっす先輩!いやほんとここで吞んでると疲れがとれるっていうか、癒されますよ……雰囲気も落ち着いてていいし、確かに秘密にしたくなるなぁ……」

そんな会話を交わしながら、二人の客は程よく酔いの回った赤ら顔を合わせ、上機嫌で酒と肴を堪能する。


どの席も似たような空気の中、カウンター席だけは騒々しさがあった。


「マスター!さっきと同じやつもう一杯だ!!ガハハハハハ!!」

それなりに人で埋まっているカウンター席のど真ん中で、一人の男が一際大きな声で厨房の店主を呼びつけ、グラスを掲げている。

男はすっかり泥酔しているらしく、事ある毎に店主を呼びつけては話し相手を強要したり、周囲から向けられている迷惑そうな目も憚らずに大声を上げ続ける等、ずっとこの調子だった。


「おーいマスター!もう一杯だって!!聞こえてんだろ!?なあ!!」

それまで背を向けていた店主は、くるりとカウンターの方へと振り返ると、男のグラスを受け取らず、穏やかに微笑んで、そっと手を添えて下に降ろした。


「お客はん。もうその辺にしときましょ」

「……あぁ?」

泥酔した客が苛立ったような声を出すと、店主はもう一度、にこりと微笑む。


「それ以上呑まれはったら、おうちに帰れなくなってしまいますわ。せやから今夜はもうお仕舞いにしましょ。な?」

やんわりとした口でそう制してから、店主は男の前に、質素な器を差し出した。


「これ、僕からのサービスです。〆にどうぞ」

柔らかい湯気が立ち上るそれは、澄んだ黄金色こがねいろの出汁に艶のある白米がひたされ、上には海苔、鰹節、小葱、煎り胡麻が散らされた、お茶漬けだった。


「あア!?なンだよこれ……あっ!あれか?“ぶぶ漬け”出したから失せやがれってことか!?」

泥酔した男は、店主の言葉と出された一品を自分への悪意だと解釈し、激昂して怒鳴り散らした。


「ふざけやがって!こっちは客だぞ!!ナメんじゃ――」

怒りのままに拳を卓上へ殴りつけて立ち上がり、そのまま店主へ振りかぶったが、腕はカウンターを超えることはなく、ぴたりと止まった。


「お客はん――こういうことは、やめましょ」

「なっ……は?……え……!?」

穏やかな声がして我に返ると、店主がその場から微動だにせず、拳を手の平で包んで止めていた。

そっと添えられているような感触のはずなのに、何故か腕ごと動かせなかった。


店主はにこりと微笑んだままの顔を、泥酔した客へ真正面から向ける。


「いくら羽目を外すことがあってもね。人間、必要のないとこまで堕ちる必要はありまへんのや。もっとご自分を大事にしないとあきまへん」

「は……はな………っ!」

「それになぁ。お客はんには、“この道”は似合いまへんわ。――少なくとも、僕に止められてるようじゃあ、やっていかれへんです。――せやから、落ち着きましょ?」

「ひ…………っ」

泥酔した客は、店主の手の内から逃れようと必死にもがいていたが、穏やかな口振りの中に潜むただならぬ雰囲気と、細く開かれた目の冷たさに気が付くと、小さく悲鳴を上げて椅子にへたり込んだ。


「それ、熱いうちにどうぞ。目が醒めますよ」

客がようやく落ち着きを取り戻したと察した店主は、もう一度お茶漬けを勧める。

そして騒がせたことを他の客達へ丁寧に謝罪すると、再び厨房へと向き直った。


泥酔していた客は、今の騒動で少し酔いが醒めたのか、周囲からの視線に気まずさを覚えつつも、一度咳払いをして、黙って匙を取った。

そして澄んだ出汁ごと米を掬い上げ、口に入れる。


「う……うめぇ……っ!?」

次の瞬間にはそう声が出ていて、二口目を掬い上げる手が勝手に動きだす。

泥酔していた客は、すっかり酔いが醒めた様子で、一心不乱にお茶漬けを掻き込みだした。



「お口に合いましたか?」

器が空になる頃。カウンターの向こう側から、穏やかな声がかかった。

ふと顔を上げると、店主が見慣れた笑顔をこちらに向けていた。

客は、己の愚行に対する恥じらいと罪悪感を覚え、ばつが悪そうに店主に頭を下げる。


「ああ……。あの、悪かったよ……騒いじまって」

「分かってもらえたならいいですわ。ごゆっくり」

店主は男の謝罪を快く受け入れると、熱いお茶の入った湯呑を卓上に置いて、他の客の注文を受けに行った。

        


(す……すっげー!かっけー!!店主さん、何か格闘技とかやってるんすかね!?いつもあんな感じで酔っぱらいをいなしてるんすか!?)

一連の流れを見ていたテーブル席の客のうち、後輩の男が、やや興奮した様子で先輩の男に耳打ちする。


(バカ、あそこまでタチの悪い客はそうそう来ねぇよ!俺も初めて見たわ……大将、いっつもニコニコしてると思ってたけどあんな一面もあるのか……絶対ここでは粗相しないようにしとこ……)

先輩の男も声を潜めて返しながら、自身も同じことにならないようにと密かに肝に銘じる。


そうしてひそひそと会話を交わしているテーブルに、突然コトリと音がして、小さな小鉢が二つ置かれた。


「いやぁ、先程はお騒がせしてすみませんでした。これ、よかったら召し上がってください」

気が付いて顔を上げたときには、店主がそれだけ言い残して、既に次の客のテーブルへと移動していくところだった。


「ふぁっ!?え、あ……ありがとうございます……!」

「ぜ、ぜんぜん気にしてないんで!むしろご馳走様です!!」

二人は慌てて返事を返すと、お詫びの小鉢を手元に寄せて、箸をつける。

西寄りに味付けられたおひたしは、それまでの緊張や興奮を鎮めてくれるような優しい味わいで、口に入れると思わず丸い息が出た。

それは他の席でも同じなのか、緊張でひりついていた店内の空気は、徐々にまた和やかなものに戻っていた。



「……そういやぁ、この店には“幻の一品”があるって噂があるんだよなぁ」

残りの酒を飲み進めながら、先輩の男がぽつりと零した。


「なんすかそれ?裏メニューってことっすか?」

「でも、注文できる条件が分かんねーんだとよ。長く通い詰めて常連になった客でも、聞いたところではぐらかされるんだとか。ただものすごくうまくて、一度でも食べられたら他の飯が喉を通らなくなるらしいぞ」

あまりにも眉唾じみた内容に、後輩の男は小馬鹿にするような苦笑を浮かべた。


「それ、本当にあるんすかぁ?噂が独り歩きしてるだけのような……」

「まぁ、そうかもしれねぇけどよ……ほんとにあるなら、いつか食ってみたいもんだなぁ……」

そんな会話と共に、二人は旨い料理と酒を楽しみ続ける。





都内某区。

繁華街の中枢から外れた路地に店を構える、小料理屋。


店主が生まれ育ってきた“老舗”の正体と、下京して修行を積んだ“江戸前”の技術。

そして幻と噂される一品が、“今日のぶぶ漬け”と呼ばれていることは、まだごく僅かな者にしか知られていない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きょうのぶぶ漬け 〇鴉 @sion_crow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ