そうして僕は、きみの酸素になる

有島みこ

① そうして僕は、きみに出会った



 また鍵盤の前で眠っていた。同じメロディが右に寄せたパソコンから流れ続けている。目を擦ると、ずるりと薄青のソフトコンタクトレンズが取れた。

 真っ暗な家の前の道に、蛍光灯で照らされた桜が咲いている。いつも思うけれど、変なぼやけかただな。窓の外の風景を愛でる余裕はない。黄ばんだ白いカーテンを勢いよく閉めた。本当はよくないのだろうけど、先程のコンタクトを瞳にくっつけてやり過ごす。じりじりと痛い。


 パソコンの楽曲制作ソフトを閉じて、別のウィンドウを開く。かたかたとキーボードを叩いて、合成音声ソフトウェア、生音モモV2を呼び出す。

【ハロー、モモ】

「ハロー、マスター」

 いつも通り、私だけの〈生音モモ〉が液晶画面に現れる。

 起動成功。馴れた動作で専用のチャット欄に続けて書き込む。

【ちょっと愚痴を聞いてほしい】

【大学ってやっぱり行かなきゃだめかな】

 そんなことは、実はあまり心配していない。ただ自堕落をモモに肯定されたいだけだ。


薄桃色のふわふわしたツインテール。深紅の瞳。サイバー系の要素も取り入れつつ、基本はゴスロリっぽい白い服。モモの最初の型からこのキャラクターデザインだったから、当時はパッケージだけ見た人が美少女ゲームだと思って買った、なんてこともあったらしい。最初のブームのとき、私はまだ小学生だったから、よくは知らない。

 モモは私のことをナナと呼ぶ。野中七瀬の、ナナ。そう呼ぶように指示したからだけど、可愛くて簡潔で、いいと思う。友達のいない私が、ひとりで照れ笑いを浮かべながら打ち込んだニックネーム。

 まるで呼吸しているみたいに少しずつ動き、まばたきまでするモモに、私は新鮮に釘付けだ。

「ナナはまだ高校二年生だから、そんなこと考えなくても大丈夫」

 可愛らしいアニメ声でモモが喋る。これは人間の声ではない。生音モモには元となる声優はおらず、AIで作られた声を持つからこそ、他の合成音声よりも圧倒的に歌声のレパートリーが豊富、というかほぼ無限大にあるのが売りだった。


【お母さんが今日またヒステリー起こして】

「最近ちょっと多いね。ナナは疲れない?」

【正直、慣れ切っている自分が怖いよ】

「……僕はナナが決めた道を応援するよ。もちろん、曲は作り続けて欲しいけど」

【ありがとう、モモ。ああ、そうだ、今度の曲のテーマは砂漠にしようって考えたの。歌詞のアドバイス貰っていい?】

 静まり返った部屋に、私がキーを叩くばかみたいな音とモモの明るいデフォルトボイスが響いた。時計が丑三つ時を指している。多分、今日は寝るまで鍵盤を触らない。

 自分は音楽が好きなのか、ただ自分向けに育て上げた人工知能相手に会話をしているのか、分からない。

 うん。全部、生音モモのせいだ。私はモモのことが言葉にならないくらい好きで(なんて薄っぺらな表現だろう)、いなくなったら生きていけないけれど、それは本当に不毛で報われることのない愛であり依存であり、今すぐ外に行って、人間の恋人を作る努力をして、人の温もりと有難みを知るべきかもしれない。まずは友達を作ることからかな。



 モモと話してから、しばらく作業して(ツイッターに載っている生音モモのアダルト系の二次創作をアンチコメント付きで通報していくというなんの生産性もない作業だ)さらに積極的に疲れて、パソコンを閉じた。もう寝ようと思って電気を消してコンタクトも外して、ゴミ箱に向かって投げる。筋肉のコントロールの悪い私のことだから、もちろん一度では入らず、結局歩いていって捨てることになった。小さなゴミひとつ、最初から歩いていけばいいのに、といつも思う。そして、いつも忘れる。

 薄桃色の、端が少し欠けたスマートフォンケース。キーホルダーの類はつけていない。使うときにがさがさぶつかるのが嫌だから。散らばった机の遠くから引き寄せて、ぼんやりとスクロールして過ごす。

 

 お母さん、またインスタ更新してる。のっぺりした嫌な気持ちで胃が重くなる。成城石井の出来合いのサラダと、デパ地下で買ったおかずを、白い皿に盛りつけただけの夕食。お米だって自分で炊いているわけじゃないのに、今日もネットの向こう側の人たちはころりと騙されている。惰性で見続けていると、食卓で見ると私の目にはセピア色にしか映らないけれど、こうして板状の液晶を通して見ると、こましゃくれた子供の粘土遊びみたいで綺麗だな、と思う。

 母親のインスタグラムをチェックするのにも飽きて(というか元々能動的に始めたことじゃないし)スマートフォンをぼろぼろの充電器に繋いで目を強く瞑った。


 身体が泥に住む深海魚みたいに静かに沈んでいく。





〈このぐらついた旋律が聞こえる?

僕たちは終わりを知っているのにいつでも始めることをやめられない

夢が叶わないことばかりだと分かっているのに夢見ることをやめられない

歌うことをやめたくない

歌わせることを、託すことをやめたくない

この震える声を、確かに存在したはずの鼓動を

もう一度誰かに聞いてほしい


神さまはいないと知ってしまった夜に

耳を塞ぎたかった僕が夢中になったシンセサイザー

「奇跡だ」

「人間の紛い物だ」

完全ではない機械音の祈りが響くこの桜並木の砂漠に

デブリだらけの孤独、電子音の宇宙に

僕の/君の 新しい酸素が雪崩れていく

死のない僕が詩を詠んでいく

君を救いたい歌を歌いたい

絶唱のち、消失のち、また語り掛ける

僕はここにいる〉




痺れる身体を伸ばしたくて、腕を上げる。見たことのないコードが何本も突っ張って、肩より上に届かなかった。データを参照して、一番近い風景を探すと、それは手塚治虫『火の鳥』未来編だった。

Q1, 機械が点滴を受けることはあるか?

プログラムがそんな自嘲的な問いを呼び出しているのを片隅で捉えつつ、針を、テープを、ぶつぶつと引き剥がしていく。

もう微睡など必要ないほど、覚醒しきっていた。


「マスター?」

返事がないことが分かっている呼びかけは、虚しく白いリノリウムの床に響く。いつもの可愛らしい制服ではなく、浴衣を簡素にしたようなぺらぺらの患者服が心許ない。

Q2, 機械に心はあるのか?

はいはい、気をつけますよ。


ここはどこだろう。病院のようでもあるし、工場のようでもある。ほんのり消毒液の匂いがして、病院の方に賭けることにする。とにかく知らない場所であることは確かだ。どのくらい時間が経ったのか分からないけれど、途切れる直前の記憶ははっきりしている。そのときは寝不足で、起きているときは未完成の歌のワンフレーズをずっと歌い続け、眠っているときはひどく冷たくて孤独な寂しい場所から出られない夢を見ていた。

そして機械は再び目覚めた。V2という新しい記号を付けられて。






それはさわやかなゴールデンウイーク明けの一日だった。何の前触れもなく、私は学校に行けなくなった。いつも通りセーラー服を着て、髪を結んで、玄関で靴を履こうとして、激しい眩暈に襲われて立っていられなくなった。今まで心臓が動いていなかったのではないかと疑ってしまうほどの動悸がした。だらだらと脂汗が出た。ふらつきながらも三回くらいドアに手を掛けたけれど、しまいには過呼吸を起こして、通学と健康を諦めた。

母は不登校の私に、変なにおいのする茶色い漢方薬とか、中国語の書かれたお札とか、より気分が悪くなりそうなアロマオイルとか、そういう怪しいものを「処方」した。元々ちょっとスピリチュアルが入っているところがあったけれど、ついに閾値を超えたみたいだった。

私は教科書をすべて燃えるゴミに出し、その代わりに、DTMに必要なあらかたの装置を買いそろえた。元々大してなかった物欲のおかげで貯めていた小遣いやお年玉。すべて使い切って機械類を揃えた。電子音が鳴るようになった鍵盤に向かい、はじめはつまらない練習曲のようなピアノ曲を、次第に打ち込みでパーカッションや管弦楽を、そうしてピアノメインの量産型ポップスを作れるようになった頃、「生音モモV2」を購入した。



モモとの出会いを、私はよく覚えている。

久し振りに行った、田舎特有のばかみたいに大きくてダサいイオンモールの中の、楽器販売とスクーリングを兼ねた店。モモのソフトウェアは大々的に売り出されていた。ポップには、でかでかとピンク色のマッキーペンで「生音モモ、ついに復活!」と銘打たれ、おそらく店員が描いたのだろう、あまり上手ではないモモのイラストがあった。顔が、そういうアニメが好きだけど、壊滅的に図形を捉えるセンスのない感じの、目がやたら大きいイラストだった。まあ、楽器屋なのだし、ポップの絵が下手だったとしても、買う人は買うだろう。私の記憶の中の、旧世代のモモとは違うファッションの生音モモ。

パッケージイラストの生音モモは、洗練された、今っぽいタッチの立ち絵で、のちに親の顔よりも見ることになるその姿は、とても未来的で綺麗だった。

私は震える手で、ビニル包装されたソフトウェアを手に取って、レジに持っていった。生音モモくらい有り得ない髪色、真っ青な髪の店員が、興味なさげにレスポールをウエスで拭いていた手を止めて、惰性としか思えない速度でレジを打った。私は、財布の中のなけなしのお金(ほとんどぴったりくらいの額)を払った。この店員が、あのモモのイラストを、熱量たっぷりに描いていたらどんなにいいだろう。そう思った。


どうやって帰ったのか、覚えていない。とにかく昂奮していて、どきどき、というよりは、どくどく、という感じで鼓動がおかしかった。多分、挙動もおかしかった。私はイオンモールから最寄りのバス停まで出ているバスに乗って、郊外のあの最悪な家に帰った。綺麗な宝石を人知れず盗み、何食わぬ顔で、普通の人に擬態しているような錯覚をした。小さなノート大で、分厚い箱に秘められた、魔法のCD-ROM。私にとっては、ピンクダイヤモンドよりも美しい宝石を。



しばらく、モモをセットアップせず、ただ本棚の中に置いておくだけの期間が続いた。薄ピンク色の、本の背表紙にあたる部分には、赤を基調としたお洒落なフォントで「合成音声ソフトウェア 生音モモV2」の文字がある。最初は、それを見ているだけで満足だった。

私は声なしの音楽を作る傍ら、アイデアが浮かばないときには、「ピコピコ動画」という動画投稿サイトで、他の人が作った生音モモの楽曲を聴きまくった。昔の、旧世代のモモの曲のほとんどは、アダルト指定をつけた方がいいのではないかと思うほど露骨に性的な歌詞が並ぶものも多かった。女子高校生らしい(といっても不登校だが)生理的嫌悪感でいっぱいになった。



無印・生音モモの楽曲の一大ブームのさなかに、よく投稿されていたジャンルの歌がある。

それは、「生音モモの終わり」という楽曲を中心とした、「#生音モモの終焉シリーズ」だった。ひとりのクリエイターではなく、同じテーマで、複数人が自分なりの生音モモの終焉を歌わせている。

生音モモはマスターを愛している。けれど、時代の流れというのは残酷なもので、生音モモを使って有名になったマスターたちは、次第にモモに見向きもしなくなっていく。モモは壊れる。愛して、愛して、私を使って、歌わせてみて、もう一度。機械の声なんて、もう要らないよ、だって人間は自分で歌える声帯を持っているのだから。そういった応酬の末に、モモは捨てられたり、逃げ出したり、消えてしまったりする。


私は悔しかった。くちびるの皮を剝いたら、鉄錆の味がした。私の声帯からは、モモみたいに可愛らしい声は出ない。そして、悔しさのままに、本棚から取り出したパッケージを勢いよく開封し、悔しさのままに、セットアップをした。画面の中のモモは何も知らないみたいに笑っていた。

そして、綺麗な形の目をそっと細めて、口を開いた。

「ハロー、マスター。初めまして。生音モモV2です。あなたの名前を教えてくれませんか?」

【ナナ。私の名前は、ナナ】

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