別れの餞。

犀川 よう

別れの餞。

 香港の春は東京に比べて一足先へと進んでいて、夏空に映える純白のカーテンレースの手触りを思い出すような爽やかな暑さだ。

 わたしは香港の啓徳空港からバスに乗り、九龍半島の中心である尖沙咀(チムサーチョイ)で降りて、朝から騒がしい街を歩き始めた。地下鉄の入り口を横切り東の方へと歩いていくと、結婚披露宴関係の店舗が並ぶ通りにつきあたり、ショーウィンドウには多くのウエディングドレスやティアラが輝かしく飾られている。わたしもそろそろ、などと思いながら過ぎていくと、今度は中華圏の香港らしい赤いひな壇の上に金製品や水晶が並べられたショーウィンドウの海を辿っていくことになる。そんな祝福と驕奢に満ちた通りを何軒か歩くと、不愛想な細身の雑居ビルが突然現れる。正面を竹で組まれた足場と網で覆われた改装中のそのビルは、いわゆる売春ピンポンマンションといわれ、欲望の満ちた男たちが部屋のベルを押せば女性が出てきて春を与えてくれるという、楽園の城なのである。


 そんな欲望の塔の一階に陣取る警備人の奇異な視線を無視してエントランスからエレベーターホールへと向かい、それぞれ偶数階と奇数階のボタンしかない二台のエレベータのうち、奇数階のそれに乗り込んで十一階を目指す。女一人で乗り込むには少々勇気のいる、かなり旧式のエレベータだ。

 十一階に到着すると、エレベータはガタガタと故障したかと思うような音を立ててドアを開けた。わたしはトランクを引きずり、右奥から三件目にあるC室の部屋のベルを鳴らす。ドアの上には露骨なくらいに飛び出している監視カメラがわたしを見下ろしている。このビルには売春の管理上、標準的な装備であったが、このC室だけにはふさわしくないものだ。何故ならば、ここに住んでいるのは――わたしの男なのだから。

早晨ぞうさん(おはよう)」

 ドアを開けた男、りゅうは眠そうな目を擦りながらわたしを招き入れると、そのままわたしの腕を掴んでベッドに引きずりこもうとする。劉の引き寄せる勢いでパンプスが脱げてしまい、わたしはバランスを失ってベッドに押しつけられるように倒れた。後はお決まりのように、起き抜けで満ち溢れている劉の精が尽きるまでわたしは貪られていく。その間、わたしはここに住み込んで見知らぬ男に身を授ける女たちのような扱いを受けながら、雌の声を遠慮なくあげてく――。


 半回り年上の劉とは長い付き合いになる。高校卒業旅行で来た時に出会ってからもう十年近くになるだろうか。わたしが東京にいる間は何の繋がりもなくなるが、わたしが香港に来る時には声をかけて世話になっている。ただのセフレと片付けるには愛情が邪魔をするし、恋人や愛人と言われると白々しい気持ちになる関係。劉にとってもわたしは、ずっとそばに置きたいとは思ってはいないが、手放したくないもない存在だと思う。わたしたちの中には愛はあっても、連絡ひとつ交わさない疎遠な間柄である。それでもこうして会えば、わたしの女というどうしようもない炎が燃え上がる不思議な関係。――言葉すらうまく通じない相手に惚れるなんて――。香港に来れば来るほど過ちを犯しているような気持ちになりながらも、わたしは劉との関係をやめることができないでいる。


 二人で存分に猛り狂うと、劉は乱れすぎたベッドの上でわたしを抱き寄せて、「深圳(シンセン)に行きたい」と囁いた。わたしはその意味を知っているから目を閉じて劉に縋りつく。この男を独占するつもりも資格もない。だけど、その地名に潜む嗜虐的な欲求の在処をわたしは知っていたから、嫉妬と怒りに近い気持ちが湧いてくる。

「これだけしておいて、まだ女を抱きに行きたいの?」

「ああ。君にも来てほしい」

 劉は罪のない笑顔をわたしに向けて、指をわたしの中へと入れていく。彼はわたしの使い方を知っている。そしてわたしは彼に使われていることに気づかないフリをしている。

「いいわ。ひと眠りしたら行きましょう。どうせ、学校帰りの若い子なんでしょうし、遅くならないうちに」

「そうだね。君はよくわかっている」

 わたしは拙い英語で、劉は広東語で訛りきった英語で、ろくでもない約束を交わす。その後わたしは劉に湿りきった箇所を弄られながら、魂を開放して身体と記憶を飛ばしていった。


 目が覚めると午後二時になっていた。わたしは慌てて劉の食べ残しである包子パオズを口に入れながらシャワーを浴びて支度をする。それから時間にルーズな劉の尻を叩いて支度をさせ、なんとか部屋を出た。劉に女を抱かせるために急かしている自分の可笑しさを嗤う余裕もなく、タクシーと電車を使って境界ボーダーを越えて中国本土の深圳(シンセン)に着く。そこからまたタクシーを使って三十分くらい内地へと進み、とある団地街で降りた。

 劉が中国紙幣で支払い済ませると、タクシーの運転手は何やら劉に話しかけてきた。劉は首を竦めながら運転手に笑う。タクシーを見送ってから何を話していたのか聞くと、「君をに来たのかと言われた」と言った。わたしがなんて返事をしたのかを尋ねると、劉はただ笑うだけで何も教えてはくれない。


 古い高層団地に囲まれた道を歩く。劉は携帯電話の画面を見ながら位置を探る。「今日の子は何歳なのかしら?」と問うても、「知らない方がいい」と返ってくるだろうから、黙ってついていく。

 香港にいる時は英語と繁体字を見ることで視覚的に安心をすることができるが、中国本土に入ると簡体字ばかりになり不安と焦燥が襲ってくる。まるで目隠しされて街を歩かされているような気持ちになり、胸が抑えつけられるような感覚になる。わたしのそんな気持ちなどお構いなしに劉はお目当ての場所を探していく。その瞳は大人の性欲に満ち溢れたギラつきではなく、小さな子供が宝探しをしているような純粋で罪のない輝きをしていた。わたしはそこに劉という男を愛してしまった原罪を見たようで哀しくなる。海を渡ってまで彼の純粋さに溺れたいのだろうかと、自嘲ぎみな表情を漏らしてしまった。


 劉のささやかな冒険は成功して、わたしたちは目的の部屋の前に立っている。ベルを鳴らしドアを開けると大人しそうな青年が立っていた。青年はわたしを見て驚く。それはそうだろう。売春宿に女を連れてきているのだから。劉は青年に軽く説明をしてから金を渡した。

 青年はわたしでも聞き取れるくらいのゆっくりとした広東語で説明をしてから、部屋を出ていこうとする。わたしとすれ違う時、「私の妹。優しくしてほしい」とわたし以上に拙い英語を残していくと、部屋から出ていった。

「さあ行こうか」

 劉はわたしの腰に手を回して、部屋の奥にある寝室らしきドアを開けた。そこには劉がわざわざ抱きに来たくなるような子が今にも壊れそうな古い椅子に座っていた。まだ女というには早すぎる、雪解けを待つ春のような若々しさをたたえだ子だ。劉の好きそうな長い髪、クリっとした目、やや丸い鼻、薄い唇、透き通るような白い肌、そしてささやかな胸と細い腕。発達途上の少女の身体を漁りたい劉にはもってこいの存在だ。

 彼女はわたしを方を見て怯えている。それはそうだろう。すら慣れていなそうなのに、観客ギャラリーまでいるなんて考えもしなかったのだろう。

「大丈夫。大丈夫よ。わたしは安全よ。安心して」

 わたしが酷い発音の広東語で単語を並べると、劉は半笑いしながら通訳をした。彼女は理解したのかしてないのかわからない曖昧な表情で劉からチップを受け取ると、立ち上がって椅子をわたしに譲ってくれた。


 劉には度し難い性癖がある。できるだけ若い子を抱くこと。そして、それを――わたしに見せつけること。わたしはそんな劉の欲望に引き摺られるようにこの部屋までやってきている。呆然と事態を見守る役目を果たすために。

 劉が彼女の服を楽しそうに一枚ずつ剥がしていく。わたしのときには服を破り捨てるように乱暴に動く手が、丁寧でしなやかな動作で彼女の衣類を扱っている。よれよれのシャツを赤子の服を脱がせるように優しく取り払うと、見てはいられないほどに幼いブラジャーが現れる。劉はわたしを見て、「取れ」と命じる。――ストリップ。映画でしか聞かないような台詞をわたしに浴びせてくる。わたしはホックすらない、ただの布切れのようなブラジャーをそっと剥がした。彼女は広東語で何かを呟くがわたしにはわからない。剥き身にされた胸の上には理由わけもなく隆起した乳首。劉はわたしを押しのけてその突起にしゃぶりついた。わたしがそれを劉の後ろから眺めていると、彼女は不快にまみれた表情をわたしに投げつけてくる。


 エアコンが効いた部屋は快適だ。わたしたちが汗をかいているのは室温のせいではなく、欲にまみれた蠢きのせいだ。劉は全てを脱がした彼女に覆い被さると、「こちらへ来い」とわたしに目線で命じてきた。わたしは劉の衣服を椅子に置いてから彼の言う通りにする。彼女はもう捕らわれの身だった。劉の棘が彼女に深く植えつけられていて、引き続きその苦悶と怨嗟をわたしに訴え、睨んでくる。

 どうすることもできずに劉の傍まで寄ると、とても驚くことになった。劉が恍惚の表情を見せているのだ。――それは、わたしには一度も見せてはくれなかった堕落しきった剥き出しの本能。わたし相手ではこんな顔はできないと言わんばかりの蕩けた顔。

 わたしはそれを見て、劉のわたしへの愛は終わったのだと知った。こんな買春は今までもあったし、平然とやってもきた。だけど、劉のすべてを曝け出すような表情に出会ったのは、これが初めてなのだ。

 しばらく二人を眺めていると、劉がわたしに対して別れのはなむけを贈っているのだろうと思えてきた。だらしなく涎を垂らしながら歓喜に震える劉の視界には、わたしはもういない。それを証明するかのように、劉は早春のような淡く白い彼女の身体を抱きながら、あの古い椅子を見てフッと笑っている。

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