サビの尻尾
藤野 悠人
サビの尻尾
実家のそばには、大きな木が立っている。私が物心ついた頃には、その木がある景色が当たり前で、樹齢がどれくらいなのかも分からない。
母は窓越しにその木を眺めながら「雀の集会場だから、本当に賑やかねぇ」と、いつも言っていた。雀たちは朝になると、どこからともなく集まってくる。その声は、まさに自然の目覚まし時計だった。
大学を卒業後、私はシステムエンジニアとして就職し、一人暮らしを始めた。
だけど、数年後。父が交通事故で亡くなった。母を一人にできないと思った私は、当時付き合っていた彼氏と別れて、実家で母と暮らし始めた。その母も、私が35歳の誕生日を迎えた直後、くも膜下出血で亡くなった。
実家には私だけが残された。この家と、一台の軽自動車と、そこそこのお金。それが、両親が遺してくれた心強い遺産だった。私もこの頃には在宅で仕事をしていて、母がいなくなった以外、生活は変わらず続いていった。
だけど、母のいなくなった家は驚くほど静かだった。平屋建ての小さな家は、三人で住むには丁度良かったけれど、ひとりには広すぎる。
だからだろうか。友人の家で仔猫が生まれたと聞いて、なんとなく眺めるだけのつもりで立ち寄ったのだが、気付けば一匹お迎えすることになった。
確かに猫は好きだけど、これまで動物を飼ったことはない。でも、仔猫たちの中で一際小さなその仔猫が、差し伸べた私の手に何度もすり寄ってくるのを見て、一緒に住もうと決めた。
その時、ようやく私は、あの家に独りきりで寂しかったんだと気付いた。
迎えた雄の仔猫は、黒や茶色の混じった独特の毛並みだった。サビ猫、という呼び名を、その時初めて知った。
サビ。安直にそう名付けた仔猫はすくすくと成長し、いつの間にかすっかり大きくなった。スマートフォンの写真フォルダも、サビの写真でいっぱいになった。
―――
サビが我が家へやってきて、三度目の春が来た。仕事中にふと様子を見ると、窓の外を眺めて、長い尻尾をすとん、すとんと動かしている。木の枝に止まっている雀でも眺めているんだろう。窓辺のバードウォッチングは、この子の日課だ。
休憩ついでにコーヒーを淹れようとキッチンに向かうと、長い尻尾を立てて、こっちへやってきた。テーブルの上に飛び乗って、私の様子をじっと眺める。いつもと一緒だ。
「コーヒー、淹れるんだよ」
私はそう言って、サビの頭を撫でた。
サビは好奇心旺盛で、人懐っこい。私が何かしていると、すぐに近くへやってきて、じっと眺めている。
始めに、多めにお湯を沸かして、まずはマグカップに注ぐ。
「こうするとコーヒーがいきなり冷めないからいいのよ」と、母がよく言っていた。
そうしたら、次はドリッパーの準備をする。程よくマグカップが温まったら、お湯を捨ててドリップする。本来はコーヒーサーバーに淹れた方が良いんだろうけど、ズボラな私はいつも直接マグカップに淹れる。
ドリップを始めると、サビは顔をしかめながらも私のそばから離れない。コーヒーの匂いは苦手らしい。それなら離れればいいのにと、思わず苦笑する。これも、いつもと一緒。
しばらくすると、サビは興味を無くしたようにテーブルから降りて、どこかへ行ってしまった。
マグカップを持ってダイニングへ戻ると、サビがいた。パソコンのキーボードの上に堂々と陣取り、キリっとしたドヤ顔で私を見つめている。
「もう~。サビ、どいて」
サビを抱えて床へ下ろした。ふにゃあ、と不満そうにサビが鳴く。
しばらくウロウロと歩き回っていたサビは、パソコンデスクのそばに置いたカラーボックスにジャンプすると、テープで作った丸印の中に収まり、そこで昼寝を始めた。サビを譲ってくれた友人が教えてくれた方法で、仕事中に邪魔をされないために用意したのだ。
タイピングの音。時計の秒針。パソコンのファンの音と、サビの微かな寝息。この三年間で、すっかりお馴染みとなった景色だ。
ふと手を止めて、カラーボックスの上のサビを見た。手を伸ばして顎を撫でると、一瞬怪訝そうな顔をするけれど、しばらくするとゴロゴロという音と、小さな振動が指先に伝わってきた。
―――
仕事が終わる頃になると、少しずつサビが騒がしくなる。落ち着かない様子でウロウロと歩き回り、私の顔を見るたびにナオーンと鳴く。
「はいはい、ちょっと待ってね」
私は苦笑しながら餌入れを取ると、別の部屋にあるキャットフードをザラザラと入れた。
餌入れを持って戻ると、サビは待ちきれない様子で、私を見上げて更に大声で鳴いた。これもいつものことだ。そっと餌入れを置いてあげた。
私も冷蔵庫から、作り置きしていたポテトサラダと、肉野菜炒めを取り出す。それらを温めながら、インスタントの小さな味噌汁パックをお椀に入れる。お湯で溶かして、そこに冷凍しておいた刻みネギを入れた。ご飯を炊飯器から茶碗によそえば、一人分の食事の完成だ。その頃には、サビはとっくに食事を終えていた。
食事と洗い物を済ませ、サビのトイレを掃除する。飲み水も換えてやれば、ようやく自分の時間だ。本棚から読んでいる途中の文庫本を取り出すと、ソファに座って読み始める。しばらくするとサビもやってきて、遠慮もなくするりと膝の上に乗ってきた。そして、私の手元の本をじっと見る。
まるで一緒に本を読んでいるような格好だ。サビを撫でながら、私は声に出して読んでみた。
くるるる、とサビが小さく鳴いた。ストン、ストンと動いていた長い尻尾が、するすると手首の上に置かれた。顎を撫でると、ゴロゴロという喉を鳴らす音が響いた。
そうして、日課の20ページを読み切るまで、膝の上と手首には、サビの確かな重さと暖かさがあった。
この三年間で、これが私たちの日常になった。
サビの尻尾 藤野 悠人 @sugar_san010
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