転倒先生の旅と怪異 その二

 大学時代、凡斎君を含め、変わったものを見る友人の一人にひとの周りに「色」を見るという友人がいた。転倒先生も戯れに見てもらったが、その女の子はニコニコ笑いながら、

「転倒君はとても綺麗な薄紫色よ。いい色だわ。私は好きだなぁ、この色。」

と言っていた。

 凡斎君は、透明な空色だと言われていた。後年凡斎君は、あの女の子は色を見るとき、瞳が金色になっていたと言った。

 転倒先生は、凡斎君が能力を受けていたことをその時知った。


 久しぶりの来訪に、凡斎君のお父さんは、大変喜んでお母さん今夜はご馳走やぞ、と大声で言っていた。転倒先生は、相変わらず僕には何かついてますか、とたずねると、凡斎君の父はだいぶん感心したように、

「君にはちょっと近寄れんようになっているな。異形のものにとっては厄介な代物だろうな」

と笑った。凡斎君は、

「だいぶん生臭さがなくなってるんだろうよ、生身の人間としてはまずいんじゃないか」

と言った。転倒先生は確かに、そういう類のものが寄り付かないではつまらないような気がして苦笑した。

「ところで、君はお父さんが使っているものを知っているのかい」

と転倒先生は訊ねた。凡斎君は、うなずき

「父が使役しているのは、ぼくを守るのにいつもいる。東京にいるときもずっといた」

「そりゃ、どんなものだい」

「形は分からないけど、いることはわかる。もともと形は仮のものでね、本当は見る人の想像によるんだ。

 見たいように見る。人間の真似をするようなのもいるけど、そういうのは狡猾で長年こちらで悪行を繰り返しているやつなんだな。

 お父さんに従っているのは曖昧でね。僕もあえて見ようとは思わない。

 お父さんはそれを、カヨウといってたけど」

「カヨウ?」

「夏の鷹」

「なかなか勇ましいな」

「父が呼ぶとやってきて用事をする」

 凡斎君は子供の頃、それに守られていたらしい。


「見えるもの感じるものには、連中は敏感でよってくるもんで、放っては置かれん。子供は寂しいとそういうもんに付いていってしまうんでな」

 食事が終わって、酒を飲みながら凡斎君のお父さんはそう言った。

「これは大事な一人息子だもんで、連れて行かれては困る。家のものは仕事で家をあけていることが多いもので用心した。

 ところで前に上げた札があったろう。あれはどうしているかな」

「母がありがたいと言って貼ってますよ」

 なかなか奇特なことだ、と凡斎君のお父さんは感心していた。


 翌日、凡斎君は転倒先生に、車で一時間ほどの所にある温泉に連れて行ってくれた。なかなかいい旅館だったが平日のためか客もそれほどはおらず、深夜転倒先生は凡斎君と色々な風呂を入って回った。

「しかし、このごろは世の中は得体が知れないな」

と凡斎君は言った。

「どういうことだい」

「若い者や年端もいかない子供がわけもなく人を殺す」

 転倒先生はうなづいた。

「確かにそうだな、しかもこれと言った理由が無いのが怖い」

「世間はあれこれ原因を作るが、どれも納得ゆくものじゃない」

 凡斎君は露天風呂の石に腰掛け、困ったことだ、とつぶやいた。

「もともと人になることは教わっていないんだから仕方が無いのかもしれないが、なんともやりきれないな」

「君が教えたらどうだ。君が学んでいるのはそうした学問だろう」

「教えるほどのものにはなっていない」

「それはいいわけだろう」

 そう言うと、ざぶんと音を立てて凡斎君は湯船に漬かった。

 交代で転倒先生が石に上がった。

「たしかにそう言われると返す言葉はないが、教わる気のある者しか来ない。教わる気のあるものはすでに人間だから放っておいても学ぶ、誤れば覚る。しかし、獣は自ら来る事は無い」

「彼らは獣か」

「みな生まれたときは獣だ。大きくなっても欲望のままに生きれば獣のままだ」

「それはどうして変わるんだろう。才能か、人になるのは」

「才能ではなくて教育だろう。仁というものを教われば、愛情を知ることができる」

 凡斎君はそうかもしれない、と言った。

「それが無いのかな、このごろは」

「あるんだろうが、それを学ぶ機会が無い。愛情は欲望や執着ではない。子供は親だけのものではない。それを忘れているのか知らないのか親が自分のものだと思って育てれば、それは欲であり執着でしかない。

 子供は欲と執着に育てられたのだから、愛情を知らない。かわいそうだ。愛が無ければ人にはなれない。言葉を話しても何もわからない。そういう言葉は愛ではないから話は通じないのだ」

 転倒先生は湯船に降りた。

「父の言葉は魔物にすら通じるのに」

「それは彼らが恐れているからだろう。古今東西魔物は人間の邪な思いが生み育てる。君のお父さんには彼らはつけ入る隙が無い。そう言う人間は彼らにとって気味が悪いし、怖いのだろうよ」

「なるほど。しかし、君は魔物なんて信じないように思ったがな」

 凡斎君はそう言って笑った。

「信じるとか信じないの問題ではなくて、人間でも獣でも魔物でもそれはそれだ。いてもいなくてもいいんだ。どちらでも」

 そう転倒先生がいうと、凡斎君は君が言う事はいつも最後でわからなくなる、と言った。転倒先生は苦笑しつつ、

「そんなことはないさ、みんな難しく考えすぎなんだ。

 例えばおいそれとはいけない遠い土地の人に、私の土地にはこういうものがあるといわれると人はそういうものがあるかもしれないと思うから、いきなり嘘だとかそんなものはあるはずが無いと言ったりしないだろう。

 しかし、近い所だとそんなものはいない、嘘だと言ったりする。自分はなんでもその辺りのことは知っていると思うからだ。井の中の蛙っていうだろう。そんなものだ。物事の有無なんてそうそう簡単にわかるものではないさ」

と言う。

「普通はそうは考えないものだ。実際に自分の目で見ないと信じないなんて言う」

「目に見えるからあると思うんなら。夢だって幻覚だって見えるのだからあることになる」

「それは現実ではないから」

「現実っていうやつ物自体が曖昧なんだ。今日が終われば明日は必ず来ると思っているが、明日の事は誰もわからない、必ず来ると言う根拠がない。現実はその程度のことだよ。錯覚だと言えないこともない」

 凡斎君は首を振りますます君の言う事は分からないと言った。

 転倒先生は寒くなった、と湯船にざぶんと入って体を温めた。


 翌日の朝、温泉から帰ると、凡斎君の家にお世話になったお礼と挨拶に行った。

「どうかお元気で、またそのうち遊びに来ます」

と頭を下げた。凡斎君のお父さんは達者でな、とお土産をくれた。

「それは家で漬けたものだから口に合うかわからんけれど」

 転倒先生は、ありがとうございます、と言ってもらって帰った。

 凡斎君は駅まで見送りにきてくれた。

「君と話すとなんとなく気が晴れるよ。若くなるな」

「若くなるなんていうほど年寄りじゃないだろう」

 転倒先生は笑った。凡斎君はそうだな、とうなづき、転倒先生はいろいろありがとう、また来るよと握手をして列車に乗った。

 走り出した列車の窓から転倒先生がホームを見ると、凡斎君が手を振って見送ってくれていた。

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転倒先生行状記 一ノ瀬 薫 @kensuke318

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