第4話 転倒先生の旅と怪異 その一
先生は旅行中である。
といってもそう遠いところではない。都心から二時間ほどのところである。特急に乗ってそこに着くと駅前で、畏友凡斎君が出迎えてくれた。
凡斎君は知り合ってこの方、変わらぬ様子で転倒先生と握手をした。
「いやぁ、転倒君は変わりなくて何より」
「凡斎君も健在で」
凡斎君は訊ねた。
「家族の人たちは元気かな」
「ああ、元気だね。君のところはどうだい」
「元気だ」
「それは、なにより」
二人は、歩きなれた緩やかな坂をのんびり歩いていった。
転倒先生は、凡斎君に会うのは楽しかった。なにがどう、というのではないが、気分がいい。おそらく互いになにかと融通がきくからだろう。阿吽というか以心伝心というか、そんな感じだと、別段話しをせずともいいのである。
凡斎君はこの温泉町で代々旅館を営む家に生まれた。しかし、彼の父は旅館を凡斎君に継いでもらおうとは考えていないと宣言し、継ごうと思っていた凡斎君と不思議なすれ違いになった。
その結果、凡斎君は転倒先生と同じ大学に進学し、二人は出会った。しかし彼は大学を卒業後、旅館の仕事を手伝っている。
一度は東京で就職をしたが、一年ばかりでやめて帰郷したのである。
そのとき転倒先生は、東京の会社なんて野蛮人と狂人の住処だ、君が勤まるはずがない。君には合わないよ、辞めて正解だ。転倒先生は、凡斎君の君子の資質を損なうことを惜しんだのである。
凡斎君の父は不思議な人で、学生時代に転倒先生が訪れた時に、挨拶をすると、
「遠くからよく来られた。いつも凡斎がお世話になって」
と笑顔で迎えてくれたが、突然肩を両手でパンパンとはたいた。
転倒先生があっけにとられていると、
「どうぞ、おあがりになって」
と、奥に行き、飯はまだかい、母さん、と大声で言った。
転倒先生が何かを聞こうとすると、凡斎君はあとで話すよ、と転倒先生を奥に招いた。
凡斎君が語ることには、凡斎君のお父さんは、異形を見る質だということである。またそれらを使役する術もあるらしく、代々凡斎君の家は近隣の人たちから畏敬を受けていた。
凡斎君はどうなのかというと、笑って答えなかったが、そういう能力はあっても、今の世の中ではそんなに価値がないと笑った。
食事の時に凡斎君の父は、ここらの(異形の)ものはそんな性質の悪いものはいないが、一度凡斎に会いに東京に行ったときには酷かった。
万が一と思って連れて行ったものが、随分役に立ったと言っていた。
「そういうものが見えると何かいいことがあるんですか」
と転倒先生が聞くと、
「いや、まあ。あんまり悪い事を考えんようになることくらいで、別になにか得になることはない。
見えない者は見えないから悪い事を考えられるんで、あんな物を子供の頃から見ていれば悪いことは考えられん。小さな頃はよくまあ人は恐ろしいものをくっつけているものだと怯えて暮らしたもんだ。
爺さんは私がそういう性質だと知っていろんな術を教えてくれたが、その頃は恐ろしくて使えるものではなかった。でもまあ、なれてしまえばそれなりに可愛いもので、役にも立つもんもある」
「私も見てみたいんですが」
そう、転倒先生がいうと、
「いや、騒いでしまうんでやめときなさい」
と、凡斎君のお父さんは首を振った。
「見ることはできるんですね、それじゃ」
転倒先生がそういうと、あれ、こりゃしまった、と凡斎君のお父さんはポンとひざを打ち、凡斎君を見て
「この人はなかなかずるい人だな」
といい、凡斎君はお父さんに大学一の悪知恵者の働く人ですよ、と言った。
「まあ、懲らしめにはなる」
凡斎君のお父さんは、笑った。
長い廊下の奥の部屋に通され、凡斎君のお父さんは転倒先生を座らせると何か口の中でつぶやき両肩をバシッと思い切り撃った。
それ、あんたはもう動けんだろう、と言われ転倒先生はハッとして立とうとしたが動けない、左右に揺れないし動かした感覚があっても動いていないのだった。しかも声を出そうとしても口がパクパクするだけだった。
「そうだな声も出ん」
凡斎君のお父さんは転倒先生の瞼を手で覆い閉じさせ
「あけろというまで瞑っていなさい」
といい、その直ぐ後で何かを転倒先生の瞼の上から強引にグッと押し込みあまりの痛さに唸ると閉じていた目の中がパッと明るくなった。
そのとき凡斎君のお父さんが
「あけなさい、もう見える」
転倒先生は、恐る恐る目をあけた。部屋の中は別に変わらず、薄く月明かりが射している暗がりだった。凡斎君のお父さんはいなかった。
相変わらず動けず、声は出なかった。一人きりだとさすがに怖い気持ちもあったが、転倒先生は好奇心が勝った、うすぼんやり黒い塊のようなものが、そこここに見えたと思うとそれは転倒先生の目の前に姿をあらわした。
それと同時に後ろから凡斎君のお父さんの声がした。
「見えるかね」
転倒先生は、その声に一瞬気を取られたが、目の前の光景に息を呑んで出ない声も上げられなかった。
「あれは、君を追いまわしている異形ものだよ、ただ、あのままでは何もできない。たぶん、誰かの体を借りてあんたを困らせるだろうな。相手にしなければいいいだけのことだ。どうせまともな近づきかたはしない」
それは、和服を着た少女くらいの背丈だったが、座敷を行ったり来たりしている足元は蛇のような、ナメクジのような滑らかに光る数本の触手だった。袖から見えているのは長い白い爪だけでそれを頭の先が時折舐めていた。
頭は目がない緑色のノッペラボウのようなもので頭のテッペンが舌のようにとがっているのだ。しばらく座敷を誰かを探すように徘徊し、障子を抜けてどこかへ消えていってしまった。
転倒先生は、あまりのことにボンヤリしていると急に背後から瞼に手が伸びて目の玉を引っ張られるような感じがすると何かが目の玉からズボッと抜けた。
転倒先生は、あっと出ない声を上げると、凡斎君のお父さんが目の前にいて、何かつぶやくとまた肩のあたりを思いっきり撃った。
あたりはただの暗い座敷だった。
「どうだった。あれはまだそんなに性質が悪いものじゃないが、育てばなかなか酷い事をするようになる。まだ、子供のようなものだな」
凡斎君のお父さんは、転倒先生にそう言った。
二日ばかり凡斎君の家で過ごし、帰るときに、凡斎君の父は、これを持って行きなさい。と、一枚の札をくれた。
「私が作ったものだが、異形のものはこれがあると近づくことはできん。それに写しを取ればいくらでも防げる。
しかし、君には必要ないかな、君は何かそういうものも近づけないもんがある。まあ、それでも人間気が弱る時もあるだろうから念のために持っていてもよかようよ」
転倒先生は貰って帰り、そのことを母に話をすると、信心深い母は随分ありがたがって写しを取り、家の要所要所に貼って回った。
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