第5話 鯨

 毎朝、バス停から大学へ向かう道すがら、智也は町の情景を目に焼き付ける。

 漁師たちが、新鮮な魚を運ぶ。パン屋からは焼きたてのライ麦パンの香り。

 子供たちが、元気よく学校へ駆けていく。


 淡い朝日が、カムチャツキー大学の窓硝子を染めていた。

 重厚な木門をくぐり、中庭を横切る。朝露に濡れた芝生が、足元で心地よい音を立てる。

 大理石の階段を上れば、言語学部の建物が見えてくる。

 見上げると、桜のつぼみが少しずつ膨らみはじめていることに気づき、肌寒い風の中に春を予感した。


 朝日を受けて輝く白亜の壁。歴史を感じさせるネオクラシカル様式の窓枠。

 その細かな装飾の一つひとつが、物静かな学問の世界をかき乱さないよう、外の音を遮断している。


 言語学研究室の扉を開けると、長年蓄積してきた、古い書物の香りが鼻をくすぐる。木製の本棚が部屋の壁を埋め尽くし、幾千もの書物が静かに佇んでいる。


 ヘリンボーンの床に踏み入れると、上質な木材の感覚を感じた。

 机の上には、昨夜の研究の続きや、明日の講義の資料が広げられている。


 窓から大学の庭を見渡すと、一羽のシベリアアオジが木の枝に止まっていることに気がついた。

 学問の深層に沈んでいく思考が、こういった身近な自然によってまた世界に引き戻される。

 そういった往復を何千と繰り返してきたことを思い出しながら、コーヒーを片手に席に着いた。


 講義の準備といった教授としての仕事を一通り終えると、智也は万年筆を手に取り、研究の続きに取り掛かった。

 その空間は静寂に包まれていた。万年筆が紙の上を滑る音だけが、静寂を切り裂いている。

 まるで宝石を探し求める冒険者が、岩を削り、大地を掘り起こすかのように。

 果敢にも、それに人生を捧げるように。

 探究という唯一の道具を使い、大地を掘り起こしていく。


 しかし、智也の思考は、完全に研究に集中することができずにいた。古代ロシア語の研究と並行して、智也は暗号の解読にも取り組んでいたのだ。

 先日メールで届いていた謎の暗号が、やがて手紙として郵送されるようになった。

 一度忘却された記憶は、思い出すと脳裏に焼き付いて離れない。


 机の隅に置かれた暗号の紙切れが、智也の視界の端で揺れている。

 智也は、ペンを置くと、その紙切れに手を伸ばした。


 古代ロシア語の研究は、智也の本分だ。だが、羅列されたグラゴル文字に、好奇心をくすぐられているのも事実だった。

 幼い頃から、何かに注目し規則性を発見することに興味があったのだ。高校の入学祝いにもらった本で統語論を学んだときは、なんとも表現し難いその美しさに、神の存在を感じるほどだった。


 幾星霜を経てなお、その記号の列が宿すもの、狭間に見出せる神秘性に、彼は心を惹かれていた。


 智也は、暗号の紙切れを手に取ると、じっとそれを見つめた。

 一見無作為に並べられたかのような、記号の列。

 知識のレンズを通すと、無機質な記号たちは、驚くほど活気にあふれた様相を見せる。


 文字、語、句、節、文。


 小さな記号がやがて形をなし、それらはより大きな構造を形作る。

 記号たちは、知識を持たぬものにとって常に厳しく静かに佇むが、知識を持つものにとっては愛らしく振る舞い、時に書き手の感情さえ宿しているかように、雄弁に物事を伝える。


 智也が一つひとつの単語に意識を向けていくと、普通の文章とは異なる、独特の規則性が読み取れた。文の意味はありきたりだが、それらを形作る語順が特殊なのだ。

 まるで、言葉の向こうから、誰かが智也に語りかけているようだった。


 まばらに散らばった手がかりを手繰り寄せしばらく経つと、ようやく何か一つ目の規則を見つけられる予感がした。

 目前に迫ったに手を伸ばすと、意識はいつの間にか言葉の海に溶け込んでいた。

 現実と幻想の境界が、曖昧になっていく。


 目を閉じると、そこにはより豊かで広い世界が広がっていた。

 統語と意味の世界。

 あらゆるものが相互に作用し、時間軸と共に、さまざまな力学が見出せる。その力学によって押し出されたものが、実世界に「言語の変異」という形として現れる。

 

 智也は、言語学という概念の内側に招かれたことを理解した。

 驚いていないのは、これが初めてではなく、思考の集中が極限に達したことの合図であったからだ。


 自分の身体は目視ができない。

 代わりに、複雑な思考回路の動きを見ることができた。言葉の一つ一つが、神経細胞を刺激し、新たな発想を生み出していく。

 思考はまるで星々の軌道のように絡み合い、予想のできない地点で交差していく。


 それらを観察していると、ふと海のようだと思った。

 身体全体が海に吸収され、ただ流れに身を任せている感覚。


 目的地を持たないが、この導きに身を委ねること以上に何が重要なのだろうか。


 ──遠い国の鯨の話

 不意に、静香が語ってくれた物語を思い出す。

 イヴァン4世が送り出したロシアの人々からの言い伝え。

 ウラル山脈を東に越えた時に見た、遠い国の鯨の話。


 海を漂いながら、智也は探究の喜びに身を委ねていた。知識の引き出しがまばらに開き、海の中で混ざり合う。


 時間の感覚もなくなり、ただ思考の流れに身を任せていたその時。


 不意に現実に意識を連れ戻された。

 はっと我に返った智也は、少し動揺しながら顔を上げる。

 イワンが心配そうな顔で立っていた。


「先生、大丈夫ですか?もう8時ですよ」


 確かに、窓の外はもう真っ暗だった。

 智也は、机に突っ伏して眠ってしまったようだ。


「ああ、イワン。すまない。すっかり夢中になってしまっていた」


 智也は苦笑しながら席を立った。イワンは安堵の表情を浮かべる。


「娘さんが待っているのでは?早く帰られた方がいいですよ」


 イワンの言う通りだ。急いで身支度を始める。コートを羽織り、鞄を手に取る。イワンに礼を言い、智也は研究室を後にした。


 夜の大学は、静寂に包まれていた。智也の足音だけが廊下に響く。

 長い廊下を歩き、重い扉を押し開ける。中庭に出た。


 昼間とは違う、夜の草木の香りがする。湿った土の匂い、木々の葉の匂い。

 空気が冷たく、肌に心地よい。


 智也は大きく深呼吸をした。夜の澄んだ空気が、肺の奥深くまで入ってくる。頭がすっきりとする感覚がある。


 中庭の小道を歩く。枝葉が頭上で揺れる音、靴底と砂利の擦れる音。遠くで、フクロウの低い鳴き声がした。


 大学の門をくぐり、通りに出る。街灯の明かりが、道を照らしている。

 人通りは少なく、ほとんどの店は閉まっている。閉店後の打って変わった静けさが、街を包んでいる。遠くで、犬の遠吠えが聞こえた。

 夜のカムチャツキーは、どこか安心するような佇まいを見せている。


 バス停に向かって歩く。この時間のバスは、あまり頻繁には来ない。暫く待つことになるだろう。

 バス停の椅子に腰を下ろし、夜の街を眺める。

 気がつけば、集中した思考が解れていった。

 街の灯りが、闇の中で瞬いている。家々の窓から漏れる明かり。信号の赤と青。マンションや、遠くの高層ビルの窓の明かりが混ざっている。規則性を失ったそれらは、まるで星々のようだと思った。


 そうしていると、バスが来た。ドアが自動で開き、智也は乗り込む。車内は空いている。窓際の席に座った。


 ふっと溜息が出た。今日も、言葉の探究に没頭した一日だった。暗号の謎は、まだ解けていない。だが、確かな手応えを感じている。

 記号の列に分解された意味が、少しずつ繋がっていくような感覚。

 本質のある方角に、一歩ずつ近づいている感覚。


 智也は、そのことを喜びながら、静香の待つ家に帰っていく。

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最古の山脈から Colet @kakukaku025

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