第4話 蝶

 目の前の男が発した命乞いを、銃声でかき消す。

 先程まで声を発していた男の身体が、重力に従い倒れる。

 煙が立ち込める中、冷たい表情で銃口を下ろした。


 部屋の隅で、もう一人の男が震えている。

「お前はこの男の共犯だな?」

 鋭い眼光が、男を射抜く。

「い、いえ...私は何も...」

 男の弁解を遮るように、顔を壁に押しつける。頭蓋骨ごしに伝わる衝撃。


「情報を握っているはずだ。吐かないなら」お前も同じ運命を辿ることになる。と、後頭部に突きつけた銃口で知らせる。

 その低い声は威圧感に満ちている。反響せず、冷たい廃墟に音が沈んでいく。


「話します...話しますから、お願いです...」

 男は泣きそうな声で懇願する。ゆっくりと銃口を下ろすが、場に充満した威圧は一切の緩みを見せない。





 一通りの尋問を終えて、部屋を後にする。外は夜更けで、街灯の明かりが暗い通りを照らしている。

 深く息を吸い込み、モスクワの硬く冷たい空気を肺に満たす。

 今夜の任務はこれで終わりだ。


 足早に通りを歩いていると、ふと違和感を覚えた。

 背後から、微かな足音が聞こえる。無意識のうちに、拳銃に手をかけていた。

 振り返ると目の前に、一人の男が立ちふさがった。


「よくやったな、アレクセイ」

 男は口元に笑みを浮かべている。


「ボリス、どういうことだ?」

 アレクセイは警戒心を隠さない。


「上からの命令だ。お前に新しい任務が与えられた」

 アレクセイに新聞を手渡し、男はそう告げた。受け取ると、新聞の間には封筒。

 こういった形での任務連絡は前例がない。


「Aクラスの軍事機密が持ち出されていた。」それはアレクセイですら知り得ない情報であり、政府の上層部に内通者が居ることを意味していた。

 このような連絡方法をとったことにも合点がいく。


 ボリスは、言外で疎通したことを確かめた。

「内密に、かつ迅速に行動しろ。時間がない」

 そう低い声で命じると、そのまま闇の中に消えていった。それを見届ると、アレクセイは封筒を内ポケットにしまった。


 通りに人影はない。事の重大さとは裏腹に、深夜のモスクワは、時が止まったかのように静まり返っている。


 国家を守らなければ、とアレクセイは思った。


 冷戦下のモスクワは、一見平和な日常を謳歌しているように見える。

 陽の下で人々は穏やかに暮らし、子供たちは無邪気に遊ぶ。


 そういった平和のすぐそばで、諜報戦が繰り広げられている。

 米ソ間の対立は、やがて増幅し世界を二分するまでに至った。

 

 モスクワの街を歩けば、至る所に監視の目があることを感じる。

 路地裏に佇む不審な影、行きかう人々の目の奥に潜む警戒心。

 誰もが、今日という日が平和であることを願いながらも、その平和がいつ崩れるかわからないという不安を抱えている。


 彼らの平和な日常を維持するために、影で活動する者がいる。

 それがアレクセイであり、諜報部員たちなのだ。


 その平和を脅かす存在が、自分たちの中にもいるという現実に、アレクセイは怒りを覚えずにはいられない。国家への裏切り行為は、許されざるものだ。


 万が一にも内通者の存在が明らかになれば、組織への信頼は大きく揺らぐだろう。ひいては国家の安全保障にも関わる問題となって姿を表す。


 アレクセイは、内ポケットの封筒に手を当てた。

 その中には、糸口となる情報が入っているはずだ。

 それを確かめるべく、アレクセイは足早にアパートへと向かった。


 鋭い目が、自宅に侵入の形跡がないことを確認すると、慎重に封筒を開く。

 中には、いくつかの書類と、一枚の地図が入っていた。

 書類に目を通すと、そこには機密情報の流出経路に関する断片的な記述。

 ある地名に、最終流出点を予想する印がつけられていた。


 その地名を、視線がなぞる。

 脳裏に、かつて学んだ地理の知識がよみがえる。

 ソビエト連邦の最果て、太平洋に面した街。


「まさかウラルを東に超えることになるとはな」

 遥か東、山脈を隔て遠く離れたカムチャツキーという地名をみて、アレクセイは呟いた。 

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