第3話 学校

 4月のロシアは、まだ肌寒く厳しい。

 それはカムチャツカも例外ではなく、凍てつく風が頬を撫でる中、静香は新しい学校への道を歩いていた。途中パン屋の前を通ると、焼きたてのライ麦パンの香ばしい匂いがした。


 道端には、雪解けの水がせせらぎとなって流れている。木々の芽吹きはまだ先のようだ。川面には朝日が反射し、きらきらと光っている。川沿いを歩きながら、父から教わった自己紹介のためのロシア語を復唱する。

 静香は、ロシアの小学校に入学する日を迎えていた。紺色のブレザーに白いシャツ、チェックのスカート。胸には、丁寧に刺繍された校章が光っている。

 

 制服に身を包み、父と一緒に学校へと向かっている。道中、父は静香の手を握りしめていた。その手のひらは、大きくて温かい。まるで、全ての不安を包み込んでくれるようだった。


「緊張してるか?」

 静香の表情から緊張を読み取ったのか、父がそう問いかける。


「うん、ちょっとだけ」

 確かに、どきどきが止まらない。見知らぬ土地で、新しい学校生活が始まるのだ。

「大丈夫。静香ならきっと上手くいくさ。」

 父の温かい言葉に、静香は本当に勇気づけられた。一人ぼっちではないのだと思うと、不思議と緊張が取れていく。


 煉瓦造りの校舎が、目の前に現れる。多くの新入生とその家族が集まっていた。靴音が響き渡っている。あちらこちらから、ロシア語の歓声が聞こえてくる。


 「わたしたち以外、全員ロシアの人たちだ」と息を呑んだ。

 金髪碧眼の学生たちが、はしゃぎながら校庭を駆け回っている。顔つきが大人びていて、同い年だとはあまり思えなかった。

 まじまじと見ていると、静香同様に異国の顔つきをした少女に興味を持ち、こちらに視線をやっている学生もいたことに気がついた。

 目が合った男の子が手を振ってくれた。白い歯を見せて、満面の笑みだ。

 静香は、ぎこちなく微笑み返す。


 式が始まるのを待つ間、静香はただひたすらに周囲を観察していた。見慣れない光景に目を奪われ、自分がその中に溶け込めずにいることを実感する。緊張が、じわじわと高まっていく。


 忙しく周りを見ているうちに体育会に導かれ新入生の列に加わると、静香は緊張から大きく深呼吸をした。

 周囲を見渡せば、他の新入生たちは三々五々集まり、すでに打ち解けているようだ。まるで、自分だけが取り残されているような気がして、静香の不安は募っていく。


 そんな中、不意に隣から声をかけられた。

「こんにちは!」

 振り向くと、そこには屈託のない笑顔の女の子がいた。


 流暢なロシア語に、一瞬戸惑う静香。

 まばゆいばかりの金髪を風になびかせ、きらきらとした瞳で静香を見つめている。綺麗だ、と青く透き通った眼を見て思った。失礼であることは分かっていたが、まじまじと眼に見入っていた視線が、顔全体に移っていく。お人形さんのようだ、と素直に思った。


 咄嗟に、父から教わった言葉を思い出そうとするが、なかなか言葉が出てこない。

「こ、こんにちは…」

 ぎこちない発音ながらも、静香は精一杯の笑顔を絞り出した。

 すると女の子は、にっこりと微笑むと、自己紹介を始めた。

「私はターニャ!あなたのお名前は?」

「し、静香…シズカです」

 名乗るのもやっとだった。

 緊張から、静香の呼吸は荒くなっている。

 ターニャは、そんな静香の様子を察したのか、優しく微笑んだ。

「シズカちゃん、一緒に頑張ろうね!」

 そう言って、差し出された手。小さいけれど、しっかりとした手のひら。迷わず、静香はその手を取った。

 言葉も文化も違うけれど、不思議と心が通じ合える気がする。そのことを嬉しく感じた瞬間だった。


 体育館の重い扉が、けたたましい音を立てて開いた。中央の壇上に、厳かな面持ちの男性が姿を現す。その威厳ある佇まいから、すぐに校長先生だと分かった。たった今まで和やかに談笑していた新入生たちが、みるみる静まり返っていく。体育館全体の空気に、緊張が満ちていく。


 まばゆいばかりのスポットライトを浴びながら、校長先生がマイクの前に立つ。その瞬間、静香の鼓動が高鳴った。マイクに向かって一礼をし、話し始めた。その声は低くて力強い。ロシア語の言葉が体育館に響き渡る。その意味は分からないながらも、どこか厳粛な雰囲気が伝わってくる。


 隣に立つターニャに目をやると、真剣な面持ちで校長先生の言葉に耳を傾けている。きっと、新入生への歓迎の言葉や、これからの学校生活への期待を語っているのだろう。静香も、一生懸命に聞き取ろうとするが、聞き慣れない言語の壁に阻まれてしまう。それでも、周りの新入生たちと同じように、真剣に話を聞こうと努めた。


 スピーチは10分ほど続いた。

 最後に校長先生が、新入生への歓迎の意を込めて、大きく手を広げる。

 すると、体育館内に大きな拍手が沸き起こった。まるで、新入生を迎え入れるかのような、温かな拍手だ。ターニャも、目を輝かせながら手を叩いている。自然と、静香も手を叩いていた。言葉は分からなくとも、この瞬間に皆が感じている喜びや期待は、同じなのだと確信した。


 式が終わり、教室へと向かう時間になった。

 ロシア語の案内放送が流れ、新入生たちが一斉に体育館を後にする。

 静香も、ターニャに手を引かれるまま、人の流れに身を任せた。同じクラスであると聞いた時は、どうにかロシア語で喜びを伝えたく努力した。そのことはターニャに伝わり、教室に入る前から二人の間には友情が出来上がっていた。


 廊下に出ると、カラフルなロッカーが目に飛び込んでくる。

 赤や青、黄色といった原色が陽光を浴びて、明るい未来を象徴しているかのようにキラキラと輝いている。


 ロッカーの前を通り過ぎると、壁に貼られたポスターが目に留まった。

 絵の具で描かれた、大きな花束。

 色使いが鮮やかで、自然の一部をそのまま切り取ったかのような存在感。


 今度は窓の外の景色が目を引いた。

 遠くに、雄大な山々が連なっている。山肌がまだ雪を残しているようで、白色よりも白く輝いていた。山々を背景に、青々とした樹々が風に揺れていることがわかった。


 そんな景色を眺めながら、静香はロシアでの新生活に思いを馳せていた。

 まだ見ぬ出来事への期待と、未知なるものへの不安。胸の中で、相反する感情が混ざり合い、たちまちに複雑な色彩となって、言語化を難しくする。それでも、今は希望の方が大きい。


 長い廊下を抜け、やっと教室にたどり着いた。

 ドアの前で、ターニャが静香の肩を軽く叩く。

 「大丈夫?」と言わんばかりの優しい眼差しに、小さく頷いて見せた。

 一呼吸置いて、ターニャがドアを開ける。


 教室には、もう何人かの生徒が着席していた。

 一斉にこちらを振り返り、ざわめきが起こる。

 白い肌に、金色の髪。

 その全てが、静香にとって新鮮だった。


 ターニャが何か話し始めた。話すにつれて自分に友好的な眼差しが向けられ、静香のことを紹介してくれているのだろうと思った。

 自己紹介をするよう促されているのだと察した静香は、覚束ない足取りで前に出る。


 30人ほどの生徒たちが、静香を見つめている。好奇心に満ちた眼差しに、静香の心臓が高鳴る。

 大きく息を吸い込み、精一杯の声で名乗り、仲良くしたいと伝える。


 拙いロシア語ではあったが、誠意は伝わったようだ。生徒たちの表情が、一気に和らいでいくのがわかる。何人かの女の子が、にこやかに手を振ってくれた。静香を歓迎していることが、言葉ではなく表情から伝わってくる。


 ホッと息をつき静香は自分の席へと向かった。

 勇気が幸運を呼んだ。ターニャの隣の席だったのだ。ターニャもそのことを嬉しく思い、お互いに顔を見合わせ微笑む。


 窓の外には、青く澄んだ空が広がっている。窓の外には、青く澄んだ空が広がっている。深みのある青色が、空はもっと高く、奥まで広がっているのだ、と静香に語りかける。

 窓の向こうを眺め、これから始まる新しい学校生活に想いを馳せていた。ターニャが居れば、なんだって乗り切れると信じた。


 教室に響くチャイムの音。

 新しい学校生活の、始まりの合図だった。

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