第2話 記号

 言語学者である北川智也は、カムチャツキー大学から招聘を受け、家族とともにロシアへと渡った。妻を亡くし、一人娘の静香を育てながら研究に打ち込む日々を送っている。


 大学の研究室は、重厚な木製のドアを開けると、古い書物の香りが漂ってくる。智也の席は窓際にあり、外の景色を眺めながら思索にふけることができる。研究に集中できるというので、智也はこの部屋をいたく気に入っていた。広さも人文科学をやる上で申し分なく、むしろ広すぎるともいえる。机の上には、ロシア語の文法書や歴史書が山積みになっていた。


 智也は机に向かい、文法書を丁寧に広げていた。その紙面には、古代ロシアの文法が丁寧に記されている。智也はルーペを手に取り、細かな文字を追っていく。古代ロシア語における関係詞 という項目を目で捉え、鉛筆でメモを残す。


 昔の学者が置かれていた環境などを思うと、このような文法現象を研究するのは容易いことではなかったと思う。資料が残っているのは意思を貫いた先人がいたからであり、その探究心を思うと学者として引き締まるものがあった。


「北川先生、今日はもうお帰りになられたほうがよいのでは?」助手のイワンによる問い掛けで、言語学の世界から目が覚める。イワンは若く有能な大学院生で、智也の研究を手伝ってくれている。時計を見ると、夜の8時を回っていた。研究者にとって夜の8時などはまだ序の口だが、一人娘の静香のことを思えば、そろそろ帰宅しなければならない時間だ。


「ああ、どうもありがとう。イワン。また明日続きをやろう」そう言って智也は資料を大切に整理し、研究室を後にした。


 夜通し研究に没頭していた学生時代を思い出す。

 当時、智也は東京外国語大学の大学院で、ロシア語の歴史的変遷について研究していた。特に、11世紀から12世紀にかけてのロシア語の変化に焦点を当て、文献にあたっては学問の深くまでさらに踏み入れるなど、探究に明け暮れる日々だった。

 智也は図書館で古代ロシア語の文献を探していた夜のこと。時計の針は深夜2時を指していたが、智也は研究論文に関わる重要な切り口を探していた。大学の図書館は24時間開放されていたが、もはや空調のホワイトノイズ以外の物音はなかった。成果が芳しくなく、もうそろそろ切り上げようとしていた時だった。何気なく目についた文献を手に取りページを開いた。そこには、智也が探し求めていた古代ロシア語の語順に関する貴重な記述があったのだ。仮説を裏付けるものであり、興奮のあまり小さな歓声を上げてしまう。


 無意識に発せられた音が反響する。そのことに気づき辺りを見ると、一人の小柄な女性がこちらを見ていることに気がついた。バツが悪いな、と思った。かける言葉が見つからず、ひとまず智也は軽く会釈をする。女性もそれに応えたが、それ以上の会話はなく、すぐに智也は図書館を後にした。これが、後に妻となる春香との出会いだった。


 この時の発見を手掛かりに、智也は古代ロシア語の語順の変遷について独自の仮説を立てた。現代ロシア語の語順が定着したのは、13世紀以降に起こった一連の統語的変化の結果であるというものだ。この仮説は様々な角度から当時の学会で大きな反響を呼び、智也は一躍注目の若手研究者となった。


 春香との出会いは、智也の人生に大きな影響を与えた。春香は言語学を学ぶ学生で、智也の研究に深い関心を示した。カフェテリアで再会した二人は言語学について語り合うようになり、やがて恋に落ちた。春香は智也の研究を支え、ともに学問の道を歩むことになる。

 しかし、春香との幸せな日々は長くは続かなかった。


 春香が静香を出産してまもなく、病に倒れてしまったのだ。最愛の妻を失った智也は、深い悲しみに沈んだ。それでも幼い静香のために、研究者としての道を歩み続けることを決意した。


 カムチャツカの潮風を感じながら、市場で食材を買い帰宅をすると、静香が出迎えてくれた。その表情に智也は安堵する。異国の地で新しい生活を始めるのは、子供にとって容易なことではない。にも関わらず、自分に負担をかけないよう振る舞ってくれているように映った。


 夕食を終えた後、智也は静香を寝かしつけると、自分の部屋に戻った。妻の写真に目をやる。穏やかな笑顔が、智也の心を和ませる。


「春香、静香も言語学に興味を持ち始めているんだ。君の面影を感じるよ」と写真に語りかけながら、智也はノートパソコンを開く。古代ロシア語に関する研究ノートを書き足していく。文章を練りながら、今日出会った文法現象の本質について考えを巡らせる。言語の向こうにある思考を読み解く時間が、昔からなによりも好きだった。


 そのとき、メールの通知音が響いた。見知らぬ差出人。本文はなく、ただファイルが添付されている。関係者しか知らない大学のメールアドレスに届いていた。興味をそそられた智也は、そのメールに添付されていたファイルを開いた。


 一定の形をした、記号の列。智也の目は、即座にその文字をグラゴル文字だと解する。本能的に、これは文章であると勘付いた。内容を一見すると何の変哲もない古い伝承のようだった。同時にそこには何か別の意味が隠されているように感じられた。まるで、暗号のようにも見える。


「挑戦状か」と呟いた智也は、文章を解読しようと試みた。グラゴル文字の一つ一つに目を凝らし、時には全体に立ち戻りその規則性を探る。しかし疲労のせいか、目線は文字の上を滑っていく。ふと我に返ったように時計を見やる。真夜中を回っていた。明日も早い。そろそろ休まないと、と思いながらも、学者らしく智也の頭からは古代語の文章が離れない。


「明日、もう一度、頭を冴えた状態で読み直すとしよう」と決意し、ノートパソコンを閉じる。窓の外に目をやる。そこには静かな、どこか故郷を思わせるカムチャツカの夜景が広がっていた。灯りの点る家々が、カムチャツカの街の輪郭を知らせる。木々を揺らす夜風、薄くただよう潮の香り。外を眺めながら、智也は思考を巡らせる。


 このメールは一体誰が送ってきたのだろうか。差出人には見覚えがない。そして、この古代語の文章には、どのような意味や意図が込められているのか。単なる悪戯なのか、あるいは何か重大な意味を持つメッセージなのか。頭の中で渦巻く疑問を引きずりながら、ベッドに横たわる。軽い衝撃で、鎧を脱いだ兵士のように、思考が開放され、身体に疲れが溜まっていたことを認識する。静香のことを思う。異国の地で暮らす娘を守るためにも、もう無理はできないなと実感する。


 考えているうちに、意識は静かに眠りへと誘われていった。

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