最古の山脈から

Colet

第1話 アリョーシャ

 モスクワから6000キロメートルほど離れたペトロパヴロフスク・カムチャツキー市は、カムチャツカ半島の南東部、アバチャ湾に面した港町だ。 西には標高3000メートルを超える火山があり、東には荒々しい太平洋が広がる。灰色がかった海は、時に猛烈な勢いで岸壁に打ち寄せる。潮風は冷たく、潮の香りが町中を包み込む。


 町の中心部を走るレーニン通りには、赤や黄色に塗られた低層の商店や住宅が建ち並ぶ。歩けばたちまちに、バラライカと呼ばれる弦楽器のふくよかな音色が聞こえてくる。

 通りの南端に位置する魚市場には、新鮮なカラフトマスやタラバガニ、イクラなどを求めて、街の外からも連日多くの人がやってくる。


 市場の脇には、夏の間だけ花々が咲き誇る小公園がある。わずかに訪れる夏の期間に、一面を彩る花のじゅうたんは、訪れる人々の目を楽しませてくれる。そして、町のシンボルとも言えるのが、アバチャ湾を見下ろす小高い丘の上に建つ、カムチャツキー教会だ。ロシア正教様式にみられる美しい青と白のコントラストが目立っている。


 少女は、父親とともに教会に足を運んだ。

 家で休む選択肢もあったが、越したばかりの異国の土地で一人きりになってしまうことが怖かったのだ。

 美しい青と白の外観に心を奪われながら、重厚な扉をくぐり中に入る。内側は薄暗く、たくさんの蝋燭の炎がゆらゆらと揺れている。壁には見慣れない記号が並んでいた。


 少女は息を呑み、静謐な雰囲気に圧倒された。その記号の列に見覚えがあることに気づき、父を見上げた。

「パパ、あれってキリル文字だよね?前に教えてもらったやつ」

「そうだよ。よく覚えているね」

 父は娘の記憶力の良さに感心しながら頷いている。

 言語学者である父の影響で、少女は幼いうちから様々な言語に触れ合う機会に恵まれた。


 二人で教会内を探索していると、祈りを捧げる年配の女性の姿が目に入った。女性は二人に気づくと、優しい笑顔を向けてきた。父は女性に歩み寄り、ロシア語で会話を交わし始める。少女は二人の会話を興味深く観察していた。父からロシア語について少し教わっていたが、印刷されたキリル文字を目で追いかけた経験しかない少女にとっては、知らない単語も多かったし、意味を聞き取ることも困難だった。それでも少女は懸命に耳をすましている。会話から除け者にされないためではなく、少女にとってロシア語の音韻は歌のように独特であったからだ。


 耳が音韻を追う内に会話が終わった。父と女性は握手を交わし、別れを告げた。日本で見ない光景に、つい注目してしまう。教会を後にしながら、少女は父に尋ねた。

「ねえパパ、さっきの女性、何て言ってたの?」

「僕たちを歓迎してくれたんだ。それに、この教会の歴史についても少し教えてくれたよ」

 父は娘の好奇心に嬉しそうに答えた。


 二人は教会の前に広がる小さな広場を歩いていた。夕暮れに差し掛かり、夏の日差しが色を変えて降り注いでいた。道端の花々が鮮やかに反射している。少女は足元の石畳に目をやると、そこにもキリル文字が刻まれていることに気がついた。


 そんな彼女の前方から、一人の少年が歩いてきた。少年もまたどこか前方ではないところに意識を向けていたようで、人混みの中でお互いの存在に気づくのが遅れてしまった。

 気づいた時には、もう間近まで距離が詰まっていた。咄嗟によけようとしたものの、少女はバランスを崩してしまう。手を伸ばして父につかまろうとしたが、間に合わなかった。そのまま石畳に尻もちをつく。


「痛っ…」と日本語で漏らした声が、周囲のロシア語にかき消されていく。

 驚いた様子で目を見開き、ロシア語で何か話しかけてくる少年。その声は、少し高めで、まだ大人の男性のような低い声ではない。声の調子は申し訳なさそうで、それでいて友好的だった。


「ごめん…ケガ、してない?」少年の差し出した手を借りて立ち上がると、少女は不安げに問いかけたが、少年の返した笑顔に安堵した。


 少年に視線を向ける。

 目鼻立ちの整った顔立ちに、何かの劇でみた人物を思い浮かべる。高めの鼻筋に散りばめられている小さな雀斑が、異国からやってきた少女には印象的だった。

 薄めの唇は、今はあわてたように半開きになっている。だけれど、少年の佇まいからはどこかほっとするような穏やかな空気が感じられた。


 父がロシア語で何かやり取りをした後、少年は用事を思い出したようで、その場をあとにした。


 アリョーシャと名乗ったこの少年と少女は、ほんの数日後に再開を果たすことになる。

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