番外編「翼を乞う」

 初めて間近で刺青を見たのは、中学生の頃。

 お袋の彼氏と初対面で相対した時。

 その人は、服で隠れていない箇所ほぼ全身にタトゥーを入れていた。

 あの時の俺は驚きつつも好奇心が勝って、ついまじまじと見てしまったことを覚えている。


「やっぱ気になるの?」


 他人の身体を凝視ぎょうししてしまった罪悪感と羞恥心が混ざりあったが、正直に頷いておく。

 すると、その人は薄いシャツをまくり上げて、胸部から腹部にかけて描かれたタトゥーを見せてきた。

 服の上からだと細い身体に見えていたが、しっかり腹部には鍛えられた証として縦横に線が入っている。

 そして、服に隠れていた箇所は所狭しとタトゥーが彫られていた。

 何も描かれていない箇所の方が目立つくらいだった。


 腕の和彫り、腰回りの猪鹿蝶いのしかちょう、首元の弓矢。

 どれも墨の濃淡だけで描かれていて、カラーは一切使われていない。

 だからか、北欧系の人を思わせるような白い肌と墨のコントラストが異様に美しかった。

 けれども、一番目立ったのは唯一白いインクで彫られていた蛇だ。

 胸元に頭、そこからうねる胴体を胸部から腹部にかけて描き、へその下辺りまで尻尾が伸びている。


「どれが気になる? それとも全身にタトゥー入った人間自体気にする?」

「いやまあ、それも気になりますけど」


 その人の名前はヤコさんといった。

 お袋の何番目かの彼氏であり、俺にタトゥーを教えてくれた人だった。




 居酒屋や風俗店が並ぶ商店街を、どんどん奥へ進んで行く。

 すると、壁に描かれたグラフティの数が次第に増えてくる。

 真っ赤なペイントで「FOOL」と描かれた壁の、ちょうど真反対にある建物の地下。

 そこがヤコさんの経営しているタトゥースタジオだった。


「俺はね、美大目指してたの。結構有名なとこで、すげえ合格すんのが難しいとこだったのに、なぜか受かる気満々だったのね」


 唐突な自分語りに若干たじろいだものの、話しながら針を袋から取り出す手の動きには淀みがない。


「まあ、当たり前みたいに落ちたんだけど。その後は「人生が終わった」くらいの気持ちで荒れててさ。毎日飲んだくれて酔っ払って、そんで店で暴れてた俺をボコボコにしたのがこのスタジオの前オーナー」


 その人の見習いになって彫師を目指したことをきっかけに白い蛇を入れた、と。

 そう話してくれたところで道具の準備が出来たらしく、ヤコさんは靴を脱いで足を消毒し始めた。


「タトゥーを彫る時の針とかは基本使い捨てで、衛生管理はしっかりしてある。打ち合わせしてタトゥーのデザイン決めたら、施術日にスタジオまで来てもらってようやく彫るって段取りね。彫りたい場所に毛が生えてる時は剃るけど、今回は足だからそのまま消毒しちゃって、身体に入れたいデザインをシートから身体に転写すれば準備は大丈夫」


 じゃあこれから彫ってくね、とニードルを持ったヤコさんの目が一気に鋭くなった。

 いきなりタトゥーを見せてきたり、急に自分の店に連れてきて施術風景を見せたり。

 かなり変わり者だが悪い人ではないのだろうと思う。

 ただ、目の前のことに一直線で熱を帯びた感情があまりにも強い人なんだろうとそう感じた。


 ニードルは、機械で繋がれていた。

 モーターの振動音を震わせながら、高速でピストン運動を繰り返す。

 真っ黒のグローブを付けたヤコさんの手は、ニードルで転写された花の絵柄を縁取っていき、その間はこちらに一切話しかけてこなかった。


 五百円玉より一回り大きいくらいの花はどんどん墨で立体的に、よりリアルになっていく。

 そうやって絵が完成に近づいていく経過は、胸の内側をなぞられるような興奮と作品が出来上がっていく面白さでずっと見ていたくなった。


「ラインを描いていったら、細部も描き込んでいって。完成したら保護シートで施術したとこ覆ってテープで留めんの」


 言うが早いか、ヤコさんは透明なシートを彫られたばかりの花の上に貼る。

 さらに長く伸ばしたテープをシートの上から三回貼り付けた。


「ちなみに痛くないんですか?」

「痛いよ? 針使ってるから血も出るし、肌弱い人だったら保護シート剝がすときに肌の赤みが出る時もある」


 飄々ひょうひょうとしているせいで、ヤコさんが本当に痛がっているようには見えない。


「全然平気そうですけど……」

「慣れとアドレナリンじゃないかな。俺の身体に入ってるタトゥーのほとんどは自分で彫ってるし、彫るの楽しくて痛み気になんない」


 どこか少年を思わせるような笑みを浮かべるヤコさん。

 その足には、見たことのある花の絵柄が始めからあったみたいに収まっていた。

 黒の単色でわかりにくいけれど、幾重いくえにも重なった花の形はなんとなく見覚えがあった。  

 あれはたしか。


「彫った花って、カーネーションですか?」

「そうだけどよくわかったね。花好きなの?」


 花の名前を当てられたことが嬉しかったのか、ヤコさんはにかっと笑う。

 開かれた口からは八重歯がちらりとのぞいた。


「いえ、母の日は毎年カーネーション渡してるんで。たまたま覚えてただけです」

「聞いてた通りの孝行息子じゃん。いい子なんだね、フウタくん」


 名前を初めて呼ばれた驚きと、母親から自分の話を聞いていたことへの驚き。

 どちらもないまぜになってどんな顔をすればいいかわからなかった。

 なんとなくむずがゆいような恥ずかしいような、妙な気持ちになる。


「まあカーネーションは今日の記念みたいなもん。ここに連れてきたのは、君のお母さんに「息子をよろしく」って言われてるからさ。俺のタトゥー見てる時の顔つきが妙に嬉しそうだったから、何も考えずに連れてきっちゃたわ」


 タトゥーだらけの人間を見たときのリアクションは、怯えるか、興味津々か。らしい。

 俺の視線を受け取った時の感覚で、「タトゥーに興味を示す側の人間だと思った」から施術の工程を見せようと思いついてそのまま連れてきたそうだった。


「で、どうだった? タトゥー入れてるとこ見学してみた感想は」

「……なんていうか、うまく言葉にできないんですけど。面白いな、とは思いました」

「な! だろ!!?」


 歯を見せて笑う、表情豊かな人だ。

 屈託なく笑う顔がどうにも幼くて、全身刺青だらけの大人が発するいかつさが抜けていたからだろう。

 今日初めてまともに話した相手なのにすっかり気を許していたし、施術風景を見た後の興奮をそのままにしていたからでもある。

 自分の口から出た言葉に、他ならぬ俺が驚いていた。


「その……自分もお願いしても、いいっすか」




 ヤコさんと初めて話した日から一週間後。

 連れてこられたタトゥースタジオを訪れて、今は寝台に寝かされている。

 うつ伏せで実際には見えないが、ガサガサとビニールが擦れる音でなんとなく準備をしていることはわかった。


「ちゃんと飯食べたか? 睡眠は取った? 痛み我慢するにも体力いるから、それなりに覚悟しといて」


 まるで母親みたいな口調だ。

 それなのに、全身タトゥーだらけなんだよな。

 ヤコさんのギャップに吹き出しそうになるのをこらえる。


「食事と睡眠は大丈夫だと思います。体力も、水泳やってるんで……」

「あと、酒も前日に飲みすぎてると施術に響くから気をつけろよ」


 飲めねえし飲まねえよ。

 そう返そうとしたところでモーター音が鳴る。

 針と機械を繋げたのであろうことはわかった。

 いよいよ、自分の身体に墨が入る。


「始めるよ」


 背中に針が当たっていて、線を描くように一方向へ動いていることが感触でわかる。

 痛みは想像していたよりはマシで、ヤスリに近いようなザリザリとした微弱な痛みが走っていく。

 思いの外、耐えられないほどではなさそうだった。


 タトゥーは消せないこともないが、一生残るものだ。

 この間まともに話した人間に任せて不安でないこともない。

 それでもお願いしようと決められたのは、ヤコさんの身体に刻まれていたタトゥーを見ているからで、一瞬でも憧れてしまったから。


 自らを刺青の練習台にして、失敗した痕をさらに隠そうとして墨を入れる。

 そうして完成されたヤコさんの身体は、社会的な見た目とは言えない。

 けれど、俺の目にはかっこよく映った。

 ひとつのものへ異常なくらいの熱意を注げる人間に、俺もなってみたかった。

 モーター音が響き始めてから数時間が経過した頃、体力が尽きていく感覚があって流石にストップをかける。


「頑張れよ、男の子だろ~」


 そう言いつつも手元を止めてもらえたので、ひとつ深呼吸をしてから身体を休める。

 「愛着が湧くから痛みは楽しむくらいがいい」とは言われているが、背中一面にタトゥーを施されている間にずっと痛みをこらえられるほど頑丈ではない。


「完成したらすげえかっこいいよ、おまえの翼」


 学校や同級生の空気が自分とずれていることに息苦しさを感じたとき。

 「ずれているのは周りじゃなくて俺自身だ」と気づいた瞬間があった。

 その瞬間を思い出して美術の時間に描いたスケッチは、不思議なことに今自分に根付こうとしている。

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虎を飼う 空峯千代 @niconico_chiyo1125

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