第6話「生命を壊す」
ただそれなりでいたいな、と思いながら「それなり」ってどんな人間なのかはよくわからない。
人並みに友達に囲われながら生活して、好きな人と恋愛して、いつかは一緒に暮らして子どもをつくり平穏な家庭を持つ。
世間で言うところの「普通の人間」は俺が思うに
教室の窓から見える空が青いことに安心する。
本を読むときに指先から伝わる紙の感触が無機質であることに落ち着く。
その日一日の自分が平静でいられたことに安堵する。
常日頃からそれこそを幸せだと信じて疑わなかった。
あと一時間でようやく帰宅できる。
というところで、今日ラストの授業は進路調査だった。
先生が「進路調査票」と書かれたプリントを配り、班毎にファイルをひとつずつ置いていく。
手元に置かれたファイルの中を
「三年になる前にそろそろ進学するか就職するかくらいは考えとけよ。調査票の提出は来週の水曜までだからな」
先生が言い終えてから、急に教室がガヤつき始める。
隣近所の席で話すことはとがめられないらしく、それぞれ志望の大学名や専門学校名を口にする声がちらほら聞こえてきた。
「俺大学行ったら一人暮らししたいし、どうせだったら県外行きてえなー」
「ほんとそれ。俺は働くなら建築関係行きたいからそっち方面で探すわ」
「もうやりたいこと決まってんのか、いいな」
聞えてくる会話の眩しいことと言ったらない。
俺には自分のビジョンも、優先したい条件もないから。
好きなように自分のなりたい未来を語れることそのものが羨ましかった。
「悪い、
「ああ、はい」
急に名前を呼ばれて、ビクリとする。
言われてサラッと目を通しただけのファイルを閉じ、手渡した。
「さんきゅ」
前の席の彼はファイルを受け取ると、また二人の会話へ戻っていった。
面倒臭そうな口調ではいながらも、進路のことを互いに楽しそうに話している。
「一人暮らしするなら泊まらせてくれな」
「おまえ部屋汚くしそうだから嫌だわ」
軽口をたたき合う二人が別世界の人間のように思えてしまう。
どっちも同い年で同じクラスのはずなんだけどな。
俺は配られたばかりの進路調査票を半分に折りたたんで、クリアファイルにしまい込んだ。
そうして、また窓の外を見る。
ぼんやりとした雲がただよう、プールサイドみたいな青い空をぼーっと眺める。
早く時間が過ぎてくれればいいのに、と。それだけを頭に浮かべた。
鍵を開ける時はなるべく静かに、音を立てないようにする。
別にそうしないといけない訳ではない。
それでも、小さい頃からの癖が抜けずに今でも習慣になっているだけだった。
玄関口でも大きな音を出さないようにして靴を脱ぎ、廊下を歩く。
これも抜けきらない癖のひとつで、自分の部屋に入るまでは気配を殺すよう努めている。
リビングからは、ニュース番組が流れるテレビの音とビールの濃い匂い。
机の上には
気づかれないうちに襖を開けて自分の部屋に入ろうとした時だった。
「ただいま、はどうした」
酔っ払った声で話かけられる。
背後から声を掛けられただけでも、酒気にのぼせた赤ら顔が目に浮かぶようで嫌悪感に寒気がした。
「父親に挨拶も無しか。愛想のない子どもだな。なあ、なんとか言えよ」
その後はいつも通りだった。
家で自分を待っているものは、父親と暴力。
その事実に、特別なにか思うことはなかった。
今日はまだ気が済まないようで、そのまま床に転がっていると追い打ちはすぐにきた。
とにかく暴力を振るえられればそれでいいらしい。力の加減は一切ない。
ようやく収まったところで背中を蹴られ、寝返りをうつ自分を
通学路でよく見る、アスファルトにある蝉の死骸。
今の自分はきっと、
ただいつもと違ったのは、背中を蹴られた時に感じた痛みにちがうものが混ざっていたこと。
そのとき
自分と同じでプール授業の度に見学している、同級生にしてはやけに落ち着いた彼。
フウタに針で墨を入れられた異質な時間が、人生で初めて生きている実感を持った時だった。
そして今、蹴られた虎が俺に向かって
生まれて初めてだった。衝動的な感情で身体が強く動いたのは。
気づくと、立ち上がって机に置かれていたビール瓶を右手に持っていた。
そして背を向けたままの無防備な男の頭に思いきり振り下ろした。
殴りつけた瞬間、割れた瓶の破片がバラバラに砕け散って、教室から見る青空と同じくらい綺麗だと思った。
殴られた父親はあまりのことに何が起こったか理解しがたいようで、ただ
俺は瓶の先端部分でもう一度殴りつけて馬乗りになった。
だんだんと正気を取り戻したようで「誰が育ててやったと思ってるんだ」「俺の家から出ていけ」とわめいていたが、拳が痛くても構わずに殴りつづけると男はみるみる大人しくなる。
「俺はもうおまえなんか怖くない」
されるがままに殴られている男を見下ろして、俺は言い放った。
殺される、と思ったのかもしれない。
暴力を受ける側になってようやく
血を流すこの男はあろうことか謝罪と命乞いとを口にしながら泣き始めた。
涙と血が混じりあって、頬に小さな川をつくる。
情けない父親の顔が余計に汚く見えてすぐに退いた。
男は背中を丸めて、頭を手で抑えながら「助けてくれ」と繰り返す。
熱が冷めてしまったかのように憎悪が萎えていく。
安堵した自分へ、「よくやった」と
夏はすぐに去っていく。
今期最後のプール授業、やはり見学しているフウタと「プールの水が全部オレンジジュースならいいのに」なんてたわいのない話で暑さを誤魔化した。
「虎は元気か?」
「元気だよ。なんなら俺より調子が良さそうなくらい」
「それはよかった。……痛くなかったか?」
俺の背中に虎を彫った日から、フウタは過保護になった気がする。
何かにつけて、彫った後の身体を心配してくるようになった。
「ううん。しばらくひりついてたけど、今はそうでもないよ」
俺は何の心配もいらないと態度に出して答える。
それでもフウタは心配そうに、けれど優しくアフターケアの説明を前よりも詳細にしてくれた。
それと同時に、心配と優しさが刺青のこと以外にも向けられていると察した。
最近の俺の様子から起こったことを感じ取られていたのかもしれなかった。
「俺、父親の頭殴ったよ。ビール瓶で思いっきり」
一体、どちらに驚いているのだろう。
「……それマジで言ってる?」
「本当。殴られたから殴り返した」
刺青を彫ったあの日、フウタは
本人にとっては何でもなかったかもしれない。
それでもそのほんの少しのいたわりがどれだけ嬉しかったか、言葉を尽くしてもきっと全部は伝えきれないほどだ。
だからかもしれない、せめて自分のことを聞いてほしくなった。
「小さい頃からあいつに殴られてたんだけど、初めてやり返したんだ。ビックリするくらい気持ちよかった」
引かれるくらいの反応を想像していたら、いきなりフウタに吹き出された。
しばらく二人で笑いっぱなしになる。
「刺青もそうだけどさ、ユーガは大人しそうなのにメチャクチャだよな」
彫った張本人に言われたくはないな。
思ったことが、口からそのまま出る。
「なんだよ。フウタに言われたくないって」
「だって本当のことだろ」
父親を殴りつけて以来、手を出されなくなったこと。
卒業後は、家を出たいから先生にアルバイトの相談をしたこと。
フウタに彫ってもらった虎は、これから先もずっと一番の宝物であること。
塩素くさい乾いたコンクリートに並んで座り、「もう授業は終わったぞ」と体育の先生に声を掛けられるまで、時間を忘れてたくさん話をした。
「あのまま殺してたらどうなったかな」と
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