明後日への疾走

川端 春蔵

明後日への疾走

「いいかぁ、春蔵。池波正太郎先生はこうおっしゃっておられる」

 人事異動で新しい上司になったMさんは、かなりの話し好きだった。

私が営業車を運転している最中、Mさんはずっと助手席から喋り続けていた。話題は多岐に渡ったが、その頃、Mさんがどハマりしていたのは池波正太郎先生だった。

 言うまでもなく池波先生は『剣客商売』『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』の三大シリーズをはじめとする時代小説家の大家で、1990年に惜しくも急性白血病で急逝されてからも、現在に至るまで作品のドラマ化・コミック化が続いている。

 Mさんがどハマりしていたのは池波先生の小説ではなくエッセイのほうだった。

私は毎回、着るもの・住まい・食べること、そして生き方を、Mさんの口を通して、池波先生の言葉を聞いていた。

「あっ、Mさん、それ『美味しんぼ』に出てました。今度、お貸ししましょうか?」

 と思わず口走ってしまいそうになった、わさびと醤油の話(刺身を食べる際、わさびは醤油のなかで溶かさず、刺身に乗せて醤油とは別にするのが正しい食べ方、とのこと)もあったが、そこは上司と部下の関係上、絶対に口にはしなかった。

 その頃、私はボンヤリと小説を書いてみようかなと思っていた。小説家志望というには、あまりにおこがましい。なにせ一文字も書いたことがないのだから。

 それでも、試しに書いてみることにした。だが、そこで高くて厚い壁にぶつかった。

「ところで、小説ってどうやって書くの?」

 とりあえず、ネット検索をした。すると小説新人賞の募集要項が見つかった。

〝ワープロ・パソコン原稿の場合、縦書きで…〟

「えっ?縦書き?」

私は焦った。パソコンは使える、だけど縦書きで書いたことは、なかった。仕事の報告書も横書きだし、大学の卒業論文も同じく横書きだった。

 試しにWordのフォーマットを縦書きに変更して、適当な言葉を入力してみた。

(何か、感覚が変…)

 どうにか1ページを文字で埋めてはみたが、この形で小説を書けるとは思えなかった。考えてみれば、最後まで横書きで書き抜いて、縦書きに直せばよかったものを、そのときの私はそれすらも思いつかず、ただただ頭を抱えた。

(こりゃ無理だ…)

 しかし私は諦めない。もう一度、募集要項を見直した。

〝400字詰め原稿用紙で…〟

(何だ、あるんじゃん!)

 原稿用紙なら小学生と中学生の頃、読書感想文で使ったことがある。もちろん縦書きで5枚以内。

 さらに調べてみると、どうやら原稿用紙の場合はシャープペンシルではダメで、ボールペンか万年筆で書かないといけないということがわかった。

 早速、私はスーパーの文具売場で一番安い原稿用紙を買って机の上に拡げてみた。右手にはどこかの会社の名前が入ったボールペン。これで完璧だ、と思ったが、まだまだ壁は高かった。

原稿用紙3枚をどうにか埋めたあたりで、右手が痛くなりだした。

「小説を書くのは苦しい、とはこういうことか…」

 右手首をケアしながら私は妙に納得していた。


「いいかぁ、春蔵。男が武器に金を遣うことは大切なことなんだぞ」

 Mさんが自慢げに言った。私が新しいネクタイと革靴を褒めたからだ。

「男の武器ですか。かっこいいですね!」

「おう、池波先生はな、万年筆もいいものを持てとおっしゃっている。万年筆も武器だからな」

「万年筆!」

「おう、俺も次は万年筆を買おうかと思ってな…」

 私の頭に閃くものがあった。

(そうか、万年筆でもいいんだったな…)

 Mさんの万年筆話は、多分それからも続いていたと思うが、私は生返事をするだけで聞いてはいなかった。頭のなかではいい万年筆を手に入れるにはどうすればいいかしかなかった。

 帰宅した私は、ネットで万年筆を調べた。

〝万年筆のいいもの〟の値段に驚きながら、〝モンブラン〟というドイツの万年筆が最高峰と呼ばれていることがわかった。

 早めに仕事が終わった日、私はデパートの万年筆売場に向かった。そんなコーナーがあることは知っていたが、いつも素通りしていて、万年筆が収まったショーケースを目にするのは初めてだった。モンブランはそこで輝きを放っていた。値札であらためて価格を知る。ネットで見たより高い。きっとこれが定価なのだろう。同じ金額を出すのなら、ちょっといい腕時計が買えそうだった。

 店員さんが笑顔で応対する。私は舐められたくない一心で、モンブランの万年筆が見たいと告げた。下調べをしていたマイスターシュテュックというシリーズを考えているのだと。

すると店員さんはうやうやしく、モンブランを数本ショーケースの上に並べてみせた。もちろん、下には柔らかな布が敷かれていた。そして、149と146の違いや軸の太さについて丁寧に説明をしてくれた。試し書きもさせてもらい、私は146のほうがいいと思った。

(これだな)

 と感触を確かめていた私に、

「キャップにお名前も掘らせていただけます。無料サービスでおこなっております」

 という声が届いた。

「そうですか」

 と軽く応じたが、私は躊躇を感じだしていた。正直、モンブランそのものに気後れを感じていたが、万年筆に平凡な自分の名前を彫るのは気が引けた。

名前を彫るのは考えますと伝えると、とりあえず、買いはするのだなと、購買意欲の高い客だと判断されたのか、今度は店員さんがビニールに包まれた紙を差し出した。縦書きと横書きの便箋だったが、今までに見たことがなく、何となく高級感のあるものだった。

 店員さんに〝満寿屋〟の商品だと教えられ、元々は作家用の原稿用紙を作るところからはじめて、現在でも原稿用紙を作って売っているという。試しにモンブランで便箋にペンを滑らせてみると、インクの吸収力が凄い。

 これなら原稿用紙も〝満寿屋〟のものを使うのが正しいのではないかという考えが私の頭を支配した。

 礼を述べて帰宅した私は、自室で想像を巡らせていた。

 小説を書いて投稿する。投稿した原稿は誰かが読む。だったらどうだろう? パソコンで印刷されたものよりも、手書きで書かれたもののほうが、読み手に感銘を与えないか? しかも、モンブランの万年筆に〝満寿屋〟の原稿用紙だ。しかも名入れだ。原稿用紙に名前が入っていれば、「この原稿は!」と思うのではないだろうか? いや、思って当然だ。そして、読み手は「この人はモンブランの万年筆に名前を彫るような人ではないか?」と想像するに違いない。

 小説の選考には、絶対有利に働くという結論に達した。

 かかる費用は賞金で回収できて大きなおつりがくる。

何より、男の武器にお金を遣うことは非常に立派なことなのだ。

興奮しきった私は、モンブラン146と〝満寿屋〟の原稿用紙を購入することに決めた。

 その代わり、購入はネットからすることにした。理由はひとつ、万年筆の価格が、デパートで買うより安かったからだ。どこで買っても商品は同じで新品だったら、何ひとつ問題はない。

 しかも普通の146ではなく、プラチナを選んだ。価値は解らないが、金よりも名前がかっこいい。ワンランク上の品だと感じられた。

 本名を掘ってもつまらないと思い、早速考えたペンネームを掘ることにした。今となっては、どう考えてもこちらのほうが恥ずかしい。インクも黒ではつまらないだろうと、ブルーブラック系でこだわりの和菓子みたいな名前のものを選んだ。

 最後に、ネットで〝満寿屋〟の公式サイトを長時間眺めた末、そのペンネーム入りの特製原稿用紙を注文した。B4版で1000枚。最小の注文単位だったが、そのときの私は勝手に盛り上がり、

(これは、あとで追加注文が必要だな)

 と真面目に考えていた。


「いいかぁ、春蔵」

 Mさんが池波先生の話を持ちだす度に、私は素晴らしい万年筆を購入したことを伝えたくて仕方がなかったが、そこはグッと堪えた。

Mさんにはその姿が、真剣に上司の話を聞く部下の姿勢ができていると評価されたのか、これまでより池波話は熱を帯びた。

 名入りのモンブランと原稿用紙が自宅に届くと、早速インクを注入して、すでに忘れていたペンネーム入りの原稿用紙に向かった。早速一枚書いた。そして眺めた。

(汚いなあ…)

 どう見ても字が汚い。万年筆の癖を理解していないのでインクで潰れている字すらある。こうなればもはや字ですらない。

おまけに手の甲にインクが付いている。早速手洗いをしたが完全には落ちない。

「小説を書くって、やっぱり苦しいんだな…」

 しばらくのあいだ毎晩、万年筆と原稿用紙と向き合ったが、一向に字は上手くならず、話は面白くならず、翌朝に読み返すと会話文だけが妙に浮き上がって盛り上がっている原稿を見るにつれ、私は原稿用紙から遠ざかっていった。


「いいかぁ、春蔵。伊集院静先生はこうおっしゃっておられる」

「はい、Mさん」

 Mさんの興味は池波正太郎先生から伊集院静先生に移り、海外の名門コースでゴルフをする夢を語ることに向いていった。

私が褒めたネクタイは、着用頻度が多すぎたのか早くも疲れが見え始めていた。革靴も手入れには手間をかけていないのか最初の輝きはもうなかった。

 私のモンブラン146は、キャップの名入れ部分を黒のビニールテープで厳重に貼り付けて、箱の中に仕舞ってある。

 完全にその名を忘れたペンネーム入り原稿用紙の残りは、本棚の隅でずっと眠っている。(了)

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