第3部

 あくる日。城下町の宿屋に宿泊していたマックスであったが、今までで最高級の料理も部屋もベッドも、何もかもがどうでもよかった。とにかく、エストベルクの様子が気がかりでならなかったのだ。ボスは無事だろうか。あのゲイカップルは、あの片目のじいさんは、他の皆さんは……。

 そんなことが頭にあり、ろくに睡眠もとれず、城の門へと向かった。

 すると、

「おお、ケーニヒ殿!」

 何と、衛兵に囲まれて国王が馬車で見送りに来ていたのだ。そして、門の前には多数の衛兵に囲まれて大臣らしき髭面の老人が出迎えに来ていた。

「私は直接場に行くことはできないが、大臣のワルトシュタインが視察に行く。くれぐれも疫病には用心するように。現地では感染対策を徹底するように臣下にも指示を出してある。それでは、どうか無事で。」

 国王に見送られ、マックスは大臣とともに馬車に乗りこんだ。

「はじめまして、評判は常々お聞きしております。ワルトシュタインです。実は、貴殿の父上のこともよく存じております。絵画に音楽にたいそうな才能を発揮された素晴らしいお方でありました。お亡くなりになられたとの由は大変に残念にございます。」

 大臣はもうすでに70歳を過ぎているであろうか。しかし、矍鑠たる口調である。道中は、マックスと大臣はシュテファンの話や国王の話、王宮の裏話、そしてマックスの身の上話などで盛り上がった。

「シュテファン殿は大変熱心に絵画や音楽に励まれておりました。城の壁画の修復作業もお手伝いいただきましたし晩餐会では毎回素晴らしい音楽を作曲してくださいました。ところが、ある日のこと、シュテファン殿は突然行方をくらましてしまい、城じゅうが大騒ぎになりました。それから数十年、シュテファン殿の帰りをお待ちしていたのですが、国中で評判のマックス・ケーニヒというピアニストがいるとお聞きし、国王がもしかしてということでマックス殿をお呼び立てした次第です。」

 ワルトシュタインは非常に頭脳明晰な人であった。マックスのように他人と会話することが不得手な人間にとってもやりやすかった。また、マックスが一時一文無しに

なってエストベルクに一時期身を寄せていたこと話になると、大臣は急に熱っぽくなった。

「私どもも、国王に仕える身としてはけがれに触れることは本来ならば控えねばならないのですが、最後の御奉公にということで、年かさの私が引き受けることといたしました。最後に民の声を直接国王に届けたいのです。」

「つまり、この任務を最後に引退する、と。」

「はい。私はけがれに触れる以上、もはや王宮の敷居をまたぐことは叶わないものと覚悟しております。」

 マックスにとっては、恩のある街を「けがれ」と呼ばれることについては大いに抵抗があった。さりとて、現実に感染症の流行している状況とあらば、是非もない。

 街の時計塔が見えてきた。心なしか、1年前訪れた時よりも塔は少し傾いている気がする。

「おお、あの街か……。」

 ワルトシュタインは感慨深そうに言った。

「かつては、各国の王との会談の会場としても名をはせた街であったのですが、ここ数十年は不況のあおりでこの街が廃墟となって以来、我々も目を背けてきた過去があるのです。」

 ワルトシュタインの声が震える。

「先代の王は40年ほど前、不況で少子化が進む中、生産性をあげるためと言って同性愛者を徹底的に排除する政策をとりました。更に、少しでも優良な遺伝を持つ人間を清算すべきだとし、障害を持った人々も迫害しました。国中で同性愛者がいれば摘発し、それぞれの街から追放したのです。また、城下町に流入していたホームレスや流浪の民をすべて追放しました。他の街もホームレスの排除を積極的に行った結果、廃墟となったエストベルクに多くの流浪者、ホームレスや障害を持つ人々が流入しました。そして、私もまたその共犯の一人です。これまで見て見ぬふりをしてきた現国王及び私を含めた政治家もまた重罪です。王室に『けがれ』があってはならないというしきたりから、どの政治家も直にこの街を視察しに行こうとしませんでしたし、仮にもそのようなことがあればたちどころに王宮からは永久追放されていたでしょう。」

 マックスはすっかり考え込んでしまった。この大臣は、今まさに40年分の罪を償いに来たのだ。

「昨夜、国王は大変頭を抱えておられました。マックス殿とお会いし会話した際にエストベルクのことを告げられたあとに、シュテファン殿が生前マックス殿を官僚にし、国家に役に立つべく心を砕かれたという話をお聞きしたとおっしゃっていました。つまりは、我々が何の負い目も感じることなくいたずらに日々を送っていたのだと嘆いておられました。」

 ワルトシュタインが話している間に、エストベルクの街の入り口にやって来た。

 街中に進むと、人の死体が道のあちこちに横たわっている。そして腐敗の匂いもものすごい。あまりの惨状に、衛兵たちも鼻をつまみ、目を背け、中には気絶してその場に座り込んでしまうものまでいた。

「いやはや、ここまでとは……。」

 ワルトシュタインとマックスはここで国王から渡されたマントを羽織って、口元までを覆った。

「ちょうど1年前にここに来た時にも道端にはアヘン中毒者などがいたのですが、今は感染症の死者ばかりですね……。」

 そして、一行はとうとうボスのいる街の奥まで差し掛かった。すると、ランニングシャツにカーゴパンツ姿の老人が呆然と座り込んでいる。

「ボス!」

 マックスはすぐにその姿で認識できた。

「おお、マックスか……。」

 ボスは少しやつれていたものの、幸いにも元気そうだった。

「今日は国から大臣が街の様子を見に、視察にやって来たのです。」

 マックスが言うと、ワルトシュタインがボスに語り掛けた。

「はじめまして、私は大臣のワルトシュタインと申します。エストベルクの感染症が流行しているという話を聞きまして、視察にやってまいりました。」

 次の瞬間、ボスはワルトシュタインに思い切り甲高い声で怒鳴りつけた。

「何をやっとったんだ、今まで!」

 その声は街中にこだませんかというほどの大きさで、マックスは驚いて目を丸くしてしまった。

「申し訳ございません。すべて、我らの責任であります。」

 大臣は言い訳ひとつせず、深々と頭を下げる。

「ならば、なぜ今まで我々を見捨てていたんだ、40年も自力で生きてきた末がこんな感染症……城の塀の中にいるお前さんたちにはわからんのだろうな!全く……今日も仲間がふたり亡くなった。同性愛の男たちだった。死ぬ間際にふたりで手を取り合って、『これで天国では思う存分愛し合える、ふたり一緒だ』と言って死んでいったんだ……。お前さんたちが同性愛を認めないから彼らはここまで苦しい目に遭ったんだ。そして、おとといは片目を失った同志もこの世を去った。彼も国の政策に苦しめられた者だった。今、この時も、仲間で病と闘っているものもいる。今は医師の仲間が看病しているが、彼にも手の施しようがないのだという。早くどうにかしてくれ。時間はない。きっと……おれも長くはない。だが、このエストベルクがこのまま放置されているのをおいそれと見ながら死にたくはない。頼む!」

 ボスは息を切らす程の勢いで、大臣に面と向かって訴える。

「わかりました。2,3日のうちに必ず仮設の病院と貧民救済所を作ります。それまで、どうか今しばらくお待ちください。」

 大臣は終始頭を下げたままだった。

 ボスと話がしたかったため、マックスは少し一行に待ってもらった。

「久しぶりだ。マックス。達者にしてたか。」

「はい。おかげ様で、職にありつけました。そして、私の評判は国王にまで届き、先日謁見する機会がありまして、その際にエストベルクの窮状を私から伝えさせていただいたのです。」

 それを聞くとボスはマックスの手をぎゅっと握りしめた。

「ありがとう、マックス。お前がそこまでしてくれなかったら彼らは動かなかったのだな。まったく……どうしようもない奴らだ。しかし、今こうして話が進んでおれも一安心だ。これからどうするのだ?」

「また城に戻り、国王にこの街の様子を伝えてきます。」

「そうか。さすればそろそろトンネルの外は嵐が止もう。」

 トンネルの外。マックスははっと思い出した。そうだ。ここは「向こうの」世界だったのだ。しかし、マックスはなぜこのボスがトンネルの外のことについてわかっているのかを疑問に感じた。

「どうしてわかるのですか?」

「おれは何年もあのトンネルの管理をしてきたからわかる。」

 ボスは胸を張って言った。

「ききたいことがあるのですが……。」

「なんだ?」

「かつて、シュテファン・ケーニヒという人がトンネルを越えてこの世界に迷い込んだことはありませんでしたか?」

 ボスは言った。

「何十年も前におれがこの街に住み始めてしばらく経った頃にそんな奴がひょっこりトンネルの向こうから迷い込んだことがある。奴は絵画も音楽もうまいとはきいたが、この街に少しいただけでさっさと旅に出てしまったから、それからあとは知らねえ。」

「それは僕の父なのです!」

 ボスはなるほどという表情をして頷いた。

「そうか。マックスは彼の息子というわけか。」

「生前、父は全くこの世界の話を口にしませんでした。しかし、僕を官僚に育てて世の中の役に立たせることには異常なまでに強迫的でした。」

 ボスはそれを受けて街の北側を遠く見つめながら言った。

「つまり、彼はいつかのタイミングでトンネルからもとの世界に帰ったというわけだな。」

「はい。その通りだと思います。」

「きっとな、お前もそろそろここから帰ることだと思うが、この世界から戻ったならばおそらく記憶を失うことになろう。ただし、記憶は失っても身体の中にはこの経験は必ず残る。何らかの形でここであったことはお前の中に刻まれると思うよ。」

 ボスは、マックスの肩をぽんと叩いて言った。

「達者で暮らせよ。おれも老い先長くはないが、ここで必死に生きる。お互いにまだやるべきことはあるんだ。」

 マックスは急に哀感に駆られていた。別れの時はすぐそこだ。

「ボス、今までありがとうございました。最後にお願いがあるんです。」

「なんだ。」

「この広場で亡くなった方たちのお墓参りをさせてください。」

 ボスはマックスをすぐ近くの墓場へと案内した。


 一行が城下町に戻った時には既に陽は沈んでいた。

 国王は王宮のエントランスのホールで出迎えてくれ、一同はそこで報告をすることとなった。まず、大臣が国王から聞き取りを受けた。

「よくぞ戻った。様子はいかばかりであったか。」

「見るも無残でありました。私も正気を保つのがやっとのことでした。兵士の中には気絶してしまったものもいました。」

「そうか……。現地の住民と話は出来たのか。」

「はい。数人、私どもと直接話をして……。マックス殿の知り合いもいましたよ。皆、感染症や貧困に苦しんでいます。そして、多くの人々が、我々の長年にわたる数々の過ちにより野放しになった結果、怒りを覚えております。今この瞬間にも病魔と闘っている人がいるのです。直ちに病院と貧困救済の館を設けるべきです。」

「ご苦労であった。」

 続いて、マックスが聞き取りを受けることとなった。

「よくぞ戻った。マックスよ。そなたの知り合いはいかがであったかな。」

「数人、感染症で命を落としました。私もお世話になった方でした。国王、どうかエストベルクに手を差し伸べてください。時間がありません。国王が決断すれば、良いのです。」

「さらば、何をしてほしいと思うのだ。」

「私からお願いしたいのは同性愛を認めること、街から同性愛者や障害のある人々、流浪者を追い出さないこと、彼らに対する迫害を禁じること、です。そして、職に困った人たちにどうか仕事を与え、彼らが気兼ねなく働けるように相談所を作ってください。」

 国王は真剣なまなざしでマックスの言葉に同意した。

「承知した。」

 あくる朝、国王は城のバルコニーから、目の前に集まった民衆に向けて演説を行った。

「皆の衆、どうかよく話を聞いてもらいたい。我が国においては、同性愛を認め、彼らを差別すること、街から締め出すこと、職から締め出すこと、あらゆる不利益を被らせることを固く禁ずることとした。そして、障害のある人が皆不自由なく暮らせるよう、我らが手を取り合い、支えることも宣言する。また、エストベルクの恐ろしい流行り病を一刻も早く終結させるため、国として全力を挙げることを約束する。これまでの私の不明を詫びるとともに、この一大改革に、国民の皆の協力を仰ぎたいと思う。我々は、今この目の前にはいない人々、そして愚かにも見放して来てしまった人々に対し、大いなる慈悲のまなざしを向けねばならない。」

 この台詞に、民衆は大きな拍手を送った。マックスも、その民衆の中にいた。

 昨夜、ワルトシュタインからは感謝の言葉を送られていた。

「マックス殿、この度は大変かたじけない。私は明日をもって暇を乞おうと思う。マックス殿もどうか息災に。」

 ワルトシュタインには餞別として特別に彼の70年来の宝である金の腕輪を授けると言った。しかし、マックスはどうにも受け取る気にならず遠慮した。それでも、と言うので、ワルトシュタインからは作曲の際に役立つようにと高級万年筆を渡された。

 ワルトシュタインは国王の横に立ち、満足気な顔つきをしている。これでよかったのだ。

 それとは裏腹に、熱狂的だがどこか儀礼的な拍手を国王に送る聴衆に対し、マックスはいくらか醒めた表情でもあった。この人たちはおそらく国王がなんと言おうとも歓声をあげるのだろう。それが、ホームレス迫害であっても、同性愛者迫害であっても。つまり、国王や政府に無批判なことこそが罪なのである。だが、この日に関してはそれもまた良い方に作用しているのだ。

 国王からは最高の待遇をもってマックスを宮廷のお抱えにするという約束があったが、マックスは丁重に断った。国王はたいそう残念がったが、今回の褒章として、最高級のダイヤの指輪を贈ってくれた。マックスは即座に、これを受け取ることを辞退し、指輪を売って、得た金全額をエストベルクの街の救済に充ててくれと要請した。

 こうしてマックスは、国王の宣言に高揚する城下町をそっとあとにして港町の宿屋に戻った。そして、宿屋にも、暇を乞うた。

 その晩は、マックスの送別会が開かれた。マックスは国王に聴かせた新作の曲を奏で、聴衆の涙を誘い、また自作のピアノ・ソナタや即興演奏でその場を大いに沸かせた。大勢の聴衆から別れを惜しまれたので、マックスも感慨ひとしおであった。

 翌朝。港町を出発し、馬車を使ってエストベルクの裏山まで連れて行ってもらった。例のトンネルはどこだったか……と辺りを見回していると、

「マックス!」

 ボスが待っていた。

「道に迷うといけないと思って、お前を案内しようと思っていたんだ。」

「助かりました。トンネルの位置がわからずじまいであったものですから……。」

「そんなことだろうと思った。ここから先はおれに任せろ。」

 ボスが親切にも森を案内してくれた。

「まったく、お前の親父はこの深い森を自力で帰ったのだから、ただ者じゃあないよな。」

 深い森の中を進んでいくと、にわかに大粒の雨が降って来た。雷も鳴っている。ふたりは急いで鬱蒼と茂る森を奥深くまで進んだ。そして雨脚は一層強まり、とうとう霧も出てきた。それでも懸命に進むと、突然、岩山にトンネルがぽっかりと穴をあけているのが見えた。中を覗くと、かすかにトンネルの向こう側の光が見える。

「マックス、いよいよ別れの時のようだ。くれぐれも達者にやれよ。」

 ボスはマックスの手を握って言った。

「はい。ボスも、どうか長生きしてください。」

 マックスはボスのしわしわの手を握り返した。

「あったかいな、マックスの手は。」

 ボスはくしゃっと笑顔を浮かべて言った。

「それじゃあな。また会おうぜ。」

 その言葉に背中を押されるようにして、マックスはトンネルへと入っていく。トンネルの入り口で、ボスが穏やかに手を振っている。マックスも後ろを向いて、穏やかに振り返した。

 すると突如天井から大きな音がしたかと思うと、土砂がマックスの後方をすっかり埋め尽くしてしまった。マックスは慌ててトンネルの出口へと一目散に駆け出していった。


 トンネルを出ると、そこは春の野原であった。

「ここは……。」

 マックスが振り向くと、そこにあったはずのトンネルの口はもう既にない。

 野原のはるか向こうに、マックスの家が見える。帰って来たのだ。

 家に帰りつき、持ってきたわずかな荷物の整理をする。その頃にはマックスはすっかり、あの世界であった出来事を忘れてしまっていた。しかし、高級な万年筆にいくつかのピアノ曲の楽譜、それらは確かにそれが夢ではなかったことを実証していたのである。

 父の遺影が微笑んでマックスを見守っていた。

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