第2部
あくる朝。
「おい、起きろ。飯できてるぞ。」
あまりにぐっすり眠れたので、昨日の疲れもすっかり吹き飛んでいた。
「おはようございます。」
「顔洗って広場に来いよ。」
広場に行くと、仲間たちがもう既にテーブルを用意して皿に朝食のパンを盛り付けている。
「おはよう、眠れたかい。」
仲間のひとりが声をかける。
「ええ。ボスが布団に寝かせてくれたおかげで不便はありませんでした。」
「そうかいそうかい、お前さん今日もう旅に出るんだろ。」
ボスは既にマックスが旅立つことを仲間に伝えていたようである。
「はい。自分で生きていかなければと思って……。」
「そりゃ、いいことだ。だがよ、どうしても無理なら遠慮なくここに戻って来な。おれたちはいつでもお前さんのこと待ってるから。」
朝ごはんのパンはまたしても闇市で手に入れたという。
「生きるってことはよ、食うってことだ。いいか、何が何でも食うんだぞ。食えなくなったらここへ来い。」
少し太っちょの仲間からもそう声掛けされた。
パンは日頃柔らかいものしか食べないマックスにとっては少々硬い気もしたが、食べるには十分耐えうるものだった。
「おいしいか。」
太っちょがきく。
「はい。よく眠れると、ごはんっておいしいんですね。」
「そりゃ、そうだ。もしかしてお前さん、普段ろくに寝てないのか?」
「はい。作曲に没頭していて徹夜してしまうこともありますので、決まった時間に寝ていないんです。」
「そりゃ、よくないわ。食べると同時に寝なきゃいかん。おれたちは徹夜なんかしない。必ず寝る。よほどの急ぎの用事ができない限り、夜は全員布団に入ることにしている。そうでなきゃ朝から活動なんてできねえ。」
するとそこへ白衣を着た男がパンを片手にやってくる。彼はマックスの顔を見るなり、
「ちょっと診させて。」
と聴診器を当てたり、身体のあちこちを触ったりして確かめる。
「……なるほど。お前さん、血流がものすごく悪いぞ。普段ろくに身体を動かしてないんじゃないか?多分、昨日は相当動き回っていくらかよくなったと思うが、このままではいかん。よく寝て、よく食べて、そしてよく動くのだ。そうでなけりゃ人間じゃない。」
医者はそう言って、マックスの肩を叩く。
朝食も食べ終わり、皆で片づけもしたところで、マックスはエストベルクを出発することにした。
出発にあたり、マックスは即興で昨夜の儀式の際に歌った歌のメロディに自ら作詞した歌詞を付けた無伴奏歌を作った。それを広場でスラムの皆に披露したのである。
朝日に押され 若人は
いざ旅立ちぬ 朗々と
エストベルクよ 永遠に
今日という日に 幸あれ
「皆さん、お世話になりました。もしまた困ったら、その時はまたお世話になります。」
マックスは身一つでスラムをあとにした。ボスが街の出口まで送りに来てくれた。
「達者でな、ここから歩いて一日くらい行くとノルトハイムという小さな港町がある。そこは城下町と違って、そしてこの街とも違ってのんびりとしていて、音楽も盛んだ。お前さんならそこで何か職にありつけるかもしれん。とにかく、よく食べてよく寝るように。」
そして、ボスはこっそりとマックスにわずかな金をくれた。
「お守り。これなら二日分の食事と宿代は出せる。どうしてもうまくいかなければ、戻ってこい。なるべくならもうお前に会うことのないことを願うが……。じゃあな。」
ボスの見送りを受け、マックスは再び歩を進めていった。
野を越え山を越え、時には道行く人々にノルトハイムという港町はないかと尋ね、手がかりを得た。朝方は非常に足取りも軽く、さあ、港町までまっしぐら、という気の入れようだったが、ほんの数時間ほどもすると足が痛くなってくるし、時にしびれすら感じる。普段運動していないうらみがここで出てしまったのは言うまでもない。
もうだめかと思っていた矢先、山奥の小さな村にたどり着いたので、小休憩をとることとした。
村には小さなレストランがあり、そこで一度小休憩をとった。そして、レストランの主人に、この先にノルトハイムという街はないかと尋ねてみた。
「ああ、その街なら、ちょうどおれが買い出しに行くんだよ。馬車なら夕方には着く。ちょうど午後行こうと思っていたところだ。あんたも乗っていくかい?」
かくして、レストランの主人の好意でマックスは幌馬車の荷台に乗せていってもらえることとなったのである。午前中の歩行ですっかり体力も脚力も使い果たしていたマックスにとってはまさに地獄に仏であった。下り坂にガタゴト揺られる馬車の中でマックスは荷物にもたれかかりながら午前中の疲れを癒やしていた。
馬車がノルトハイムに着いた時には既に陽が西に傾いていた。この港町は前の城下町とも、エストベルクとも異なり、ずいぶん陽気で開放的だ。道ではギターで何やら弾き語りをしている人もいるし、子どもも道を遊びまわり、活気がある。街を行く人々に貴族のような人はおらず、街も非常に庶民的だ。
マックスは主人に礼を言って別れ、とりあえず街を探索することにした。今晩泊まる宿を探さねばならない。できるだけ金を節約したかったので、安めの宿にすることにした。そんなことは普段の演奏旅行中のマックスであったら思いもよらなかっただろう。そしてたどり着いた老舗の宿屋のロビーには、なんとピアノがあったのだ。これはしめたと思った。このピアノで自分の腕前を披露すれば自分の能力を活かせると思ったからだ。
マックスは宿泊部屋に荷物を置いてから、フロントに許可を得て早速ロビーのピアノを弾いた。もともとは結婚式やお祝い事の余興として使うためのピアノらしい。この宿屋は古くはあったが、割と規模が大きかった。そのため、マックスが即興演奏を始めた時に既に数人の客がロビーに滞在していた。
即興演奏を始めるや否や、数人の客がマックスのもとにやってきて、近くでその即興演奏に耳を傾け始めた。マックスは、ひととおり演奏したところで、彼らを相手にお辞儀をし、自己紹介を始めた。
「はじめまして。さすらいの音楽家、マックス・ケーニヒです。本日は、この宿屋の客として滞在しておりますが、ピアノを目の前にするとどうしても弾きたくなるので、ここで音を出させていただいています。お聴きいただきましてありがとうございます。」
聴衆は熱烈な拍手をする。だんだんと周りに人が集まり始めているので、マックスは期待を感じ取った。
「それでは、これより、私の新作のピアノ・ソナタをお披露目したいと思います。つまり、世界初演ということになります。今日、この場でお目にかかった皆さん、皆さんはちょっとした幸せ者かもしれません。世界初演というのは1回しかありませんから。それでは、どうぞ。」
マックスの作ったピアノ・ソナタは4楽章形式であった。第1楽章は、軽やかな序曲風の短い曲で、まるで意気揚々と旅に出た、けさのマックスのようである。第2楽章は一転して沈鬱なアダージョで、これは歩き疲れたマックスそのものだ。第3楽章はスケルツォ、まったくその姿はエストベルクのユーモラスな親父たちのようだ。そして、力強いアレグロの第4楽章は、マックスの決意を表すような作風だ。この作品を制作したのは、マックスがこの世界に迷い込む前のことである。しかし、演奏をしながら、マックスはこの作品がどこか自分の姿を予見するものになっていることに気づいたのだ。
25分ほどの作品であったが、その間も聴衆の数はどんどん増え、最終的にはロビーを埋め尽くすほどになった。そして、全楽章を演奏し終えた時には割れんばかりの拍手が沸き起こった。マックスにとっては生まれて初めてともいえる成功であった。指笛や「ブラヴォー」という掛け声も起こる。
宿屋の支配人もその中にはいた。
「やあやあ、これはこれは素晴らしいピアノでしたこと。せっかくならば、ここの住み込みピアニストとしてイベントを盛り上げていただきたいのだが。」
つまり、結婚式や飲み会などの余興にピアニストとしてその場を盛り上げる役割である。本来、マックスはそうしたピアニストの在り方には消極的で、実際に何度かその依頼を断ったこともある。マックスにとっては、自分の演奏がそのようにお茶やイベントの添え物のように扱われることが我慢ならなかったのだ。
しかし、今のマックスはそれを引き受けた。生きていけるならば、それでよかった。支配人からの要請をあっさりと受諾した。完全な本意とは言えないものの、自分の芸で食べていけるというのであればそれでよかった。
次の日から、マックスは宿屋の専属ピアニストとして活動することになった。イベントのない時にもそのままピアノを練習や作曲に使っていいというため、マックスとしては願ったりであった。初演したピアノ・ソナタに何か所か気に入らない箇所があり、手を加えた。また、持参した五線紙を使って新たな作品やイベント用のバックミュージックを作曲することさえあった。
「ケーニヒさん、この晴れの日にピッタリな音楽を何かお願いしますよ。」
「この間のピアノ・ソナタが素晴らしかったのでもう一度演奏していただきたいです。」
「ケーニヒさんは即興演奏も大変素晴らしいとお聞きしました。是非よろしくお願いします。」
それはマックスが今までに経験したことのない忙しさであった。ある時には、結婚式の前夜に新郎新婦を祝う新作を書いてくれないかと依頼が来て、こっそりと過去に演奏した曲を一部改変してやり過ごしたこともあったほどだ。
こうしてマックスの新天地での生活は実に順風満帆であった。衣食住に困らず、ただ好きなことをしていればいいのだ。このままここで暮らすのも悪くない。そのうちにいつしか、例のトンネルの向こうがまだ吹雪いているかどうかも気にならなくなっていた。
マックスの評判はたちまち港町に広まった他、わざわざその評判を聞きつけて遠方からマックスの演奏を聴きに来る、サインを求めるなどする人も出るほどであった。マックスはこうした熱心な聴衆の期待にこたえようと、すっかり宿屋に引きこもって作曲やピアノの練習に夢中になっていた。外へ出なくとも、その狭い世界で十分生きることができたからだ。
そんなある日、マックスに転機が訪れる。
「ケーニヒさん、我が宿充てに、王室から直々にご招待の手紙ですぞ。我が国に近頃さすらいの名ピアニストがおいでだと耳にするに及び、是非ともその実演をおきかせ願いたい。つきましては、我が城へお越しいただきたく何卒よろしくお願い申し上げる、とのことです。」
マックスはにわかには信じられなかった。自分が宿の中に閉じこもって、日々作曲や演奏に没頭しているあまり、世間のことに関心がなくなっていたのである。自分は一生、この宿屋で一ピアノ弾きとして暮らしていくものとばかり思っていた。
しかしながら、国王の要請とあらば、無視するわけにはいかない。それだけ作曲家としての自分の名がこの世界で轟いているということであり、そして元来自分はそうなることを望んでいたはずだからだ。
そうとなれば、まずは身だしなみを整えねばならない。普段から婚礼の場においてはフォーマルな衣装で演奏していたものの、国王の御前では更に引き締まった服装が求められるだろう。そこで、マックスは街に衣装を買いに出かけた。
久しぶりに出かける街は以前にもまして活況を呈していた。街の中心部は津々浦々からやって来たとみられる人々ですし詰めである。雑踏の中からこんな会話が聞こえた。
「エストベルクで恐ろしい疫病が流行っているらしいぞ。」
「聞いた。なんでも、エストベルクはだいぶ前からスラム街だし、きっと衛生状態が悪いから疫病も起こったんだな。」
「エストベルクから来た人はまず10日間、病院で隔離されるらしいぞ。何か菌を持っているといけないからな。」
「そりゃあ、そうさ。それにしても、あの汚い街はどうするつもりだろうね。国王は国王で、とりあえず今を乗り切ればよいなんて感じでいっこうに手を打たないし……。」
エストベルク。仕事に没頭していて、すっかりその名前すら忘れていた。かつてのあの気の良いボスたちはどうしたのだろう。そして、幸せそうなあのゲイカップル。あそこは確かにお世辞にも綺麗と呼べるところではなかった。しかし、彼らは彼らなりに精一杯生きていた。自分は幸いにも生計を立てることに成功している。しかし、彼らは……。マックスは思い出すにつれ、懸念と多少の罪悪感に駆られていた。できることなら、もう一度あそこに行って、稼いだ金で皆さんに何かごちそうしてあげたいものだ。
街の洋品店で最高級のスーツを買い求めた。こんなスーツは、もともとであれば買おうと思えばいつでも買うことはできた。しかし、この世界にやってきてからは、一文無しになるなどそんな状況ではなくなっていたのでずいぶんと不思議な思いだ。しかも、今回は自分で働いて得た収入で買うのである。この高級スーツは自分のこれまでの労働の対価である。
宿に戻り、気になったことを宿の主人に訊いた。
「エストベルクの街で何か疫病が流行っていると聞いたのですが。」
「ああ。なんでも、スラム街が感染源らしい。途端にものすごい勢いで街中に広がってよ、あそこからはこの街にも出稼ぎにやってくる人もいるから、今は感染対策を強化しているところだ。それに、今はあの街に行くことは禁じられているらしい。とても人の行けるところではないと。」
マックスは、即座にボスたちのことが頭に浮かび、叫んでいた。
「あそこの人達を見殺しにするというのですか?」
「仕方ない。昔からあの街は無法地帯だった。あまりの治安の悪さに国も介入をあきらめ、住んでいる者たちの好きにさせていたくらいだ。下手に手出しすればあの住人に何をされるかわからないし、病気までうつってしまうさ。」
マックスはショックであった。あそこの住人が国家の干渉を拒否していることは事実である。しかし、それは例えば同性愛者や障害者のように、特段犯罪を起こしてもいないのにやむを得ずあの街に流れ着いた人々や、ボスのように不況のあおりで職を失った人々から成っている。みんなのことを考えるのが政府としての在り方のはずである。それなのに、どうして見て見ぬふりができるのだろう。
苦々しい経験がマックスの脳裏に蘇って来た。けんもほろろに追い払われたあの城下町の異様に冷たい空気。身なりは高貴でも心は全く貧しい人間たち。国王に謁見するには必然的に城下町を通っていくことになる。マックスは今しがた購入したスーツが急激に何でもないぼろきれのように見えてきてならなかった。
「しっかし、ケーニヒさんもすごいな、今や国王に直にお目にかかれるほどの人間とあらば、我が宿屋としても大いに誇りになる。」
「それはどうも……。」
なんだか国王の招待もむしろ気が重くなっていた。民の窮状もろくに知らぬ国王の前で、自分が平然と演奏できるか、わからない。そして、スラム街のボスたちのことをまるで何も知らなかったかのようにして晩餐会でもてなしを受けることなど、忍びなかった。しかし、それでも断れば大変な不敬に値する。
マックスは、国王の招待の前夜、とある新作をこしらえるために、五線紙に筆を走らせていた。悩んだ末、今自分のできる最大限のことをしようと思い立ったのである。夜明けまでに書きあがるかわからなかったものの、なんとかギリギリで完成した。
翌朝、マックスは完成した新曲を携えて出発した。その際には、マックスはすっかり覚悟を決めていた。昨夜、徹夜で書き上げた作品は自分としてもかなり破天荒なものであった。果たして、これを国王に献呈したならば王はどのような反応を示すだろうか。
城下町に着き、門をくぐる。この際に、門の守衛にエストベルクからやって来たかを問われた。おそらく、この検問でエストベルクからやって来た人達を締め出す狙いがあるのだろう。港町から来たと答え、検問を通過する。城下町は相変わらず貴族たちが席巻していたが、その街のいたるところには、「感染症対策の徹底のお願い」「城の開放中止について」という、感染症対策の告知が為されていた。国王が「穢れ」「病気」にかかっては大変ということであろうが、このような神経質なメッセージを目にすると気が滅入ってしまうのも事実である。
城下町を奥へ進み、とうとう城の入り口にたどり着いた。衛兵が詰めていたため、彼らに招待状を見せた。衛兵は招待状を注意深く確認したのちすっかり来賓を歓迎する愛想笑いになった。
「これはこれはお待ちをしておりました。ケーニヒ様、ようこそ、我らがシュタインブルクへ。」
そううやうやしく応対されるとこそばゆい。だいいち、この間は自分を締め出した人々である。まったく掌返しに近いことをされた気分であった。この人たちは、自分ではろくに人間の見定めができないのだ。ただ、「国王からの招待状を持っているから」という理由で城の中に通すのだ。
城へ案内された。石造りの城はなかなかに立派である。由緒正しいとはこのことを指すのだろうか。この城に生まれればよほどの政変や革命でも起こらない限り、生涯最高の衣食住と文化環境が保証される。マックスのようにある日突然無一文になる心配もない。
待機室に通される。年頃の小姓がうやうやしく接してくれるのがなんともほほえましかった。彼の額には何粒かのニキビが浮かんでいる。彼はそれを時折気にするしぐさを見せつつ、ニコニコとした純朴な笑顔で、
「それでは、今しばらくお待ちくださいませ。」
と告げ、部屋をあとにする。
待機室は狭いが、壁画や天井のフレスコ画などのきらびやかな装飾に囲まれている。ここにやってくる客を決して飽きさせることのないよう、こんな空間ひとつにも工夫が凝らされている。その部屋で、マックスは最後のチェックのために楽譜を取り出すこととした。昨夜書き上げた新作の曲である。睡魔と闘いながらの作曲であったため、和声進行などにかなりあやふやな点が散見された。とりあえず、目につくところは即座に修正し、場合によっては本番は即興で乗り切ってもいいとも言う心づもりだった。
「ケーニヒ様、お待たせいたしました。国王のもとへお連れ致します。」
小姓が再びやってきて、マックスを玉座の間へと案内する。そこまでの道のりがあまりにも長いものだから、日頃ろくに外出をしていなかったマックスは息切れを起こしてしまった。ようやく玉座にたどり着き、マックスは肩で息をしていたのを慌ててただし、国王に向かい合った。
国王は、高級なローブに身を包み、恰幅の良く、口ひげを豊かに蓄えた威厳ある外見をしている。歳は50歳前後であろうか。まさに脂の乗りきった、壮年の王である。
「はるばるご苦労であった、マックス殿。貴殿の評判はしかとお聞きしておりました。宿屋のピアニストとしてはもったいないほどの才能をお持ちとのことで、本日は是非ともその音楽を我が耳に入れたく、お招きした次第です。どうぞ、そちらへ。」
国王に促され、マックスは用意されていた椅子に着席した。
「マックス殿にお聞きしたいのだが、どうしてピアニストを目指されたのですか。」
いきなりの質問にマックスは戸惑ったが、
「父が大変な音楽愛好家でして、その影響から幼少期より音楽に触れており、ピアノを弾くことや作曲をすることに意義を見出しました。もともと父からは官僚になれと言われていたのですが、音楽の道をあきらめきれず、父の反対を押し切り、演奏家となったのです。」
なんとか回答するに至った。
「ほう。お父様が。マックス殿のお父様はどんなお方でいらしたのかな?」
「はい。私の父は、もともと官僚になるべく教育されていたのですが、落第し、音楽や美術を趣味として不動産収入を貪る酒好きでした。父は私が19の時に亡くなりました。」
すると、国王の顔が曇った。
「そうか……。お父様の名前は何というのだ。」
「シュテファン・ケーニヒと言います。」
「なんと、私は今から30年ほど前、即位してほどなくしてシュテファン・ケーニヒ氏にお会いしているのだ。彼は音楽と美術いずれにも秀でた青年で私とも同じ年ごろだったもので、えらく感心したものだ。」
国王は非常に懐かしそうな、そして寂しさの入り混じった複雑な面持ちである。
「あの、申し上げにくいのですが、私はもともと雪国で不動産業を営んでいたしがない音楽家なのです。それがある時、自宅近くで吹雪に遭って、気が付いたら全く別の世界に迷い込んでいたのです。」
国王はいぶかし気な表情をしていた。
「それは、シュテファン殿も仰っていた。ある日突然この世界に迷い込んだ、とな。そして私のもとで音楽と美術をたしなんでいたのだが、しばらくして突然ここを去ってしまってな。おそらくあちらの世界に帰ってしまったのだろうと思っていたのだが、それは間違いではなかったのだな。」
マックスは父がかつてこの国王のお抱えだったという事実を初めて知り、動揺していた。父は生前、そんなことをひとことも自分に打ち明けることがなかったのだ。
「父がそのようなことを……。私は特に何も聞かされておりませんでした。しかし、父は異常に思想の強い人間でして、何かその経験が父にもたらしたものがあったのかもしれません。」
「お父様は生前どのようなことを貴殿におっしゃっていたか?」
「お前は世の中に奉公できる人間にならねばいけないと言っておりました。」
国王はそれをきき、ひどく神妙な顔になった。
「そうすると、シュテファン殿は何か思うことがあってここを去っていったということか……。」
「父は、私を官僚にすることに異常にこだわりました。もはや強迫的と言っていいほどでした。もともと官僚を目指していた父なのですが、成績が振るわずに及ばなかったものですから私に自分の夢を託していたと思うのですが、音楽家になるのは絶対に許さん、世の中に役立たねば、と。私からすれば、高等遊民の父にそのようなことを言われてもただ迷惑な話であるのですが。」
マックスは国王相手ということも忘れ、熱い口調で語り始めた。
国王はうんうんと頷き、マックスに語り掛けた。
「ならば、シュテファン殿は、音楽と美術をたしなんでいるだけのここでの生活に思うところがあったということなのかもしれぬな。」
マックスはうなずいた。
「そして今、私は父の言わんとすることがようやく理解することができたように思います。」
「ほう、それはなぜだ。」
マックスは一度唾を呑み込んでから意を決して切り出した。
「この国の政治が、世のために役に立っているとは思えないのです。私はもう一年近く前、エストベルクのスラム街に立ち寄ったことがありました。その際に会った人々は皆、国から見捨てられており大変困っている様子でした。見て見ぬふりをされっぱなしで彼らは生きていくためには手段を択ばないという窮状です。だからこそ、あの街から疫病が発生したのでしょう。早くに目を向けて貧民救済を行っていれば、そのような事態は避けられたかもしれないのです。国王は一度でもそれをご覧になったでありましょうか。もちろん、あの街が犯罪や違法行為の温床であることは承知の上です。しかし、そうした惨状を是非とも直接ご覧いただきたいのです。」
唐突なマックスの申し出に対し、国王はかなり驚いた表情であった。
「なんと……。エストベルクを知っているのか……?マックス殿、そのような恐ろしいところになぜ?」
マックスは「恐ろしいところ」という言葉にかっとなり、一層語気を強めた。
「私はこの世界に迷い込んでまず初めに、エストベルクの住人からその街に案内されました。そのあと、私はエストベルクを出て旅に出たのですが、途中で山賊に金目のものをすべて奪われました。そして泊まる場所もなかったものですから途方に暮れてエストベルクに戻って一晩泊めてもらったのです。そこの人達はみないい人達でした。今、エストベルクを放置すれば、やがては国家全体もエストベルクのように疫病が流行ってしまうかもしれません。」
そこでマックスは一旦咳払いして続ける。
「それだけでなく、国王には、もっとあらゆる民のことに目を向けていただきたいのです。老若男女、あるいは貴賤や気質に因らずにあらゆる人に対し慈悲深くなければ、エストベルクのような街は解消するどころかますます増大するでしょう。」
国王はあっけにとられていたが、しかし、厳しい口調で宣告した。
「マックス殿の気持ちはわかるが、国王はけがれを知ってはならないとする王室暗黙の了解が存在している。それ故、エストベルクに私が直接出向くことなど到底できないとお伝えしなくてはならない。」
「それならば、私が今から音楽にてそのエストベルクを表現いたしましたので、どうか耳を傾けてくださいませ。」
国王は怪訝そうな表情であったが、すぐに気を取り直したかのようにこう言った。
「おお、そうだった。今回の本題は貴殿の演奏を直に拝見することだった。そこにピアノがあります。是非ともお願いしたい。」
国王はそういうと、小姓を呼び出す。
「ワインをここへ。チーズも添えてもらえると助かる。」
楽譜を取り出しながら、マックスは怒り心頭であった。国王というものはしょせんその程度のものなのか。耳にもの入れてやる。
国王はだらけ切った表情で、音楽を酒のつまみにしようと言わんばかりだ。
マックスは国王に一礼し、演奏を始めた。
今回持ってきた曲は、前半が華々しい行進曲風の曲調で、後半は一転して重苦しいアダージョである。前半はマックスが想像した貴族や国王の裕福な暮らしぶりを、後半はエストベルクの街のスラム街のことを想い作曲した。
果たして、前半の内は国王もワインを片手にご満悦な表情であった。ところが、一転して葬送行進曲のような後半に入ると、だんだんと国王の表情が曇ってくる。いつしか国王はワインに全く手を付けず、青ざめた表情で音楽に聴き入っている。
曲は終わった。マックスは再び国王に一礼する。
国王はしばらくの間何も言葉を発することができなかったが、やがて我に返ったように拍手を始めた。
「結構だった。明日、部下に命じてエストベルクの視察に向かわせる。」
国王はそれだけ言うと、さっさと奥へ引っ込んでしまった。
マックスはとりあえず、国王からその言葉を引き出せたことにほっとした。
小姓がやってきて耳打ちする。
「今しばらくお待ちください。」
そう言って小姓は国王の引っ込んだ部屋に入っていった。
しばらくして、小姓は出てきてマックスに告げる。
「今晩は城下町の宿屋にお泊りいただきます。明日は早朝に街の門の前までお越しください。大臣一行のエストベルク視察に同行していただきます。」
時は来た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます