第1部
冬真っ只中の日、マックスは自作のピアノ曲を初演するため、楽譜を携えて近くの街へ出かけようとしていた。次の日が初演の演奏会だったのである。ところが、この日は吹雪が強く、外は大荒れ、とても外出に耐えうる気候ではなかった。
しかし、マックスは決死の覚悟で自宅を出発した。今回の初演の作品は、これまでマックスが書いてきたどんな作品よりも思い入れがあり、これで成功しなければどんな曲が受け入れられるのだというほどの自信作であった。それ故、初演を取りやめにするなどということは彼のプライドが許さなかったのである。
自宅を出ると、猛烈な風がごうごうと吹き荒れる。何とか気合で家から1キロ近く進むが、嵐は収まるところを知らず、まるで獣のごとくマックスに襲い掛かってくる。
「ぐぬう……。」
さすがのマックスも、暴風に行く手を阻まれ、とうとう嵐が止むまでは家に引き返すことにした。
しかし、あまりの嵐の激しさにもはや自分の家も肉眼で見えない状態となっていた。あと1キロ以内に家があるのは確実だ。マックスは雪の粒が吹き荒れる風で飛び交う中で目をつぶりながら、力を振り絞って歩を一歩一歩、前に進めていた。
どのくらい進んだのだろうか。目を閉じて歩いていると、ふいに固い壁のようなものに身体が激突した。
家の壁だろうか。目を開くと、そこにはトンネルの坑口がぽっかりと開いていた。マックスはこんなところにトンネルなどあったかと首を傾げたが、さりとて後ろを振り返れば暴風でとても戻れそうにない。
トンネルの中を覗き見る。外の暴風とは裏腹に、水を打ったような静けさである。この中でしばし嵐をやり過ごすのも悪くはないと思い、マックスはトンネルの中へと歩を進める。
すると、ガラガラという音と共にふとトンネルの坑口が落石でふさがってしまったのだ。
「た、助けてくれ!」
思わずあげた悲鳴がトンネル中にこだまする。
「こっちに来い。」
突如野太い声がトンネルの彼方より響く。
マックスはその声に惹かれるように、トンネルを走って走った。
トンネルの出口には、肌着にカーゴパンツ姿のひとりのみすぼらしい老人が待ち構えていた。
「おや、一体いつこのトンネルに入り込んだんだ?」
老人はやや憤慨気味である。
「いつって、たった今です。向こう側は酷い嵐です。」
「何をたわけたことを抜かすか、向こう側は崩落して通れるはずがないんだよ。」
「いえ、嵐に巻き込まれて家に帰ろうとしたら、行く手にぽっかりドンネルの入り口があったんです。」
マックスが説明すると老人が目を丸くした。
「なんだかよくわからんな。このトンネルはな、今から60年程前に土砂崩れが起きてから通行止めになったきりだったんだ。だけども、おれが時々様子を見に来ていてな、ちょうど中の見回りをしていたところだったんだ。運がいいぜ、あんた。」
老人はマックスをトンネルの外へと手招きする。
「さあ、来なさい。ここは危ない。」
老人に誘われて出た先は向こう側とうってかわってからっとした晴天であった。しかも、かなり暖かい。セーターを着たマックスでは汗が垂れてしまうほどだ。
「お前さん、そういえばどうしてそんなに厚着しているんだ?」
「トンネルの向こうが、雪国だからです。」
「ほう、不思議なものだ。こちらは年から年中暑いし乾燥している。肌着一枚で平気なくらいだ。」
トンネルを出てしばらくは鬱蒼とした森林が広がるが、マックスの住む地域とは異なり、広葉樹が多く立ち並ぶ。まったく別の世界に来てしまったことを彼は理解した。
「じいさん。」
「なんだ、じいさんとは。ボスといえ。」
「じゃあ、ボス。」
「なんだ。」
「ここってどんな世界なんですか。」
「どんな世界?まあ、あんたがどう思うかだぜ。」
ボスというその男はぶっきらぼうに言う。
「逆にあんたの世界はどうなんだ。」
「そうですね、どうということもなく。ただ、冬が寒すぎるんです。」
「そうか。」
ボスの服ではたちどころに凍えてしまうだろう。
「お前は今何をやっているんだ。」
「作曲家です。」
「作曲家?なんだ、それは。金持ちの道楽じゃないか。」
ボスに厭味ったらしく言われたマックスはむっときたが、返す言葉がない。
「お前、あれだろ、貴族か地主か資本家の家に生まれたんだろ?」
マックスが何も言わないのでボスは更に追い打ちをかけてくる。
「お前、あれだろ、お坊ちゃんで生まれてきて代々の家業を継ぐだけで何にも苦労がないんだろうが。ちょうどここはおまえにはお似合いの場所だで。」
ボスはいくぶん足を速めていく。
「速いですよ。」
「ああ、もう、おれはぐずは嫌いなんだよ。」
ボスが勝手にイライラし始めるのでマックスも黙ってはいられない。
「一体何ですか、こんなところに僕を引きずり込んで。」
「引きずり込んで……?お前が勝手に入って来たんだろうが。嵐が酷いからこっちにやって来たんじゃなかったのか。」
ボスは怪訝そうに問う。
「それはそうなんですけど……。僕、もう明日には自作の初演をしなくてはなりませんので。」
マックスは焦っていた。今からでもトンネルに引き返してもとの世界に戻らねばならない。
「初演?なんだい、あんた作った曲の楽譜は持ってきてるんかい?」
「ええ。ここに持っています。」
マックスは脇に抱えている鞄を指さした。
「今から引き返すのはやめとき。まだ嵐はやまないで。」
「どうしてわかるんですか。」
「そりゃ、何年もトンネルを見ておればわかるさ。」
すると、それまでの茂みが急に開けて小さな街が見えてきた。
「ほら、あそこがおれたちの住む街だ。エストベルクっていうんだ。」
だが、エストベルクの街はかなり汚い。並び立つ家々の塗装は剥げているし、バラック小屋みたいな住居が坂に沿って所せましとひしめく。俗にいうスラム街とかいうところだろうか。
「ここにお住まいなんですか……。」
街の入り口にあたる門をくぐると、一層その街の異様さが明らかになって来た。道端には無数の力を失った人間が横たわる。
「これはどんな人達ですか……。」
「アヘン中毒の人だよ。完全にいかれちまったんだ。」
中には顔が著しく損傷した人や包帯を巻いた人も道端に鎮座している。
「病気にやられちまったんだ。少し前までは普通に生きていたのによ。」
街中、異様な匂いが漂う。何かが腐りかけている匂いだ。
「この腐った匂いはなんですか……。」
「ああ、どっかで今日も感染症でホームレスが死んだのさ。この街は気を付けた方がいいで。あんたは特に免疫がないだろうから。」
ボスの淡々とした口調と話の内容に、マックスは戦慄を覚えた。
「今すぐ帰ります。」
「おっと、ちょっと待っとけ。トンネルの外は嵐だっての。」
ボスの台詞にマックスはいらだった。
「じゃあ、この世界で安全な場所を教えてください!」
「うーん、ここから山一つ隔てたところに大きな城下町があるんだが、悪いことは言わねえ、お前さんに居場所はねえぜ。どうしても、というなら止めはしないが。」
「どの方面に行けばいいのですか。」
「あそこだよ。」
ボスは街唯一の時計塔の向こう側の山を指さした。
「あそこの山を越えれば城下町に行けるんですか?」
「そうだ。」
マックスは古ぼけて苔むした時計塔のことが気になったのでボスに質問した。
「時計塔はどんな役割をしているんですか。」
「あの時計塔は街役場だ。だが、ここ数年ずっと使われずに放置されてるんだで。」
「どうしてですか。」
「この街がどんどん行き場をなくした人の吹き溜まりになってからというもの、行政は見て見ぬふりをし始めたんだ。しまいには腫物に触るような扱いだ。」
「行き場をなくした……人?」
「ああ。おれもまたその一人だ。昔は隣の城下町で肉屋をしていたんだが、不況のあおりであっという間に経営が行き詰まって、気が付いたら破産してホームレスだ。」
「就職先は、なかったのですか?」
「お前さんがよく言えたものだな。おれは家業のことしかよくわからんからよ、他のことはよく知らねえんだ。せいぜいその辺に転がってる獣の死骸を割いて料理するくらいさ。」
ボスはため息をつく。
「そのうちに、お上が城下町からホームレスをあの手この手で立ち退かせてよ、おれはホームレス仲間たちと一緒にこの街に流れ着いたんだ。もともとこの街は城下町の周縁の街としてそれなりに栄えていた街だったんだが、不況の影響でたちどころにゴーストタウンになってよ、そこにおれたちが住み着いたってわけさ。ほかにも薬物をやっている奴や同性愛者に倒錯者に障害者……ここは一種の避難所になっているんだ。中には、山賊になって山の中にすみついた奴もいるけどよ。」
マックスはその話がごく一部を除いてピンと来なかった。マックスもまた家業である地主とあとは音楽以外で身を立てるすべを持っていなかったので、ボスが「家業以外に能力を持っていない」ということに関しては深く共感できた。しかし、ホームレスの排除という話について、マックスはどこか遠くの世界の話のようにしか思えなかった。生まれ育ってこのかた、自分が出会った人でそのような惨状に遭遇した人に邂逅したことがなかったのだ。そして、なぜにそのような街に種々雑多な人が流れてくるのかも実感できなかった。
「この街は気を付けた方がいいぜ。お前のような服装の人間は追剥の恰好の餌食になる。」
ボスは口に手を当ててささやく。
「とりあえず、隣の城下町に行ってみます、お金はありますし。」
マックスは自宅を出るにあたり多少の金を持ってきていたのだ。もっとも、この金がこの世界でどれほどの価値があるのかはわからないが……。
「気を付けろ。金も持っているならなおさらだ。この先の山には山賊もいるから、油断ならねえぜ。」
ボスは親切にも街の出口までマックスを送ってくれた。途中の道で何度か盗賊に金をすられそうになったが、ボスが撃退してくれたおかげで事なきを得た。
「ほら、おれが付き添ってなけりゃお前さんすぐにやられてたぜ。」
ボスはとても力持ちであった。マックスの倍は体重のありそうな大男を一瞬で転がして気絶させてしまった。
「そりゃ、この街で生きていくからには鍛えなけりゃどうしようもないからな。」
ボスは力こぶを見せつける。
「こんな具合だから、お上も怖がってこの街をほったらかしにしてしまったんだ。」
マックスはこの街の恐ろしさをしかと見せつけられた気がした。
「何かあったら帰ってくるんだぜ。」
門を出る際にボスはそう言った。
マックスは、こんなみすぼらしく汚らしい街に誰が帰ってくるだろうかという憤然たる思いであった。マックスは、ボスに手を振ってからずんずん野山を進んでいった。
ところが峠にさしかかった時、突如道のわきから誰かが出てきて、マックスに殴りかかって来た。
「ぐぬう……。」
マックスは抵抗する手立てもなく、その場に転がってしまった。はずみで鞄も地に投げ出された。
見上げると、三人組の山賊であった。
「お前たち、何をするのだ、卑怯者。」
山賊のひとりが鞄をあさる。財布から金が出てくる。
「おう、これはいいものがあるじゃないか。珍しいものじゃねえか、こいつは高くつきそうだぜ。」
「なんだこれは、ここらじゃよく見かけない金だな、いただいておくぜ。」
「おう、これは珍しい着物だな。厚手で丈夫じゃねえか。」
「なんだ、この紙に書いてある記号は。」
それはマックスの書いた曲の楽譜だ。そればかりは盗られてはならない。下手をすると命より大事なものだ。仕方ないので、
「ええい、それはおまえらには値打ちの無いものだ。金と服だけ持ってさっさと行ってくれ!」
マックスはなんとか楽譜だけは山賊から守り抜いた。もともと金持ちで気前もいい性格であったので、所持金を失うくらいで慌てることはないと思っていたのだ。
峠を越え、しばらく下っていくと、急に大きな城壁に囲まれた街が現れた。
「ここか……。」
前の街とは異なり、立派な城の下には美しい街並みが広がっているのが窺える。マックスは胸を躍らせながら、街へと急いだ。
門をくぐると、石畳や木造りのカラフルな家々が立ち並び、道沿いにはいくつも商店が栄えている。道行く人々は皆豪勢な衣装や上質な服に身を包んだ人々で、この街の豊かさがありありと見て取れる。城の衛兵と思しき軍服姿の人もちらほら見かける。肌色もボスをはじめとする前の街の人々よりはるかに良い。食料品店の店頭に置かれているパンやソーセージなどがあまりにもおいしそうなので、マックスは腹ごしらえをしようと思った。しかし、肝心の金がない。どうしたものだろうか。マックスは試しに初演しようと持ってきた歌曲を吟ずることにした。
「さあ、麦を刈ろうか。恵みの季節がやって来たのだ……。」
楽譜を見ながら、街角で歌い上げていると、通行人たちは不審そうな表情で睨みつけてくる。すると衛兵のひとりがやってきて険しい表情で宣告する。
「この城下町においては、路上での許可のない演奏行為や詩吟を禁止している。直ちに中止しなさい。」
マックスは非常に不服であった。金がないのだから、それくらいの行為をしなければ生きていかれないのだ。
「あのう、僕は今金がなくて困っているんです。せめて今回ばかりはお許しを願えないでしょうか……。」
「馬鹿者!お前はどこから来たのだ。」
「山を越えた隣の街です。」
すると衛兵は真っ赤になって怒鳴りたてた。
「今すぐに帰れ!ここは国王のまします街、穢れの許されない国王のそばにそのような不届き者を置いておくわけにはいかぬ。そのうえ不埒な歌で他人をたぶらかそうとしたのだとすれば言語同断。」
たちまち、複数人の衛兵に捕らえられ、マックスは街の外へと放り出されてしまった。陽は既に山の方へとかなり傾いている。このままでは今晩泊まる場所もない。マックスはそこで、はじめの街を出る際にボスにかけられた言葉を思い出した。
「何かあったら帰ってくるんだぜ。」
マックスは大急ぎでボスのいるエストベルクの街へと山を越えて戻った。街に着いた時にはすっかり日は落ちて一面の星空が支配していた。
街の門からしばらく歩くと、なんとボスが立っていた。
「お帰り。待ってたぞ。」
まさかこのような形で戻ることになるとは思いもしなかった。マックスはボスに、これまでの惨状について切々と語った。
「そんなことだろうとは思ったよ。だいいち、お前が盗人に狙われないわけがないんだ。それにあの城下町はけちな連中ばかりだからな。」
ボスは淡々と語る。そして、すっかり疲弊したマックスを自分のいるスラム街へと案内した。
「ほら、ここがおれたちのアジトよ。」
案内されたのは、街の中でも外れの坂に沿ってバラック小屋が立ち並ぶ特に汚い地域であった。そこの合間には小さな広場のような場所があり、ボスのホームレス仲間たちが集まって火を囲んでいる。
「いらっしゃい。」
「おう、新入りか?見慣れないやつだなあ。」
「よく来た。」
ボスの仲間たちは皆いい人達であった。話を聞くと、様々な実情を持った人々がいた。
「おれはここのあっちゃんと40年にわたって付き合っているんだが、ここは最高だぞ。誰にも気兼ねなくあっちゃんと抱き合える。」
「おれがあっちゃんだ。お上が同性愛者を病気だとか言って、城下町から締め出したものだからおれたちはこの自由な世界にやって来たんだ。」
「僕はね、昔流行り病で右目をつぶしたんだ。恐ろしい病気だったのもあるけど、見た目も気味が悪いということで、あちこちで迫害を受けてね、気が付いたらこの街でボスの厄介になっていたというわけよ。」
「おれは昔、酒屋を営んでいたんだが、根っからのアルコール依存が治らなくてね、そのうちに不況が来て酒屋もつぶれちまったってわけさ。それで途方に暮れていたら、ここのボスについてこいと言われて、ここで細々と暮らしてるってわけさ。」
「あたしはみなしごだったところを、ボスに拾ってもらって、それ以来40年ずっとここにいるの。一生ついていくさ。」
皆、それぞれ重い過去を抱えつつも、活気に満ちている。スラム街というのはこういうものなのだろうか。
マックスはボスに促されて自己紹介をした。山のトンネルの向こう側からやって来たと伝えると、一同目を丸くした。
「それこそ、ずっと前にトンネルの向こうからひょっこりやってきて、風のようにいなくなった不思議な方がいましたよ。」
メンバーのひとりが語る。すると、ボスは口に人差し指を立てて、
「しっ!何も言うな。」
という。何か、その人に関して触れられたくないことがあるのだろうか。
しゃべっているうちに、煮込んでいる料理が出来上がった。ボスが自ら鍋を火から出して皿に盛りつけていく。
「ほら、どんどん食え。これはボスお手製だ。」
昔肉屋をやっていたとだけあり、ボスの味付けの腕前は相当なものだった。しかし、それにしては何だか少し変な味だ。
「ボス、これは何の肉を使っているんですか。」
「これか。」
ボスは一呼吸おいて言う。
「聞いて驚くな。人肉だぞ。」
マックスは食べかけの料理をこぼしかけてしまった。
「え、ええー?」
急に食欲がうせてしまった。
「心配すんな。天寿を全うした方がいらしてな、その方を十分弔ってからおいしくいただいているまでだ。見ての通り、人肉を食べてきた我々はぴんぴんしている。何もそこまで気にすることではない。」
ボスは人肉をおいしそうにむさぼる。
「肉がだめなら、野菜とごはんもあるぞ。」
「それはどうやって手に入れたものですか。」
「街でやっている闇市や、盗賊と取引して手に入れたものなど、様々だ。」
マックスはスラム街の実情を垣間見た気分がし、罪悪感が込み上げてきた。泥棒したものを食べる。生きるためには避けられないというのはわかるのだが、マックスは苦々しい思いだった。そしてさもなくば人肉。それをこの人たちは当たり前のごとく実践している……。
「ほら、どんどん食え。腹が減っては戦ができぬぞ。」
仲間の一人に促されて、仕方なくマックスはごはんを口に運ぶ。
かぴかぴだ。こんなのでよく食べられたものだ。マックスは生まれてこのかた、やわらかなライスしか味わったことがない。だが、出してくれた人たちにそれは悪いので、頑張って完食した。鉛の味だった。
野菜も食べた。切り方が下手なのか、見栄えもよくないし、汚れをよく落としてないのか、砂が時々口に入る。土の味とはこのようなものか。
生まれて初めてのまずい食事というものを味わい、マックスは生来いかに楽をしてきたかをしみじみと実感した。そして、これらの食事を平然とおいしそうに平らげてしまう人々をある意味でうらやましくも思った。これをおいしいなどと言えば、どんな料理も食べられてしまうだろう。
「はい、あーん。」
「あっちゃん、ありがと。お返しにあーん。」
ゲイのカップルが仲睦まじく食べさせ合いをしている。
食事のあとは皆で円陣を組み、儀式を行う。
「ひとつ!くじけないこと!ひとつ!弱音を吐かないこと!ひとつ!感謝をすること!」
ボスに続いて皆が復唱する。なぜかその場に加わってしまったマックスも小さな声でそれを辿るように口にしていた。
すると、仲間が盃を持ってきて皆に配り、酒を注いでいく。
「さあ、皆、いくぞ!」
掛け声とともに歌が始まった。
きらめく夜空 仰ぎ見て
炎舞い立つ 我が広場
勝利の盃 もろともに
エストベルクに 栄光あれ
歌い終わると一同火の前に立ち、
「エイエイオー、エイエイオー。」
勝どきをあげた。そのすさまじさたるや、まるで空をつんざくようであった。
そのあとは皆で酒を酌み交わしながら、歓談の時間となった。この酒も闇市で手に入れたというが、それにしては味がいい。
「この酒はね、特別いい葡萄を使ってるんだって主人が言ってたさ、ここだけの話、密造酒らしいぞ。」
「なんだい、おれ、この酒こしらえた人んとこ行ってみてえんだが。」
「行ったきり戻ってこないなんて卑怯なことは許さんぞ、お前ひとり仕事にありつくなんてないからな。」
それを聞いてマックスは疑問が湧いてきた。
「今までにここを抜け出した人っているんですか。」
「そりゃ、数え切れねえさ。だがよ、去る者追わず、来るもの拒まずだからまたじきに新しいメンバーが入ってくるのさ。まさかお前さんも脱走したいなんて思ってるんかい?」
「いえ、きいてきただけです。」
質問して、マックスは寄宿舎時代、自分が数え切れないほど脱走していたことを思い出して内心恥ずかしかった。
「まあ、ここはいいぞ。何もかもが自由だからな。大したものはありゃあしないが、ここにいれば誰も邪魔してくることはない。まあ、その代わり、誰も助けには来ないがな。」
ボスがさらっと言った言葉がまたもマックスには引っかかっていた。
「誰も助けには来ないってどういうことですか。」
「要するに、おれたちが病気になったって、けがをしたって病院には行かれないとか、おれたちが盗みにあっても警察に助けてもらえないってことさ。」
「万が一そんなことがあったらどうするんですか。」
「そん時はおれたちで助け合うのさ。幸い、ここには医者をやっていた者もいる。盗みは……おれたちだってやってることだ。」
マックスは自分にまるでコペルニクス的転回が起きているのかというくらいに価値観を大きく揺るがされていた。現に自分も山賊に金を盗まれて一文無しになってしまったのである。そして、身一つとなった今、自分はこの行き場を失った人々の広場に身を寄せるしかなくなっていた。
顔色も肌色も決していいとは言えず、明日何があるかもわからないこの状況でも、人々はむしろ明るく、結束して乗り越えようという気概でいるのが見て取れる。この人たちはどこに行っても生きられるのだろう。
マックスはそうした姿を目にして虚無感に襲われた。自分には、彼らの持ち合わせているものがない。金をすられてしまった今となっては、彼らに勝るものなど何一つないのだ。それと同時に、自分という存在がいかに無力であったかを思い知らされた。
とるべき道はひとつ。自分を認めてもらうべく、芸で身を立てるほかない。
「マックス、身体洗え。」
このスラム街には、共同の浴場があった。狭いため、交代制での使用となったが、ここで住人たちは今日一日分の身体の垢を落とすのだ。マックスも湯で思い切り汚れを落とした。すると横で身体を洗っていたボスが、
「マックス。水がもったいないから、そんなにじゃぶじゃぶ使うな。」
と言う。これまで水道など文字通り湯水として使って来たマックスはまたしても日頃の自分の情けなさを思い知らされた。何もできないくせに資源だけは無尽蔵に苦もなく消費していたのである。
その晩は、ボスの小さな家に泊めてもらった。
「狭くて何もねえけどよ、これ使え。」
ボスはわざわざ自分が雑魚寝になってまでマックスに布団を譲ってくれた。
「いいんですか?身体に悪いからボスがここで寝ればいいのに……。」
「マックス、おれはこの道50年、コンクリやアスファルトに横になって寝たこともあるくらいだ。お前は今日ははるばる遠くからやって来たのだから、それで布団で寝られないほうが身体に悪いだろ。」
そう押し切られて、結局マックスはボスの大きいベッドで寝ることにした。
「ボス、明日旅に出ます。」
布団の中でマックスはボスに決意を伝えた。
「なんでだい。」
「自分ひとりでは何もできないことが分かったんです。だから、ひとりで何とかできるようになりたいって思ったんです。」
ボスはしばし考え込んでいるらしく無言だ。やがて、おもむろに口を開いて、
「いやになったらいつでも帰ってこいよ。」
とだけ言った。その声がマックスの耳に届く頃にはマックスはすっかり眠りの中へ落ちていたのだ。
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