河童商店街
これは私が体験した、奇妙な物語である。
息子がまだ小さい頃、私は息子と地域の商店街に買い物に行ったのだ。
名は「おいせ通り」。野菜や果物が安く買える八百屋や、昔ながらの電気屋があり、私達も日頃から重宝している商店街だ。
その日は息子を幼稚園に迎えに行った帰り、冷蔵庫に野菜がもうほとんどない事に気付き、向かった事を覚えている。
私達が到着した頃には、日はすでに傾き、街灯がついているとはいえ、少し薄暗く、通りは不気味な雰囲気を感じさせていた。
しかし、ここで買わないと食べるものを作れないのも、また事実。
私は不気味に感じながらも、息子と手を繋いで、八百屋に入っていくのだった。
店の中は夕方ということもあってか、以前来た時ほど人は居らず、店員もレジに一人だけという状況だ。
静かな店内に隙間風のヒューヒューという音だけが響いていた。
……なんだか嫌な予感めいたものを感じる。
「早く買って帰ろう…」
そんなことばかりを考えていたからだろうか。
私は息子から目を離してしまったのだ。
「…ケンジ?」
息子の名を呼ぶ。反応はない。店の中を見渡すが、息子の姿はない。
どこに行ってしまったのだろうか?まさか道路に飛び出してしまったのではないか?
私は買い物カゴをその場に投げ捨て、店の外、商店街の歩道へ飛び出したのだった。
「ケンジは?!ケンジはどこ?!」
不安で息があがっていくのを感じる。
眼前の車道には少ないながらも、車通りがあるのだ。
考えたくはない「最悪の事態」をどうしても、そればかり考えてしまう。
「一体、どこに行ったの?!」
だが、心配をよそに息子は直ぐに見つかった。
道路を挟んで向かい側、変な像の前に息子は立っていた。
私は走って近くにある青信号の横断歩道を渡り、息子のもとへ駆け寄った。
息子は銅像の前で前に買ってやった指人形で遊んでいるようだ。
「ケンジ!なんで勝手にどっか行っちゃったの?!お母さん心配したのよ?!」
「でも…」
「でも、じゃない!ダメでしょ?一人でどっかに行くと危ないのよ?!」
「はい、ごめんなさい。」
息子は反省しているのか、悲しいのか、どちらか分からないような顔をして、謝った。
私もそれを見て、安心して胸を撫で下ろす。
「…分かってくれたならいいのよ。さあ、お野菜を買って買えるわよ。」
「うん!」
息子と手を繋ぎ、歩いて行く。
先程、走って渡った信号が赤になっていて、そこで私たちは立ち止まった。
私は少し気になって、息子が見ていた像をチラリと見てみる。
その銅像はあぐらをかいている人間のようだった。しかし、口がアヒルやカモなどのようにとんがっていて、頭には皿がのっている。
カッパだ。私はそう思った。
その時は、変な銅像があるんだな程度に考えていた。
信号は直ぐに青に変わった。
息子は幼稚園で教わったのか、手を高くあげて渡って行く。私も息子の真似をして、繋いでない方の手をあげて渡った。
信号を渡り切った時だ。
息子が急に「バイバイ」と像の方に向かって手を振った。だが、そこには何もいない。
「ん?ケンジどうしたの?」
「バイバイしてる。」
「でも、誰もいないよ?」
「いるよ?緑の人。」
「…え?」
もう一度、私は像の方を見る。しかし、やはり誰もいない。変な像が座っているだけだ。
「…ケンジ、もう夜になっちゃうから、早く買い物しよ?」
「うん!」
私は少し急ぎ目に、八百屋の中に入るのだった。
「大丈夫だ。何もいやしない。多分ケンジもあの像に向かって手を振っただけだ。」
そう自分に思いこませながら、投げ捨てたカゴを拾って、買うと決めていた野菜を詰めていくのだ。
にんじん、じゃがいも、玉ねぎ。
1週間はもつだろう量の野菜が入ったカゴをレジに持っていく。
レジに立っていた店員は大学生ぐらいに見える若い男だった。
「合計で2100円です。」
直ぐに精算は終わった。
私はカゴを受け取り、買ったレジ袋に息子と共にじゃんじゃん詰めていく。
詰めている途中、外は完全に日が落ちて、街灯の明かりだけが光っていることに気づく。
道路の向かい側には先程の銅像が見えた。
街灯の光に照らされて、影が長く伸びている。
像の鋭い目と目が合う。
銅像もこちらを見ているのだ。私はそんなような気がしてならなかった。
「あ、あの銅像って…」
私は少し怖くなって、店員に話しかける。
「あの銅像って、なんなんですかね…?」
「え?あー、あの銅像ですか?河童の銅像らしいですけどねぇ。」
「へぇ、やっぱり河童なんですね。」
「でも、河童ねぇ?あんな守神みたいなの、俺は反対ですけどねぇ。」
店員は少し嫌そうな顔をして、そう言った。
「…というと?」
「だって、河童って別にいい妖怪じゃなくないですか?尻子玉をとって魂を抜く!みたいなのお客さんも知ってるでしょ?なんだったら、子供を攫って食っちまうみたいのもあるしねぇ。」
「子供を?」
「だいたい、河童って見た目怖いんですよ。こっから帰る時とか、あの像の前通るんですけど、なんか見られてる気がしてなんないんですよね。」
「……」
「まあ、でも俺はバイトなんで、あの河童像の事、よく知らないんですけどね。」
「ははは…そうなんですね…」
「じゃあ、まだ俺、仕事あるんで失礼します。」
そういうと男は、店の奥に入っていった。
河童像はずっとこちらを見ている。
「ねえ、お母さん。帰ろ?」
私が像の方を見ていると、息子にそう言われた。すでに野菜は詰め終わっている。
「あ、ありがとうケンジ!それじゃあ帰ろうか。」
右手に野菜で膨れたレジ袋をもち、左手は息子と手を繋いた。
そして、店の明かりから夜の闇に歩き出した。
外はすっかり暗く、頬を撫でる風は冷たい。
家と家の間や消灯した店の中は、黒で塗りつぶしたように何も見えず、何かがいるのではと思わずにはいられなかった。
「どうしたの?お母さん?」
そんな私を心配に思ってか、息子が尋ねてきた。
「大丈夫?」
「…うん!ちょっと気になっただけよ。」
息子は不思議そうな顔をした後、直ぐにまた前を向いて歩き出した。
まだ小さい息子に心配されるとは、私は情けない。
多少不思議なことがあったからって、こんな事でどうする。
そんな事を自分に問いかけながら、勇気を入れた時だった。
街灯の灯りしかない、暗い暗い一本道。
人の声がない、静かな一本道。
急に後ろから『ピチャ。ピチャリ。』と音が聞こえたのだ。
そして、それは一定の間隔で絶え間なく聞こえてくる。
何かが背後にいる。間違いない。
「怖い。やめてくれ。いや大丈夫だ。何もいない。ただの幻聴だ。でも、何かいたら…」
数秒の葛藤の後、私は覚悟を決めて振り返る。
しかし、何もいない。
視界に映るのは、闇に包まれた商店街だけだ。
でも、私は安心することができなかった。
そこには確かに何もいないのだ。何もいないはずなのだ。
なのに、『ピチャリ。ピチャリ。』と音が聞こえる。先程よりもより近くから。
息子もそれに気づいたのか、後ろを向いていた。
「ねえ、お母さん。」
「…何。」
何も言わないでくれ。そう思った。
でも、そうはならなかった。
「ねえ、お母さん。緑の人が来てるよ。こっちに歩いて来る。」
私は再び、背後を見渡す。
やはり何もいない。
だけど、息子はずっと一点を見つめているのだ。
『ピチャリ。ピチャリ。』
音はどんどん迫ってくる。
近づくにつれて、どんどん鮮明に聞こえてくる。
『ピチャリ。ピチャリ。』
恐怖で身がすくみ、嫌な汗が背筋を走る。
私が何度、目を擦っても、目を凝らしてみてもいない「何か」が息子だけに見えていた。
その時、私はバイトの店員が言っていた事を思い出した。
《河童は子供を攫って食べる》
次の瞬間、私は息子の手を引っ張って駆け出していた。ただひたすらに音がしないところまで一直線に走った。
息はキレギレだし、仕事用の靴で走ったから足がズキズキと痛い。それでも、音が聞こえなくなった。私は安心して胸を撫で下ろしたのだ。
「ねぇ、ケンジ。」
「何?」
「次、緑色の人にあっても、ついていったらダメよ?」
「うん。分かった。」
「危ないかもしれないからね?」
「うん。」
「近づいてもダメよ?」
「うん。」
「よし!分かったならOK!」
「うん……。」
息子は最期、変な反応をした。まるで話を聞いていないような上の空の返事だった。
「……ケンジ?どうしたの?」
「ねえ、お母さん。」
「……何?ケンジ?」
ダメだ。聞いてはいけなかった。
「緑の人が来た時はどうするの?」
息子は私の後ろに向かって指を指しながらそう言った。
私は直ぐに振り返り、息子が指を指した方向を見る。
やはり、私には見えない。後ろにはいつもと変わらぬ道と街灯しか見えない。
いや、違う。街灯の下に雨も降っていないのに、先程は何もなかった道に、マンホールくらいの大きさの水たまりができている。
『ピチャリ、ピチャリ。』
またあの音だ。濡れた何かが近づいてくる音だ。
水たまりがゆっくりと私達の方に伸びてくる。
『ピチャリ、ピチャリ。』
乾いた道路に水かきのついた足跡がつく。
足跡は直ぐに、見えない何かから垂れた水で水たまりになり、わからなくなった。
水たまりはどんどん大きくなり、こちらに伸びてくる。
「逃げよう。」
そう思ったが、さっきの走りで既に膝が笑っていることに気づいた。
これでは、うまく走れそうにない。
水たまりはもうすぐそばまで来ている。
『ピチャリ、ピチャリ。』
「何か」の湿った息遣いが聞こえる。捨て置かれた魚のような生臭いにおいがする。もう、目の前だ。
「息子を逃さなければ」
恐ろしさでいっぱいの中、私はおよそ脊髄反射的にそう思った。
「ケンジ!逃げて!!!」
力の限り、恐怖で震えた声を張り上げる。
それが息子の目にどんな風に映ったのかは、定かではないが、何も言わずにただうなづいて走っていく。
私はそれをみて、急に力が抜けて、へたり込んでしまうのだった。
「もう、動けない。」
走る息子を見る私の背後で、足跡は止まった。
私は恐る恐るゆっくりと振り返る。
そこには、全身がぬめり気を帯びた苔のような体色の、鋭い目と嘴を持つ河童が立っていた。街灯に照らされて、頭の皿が鈍く光っている。
ギロリ。
河童は道路に座り込んでいる私を見下ろしている。
私は恐怖で声もでない。
「ア……」
河童の嘴が震えた。
そして、急にしゃがみ込み、私の手にヒタヒタと触れたのだった。
「ヒィ……!」
私の口からは悲鳴ですらない音が漏れる。
それでも河童はお構いなしで水かきがついた手で私の手を握ってきた。
手に薄い苔のぬめった感触が広がる。
「アァ……」
数秒、手を握られた後に河童は立ち上がった。
そして、背を向けて『ピチャピチャ』と音をたてながら、来た道へ戻っていく。
姿は少しづつぼんやりとしていき、直ぐに見えなくなった。
私はあまりの事に少しの間、道路の真ん中で呆然と座り込んでいるのだった。
「お母さーん!大丈夫ー?!」
私がハッとして声のした方を見ると、逃したはずの息子が立っていた。
「えっ!ケンジ!?どうしてここに!?」
「だって、お母さんがずっと来ないから…」
息子は泣き出しそうな顔をしてそう言った。
「でもケンジ。逃げなさいって言ったでしょ?」
「…ごめんなさい。」
「いや、謝らなくてもいいのよ。アンタが無事だったらそれでいいんだから。」
息子は安心したのか、ポロポロと涙をこぼした。
それを見て、私はハンカチを取り出そうとして、違和感に気づく。
河童に握られた手の中。ぬめぬめでよく分からなかったが、何か握っている。
「これは?」
「あ、それ落としちゃったやつ!」
「え?」
私の手の中にあったのは、息子が好きなキャラクターの指人形だった。
確かに以前買ってあげた覚えがある。
「お母さん!ありがとう!」
「……うん。そうだね。」
そうか、河童は別に危害を加えてこようとしたわけじゃなかったんだ。
その日はすっかり真っ暗になった道を野菜を持ちながら、息子と帰った。
後日、息子が見ていた像の前を通る機会があったので、見てみると像の下に何か書かれていることに気づいた。
ここで河童が祀られているのは、その昔、この道が川だった時に、溺れてしまった子供を助けた河童がいたという内容だった。
きっと、あの河童はとても親切なだけだったんだ。
そう思ったら、少し申し訳なく思った。
私はその足で、八百屋に向かいきゅうりを一本買ってきて、像の前に置いた。
「よし、ケンジの迎えに行くか!」
背後でピチャリと音がした気がした。
きっと気のせいだ。
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