【短編完結】隠恋慕

水無月彩椰@BWW書籍販売中

隠恋慕

「神様に魅入られちゃった忌み子の話、聞きたい?」


 ──少女は甘い薄笑いを浮かべて、そう告げた。港町を見下ろす神社の境内で、まだ蕾の開かない枝垂れ桜に降られながら、少し張り詰めた木漏れ日に、そっと目を細めている。


「小さい時ね、ここの神社で神隠しに遭ったんだって。家族総出で探したんだけど、見つからなくて。でも、夕方になったら、ひょっこり出てきたんだって。その子はね、桜の木の下で神様とお話したの。『気に入っちゃったから』って。……ぼたんのこと。えへ」


 それが、このへんぴな港町で巡り合わせた、僕と彼女の出会いだった。


 大学受験に本腰を入れる歳になった。僕はふと、海が見たくなって、隣町からやってきた。


 ぼたんはいつも、境内にいた。石段に座り込んで、桜の木を見ていた。短めの髪は、群青色。路地から見上げるたびに、今日もいるという妙な高揚感が、僕のなかに広がっていた。


「神様に好かれちゃったから、ぼたん、恋愛ができないんだ。嫉妬されて、連れてかれるの。でも、好きな人に告白して──すべて満足して終わる、そういう儚い恋も、憧れるよね」


 僕と彼女は、週に何回か会うようになった。会うたびに身の上話をしてくれた。自分が忌み子と呼ばれていること。交友関係に問題があって、学校にはあまり行っていないこと。親は自分を親戚に預けて、町を出ていったこと。その親戚にも放置されているから、いつも一人でふらふらしていること。そして──ずっと、ここで誰かを探し続けているということ。


「ぼたんは、なんで僕と会ってくれるの?」


「知らない人だから。それに、自分の運命を自分だけで背負い込むって、結構、面倒臭いんだよ。ぼたんのことをなんにも知らない人になら、話しても、いいかなって」


 そう言われたのは、彼女と出会ってから二度目になる、水曜日のことだった。



「あなたは、現世に執着ってある? ぼたんはないよ」


 堤防に座りながら、彼女はあの鳥居を見上げて言った。澄み渡る空にも似た瞳の色だった。


「だって、つまらないからね。なんにもない繰り返しの日々」


「だから……ずっと探してるんだ? 最後の恋愛ができる人を」


「うん。村のみんなは、忌み子だって気味悪がって、近寄ってくれないからね」


 春先の日差しはのどかだった。海から吹き付ける潮風が、わずかに肌寒い以外は、うららかだった。ぼたんは困ったように笑いながら、膨らみ始めた桜の蕾を眺めている。


「ぼたんは、神様に好かれてても、怖くないの?」


「まぁ……最初から、そういう縁、だったんじゃないのかな」


 困ったように目を細める。それが、同い年の少女にしては、あまりにも大人びていた。


「……あ」


「おっ──と」


 通りがかりに、同年代くらいの男子が自転車を止めた。堤防の上に座る僕とぼたんを交互に見て、怪訝そうな顔をしている。うちの学校……ではないのだろう。知らない顔だ。


「学校にも来ねぇで、いよいよ男と遊びだしたか」


「ん……。そんな言い方、この人に失礼だから、やめて」


「自称、恋愛できねぇくせに? 俺たちとは絡まねぇでそいつとは絡むんかよ」


「うるさい……関係ない。ぼたんのことは、ほっといて」


 相変わらずだな、とつまらなそうに言い捨てた少年は、そのまま僕に耳打ちする。


「ぼたんと一緒ってことは、どうせ他所から来たんだろ? なに期待してるか知らねぇけど、あまり首は突っ込まないほうがいいぞ。下手こいたら呪われるからな、お前」


「……呪われる?」


「こいつにちょっかい出したやつ、全員すぐ痛い目に遭ってんだ。ちょっとした事故には気をつけろよ。俺だってあん時は……あー、足首ひねって一週間だったからな」


「僕はぼたんと二週間くらい一緒だけど、何もないよ。嫌がられるようなことしたからじゃないの? 人を煙たがってちょっかい出す人間なんか、そりゃ痛い目も見るでしょ」


「ちっ……んだよ、調子乗りやがって。忠告はしたからな。もう知らねぇぞ」

 民家の並木を掻き分けるように、少年は捨て台詞を残して、自転車を走らせていった。


「……苦労してるみたいだね」


「ん……いいんだ。慣れてるから」


 手を振って否定する。それからしばらく、何かを考えるように黙り込んだ。


「えっと……ありがとう、ね」


 斜陽の淡い日差しが、少女のはにかんだ顔を照らしていく。瞳の青さはまるで、まだ桜すら咲いていないのに、一足先に夏を先取りしているみたいだった。それくらい綺麗な、群青。


 まだ見たことのない初々しさが、僕の心に深く、めり込んでいくような気がした。


「……お礼に、LINE、交換してあげようか?」



「……暇人だなぁ」


 窓際の席から見える隣町を眺めながら、僕はお弁当を一口、食べる。


 ぼたんの連絡はハイペースだった。授業中に平均四回。休み時間は秒で返信がくる。


『授業が終わったら直行するから、待ってて』


『了解。いつもの鳥居で待ってる』


 やがてそれがお決まりの会話になった。同時に、会うたびに写真を撮るようにもなった。曖昧な瞬間を確かなものにする時、彼女はいつも、あの屈託のない笑みをしていた。


「ぼたんね、最近すごく楽しいよ。写真を撮ることを覚えたから。どんな些細なことでも、あなたに教えてみようっていう気になれるから、これもちょっと、暇潰しだね」


 前よりも、アルバムを眺める時間が増えた。最初よりも笑うようになったぼたんが、素直に可愛らしいなと思った。どこか非日常にいる少女の、いちばん少女らしい部分を見ている気分で──それを見たいという欲望と、会いに行くという義務が、綯い交ぜになっていた。


 ただ惹かれている。けれど、恋というには稚拙すぎる。きっと、そんなものなのだろう。


『授業が暇なら、ぼたんとぶらぶらしようよ』


 教室の窓から望む晴天の港町は、穏和すぎたから不安になった。いつまで僕は安穏としていられるのだろう。いつまで一方的な片想いを続けていられるのだろう。そうしてそれは、恋愛のできない、けれど恋愛をしたいぼたんにとって、良いことなのだろうか──。


『今日は港で待ってるね』


 釈然としないまま、淡い青を抱いた放課後の晴天に降られつつ、自転車を漕ぐ。

 数日前に見た、あの可愛らしいはにかみが、今も僕の胸臆にこびりついて離れない。潮風に身を委ねても、わざと深呼吸をしても、心が晴れる気配はなかった。 


「っ──!」


 石を踏んだのかハンドルが大きく動く。バランスを取り切れないままアスファルトに倒れ込んで、真っ青な空が広く見えた。咄嗟についた手は、ひねったのか、じんじんと痛い。


 ──ふと、あの少年の言葉を思い出した。


『こいつにちょっかい出したやつ、全員すぐ痛い目に遭ってるからな』


「……まさか」


 空回りするタイヤを横目に呟く。きっと、そうだ、偶然に違いない。

 それでもなぜか、彼女に会いに行くのは、はばかられた。



『枝垂れ桜が咲きかけだよ』とぼたんが言ったのは、翌日の放課後だった。潮風と春風のごっちゃになった夕暮れの堤防沿いを走りながら、僕は高台の神社を見上げる。咲きかけの桜に霞む鳥居の下で、ぼたんは一人、どこかを見ていた。初めて会った時も、そうだった。


「……来るの早いね。昨日は会えなかったから?」


「まぁね。ぼたんもどうせ、暇してると思った」


「えへへ、正解」


 石段の最上で風を受けながら、彼女は面白そうに笑う。


「本当はね、話したいことがあるんだ」


 少しだけ肌寒い春風が、淡く首元を撫でていく。蕾の開きかけた枝垂れ桜の下に立つと、ぼたんはその薄桃色に紛れるように、小さく笑った。喉で留めた息を、細く吐き出す。


「ぼたんね、もう──現世はだいぶ楽しめたなって。だから……そういうこと」


 凛とした声だった。一点の淀みも未練もない、伸びやかさすら感じる声だった。どこからか舞った桜の花びらが、そんな彼女の足元を彩っていく。茜が射して、柔らかに揺れた。


「ずっと探してた『誰か』も、見つけられたしね。あなたのおかげだよ」


「……まだちょっと、お別れするには早いんじゃないの?」


「そう、かもしれないね。けど、ぼたんがもう、我慢できなくなりそうだから」


 生ぬるい春風が、はにかむ少女の頬を撫でた。地面に伸びた雨垂れの枝が揺れる。


「ぼたんはね、ずっと探してたんだよ──一緒に楽しんで、好きになれて、恋愛ごっこができるような人。だから、あなたに会って、話すようになって、ぼたんのことなんて知らない人だから、気兼ねなく付き合えるって……内心、すごく舞い上がってたんだよ」


 なんとなく気付いていた。言えないことも察していた。

けれど、僕が彼女に会った時と今を比べれば、それが分からないわけではない。


「誰かと一緒にいるって、こんなに楽しいんだなってこと、思い出した。思い出を積み重ねるってことの大切さも、よく分かった。だから……ぼたんのお遊びに付き合ってくれて、ありがとうね。おかげで、あなたと一緒にいたってことの証明、きちんと写真に残せたから」


 でも、とぼたんは続ける。


「正直、いつか告白しなきゃって思ってた。ずっとこのまま、曖昧な関係でいられるはずがないんだよ。そう思うと、気持ちが抑えられなくなりそうで……だから、我慢してた。ぼたんのせいで、隠恋慕にしちゃいけないと思ったから。でも、もう──辛いから、言わせて」


「……じゃあ、せめて僕からも言わせてほしい。ぼたんと一緒にいて、僕が何も感じないまま一緒にいると思った? ずっと黙ってたけど──思ってることは、きっと同じだよ」


 衝動的に吐き出した言葉は、喉に硬かった。ずっと言いたかったはずなのに、もう少し違う結末で迎えられたらと、そんなことを考えている僕自身もいた。今更の話、なのに。


「最初から、一瞬だけの恋愛ってことは分かってた。でも、ぼたんに会って、一緒に話して、楽しんで──笑ってる姿を見てるのは、とても幸せだったよ。一生このまま、好きって言えないままの関係なんて、きっと無理だからさ。好きって言って別れるほうが、幸せだよね」


「うん。きっと、そう言ってくれる気がした。ぼたんも、夢が叶うんだって思うと嬉しいよ。嬉しいけど、いざ覚悟を決めると……少し、怖かった。昨日ね、あなたが来る前に、ふと思ったんだ。このまま何かの拍子で来なくなって、関係が自然消滅しないかなって。そうすれば、二人のなかだけの恋愛になって、お互いにどこかで生きてるって、そう思えるから」


 眦に揺れる少女の雫が、傾きかけた斜陽に照らされていた。それを桜の花びらが拭って、潮風に吹かれて、そっと地面に舞い落ちていく。伏し目がちな笑みをしていた。


「でも……それじゃ、あなたに悪いからさ。ぼたん、きちんと決めたよ、覚悟」 


 彼女は小さく頷くと、そのまま静かに手を伸ばす。僕はそっと取り返す。二人を隔てる枝垂れ桜が雨のように降り注いで、それは、いつの間にか、天鵞絨のカーテンにも似ていた。


「──僕は、ぼたんのことが好きだよ。笑ってる顔が、とても──年頃の少女らしくてさ」


  一歩、彼女のほうに歩み寄る。斜陽の眩しさが、視界の端で煌めいた。頬に差した紅潮の色も、握った手の温かさも、滲みるような潮風も、すべて愛おしいような、そんな気がした。


「私も──あなたのことが、好き。何が好きかっていうのは、よく分からないけど……でも、楽しいし、嬉しかった。記憶を積み重ねられたことが、ぼたんにとっての幸せだから」


 なぜか胸が締め付けられるような気がした。その屈託のない、とびきりの笑みを、ずっと見ていたかったから。斜陽の茜に、桜の薄桃、群青色の髪と瞳は、そこによく映えている。


 やがて差す空の藍が、夕刻と宵の空白を、水平線上に描いていった。


「……そろそろ暗くなってくるから、帰らないとね。危ないよ、ぼたんもあなたも」


「うん、そうするよ。目の前で神隠しに遭うのは、見たくないから」


 最後の言葉は決めていた。きっとこれでいいと思いながら、小さく深呼吸する。


「じゃあ、ぼたん──またね、バイバイ」


「うん、バイバイ。気を付けて帰ってね」


 握ったままの手を、撫でるように離した刹那、夕凪に融ける微かな吐息が聞こえた。


 散る花びらの温かい感触と、残り香。


 振り返らない。


 降りていく石段の途中で見た端白星は、さながら、少女の儚さにも、よく似ていた。


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