【短編完結】隠恋慕
水無月彩椰@BWW書籍販売中
隠恋慕
「神様に魅入られちゃった忌み子の話、聞きたい?」
──少女は甘い薄笑いを浮かべて、そう告げた。港町を見下ろす神社の境内で、まだ蕾の開かない枝垂れ桜に降られながら、少し張り詰めた木漏れ日に、そっと目を細めている。
「小さい時ね、ここの神社で神隠しに遭ったんだって。家族総出で探したんだけど、見つからなくて。でも、夕方になったら、ひょっこり出てきたんだって。その子はね、桜の木の下で神様とお話したの。『気に入っちゃったから』って。……ぼたんのこと。えへ」
それが、このへんぴな港町で巡り合わせた、僕と彼女の出会いだった。
大学受験に本腰を入れる歳になった。僕はふと、海が見たくなって、隣町からやってきた。
ぼたんはいつも、境内にいた。石段に座り込んで、桜の木を見ていた。短めの髪は、群青色。路地から見上げるたびに、今日もいるという妙な高揚感が、僕のなかに広がっていた。
「神様に好かれちゃったから、ぼたん、恋愛ができないんだ。嫉妬されて、連れてかれるの。でも、好きな人に告白して──すべて満足して終わる、そういう儚い恋も、憧れるよね」
僕と彼女は、週に何回か会うようになった。会うたびに身の上話をしてくれた。自分が忌み子と呼ばれていること。交友関係に問題があって、学校にはあまり行っていないこと。親は自分を親戚に預けて、町を出ていったこと。その親戚にも放置されているから、いつも一人でふらふらしていること。そして──ずっと、ここで誰かを探し続けているということ。
「ぼたんは、なんで僕と会ってくれるの?」
「知らない人だから。それに、自分の運命を自分だけで背負い込むって、結構、面倒臭いんだよ。ぼたんのことをなんにも知らない人になら、話しても、いいかなって」
そう言われたのは、彼女と出会ってから二度目になる、水曜日のことだった。
◇
「あなたは、現世に執着ってある? ぼたんはないよ」
堤防に座りながら、彼女はあの鳥居を見上げて言った。澄み渡る空にも似た瞳の色だった。
「だって、つまらないからね。なんにもない繰り返しの日々」
「だから……ずっと探してるんだ? 最後の恋愛ができる人を」
「うん。村のみんなは、忌み子だって気味悪がって、近寄ってくれないからね」
春先の日差しはのどかだった。海から吹き付ける潮風が、わずかに肌寒い以外は、うららかだった。ぼたんは困ったように笑いながら、膨らみ始めた桜の蕾を眺めている。
「ぼたんは、神様に好かれてても、怖くないの?」
「まぁ……最初から、そういう縁、だったんじゃないのかな」
困ったように目を細める。それが、同い年の少女にしては、あまりにも大人びていた。
「……あ」
「おっ──と」
通りがかりに、同年代くらいの男子が自転車を止めた。堤防の上に座る僕とぼたんを交互に見て、怪訝そうな顔をしている。うちの学校……ではないのだろう。知らない顔だ。
「学校にも来ねぇで、いよいよ男と遊びだしたか」
「ん……。そんな言い方、この人に失礼だから、やめて」
「自称、恋愛できねぇくせに? 俺たちとは絡まねぇでそいつとは絡むんかよ」
「うるさい……関係ない。ぼたんのことは、ほっといて」
相変わらずだな、とつまらなそうに言い捨てた少年は、そのまま僕に耳打ちする。
「ぼたんと一緒ってことは、どうせ他所から来たんだろ? なに期待してるか知らねぇけど、あまり首は突っ込まないほうがいいぞ。下手こいたら呪われるからな、お前」
「……呪われる?」
「こいつにちょっかい出したやつ、全員すぐ痛い目に遭ってんだ。ちょっとした事故には気をつけろよ。俺だってあん時は……あー、足首ひねって一週間だったからな」
「僕はぼたんと二週間くらい一緒だけど、何もないよ。嫌がられるようなことしたからじゃないの? 人を煙たがってちょっかい出す人間なんか、そりゃ痛い目も見るでしょ」
「ちっ……んだよ、調子乗りやがって。忠告はしたからな。もう知らねぇぞ」
民家の並木を掻き分けるように、少年は捨て台詞を残して、自転車を走らせていった。
「……苦労してるみたいだね」
「ん……いいんだ。慣れてるから」
手を振って否定する。それからしばらく、何かを考えるように黙り込んだ。
「えっと……ありがとう、ね」
斜陽の淡い日差しが、少女のはにかんだ顔を照らしていく。瞳の青さはまるで、まだ桜すら咲いていないのに、一足先に夏を先取りしているみたいだった。それくらい綺麗な、群青。
まだ見たことのない初々しさが、僕の心に深く、めり込んでいくような気がした。
「……お礼に、LINE、交換してあげようか?」
◇
「……暇人だなぁ」
窓際の席から見える隣町を眺めながら、僕はお弁当を一口、食べる。
ぼたんの連絡はハイペースだった。授業中に平均四回。休み時間は秒で返信がくる。
『授業が終わったら直行するから、待ってて』
『了解。いつもの鳥居で待ってる』
やがてそれがお決まりの会話になった。同時に、会うたびに写真を撮るようにもなった。曖昧な瞬間を確かなものにする時、彼女はいつも、あの屈託のない笑みをしていた。
「ぼたんね、最近すごく楽しいよ。写真を撮ることを覚えたから。どんな些細なことでも、あなたに教えてみようっていう気になれるから、これもちょっと、暇潰しだね」
前よりも、アルバムを眺める時間が増えた。最初よりも笑うようになったぼたんが、素直に可愛らしいなと思った。どこか非日常にいる少女の、いちばん少女らしい部分を見ている気分で──それを見たいという欲望と、会いに行くという義務が、綯い交ぜになっていた。
ただ惹かれている。けれど、恋というには稚拙すぎる。きっと、そんなものなのだろう。
『授業が暇なら、ぼたんとぶらぶらしようよ』
教室の窓から望む晴天の港町は、穏和すぎたから不安になった。いつまで僕は安穏としていられるのだろう。いつまで一方的な片想いを続けていられるのだろう。そうしてそれは、恋愛のできない、けれど恋愛をしたいぼたんにとって、良いことなのだろうか──。
『今日は港で待ってるね』
釈然としないまま、淡い青を抱いた放課後の晴天に降られつつ、自転車を漕ぐ。
数日前に見た、あの可愛らしいはにかみが、今も僕の胸臆にこびりついて離れない。潮風に身を委ねても、わざと深呼吸をしても、心が晴れる気配はなかった。
「っ──!」
石を踏んだのかハンドルが大きく動く。バランスを取り切れないままアスファルトに倒れ込んで、真っ青な空が広く見えた。咄嗟についた手は、ひねったのか、じんじんと痛い。
──ふと、あの少年の言葉を思い出した。
『こいつにちょっかい出したやつ、全員すぐ痛い目に遭ってるからな』
「……まさか」
空回りするタイヤを横目に呟く。きっと、そうだ、偶然に違いない。
それでもなぜか、彼女に会いに行くのは、はばかられた。
◇
『枝垂れ桜が咲きかけだよ』とぼたんが言ったのは、翌日の放課後だった。潮風と春風のごっちゃになった夕暮れの堤防沿いを走りながら、僕は高台の神社を見上げる。咲きかけの桜に霞む鳥居の下で、ぼたんは一人、どこかを見ていた。初めて会った時も、そうだった。
「……来るの早いね。昨日は会えなかったから?」
「まぁね。ぼたんもどうせ、暇してると思った」
「えへへ、正解」
石段の最上で風を受けながら、彼女は面白そうに笑う。
「本当はね、話したいことがあるんだ」
少しだけ肌寒い春風が、淡く首元を撫でていく。蕾の開きかけた枝垂れ桜の下に立つと、ぼたんはその薄桃色に紛れるように、小さく笑った。喉で留めた息を、細く吐き出す。
「ぼたんね、もう──現世はだいぶ楽しめたなって。だから……そういうこと」
凛とした声だった。一点の淀みも未練もない、伸びやかさすら感じる声だった。どこからか舞った桜の花びらが、そんな彼女の足元を彩っていく。茜が射して、柔らかに揺れた。
「ずっと探してた『誰か』も、見つけられたしね。あなたのおかげだよ」
「……まだちょっと、お別れするには早いんじゃないの?」
「そう、かもしれないね。けど、ぼたんがもう、我慢できなくなりそうだから」
生ぬるい春風が、はにかむ少女の頬を撫でた。地面に伸びた雨垂れの枝が揺れる。
「ぼたんはね、ずっと探してたんだよ──一緒に楽しんで、好きになれて、恋愛ごっこができるような人。だから、あなたに会って、話すようになって、ぼたんのことなんて知らない人だから、気兼ねなく付き合えるって……内心、すごく舞い上がってたんだよ」
なんとなく気付いていた。言えないことも察していた。
けれど、僕が彼女に会った時と今を比べれば、それが分からないわけではない。
「誰かと一緒にいるって、こんなに楽しいんだなってこと、思い出した。思い出を積み重ねるってことの大切さも、よく分かった。だから……ぼたんのお遊びに付き合ってくれて、ありがとうね。おかげで、あなたと一緒にいたってことの証明、きちんと写真に残せたから」
でも、とぼたんは続ける。
「正直、いつか告白しなきゃって思ってた。ずっとこのまま、曖昧な関係でいられるはずがないんだよ。そう思うと、気持ちが抑えられなくなりそうで……だから、我慢してた。ぼたんのせいで、隠恋慕にしちゃいけないと思ったから。でも、もう──辛いから、言わせて」
「……じゃあ、せめて僕からも言わせてほしい。ぼたんと一緒にいて、僕が何も感じないまま一緒にいると思った? ずっと黙ってたけど──思ってることは、きっと同じだよ」
衝動的に吐き出した言葉は、喉に硬かった。ずっと言いたかったはずなのに、もう少し違う結末で迎えられたらと、そんなことを考えている僕自身もいた。今更の話、なのに。
「最初から、一瞬だけの恋愛ってことは分かってた。でも、ぼたんに会って、一緒に話して、楽しんで──笑ってる姿を見てるのは、とても幸せだったよ。一生このまま、好きって言えないままの関係なんて、きっと無理だからさ。好きって言って別れるほうが、幸せだよね」
「うん。きっと、そう言ってくれる気がした。ぼたんも、夢が叶うんだって思うと嬉しいよ。嬉しいけど、いざ覚悟を決めると……少し、怖かった。昨日ね、あなたが来る前に、ふと思ったんだ。このまま何かの拍子で来なくなって、関係が自然消滅しないかなって。そうすれば、二人のなかだけの恋愛になって、お互いにどこかで生きてるって、そう思えるから」
眦に揺れる少女の雫が、傾きかけた斜陽に照らされていた。それを桜の花びらが拭って、潮風に吹かれて、そっと地面に舞い落ちていく。伏し目がちな笑みをしていた。
「でも……それじゃ、あなたに悪いからさ。ぼたん、きちんと決めたよ、覚悟」
彼女は小さく頷くと、そのまま静かに手を伸ばす。僕はそっと取り返す。二人を隔てる枝垂れ桜が雨のように降り注いで、それは、いつの間にか、天鵞絨のカーテンにも似ていた。
「──僕は、ぼたんのことが好きだよ。笑ってる顔が、とても──年頃の少女らしくてさ」
一歩、彼女のほうに歩み寄る。斜陽の眩しさが、視界の端で煌めいた。頬に差した紅潮の色も、握った手の温かさも、滲みるような潮風も、すべて愛おしいような、そんな気がした。
「私も──あなたのことが、好き。何が好きかっていうのは、よく分からないけど……でも、楽しいし、嬉しかった。記憶を積み重ねられたことが、ぼたんにとっての幸せだから」
なぜか胸が締め付けられるような気がした。その屈託のない、とびきりの笑みを、ずっと見ていたかったから。斜陽の茜に、桜の薄桃、群青色の髪と瞳は、そこによく映えている。
やがて差す空の藍が、夕刻と宵の空白を、水平線上に描いていった。
「……そろそろ暗くなってくるから、帰らないとね。危ないよ、ぼたんもあなたも」
「うん、そうするよ。目の前で神隠しに遭うのは、見たくないから」
最後の言葉は決めていた。きっとこれでいいと思いながら、小さく深呼吸する。
「じゃあ、ぼたん──またね、バイバイ」
「うん、バイバイ。気を付けて帰ってね」
握ったままの手を、撫でるように離した刹那、夕凪に融ける微かな吐息が聞こえた。
散る花びらの温かい感触と、残り香。
振り返らない。
降りていく石段の途中で見た端白星は、さながら、少女の儚さにも、よく似ていた。
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