第12話 アドレッセンス 6
気がつけば列車のなかだった。
いったい、どこをどう進んで帰ったのか、覚えていない。
それほど無我夢中で逃げてきた。
遺跡のなかを走って帰ったのは間違いない。
もちろん神社の跡地を抜けたし、山道を駆け下りたはずだ。
だけど行きに比べ、まったく記憶に残っていなかった。
列車を何度か乗り換え、人いきれの中に入るとようやくほっとした。
バスを使って家から最寄りのバス停に降車し、徒歩で坂を上って家路につく。
すでに夜の午後九時を回っていた。
自宅には明かり一つ、点いていなかった。
母は不在で、父はまだ帰宅していないようだ。鍵はかかっていたが、屋内に足を踏み入れた途端、細かな違和感を感じた。
どこも変わりはないように見えて、何者かの形跡が残り香のように漂って感じられる。
誰かが侵入したのだと確信した。だとすると多分、あの遺跡を管轄する会社の仕業だろう。
ひょっとしたら母は連れ去られたのかも知れない。このぶんでは父も無事かどうか分からない。
自分の部屋は特に変わったところはなかった。どこも荒らされていないし、他人の入った感じはしない。
侵入者はユウがいないことをあらかじめ知っているかのようだった。
椅子をひいて腰掛け、普段は勉強をしている机に向かった。
両肘をついて、机の上で祈るように手を重ね合わせて、ただ時間が過ぎるのを待った。
何も考えたくなかった。
頭はこれ以上なく冴えているのに、思考を心が拒否した。黙って、ただ時間の流れを感じるままでいたかった。
ちく、ちく、と秒針がかすかな音を立てる。
それだけを聞いていれば、心は穏やかなままでいられた。
いつの間にか、時間は夜中の十一時になっていた。
残業で忙しい姉が、いつも家に帰ってくる時間だった。
母は戻ってきていない。父も帰らない。家のなかにはユウ一人だけだった。
風がびゅうと吹いて、窓ガラスを揺らした。
ガタガタっと揺さぶるような音にひどく驚いて、椅子を引き倒して立ち上がった。
落ち着いているつもりで、実は過敏になっているようだ。
それがきっかけとなり、ようやくユウの思考は戻ってきた。
いったい榊のおにいちゃんとCAの戦いはどうなったんだろう。
どちらが勝ったのだろう。
榊のおにいちゃんは言った。家で待っていろ、と。
だから自分は家で律儀に待っている。
榊のおにいちゃんが約束通り帰ってくるのを待っている。
しかし……。
帰ってくるのは、本当に榊のおにいちゃんだろうか。
勝つのはあの女のほうかも知れないのだ。
そうしたら、当たり前だが、あの女はこの家へ帰ってくる。
十一時半になった。
そろそろだ。そろそろ、誰かがここへやって来る。根拠はないが、そんな予感がした。
意識せず、息が乱れてきた。
心臓の鼓動も、不規則な感じがする。
秋の夜の涼しさが心地いいはずなのに、今の自分には暑いとも寒いとも感じない。
手は緊張で汗ばんでいる。それに気づいて、ユウは拳を握りしめた。
家の手前あたりに、何やら気配を感じた。
気のせいとは思えなかった。
きっと、どちらかが勝負のあとにやって来たのだ。
榊のおにいちゃんだと信じたかった。
しかし椅子から腰が上がらない。
家の前にいる誰かは、もうすぐ家に入ってくる。机に齧り付いて、そのときを待った。
強い不安のせいで、一旦握りしめた指に力が入らず、呼吸は意識しないと忘れてしまいそうだった。
玄関先で、がたがたんっと物が強く当たる音がした。
そのあと、しばらく待ってみたが誰も家に入ってこなかった。
耳をそばだてても、意識を集中させても、何も聞こえず、何も感じなかった。
ユウは意を決して、自らの目で確かめることにした。
階段を降りて、玄関先を見る。
玄関の引き戸に嵌められた磨りガラスに、人影がある。
ごくりとつばを飲み下した。
恐る恐る、鍵を開けて、引き戸をスライドさせると、倒れ込むようにして人の体が入ってきた。
「……おにいちゃんっ」
榊は、顔から生気が失われていた。
目は半分閉じて、今にも眠ってしまいそうに見えた。
唇は白く、息は浅く速かった。
「ユウ、約束通り帰ってきたぞ」
「うん、うん……」
力なくぐったりと寄りかかる榊を抱き止めると、手にざらっとした感触があった。
見れば、血の乾いたような黒いものが、全身にべったりと付着している。
かなりの重傷を負っているようだ。
それにしても、触れた感触は血とは違う。
傷口を探して、右腕に目が行くと、そこから炭のような黒い粉がさらさらと吹き出ていた。
「お、おにいちゃん、これっ」
「ああ……、言ってなかったな。俺は、もう人間とは違う構造になっている。心配するな、死にはしない。むしろ不死身だ。だけど、これは傷を受けすぎた。ユウ、俺はしばらく身を隠す。冬眠するようにしてエネルギーを蓄えないと、もとのように動けない。ひょっとしたら、もう動くことはないかもしれん。だから、お前にこれを渡しておく」
榊が懐から出したのは、二本の鍵と、一つのフラッシュメモリだった。
「お前なら、使い方は分かるはずだ。すまない、結局あの女を殺すことはできなかった。それなりにダメージを与えたと思う。たぶん、一晩は動けないだろう。けれど命術使いはそう簡単には死なない。情けない話だ、自分では強くなったつもりだったのに、また負けてしまった。やっぱり捕まえたときに殺しておけば良かったよ」
「そんな、だっておにいちゃんはぼくのことを気遣ってくれたから」
「もう、いい。勝負は非情なものだ。俺は人を殺せても、人の心を無視することはできなかった。それが今の結果につながった」
榊は取り出したものを、ユウの胸に押しつけた。ぐずぐずと不気味な音を立てて、榊の体は黒い消し炭のように崩れていく。
「ユウ、俺はお前のことを本当の弟のように思ってきた。お前のことが他人には思えなかった。同じように身近な人間を亡くしていたし、家族構成もよく似ていた。俺の姉貴はあんなじゃなかったけどな……」
榊はくくっと自嘲気味に笑った。
「名前だって似ていたのには驚いたよ。俺も昔はユウって呼ばれていた。正直言うとな、本当はお前も、ほかの家族も、みんなまとめて殺してやろうって思っていたんだ。あの女に俺と同じ気持ちを味合わせてやりたくてな。でもお前に会った瞬間に消し飛んじまった。雰囲気が昔の自分とそっくりに思えたんだ。いろいろ話をして、小さい頃のこととか、神隠しのこととか聞いて、世話を焼きたくなった」
秋の夜の、風が吹いた。
これから来たる冬の冷たさを孕んでいた。
風に乗って、榊の体がふわっとたなびいた。黒い闇色の炭が宙に舞った。
「俺はほんの数年前まで、家族を殺した奴に復讐することで頭がいっぱいだった。そのためにはほかの人間なんてどうなってもいいと考えていた。とんでもない間違いだと気づきもしないで……。中三の夏に、クラスメートを騙くらかしてあの遺跡に連れて行ったんだ。お前も見たあの樹に喰わせて、自分の命を強化するためにだ。馬鹿なことを考えていたと思う。俺はあの場所で、大切な友人を亡くしてしまった。そうなってはじめて、自分にとって掛け替えのない存在だったことに気が付いた。命は亡くなれば、二度と戻って来ない。当たり前のことだ。分かっていたつもりだった。だけど昔の俺はそんな当たり前のことを、結局ちっとも分かっていなかったんだ」
三年前の七月、榊勇治(さかき・ゆうじ)は自らの人生のなかで最も残酷な光景を目の当たりにすることになった。
それはかつて家族を殺されたときよりも、はるかに凄惨なものであった。
ユウ――勇治がリースのもとに駆けつけた瞬間、CAに真横から蹴り飛ばされた。
体が泉に半分浸かった状態で倒れ、そのまま動けなくなってしまった。
何故か、体中に強烈なしびれが走っている。
少しでも動こうとすれば、悶絶するようなしびれが全身を駆け巡った。ほんの指一本も動かせない。
これも命術とやらの一種だろうか。
リースを囮にしてまんまとおびき出され、してやられたわけだ。
向こうで倒れたまま動かない虎ちゃんも、同じ命術をかけられているのだろう。
なんとか目だけを動かして、CAを探した。
すると、自分の後ろ側で芙蓉も倒れているのに気が付いた。
馬鹿っ、なんで付いてきたんだ……。
彼女は命術をかけられているわけではなかった。倒れ、腹を押さえて呻いている。
どうやら腹を切られたようだ。
眼鏡の奥の目が、痛みをこらえて強く閉じられている。腹からは血とともに、はらわたが出かかっているのが見える。
「さあ、あんたたち、どうなるか覚悟はできてるでしょうね」
彼女の口元は残酷な笑みを浮かべていた。
まなじりはつり上がり、瞳は殺意で爛々と光っている。
侮蔑と、怒りと、悦楽が混ざった、世にも恐ろしい女の顔だった。
「ちょっと実験してみたいことがあったのよね」
そう思案げに言うと、彼女はリースの両腕を持って泉の中心にある樹へ向かった。
「この炉へは何度も人間を入れたものだけど、手足ばらばらってのはなかったわね。犬猫で試してみても良かったんだけど、ここって人間の命専門の加工工場みたいだし。さあて、人一人で、命の実が一つ生る、と。じゃあ、一部分だけだとどうなるのかしらん」
彼女の手により、二本の腕が樹へ投げ込まれた。
腕が青色の樹に触れると、ぐにぐにと周囲から覆われ始めた。
粘りけのある音を立てて、飲み込まれていく。
それをCAは満足そうに見つめていた。
しかし、そのまましばらく待っても、樹に何の反応も見られなかった。
CAはうんうんと頷きながらリースのところまで戻り、彼女の体を足で押さえつけて刀を天にかざした。
周囲を舞う燐光を受けて刃が光る。
「じゃ、今度は」
「やめてぇっ!」
芙蓉が叫んだ。
うるさそうにCAが見やる。
リースの体ごしに、芙蓉に向けて刀が振られた。
ぱき、と乾いた音とともに、眼鏡のフレームが割れて左右に分かれた。
瞬きをすることも忘れて、芙蓉は固まっていた。瞼が目一杯開かれ、瞳孔が縮小しており、恐怖一色に塗られているのが分かる。
つーっと赤い線が眉間を伝った。
同時に、リースの体が前にがくりとうなだれた。
鼻をつく臭いが、湯気とともに漂ってきた。
芙蓉は失禁しているようだ。芙蓉が切られたのは顔の皮一枚で、CAが本当に切ったのはリースのほうだった。
芙蓉が大きく息を吸い込んで、止めた。
開いたままの目から涙が垂れ始めた。ぎゃああっ、と彼女が上げる悲鳴が木霊した。
勇治は、リースの顔と対面していた。
全身がしびれて、指も動かせない状態で、彼女の顔を真横から眺めていた。
青い瞳は底知れぬ深い悲しみをたたえている。ゆるく波打つ金髪の上に、少しだけ血のしぶきがかかっている。
絶望に染まった顔はそのままに、彼女の頭は白い喉の切れ目で樹の根の上に乗っかっていた。
止血の命術がまだ効いているせいか、頭からも体からも血はわずかしか出ていない。
こんな、こんなことを、よくも……。
勇治に再び怒りが灯り始めた。
よくも、俺の目の前で、こんなことを……。
しかしどんなに怒りを燃やしても、体は言うことを聞かなかった。
勇治はリースの顔をただ見ているしかない。
リースの瞼が閉じようとしていた。
重力に負けるようにして、ゆっくりと降りてゆく。
青い瞳が瞼に隠れ、そしてついに見えなくなった。
「頭にしようか、体にしようか、う~ん、やっぱり体かしらね」
CAはリースの胴体を担ぎ上げて、樹の正面まで運び、そのなかへ放り込んだ。
瞬間、勇治は樹の根がびくりとさざめくのを感じた。久々に命を吸った喜びに打ち震えているかのようだった。
そのうち、壁に伸びる触手状の枝に動きが見られた。
枯れ木の如く何もなかった枝の途中がうずたかく盛り上がり、薄い紅に色づき、見る間に開いて花のような形になった。
植物とは思えないほど速いスピードで経過していく。
そのあとさらに花弁はねじれて束なり、色を失い、滴の形をかたどっていく。
滴は大きく膨らみ、枝をたわませる。
そこでようやく動きは止まった。
それは一見大きな白い繭を思わせる、うっすらと輝く楕円形の球体で――。
それが、命の実だった。
CAは無造作にそれをむしり取った。
勇治の目の前で、リースの命を吸って実った果実が口に入れられる。
赤い唇が吸い付いて、陶器のような白い歯が囓ると、黄金色の果汁が顎をしたたり落ちた。
喉まで果汁で濡らしながら、CAは艶然と笑った。
その笑顔を向けられて、勇治は正気を失いかけた。
怒りと、悲しみと、恐怖と、絶望が、頭の中でぐるぐると渦巻く。
視界もゆらめいて、思考はまとまらない。
「やっぱり、体細胞の多いことが実の生る決め手みたいね。じゃあ、次はあんたね」
そう言って、CAはうずくまる虎ちゃんのうなじをわしづかみにした。
傷の痛みか、しびれのためか、虎ちゃんは顔を強くしかめた。
「こいつみたいに小賢しいことする奴、あたし嫌いなのよ。見込みはあるとは思うけど、社員にはできないわ。腹も立ったし、もうここでさよならね」
喋りながら樹のほうへ虎ちゃんを引き摺っていく。
そして引導を渡すべく、CAが振りかぶった刀を、勇治はどうすることもできず見ているしかなかった。
CAの刀が、虎ちゃんの胸を貫き通した。
真っ赤な血が噴出する。血は体を伝って落ちていく。
刀で支えるようにして虎ちゃんの体を持ち上げると、CAとの身長差のせいでぶらさがる形になった。
力なく、彼の足がだらりと下がった。
その体勢でCAはミニスカートをたくし上げて、片足を彼の腹に当て、勢いよく蹴った。
胸から刀が抜かれ、虎ちゃんの背中が青色の樹に触れた。
ぶよぶよとした樹皮が蠢いて、彼の体に覆いかかる。
そのとき、突然虎ちゃんの手がにゅっと伸びてCAの持つ刀の柄を握った。
CAの手も一緒に握られている。
しびれはまだあるはずなのに、手を動かして、しっかりと握っていた。
「なっ、こいつっ!」
彼が樹に飲み込まれていくにつれ、CAも釣られて樹に接近していく。
彼女の顔がわずかに青ざめた。
このまま一緒に飲み込まれるかと思われたが、CAが慌てて手を振り払ったために残念ながらそうはならなかった。
刀は鍔まで樹にめり込んだまま残った。
勇治は虎ちゃんの最後の姿を見届けた。彼の体は樹の内部へさながらパイのように包み込まれて、見る間に消えていった。
「ちっ、最後の最後までうっとおしい。あー、刀が、もうっ。でもまあいっか」
再び樹が蠢いて、さっきとはまた違う枝に花を咲かせた。
そして綺麗な白色に輝く大ぶりの実をつけた。
CAは今度は芙蓉に目を付けた。
勇治は最後にするつもりのようだ。ほかの全員を殺すさまを見せつける気なのだろう。
傷を負った腹を抱え、苦痛と恐怖に顔を歪ませる芙蓉を、CAは両脇を抱えて後ろ向きにずるずる引き摺っていった。
「ほら、あんたは自分で立てるでしょ。しゃんと立つのよ。そうそう、ふふっ、そっちを向いてね」
異様な大樹の前で、芙蓉は立たされていた。
崖の先に立たされているのも同然の光景だった。
これからCAが何をするのか、分かりきっていた。
なのに芙蓉は抵抗する気力も失せているようだ。ただただ、相手の言いなりになっていた。
CAはわざと勇治のほうへ眼差しを向けた。
血のように赤い唇を、非対称に曲げて笑う。凄艶で、嗜虐的な笑みだった。
黒髪の先を左手で整え、静かに右手を振り上げていった。
やめろ……。
心の中で叫んでも、声にならない。
スーツの袖から伸びる白い手が、芙蓉の背中に照準を合わせた。
やめろ……、やめろぉっ……。
たおやかな指が、蜘蛛のように広がり、小さな少女の背を、――押した。
倒れ込むそのとき、芙蓉が振り返ってこちらを見た。
勇治と目が合った。
それは悲しいのとは違う、怯えているのとも違う、なにか心残りがあるような、そんな目に思えた。
……ああ、そうだ。そうだった。まだ、返事をしてなかったな。
だが、もう何もかもが遅かった。
すでに榊の体は大半が崩れ、ほぼ胸から上だけになっていた。残った腕に抱えていた刀をユウへ差しだした。
「これもお前にやる。俺は、もう行く。これからのことは、お前にまかせる。お前の好きなようにするといいさ」
「おにいちゃんっ、ぼく、ぼくは」
抱きしめた手には固い刀の鞘、胸元には黒い炭のかけら。
風がまた吹いた。
玄関のガラス戸ががたがたと鳴った。
頭を撫でて、風が抜ける。
髪が薙ぎ、冷たさを感じる。
見上げれば、空には月。煌々と照って、寒々しかった。
すでに榊の姿はどこにもなかった。
ユウはいつまでもいつまでも、刻を忘れ、家の前で座り込んでいた。
榊が消えた翌日、ユウは一人、外へ出掛けた。
受け取ったフラッシュメモリを自宅のPCに差し込むとほとんど何もデータは入っていなかった。
二つの鍵のうち、一つは明らかにどこかのコインロッカーのもので、もう一つはごく普通の鍵、おそらくは自宅の鍵だと思われた。
榊はいつもユウの家に来るばかりで、ユウ自身はこれまで彼の自宅を訪れたことはない。
それどころか、彼がどこに住んでいるかも知らなかった。ただ、一人暮らしをしていることだけは聞いていた。
榊のおにいちゃんの家へ行こう、そう思った。
鍵を渡されたということは、入ってもよいという意味だととらえた。何か役に立つ情報があるかも知れない。
さすがに刀をそのまま持ち歩くと警官なんかに見とがめられると思い、古着の袖を何着分か切り取ってホチキスで止め、長い布袋を即席で作った。
同じ鼠色で揃えたので遠目には一本の布袋に見えるはずだ。これに入れて歩けば、剣道の竹刀に見えなくもない。
コインロッカーは家の近くにはない。一番近いところでは、自転車で三十分ほどかかる最寄り駅の改札口の隣にある。
そこでなければ他に見当が付かない。
幸いにして、その最寄り駅のコインロッカーに、鍵に付いたタブと同じ番号のものがあった。
鍵を入れて、おそるおそる回してみると、錠が外れる音がした。
ロッカーの中には、榊の私物と思われる鞄やら何やらがぎゅうぎゅうに詰められていた。
鞄に入っていたのはごく普通の、学校指定の教科書やノート、それと着替えなどだった。
特にこれといったものはない。
榊の住所が分かるものが入っているかと期待していたが、住所はおろか個人情報と言えるものは一切なかった。
スマホなどの電子機器もない。
拍子抜けしてしまうが、このロッカーの鍵を渡されたからには何かがあるはずだと考えた。
鞄の内側や着替えのポケットなどを徹底して探してみた。鞄の一番下に、革の制靴がビニール袋に二足まとめられて入っている。
その靴の中にも直に手を入れて探ってみた。すると、つま先の入るところにわずかな膨らみがあるのが指先を通じて分かった。
靴の底敷きをめくってみると、ようやく手がかりを見つけることができた。
そこから学生証が出てきたのだ。
学生証に、榊の名前と住所、連絡先が書かれてあった。
不思議なことに、住所欄の下にもう一つ、小さな文字で別の住所が手書きされていた。
直感的にこちらのほうが本当の住まいだと悟った。
その住所は、ここから列車に乗って五つほど駅を越えたところにある。行ったことがない街ではない。
荷物を全てロッカーに戻し、学生証だけを携えてユウは榊の自宅へと向かった。
列車の席に座り、揺られながら、ユウは榊と出会った日から今日までのことを思い出していた。
そして、彼が何年も前に家族を亡くしたこと、さらに三年前に友人たちを亡くしたことに思いを馳せた。
その長い月日に生じた、彼の心の流れはユウには計り知れない。それは単純な怒りや悲しみ、憐れみだけではないはずだ。
きっと、一言では表現できないような複雑な感情が、幾たびも変遷していったのではないだろうか。
物思いに耽っていると時間はあっという間に過ぎ、列車は目的の駅へ到着した。
学生証の住所欄の最後の部分には、変に洒落た横文字のあとに数字が三つ並んでいる。
多分、どこかのマンションかアパートの部屋だろう。
その場所は、駅からさほど離れていなかった。着いてみればそこは二階建ての古い木造アパートだった。
細い鉄柱には錆がこびりついており、階段の手すりは湿気でふくらんで表がめくれあがっている。階段は一段のぼるごとに、きしきしと音を立てた。
部屋の前に行き、一応インターホンを押してみる。
案の上、何も反応はない。
残ったもう一つの鍵を取り出して、差し込んで回した。
がちゃりと音を立てて、ドアは開いた。
部屋の中に入って、ユウは少し面食らってしまった。
思いの外、ファンシーで可愛らしい内装だった。カーテンはピンクで、壁紙は花柄、ドアノブにはフリルのカバー。
ぬいぐるみもある。ちょっと似合わない気もする。
1Kの、狭い部屋だった。
台所や風呂場はきちんと掃除されていて、ぴかぴかに磨かれて電灯を反射している。
勉強机とベッドが、Lの字に壁際に設置されている。
机の上にはパソコンと写真立てが置いてある。写真には榊のおにいちゃんと、もう一人恋人と思わしき女性が写っている。
ユウはその写真立てを見て、なんとはなしに、机の上へ伏せた。
続いてデスクトップのパソコンの電源を入れてみた。
パソコンがうなってからしばらく待つと、パスワードを入れる画面が表示された。
もちろん知るはずがない。思いつくものを何回か試してみたがやはり駄目だった。
ヒントの項目をクリックすると『打っても無駄』とある。
パスワードなしでエンターを押したが駄目だった。
ふと思いついて、パスワード要求画面で例のフラッシュメモリを差してみると、それだけで勝手にパスワードが打ち込まれ、ようやくOSの基本画面が表示された。
ユウは真っ先にインターネットの検索項目を探した。
遺跡に関するサイトがお気に入りに登録されている。ほかにも探索仲間と思われる人物からのメールもあった。
ユーザーのファイルを開くと、榊がこれまでに探索を行ったであろう、あまたの遺跡の写真が膨大に記録されていた。
几帳面に分類され、一部にはテキストで文章も添えられている。
昨日行ったあの遺跡のデータを探すと、ファイル名からすぐに見つけることができた。
そのファイルを開くと、日付ごとにさらに細かい分類がされてあった。
ほかのものよりも多く足を運んでいるようだった。
今から三年前の日付のものを見つけたとき、ユウの心臓は大きく鼓動を打った。
マウスを持つ手が震える。
しかし、そこには一枚の写真があるだけだった。
まだあどけなさの残る、中学生の頃の榊勇治が写っている。
一緒に写っているのは友達だろうか。小柄な男の子と、眼鏡の女の子、もう一人は背の高い外国人の女の人だった。
みな、ぎこちない笑顔だった。
背景はあの遺跡の上にある神社のようだ。廃墟ではなく、まだきちんと建物が残っている。
背中にふっと、煙のように気配が立って、ユウは首を回して振り返った。
首を回すのに合わせて、視界が動いていく。
その視界の端に、一人の女が入ってきた。
首を追いかけるように体も回して、その女とまっすぐ向き合った。
そこには、あの遺跡のなかでCAと呼ばれていた女が立っていた。
「お姉ちゃん……」
女は頬にかかる髪を手で振り払い、にやりと笑った。
「やっと家を見つけたわ。あいつ、いつ会ってもぬかりなくって。自分の情報を記してあるものを一切身に付けてなかったから」
ユウは榊の私物が詰められていたコインロッカーを思い出した。
おそらく榊は姉に会いに来るときはいつも、あのようにして自分の形跡を隠していたのだろう。隠し方もコインロッカーだけではなく、何通りかあったに違いない。
「外資系の大きな、悪いこと平気でする会社なのに、家一つ見つけられなかったんだ」
弟が口にした皮肉に、不愉快そうな色が女の顔に走った。
が、それも一瞬のことで、またにやけた笑みを浮かべた表情に戻った。
「本宅のほうはとっくに見つけてたわよ、三年前に会ったあと、すぐにね。でも家捜ししてもなぁんにも見つからないし、たびたび留守にするから、絶対隠れ家があると踏んでたのよ」
榊はこっちを隠れ家として、遺跡研究の活動拠点にしていたのだろう。
「なのにさ、あいつのこと会社に報告したら、危険だから刺激するな、要観察にとどめろって言われて、十分に調べられなかったのよ。会社が協力してくれないんじゃあ、しょうがないじゃないの。一応あたしやほかの社員が尾行してみたけど、いつも途中でまかれて、結局分からないままだったわ」
姉はベッドの上に腰を下ろして、両手を組んで頭の上に伸ばし、胸を反りかえらせた。
気持ちよさそうに伸びをすると、後ろ手にベッドへもたれて長い足を組んだ。
「それで、僕のあと、ついてきてたんだ」
「ええ、そうよ。案内、ご苦労さま」
「傷は」
「ん?」
「おにいちゃんにやられた傷はどうなったの」
胸元に手を当てて、姉は忌々しげに顔を歪ませた。
赤い唇が曲がり、白い歯がぬめりと光った。
「治すのに一晩かかったわ。まったく。あやうく死ぬところだった。仮にも彼女だって言うのに、ひどいとは思わない? ねえ、優?」
「本当に仮初めの付き合いだったんでしょ」
「ふん、まあね」
手元にある枕に目を向けると、姉は怪訝な表情を浮かべてつぶやいた。
「あら? これって」
持ち上げられた指先は、何かをつまむように輪を形作っている。
優が目を凝らすと、長い髪の毛が一本、すうっと垂れていた。
少し、茶色がかった、長い髪だった。榊は長髪だったが、染めてはいない。
姉はそれを鼻先にかかげて、匂いを確かめるようにして何度も往復した。
「はあ~あ。やっぱりあいつ、浮気してたのね」
足元のごみ箱にそれを落とし、ベッドのシーツで手を拭う仕草をしてみせた。
そして、跳ねるように立ち上がり、今度は尻をぱんぱんと払った。
「で、それは何」
姉は優の傍らに寄り添って、肩ごしに机の上のパソコンを覗き見た。その目が、ぐっと細くなって、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「ああ、そうそう。この子たちだったわね、一緒にいたの」
「この人たち、お姉ちゃんが殺したの」
「ん、うん。そうそう」
「……なんで」
「え、なんでって」
「だから、なんで?」
自然と声が尖った。
それを聞いて姉は過剰な反応を示した。笑いを止めて目つきが急に険しくなる。
昔っからそうだった。この姉は少しでも反抗する素振りを見せると、すぐに機嫌が悪くなる。そして暴力を振るう。
「なんだっていいじゃない。そんなことはどうでもいいの」
姉は今にも襲いかかってきそうな雰囲気を纏っている。
「それより、そこのパソコンのデータが気になるわ。あいつの調べた成果があるんでしょ? あんたは知ってるかどうか分かんないけど、あいつ結構すごいやつだったのよ。海外の遺跡にまで足を伸ばしてたらしいの。あたしたちの会社が知らない情報を持っているかも知れない。そのデータ、あたしが貰うからね。とりあえず、そこ、どいてちょうだい。邪魔だから」
優は姉より先に手を出した。
袋に入ったままの刀の鞘で、姉の胸を突いて押し戻した。
思わぬ反抗だったようだ。姉は後ろに下がって、驚いた様子を見せた。
「あんた、何やってるの。どういうつもり?」
「お姉ちゃん……。お姉ちゃんは、最低だ」
急ごしらえの布袋を外し、優は刀を取り出した。柄を右に、鞘を左に、真横に構える。
「ああ、それも貰うから」
優は相手から目線を外さないよう気を付けながら、首を小さく横に振った。
無言で、鞘から刃を抜き出す。
姉の顔色が変わった。空気がいっぺんに張り詰めていく。
耳鳴りがし始める。姉のほうから冷気が流れてくるような感触がする。
「それを、私の前で、抜いたってことは、どういうことか分かってるわよね」
「お姉ちゃんには何も渡さない。手を出したら、僕だって」
「生意気言うんじゃないわよっ!」
すさまじい声で怒鳴りつけられた。
怒りのためか、見る見る顔が紅潮していく。
それを見て幼少時からのトラウマが蘇り、優は今更ながら恐くなった。
「あんたなんかが、かなうとでも思ってるわけ? 文字通り、瞬き一つ、瞬殺よ。無傷でとっ捕まえることだって簡単だわ。でもその態度に腹が立つ。腕くらいへし折ってやらないと気が済まないわ。覚悟しなさいっ!」
まさに二人が交差しようとしたそのとき、戸口のほうからかたん、と物音が聞こえた。
まさか、部屋の住人が、榊のおにいちゃんが帰ってきたのだろうか。
姉も優も一旦動きを止めて、音がしたほうを注視した。
軽い足音のあと、リビングのドアを開けて一人の人物が姿を現した。
「あなたたち、人の部屋でなにやってるの」
入ってきたのは、若い女性だった。
優は一目で彼女が写真立てに写っていた女性だと分かった。
背が自分と変わらないくらい小柄なのに、反対に容貌は大人びている。シャープな眼鏡をかけており、その奥には強い生命力を感じさせる瞳がある。
「あなたたち、いったい誰なの?」
姉と、優を、交互に眺めて、思い当たったかのように目を見開いた。
「ああ、そこの女の人。……そう、やっぱり、そういうことなのね。昨日のメールは、こういうことだったの」
「なに一人で納得してるのよ。私、今、気が立ってるの。あんた、前に殺し損ねた女の子ね。ふんっ、こんな奴が浮気相手とはねえ。折角だからあんたとはあとで少し話がしたいわ。でもちょっと待ってくれない? 聞き分けの悪いガキをしつけるところだから」
「その子に、何する気なの」
「見てりゃ分かるわ」
姉はぐるりと優のほうへ向き直った。
再び、二人は対峙する。
「さ、痛ぁ~いことしてやるから、歯を食いしばりなさい」
「お姉ちゃんっ!」
刀の切っ先を向けるも、どうにも定まらない。恐いのだ。
「そんなへっぴり腰で、どうしようっていうの? 馬っ鹿じゃないの」
だめだ、手が、動かない、足も。
情けないにもほどがある。さっき啖呵を切ったばかりだっていうのに。
顔の前に、姉の手が迫ってきた。
「ぎぃっ」
突然、姉が手を優に向けて伸ばした状態で、奇妙な悲鳴を上げた。
電気に打たれたように、びくりと体が反る。
真後ろに、眼鏡の女性が立っていた。人差し指を姉の背に押し付けている。
よたよたとよろめいて、姉はベランダに面するガラス戸に寄りかかった。
「あ、あんたっ。それ、まさか」
「あなたが命術って呼んでいたものよ。独学だけど、それなりに効果あるでしょ」
眼鏡の女性は、優に勇気づけるように話しかけた。
「きみが本気でお姉さんに立ち向かおうと考えているなら、あたし協力するわ。きみ、勇治がいつも話していた子ね。CAの弟だと聞いてびっくりしたけど、こうして会えばなんとなく分かるわ。彼がどうしてきみのことを気にかけていたのか。そっくりだもの。昔の彼に」
姉が身を起こして、体勢を立て直した。
「『外』で会ったから見逃してやるつもりだったけど、刃向かうっていうんなら話は別よ。命術が使えるのも無視できないしね。社に問い合わせなくても処分決定よ。幸い、ここにはほかの人間の目はないわ」
「弟くん、分かってると思うけど、この女は殺すしかないわよ。いいわね」
「はあぁ? 殺すだって? 舐めるのも大概にしなさいよ! おともだちみたいに膾切りにしてやるからっ」
姉は眼鏡の女性に向かって跳んだ。
すかさず優は二人の間に刀を突き入れる。
すんでのところで姉は足を止め、手で刀の峰を払い落とした。
その隙に女性が手を出そうとしたが、姉のほうが遙かに俊敏だった。
女性は横っ面を張り飛ばされ、床に倒れた。
優が構え直す暇もなく、鋭い前蹴りが飛んできた。
腹にめり込んだ足から、何か得体の知れないエネルギーが流れ込んでくる。
途端に優は全身に痺れを感じ、同時に強烈な目眩と吐き気を催した。
それが蹴られたせいではないことはすぐに分かった。姉の命術に違いなかった。
姉は自分に命術の耐性があるのを知って、今度は一度に何種類も重ねたのだ。
目眩で視界がぐにゃぐにゃに捻れるなかで、姉が眼鏡の女性に近寄るのを見た。
女性のほうは何を受けたのだろうか、顔面が蒼白になり、胸を手で押さえている。
額に汗が浮き、荒い呼吸をしている。
優は奥歯を噛み締めて、自分を襲う症状と戦った。
このままでは、おにいちゃんに聞いたような悲惨な光景を、今度は自分が見ることになる。
あの女性は、榊のおにいちゃんにとって大切な人のはずだ。
自分に協力した結果殺されてしまっては、彼に会わせる顔がない。それに弟として姉がこれ以上、人の道に外れることを見過ごすことはできない。
自分の命が本当に強化されているのなら、勝算はゼロではないはずだ。
命のエネルギーの源はどこにあるのだろうかと、感覚の手を使い探してみた。
急がなければいけない。だが必死で探すも、何も手がかりがない。
暗がりのなか、手探りをするようだった。
すると胸の奥、ずっと深い奥に、熱が生じているのを見つけた。
そこは心の奥底だったかもしれない。
その熱を手にすると、じんわりと四肢の先まで広がってゆき、体を暖めた。それにつれて症状が取り除かれていく。
優はその熱が発する核の部分に、かつて食べた小さな命の煌めきを感じた。
落としていた膝を上げ、力強い動きで立ち上がる。
姉がこちらを振り返った。
顔に焦りが見える。床を蹴り、手を伸ばして、触れようとしてくる。
刀を大上段に振り上げて、優は何の小細工もなしに突っ込んだ。
「優っ!」
「お姉ちゃんっ!」
その瞬間、思わず目を瞑ってしまった。
がちり、と固い音がした。
そのあと、ほんの少しだけ、静寂があった。
優は恐る恐る、瞼を持ち上げてみた。
姉の手は、優に届くか届かないかのぎりぎりで止まっていた。
眼鏡の女性が姉の肩に指を食い込ませている。触れられずに済んだのは、そのおかげのようだった。
姉はしわがれたうめきを漏らした。
優の振り下ろした刀は、姉の胴体を袈裟切りにしていた。
刃は左肩から斜めに胴の半ばまで通っている。はらりとスーツがはだけ、下着も切れて垂れ下がっている。
確実に致命傷になるかと思えたが、血は一滴も垂れていなかった。
「よくも、よくも……。優……」
姉の顔は怒りと屈辱で鬼の形相だった。
「せっかく、社長にもらった『印』が、くそっ」
どうやら刀は乳首に嵌められていたピアスも切ったようだ。紋章の描かれたプレートが二つに割れている。
ピンが外れて、ピアスはつるりと乳首から滑って落ちた。落ちる途中、姉はそれを手で受け止め、白い指で握り締めた。
「ふう、ふう……。またしても、こんな傷を……。くっそお、まさか、あんたがこんなことできるなんて」
「お姉ちゃんは、僕を虚仮にしすぎたんだ」
「はっ、あんたの実力だけじゃないだろうに。まあでも、ちょっと感心したわ。ふうん、もう、こどもじゃないのね……。ほんの、ほんのちょっとだけ、褒めてあげる」
姉は半分胴が裂けた状態で喋っている。
ダメージは受けたようだが、とても死ぬようには見えなかった。
「優、私はもう、家に戻らない。外の世界で会うことは二度とないでしょうね。でも、もしも、遺跡の中で出くわすことになったら、もしそうなったら……。そのときは容赦しないわ。きっと殺すことになる」
姉はガラス戸を割り、ベランダへと躍り出た。ひょいと柵を跨ぐと、片手で裂けた体を支えたまま優へ顔を向けた。
それは今まで見たことがない、憂いを含んだ笑顔だった。
「じゃあね、優。……さようなら」
ベランダから飛び降り、姉は道路沿いに走り去っていった。
すでに遠目でもその体は元の形に復元している。やはり死にはしないようだ。
果たして、あの怪物のような女を打ち倒せる日は来るのだろうか。
榊のおにいちゃんですら不可能だったのに。
ベランダで佇む優に、女性がやさしく声をかけてきた。
辛そうだった表情は、大分落ち着いているように見える。呼吸も普通に戻り、汗もひいていた。
「きみが優くんね。はじめまして、あたしは芙蓉っていうの。あの女は浮気がどうとか言ってたけど、本当はあたしが先に付き合ってたの」
「うん、知ってます」
思えば、男の一人暮らしにしては綺麗すぎる部屋だった。可愛らしい所有物も多かった。
きっとこの女の人と榊のおにいちゃんは一緒に暮らしていたのだろう。
「あたしは、三年前にあの女に殺されるところだった。そのとき一緒にいた友達の命を食べてなんとか生きながらえたの。あの女と似たようなことができるのもそのおかげよ」
芙蓉と名乗った女性は、湿り気のある声で優に聞いてきた。
「彼、どうなったの」
「いなくなりました。どこへ行ったかは、僕も知りません」
「死んでしまった、の?」
「そうではない、と信じたいです」
芙蓉と名乗った女性は眼鏡を外し、涙を拭った。
「彼があの女の居場所を突き止めたとき、これで復讐も終わると思った。なのに、いきなりあの女と付き合うと言い出したの。あたしは正気を疑ったわ。街中で人殺しはできないとか、うまいこと情報を抜き出してやるとか言っていたけど、いくらなんでもおかしいと思った。だって家族も友達も、あの女、きみのお姉さんに殺されて、ずっと恨んでいたはずなのよ? それで気付いたの。ああ、この人はもう、本当に正気じゃないんだって。でも、それを受け入れたあたしもあたしだわ。自分でもどうかしてると思う。きっと、あの遺跡に入った人間はみんな正気を失うのよ」
「みんな、正気を失う……」
優はその言葉に寒気を覚えた。
「そう、だから、あの女も、彼も、あたしも、どこか精神の流れに齟齬を生じてしまった。きみも、もしかしたらそうなるかも知れない」
「僕は子供の頃に一度、あの遺跡に入ってるんです。だから、もし正気を失うならとっくにそうなってると思います。だって家族を本気で殺そうとしたのは、もう普通じゃない気がするから。でも、ぼくはお姉ちゃんを許せない。あの人は絶対に野放しにしてはいけない」
芙蓉は、両手を優の肩にそっと添えた。目線を合わせ、まっすぐに見据える。
「彼は、きみのことを後継者って考えていたみたい。だから色々と託したのね。その見込みは間違ってなかったと思うわ。あたしもきみを手伝いたい。力になれると思う」
榊がいなくなって心細くなっていた優にとって、それはとても心強い言葉だった。
「こちらこそ、お願いします」
「ねえ、彼、いつか……戻って来るかしら」
「もちろんですよ。僕は信じてます」
「うん……、そうね、待ちましょう。彼が帰ってくるのを。一緒に」
芙蓉の体が樹に倒れ込んでいくとき、勇治の耳元で囁き声が聞こえた。
ふよーちゃんを、たすけて。
実際に声が聞こえたかどうか、定かではない。だがそう聞こえた気がしたのだ。
猛獣のような唸り声が喉から迸った。
痺れが走る肉体に鞭打つために発した、気合いの声だった。
芙蓉の体がまさに樹の表面へ触れようとしたそのとき、彼女は突然横へ滑るようにしてひっくり返り、そのまま泉へ落ちた。
盛大な水飛沫が上がった。
「あっ」
CAが短く驚きの声を漏らした。
飛沫で濡れるのも構わずに、呆けたようにこちらを見下ろした。
「こいつ、いったいどうやってここまで」
勇治は芙蓉の足首をつかんで横へずらしていた。その拍子にバランスを崩して彼女は横へ倒れたのだ。
自分が倒れていた場所から大樹の前まで、それなりの距離があった。
自分でもよく間に合ったと思う。無我夢中で走り、感覚のない両足が絡んで転んでも、這いずって駆け寄った。
「往生際が悪いわ。それに、ふっ、なにそれ。首だけ持ってどうしようってのさ」
勇治は無理に動いたせいか、体中が鈍麻していた。腕も足も、太く膨らんでいるような錯覚がする。触覚は何も感じない。手の先だけが泉の水に落ちているが、冷たさはない。
代わりに泡が沸くようなぷつぷつとした痺れを感じる。
頭のてっぺんからつま先まで、どこもかしこも細かい泡のような痺れが強く強く責め苛んでいる。
CAは倒れて動けないでいる勇治と、泉に落ちた芙蓉、樹に刺さった刀、そして虎ちゃんの命で生った実を見比べて、少し考えこむ様子を見せた。
どれから先に手を付けようか悩んでいるようだった。
そして彼女は命の実を得ることを選択した。
実の生っているところへ、ステップを踏んで軽やかに歩んでいく。
舐めやがって……。
勇治は今こそ絶好の機会だと思った。
動かなければ。
でなければ、全員あの女に喰われる。
さっきは動くことができた。虎ちゃんだってできたんだ。もう一回、やってやる。
泉に咆吼が響き渡った。
痺れ以外何も感じない体は、両足で立っていてもふらついた。
体重の支え方が分からない。腕には抱えたものがあるはずだが、それも落とさずに持っているか目で確認しなければ分からなかった。
勇治は樹に刺さった刀を見た。
鍔まで深く刺さり、うかつには手を出せない。手を近づければ樹皮に触れる危険がある。
あのCAですら抜くのを躊躇したくらいだ。
だが、これが無ければ生き残る可能性はない。
迷いなく刀の柄を握り、一気に引き抜いた。
幸い、樹は反応しなかった。
変わらず手の感覚はなかったが、柄を握る力が緩まないように意識して強く握った。
CAは命の実をもぎ取ったところだった。
勇治のほうを眺めて、口に実を運ぶ。
驚いてはいるようだったが、さして慌てている様子は見られなかった。
ゆうくん。
腕に抱えたものが、また囁いた。
ゆうくん。
ふよーちゃんをたすけて。
唇は動いていても、声までは出ていない。
けれど勇治の耳には、はっきりとリースの声が聞こえていた。
沈んだ、暗い色の声だった。
おねがい。あたしの。いのちを。もらって。
このまま。きえたく、ない。
ごめんなさい。あたしが、わるいの。おねがい。もらって。
青い瞳は弱々しく開かれ、勇治を見上げている。一度は確かに閉じたはずの瞼だった。
それは止血の命術を受けたせいかも知れない。明らかに意識はまだそこに留まっている。
血の気のない、真っ白な唇が動き続けている。
おねがい。おね、が、い。お。ね。が……。
「あんたっ! なにやってるの!」
CAが声を裏返して叫んだ。
勇治はそっと、やさしく置くようにして、それを樹へと触れさせた。
青黒い樹皮がめくれて、覆っていく。包まれ、飲み込まれて、消えていく。
足元で泣き声がする。押し殺した泣き声がする。芙蓉が水から半身だけ出て、一連の様子を見ていた。
CAがパンプスを乱暴に樹の根に打ち付けながら、向かってきた。
やおらその動きがぴたりと止まり、一点を凝視して身を震わせた。
勇治と芙蓉の、すぐ目の前に細い枝が垂れてきた。
今にも折れそうなその枝の端に、滴のような白い塊が現れている。
塊は見る間に、紡錘状に膨らんでいく。
「う、うそっ。頭部なんてさして大きくないのにっ、両手を放り込んでも何の反応もなかったのにっ。こ、こんなこと、こんなことって……!」
白く膨らんだ実は、小ぶりだが輝きに満ちていた。
生命を感じさせる美しい実だった。
勇治はすくい取るように、実を取った。まるで自分たちのために、この場に生えたかのようだった。
リースのもらって欲しいという気持ちが、樹にそう訴えかけたのだと信じたかった。
CAは茫然自失といった体で、独り言を述べていた。勇治たちの動向には、まったく関心がない様子だった。
「たしかに、味は一個目より二個目のほうが、まろみがあった。単純に手足の分だけ薄くなったのだとばかり思っていた……。でも、でも、もし頭部のあるなしが重要だとしたら……。脳細胞、中枢神経系が、命の実の生成に重要だっていうの……? そう言えばここは、人間の命しか基本受け付けない。それって、もしかして、そういうことだったの? だとしたら、会社のこれまでの研究って、いったいなんだったの? 根本から間違っていたっていうの……」
そんなCAは無視して、勇治は実を半分だけ口に含んだ。
喉に流す前に、果汁は口の粘膜に吸われて消えていく。
命のエネルギーが浸透していくのを感じる。
温かい、力強い、エネルギーが体の隅々にまで行き渡る。体の痺れはもう感じなかった。
勇治は芙蓉の手に、残りの半分を握らせた。
無言のまま目だけで、食べろと伝える。言葉ではつらすぎて、とても言えなかった。
刀を持ち直して、CAのほうへ構えたとき、異変が起こった。
それはCAですら、さらに驚愕させるものだった。
勇治は自分の脇腹に、何かが食い込んでくるのを感じた。
皮膚から無理矢理、体のなかへと侵入してくる。まるで巨大な寄生虫だった。
体に入り込んだその物体が何なのか、思い当たるものは一つしかない。
あれだ。虎ちゃんが見つけたという、あの黒いニンギョウ。
勇治の体色が黒く変化していく。
腕も、足も、おそらくは顔も。
だがそれも一時のことで、またすぐにもとの肌に戻った。
手のひらを見ると、さきほど転び、這ったときについた擦り傷がきれいに消えている。
生まれ変わったような感覚だった。状況にそぐわないほどに清々しい。
少し離れたところから声が飛んでくる。
「まったく驚かされてばかりだわ。その変化の仕方は、体構造変換の遺物に似てる。あんた、まさか見つけていたの? この遺跡に残されていた最後の遺物を。会社が何度探しても見つけられなかったあの黒い物体、ニンギョウを。ああ、なんてこと。あれは、あんたなんかには勿体ないものよ」
「見つけたのは、虎ちゃんだ」
「虎ちゃんって誰よ? ああ、ひょっとして、あの小さい男の子? まあ、誰が見つけたかなんてどうでもいいわ」
CAが警戒しながら、近づいて来た。今度こそ自分に注意を向けている。
本当は逃げるべきなのかも知れないが、頭のなかは怒りと憎しみではち切れそうだった。
向かってくるなら上等だ。家族の分まで含めて、すべての落とし前をつけさせてやる。
一足飛びに間を詰めて、横薙ぎに胴斬りを放った。
CAは大胆に膝を曲げて腰を落とし、下着も露わにしゃがみこんだ。
刀は空を切り、振りにつられて重心が崩れてしまう。
今度はCAのほうが猛ダッシュで距離を詰めてきた。
顔が触れるほど寄り、CAは勇治の胸に片手を添えた。
心臓が二、三度大きく拍動する。そのあとに激しくドラムのように心臓が打ち始めた。
片膝をついて、横へ逸れた刀を上斜めへ斬り上げる。またしても刀は空を切った。あっという間にCAは間合いをとっている。
やはり、経験に彼我の差がある。怒りだけでは勝てない。
心臓はやがて震えるように細かな動きをするようになった。
自分の胸に手を置いてみても、もう心拍を感知できない。それは動いていないも同然の状態だった。
次第に目の前が暗くなっていく。しかし、気分は晴れやかなままで、ほどなく視界は再びクリアになった。
「なにかやったみたいだけど、効かないな」
CAは下唇を噛んで、両目を窄めている。
顔には焦り以外に、恐怖が見え隠れしているように思えた。
「心臓は止まったはずよ。致死性の不整脈を起こす、即死の命術を当てた。なのに平然と立っていやがる。あんた、もう人間とは別構造の生き物に成り代わったのよ。どういう原理かは知らないけど、少なくともこういう方法ではもう殺せないのね。なら、外的な損傷を与えたらどうかしら」
CAが次に取った行動に、勇治は場もわきまえず赤面した。
ミニスカートのなかへ自ら手を差し入れると、下着をずらしてまさぐり始めたのだ。
うっ、と艶っぽい息を吐いて、CAは何かビニールに包まれた細長い物体を取り出した。それがなんなのか、勇治には分からない。
「はい、これあげるわ」
ビニールから出したそれは、ボールペンに見えた。かりっとキャップを捻ると、CAはそれを勇治へ放って、少し離れてから耳を塞いで伏せた。
危険なものだ、と本能的に察して、刀を持っていない方の手で払った。
瞬間、間近で耳を劈く破裂音がした。
……爆弾っ?
慌てて勇治は自分の体を確認した。
痛みはない。爆発から運良く逃れられたのだろうか。
だが払った手に目を移すと、肘から先がちぎれていた。傷口から血のかわりに黒い靄が吹き出ている。
「それなりには効くようね。命術でも外傷を与える技はある。でも現時点ではちょっと分が悪いようだわ。まあ、ここは引いてあげる。じゃあね」
CAはくるりと踵を返し、根の上をてくてくと泉の岸に向かって歩き出した。
勇治はそのあっけないほどの引き際に唖然とした。
社会人、会社の人間、というのがよく分かる。合理的に思考するのだろう。損得で考えて、このまま帰ったほうがいいと判断したのだろう。
ここはそのまま帰らせたほうがいいのだろうが、そんな勝手なことを受け入れられようはずもない。
「ふざけんなよっ、おまえ!」
歩み去る背に、真上から切りかかった。
当然見越していたのだろうか、CAは振り返り、上半身だけスウェーさせて難なく避けた。
ボブカットの黒髪が顔の前へ流れ、頬と口元を撫でる。髪の隙間から瞳だけ覗いている。
一瞬、見つめ合う。
瞳が三日月のように曲がった。
勇治はこれまで刀で練習した技を思い出していた。一旦振り下ろした刃を手首を帰して反転、間髪入れず振り上げる。
勇治の攻撃は、ついに相手をとらえた。三度目の正直だった。
鋭く振り上げられた刀は胸元をかすめ、女の顎から縦に面を割り、上へと抜けた。
なのにCAは倒れもしなかった。呼吸は乱れているが、苦しんでいる様子は見られない。表情は歪んでいるが、苦痛というより屈辱のために見える。
彼女は両手でこめかみを押さえつけて頭が左右に別れないようにしていた。
やや斜めに走った傷口から赤い血がほんの一筋、二筋だけ垂れている。
そう言えば出会った際、この女は指を切るパフォーマンスをしていた。そのことを今さら勇治は思い出していた。
刃物はそもそも効果がないのかも知れない。
だが、頭を切られて無事だなんてことがあり得るのだろうか。
とても信じられない。
もし命術で治しているのなら、そのために消費されるエネルギーはいったいどれ程になるのだろう。
この女が今までどれだけの数の命を摂取してきたかを想像して、怒りとともに怖気が沸き上がった。
「ふう、ふう……。これで、気は、すんだ? これで痛み分けってことにしましょうよ。下手するとこのままじゃ、お互いもっとひどい傷を負うことになるわ。それに、後ろの女の子のことも心配でしょ」
そうだった、芙蓉のことをこのまま放っておけない。
ここは相手の言うとおり、決着を持ち越しにするしかない。
それはあまりに悔しい決断だった。
勇治は呪いの言葉を女に向かって投げかけた。
「いいか、いいか、お前! いつか必ず追い詰めてやるからなっ。お前に、俺と同じ思いをさせてやる! お前に関わる人間全部、家族も、友人も、恋人も、会社の人間も、全部殺してやるっ!」
「いいわね、やってごらんなさい。あんた、短い間にずいぶんといい目をするようになったわねえ。恐い目……。大人の男の、サディスティックな目よね。そういうの、好きだわ。もうちょっと大きくなったら、女として相手してやってもいいわよ。あははっ」
高らかに笑い、CAは去って行った。
切られたはずの頭はすでにくっつき、傷は消えていた。
女が完全に姿を消したのを確認したあと、勇治は芙蓉のもとへ駆け寄った。
すでに泉から樹の根に上がり、足を横たえて座っている。
「大丈夫か」
「うん」
腹の傷は、完全に塞がっていた。
それは渡した命の実を食べたことを意味していた。あえて勇治はそれに言及しなかった。
「リース……」
芙蓉は、樹をじっと見つめた。
勇治も虎ちゃんのことを考えた。
もう、二人は戻らない。飲まれて消えた命は、決して帰って来ない。
「ねえ、榊……くん。あたし、こんなときなのに、聞きたいことがあるの」
「なんだよ」
「あたし、言ったよね。返事を聞かせてって」
「俺の本性見ただろ。それでも、か」
「あなたは、強くて優しいひと。それがはっきりと分かった。正直、こんなときに言う言葉じゃないけど、でも言いたい。あたしはあなたのことが好き。なんなら、あなたのために今からこの樹へ飛び込んだっていい」
「やめろっ」
「じゃあ、あなたのそばにいたいわ」
「お、俺は、俺、も……」
他人なんて本当にどうでもよかったのに、どうしてだろう。もう一人ではやっていく自信がない。
わずかな絆しかなかったクラスメートを亡くして、自分がこれほど大きな喪失感に陥っていることに驚いている。
芙蓉と二度と関わらないことが、彼女にとって一番いいはずだ。なのに、これで関係性が終わるとは考えたくなかった。
「芙蓉、俺は、もうしばらく、きみと一緒にいたい」
手を差し出す。
微笑みが返ってきた。
その手に、小さな少女の手が置かれた。
ザ・ダークスカイ るかじま・いらみ @LUKAZIMAIRAMI
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