第11話 ジュブナイル 6

「リース!」


 青白い光の渦巻くなか、泉のほとりに一人、ぽつんと立っていたのはリースだった。

 ユウと芙蓉は、奇怪に曲がって伸びる草をかき分けてリースのそばへ走った。

 リースも走り寄ってきて、がばっと大きな体で二人をハグしてきた。


「大丈夫だった? ひどい目に遭わなかった?」


 芙蓉が気遣って聞くと、リースはなんだか嬉しそうにきゃはっと笑った。


「うん、ぜーんぜん、だいじょうぶだよ!」


 ユウは正直、リースたち二人はCAに捕まえられたか、殺されたかと半ば諦めていた。

 リースが無事だったことにほっとする自分に驚く。

 そうか、無事でよかった。

 でも……。


「リース、虎ちゃんは?」


 リースは笑顔のまま答えた。彼女にしては、すらすらと言葉をなめらかに発した。


「途中でね、あの女の人に水路へ落とされちゃったの。それっきり。あたしだけ逃げてきた」


 虎ちゃんは、水路に落とされてしまったのか。

 ユウは沈鬱な気持ちになった。

 どこの水路に落ちたかは知らないが、遺跡を流れる水路はどれも流れが速いうえ、深さも見当が付かない。

 落ちたらまず助からないだろう。


「えっ、あ、ああ、そう……」


 芙蓉はリースの豊満な胸に抱かれながら、翳りのある表情を見せた。


「リースだけでも無事でよかった……」


 ユウは、何かおかしいと感じていた。

 たしかリースたちは入口へ向かって逃げたはずだ。

 それがどうして自分たちよりも先にここ、遺跡の最深部まで来ている?

 ユウは、芙蓉の頭を抱えているリースの腕をほどいて、二人を離れさせた。


「で、どうやってここまで来たの? あの女の人は今どこ?」


「うん、あのね、入口までは逃げられなくて、あっちこっち走ってね、狭いところとか入って。それでいつの間にかこんなところまで来ちゃったの。ユウくんとふよーちゃんのほうこそ、どうしてここにいるの? ここ、どこなの? ふふふっ」


 リースはまた笑った。

 再会して嬉しいのかも知れないが、どうも様子が変だ。

 気になる。

 心の中で警戒信号が点灯する。

 しかし、話の内容自体は別段おかしくない。

 この遺跡はマップに載っていない隠し通路がまだ多く存在する。がむしゃらに逃げた結果、偶然この場所に至る道筋に入ったというのは十分考えられる。


「ね、ね、それよりっ。二人はさっき何やってたの?」


 リースは、あは、あは、と笑いながら、とても機嫌がよさそうに見えた。


「へっ?」


 芙蓉が間抜けな鼻声を出した。

 ユウもぎくりとして首筋が強ばった。


「あたし見てたんだからあ~。ふよーちゃんとユウくんが、あの扉のところでなんか意味ありげに見つめ合っちゃってるとこ。何やってたの? ねえねえ、教えてよー、ふよーちゃあん」


 芙蓉の顔は湯気が立ちそうなほど赤くなった。額が汗でてかり、目が右往左往している。

 リースはそんな友人に畳みかけるように言葉を続けた。

 遠慮はしないつもりのようだった。


「あたしね、実はふよーちゃんがユウくんのこと好きだって、気付いてたのよ。ほら、修学旅行のときも、写真とるときはなるだけそばに並ぶよう手伝ってあげたでしょ」


「え、ええっ、そうなの、リース」


「ふよーちゃん。ねえ……、告白、したの?」


 芙蓉はおたおたし始めた。普段の態度からは想像できないみっともなさだ。


「えと、うん、じゃなくて、どうかしら……」


「教えてよ~、ねえって、ねえねえ」


 普段のリースからは考えられない猫撫で声だった。

 態度もなんだか酔っ払っているのかと疑いたくなるくらいにハイテンションだ。

 ユウはいぶかしく思った。

 やっぱりリースの態度はおかしい。

 何か、とてつもなく嫌な感じがする。


「リース、やけに楽しそうだね」


「うん、とっても!」


 朗らかに、快活に、リースは花が咲いたような笑顔で答えた。

 さすがに芙蓉もその異常さに眉間に皺を寄せた。


「ちょっと聞いていいかな。あの女、CAって奴、どっち行ったか分かる?」


「えー、さっき言ったじゃあん。必死で逃げてたから分かんないんだって」


 芙蓉がユウのそばへ身を寄せてきた。肘に腕をからませる。

 その顔は青ざめている。

 彼女はそっと耳打ちしてきた。


「ねえ、リース、おかしくない?」


 無言でうなずきながら、ユウは周囲をくまなく観察した。

 リースのほかは、誰もいない。

 泉は藻と水草で青色に染まり、四方から降り注ぐ燐光を受けてさざ波のように煌めいている。

 その泉の中央には巨大な芋虫のような樹が屹立している。

 濁った青色の、ぶにぶにとした触感を思わせる外観だ。

 無秩序に生えた枝のような青い棒は、壁にまで伸びている。

 そこに別の植物が縦横に絡みついている。さながらクモの巣だ。

 周囲の様子を観察しているうちに、ユウは昔のことを思い出してしまっていた。

 リースの異様さが気にならないわけではなかったが、それは強い感情によって頭の片隅に追いやられていった。

 数年振りのこの景色は、過去の記憶をひどく刺激したのだ。

 あの、思い出したくもない、けれど絶対に忘れてはいけない出来事。


 博物館の学芸員だった父は、ここであの樹に無理矢理詰め込まれて命を吸われた。

 母と姉は脅迫のために利用され、あげく殺された。

 母と姉が体を張って逃がしてくれなければ、自分だって死んでいたに違いない。

 殺戮者たちはユウのことを取るに足らないと判断したようだった。

 外へ逃げ帰ったあと、追跡が来ることはなかった。十に満たない子供など、わざわざ法の目をかいくぐってまで殺す必要性を感じなかったのだろう。

 時間が経って落ち着いたあと、ユウはある物を回収しに向かった。

 それは貴重な遺物である一振りの刀だった。

 遺跡に連行される直前、父は機転を利かせて、女たち『社員』の目の前で刀を海に捨てていた。

 もし父がこれを普通に隠していただけなら、息子である自分にあとあと危害が及んでいたかも知れない。それを見越してのことだった。

 埠頭の縁に巻き付けた釣り糸をたぐって、ユウは刀を海から引き上げた。

 錆びてもまた磨けば元に戻ることは父から教えられていた。

 黒く変色した刀身を握ったとき、思わず涙が滲んだ。

 それは今となっては形見の品だった。

 そしてユウは、親戚から多少の援助を得ながら、一人暮らしを始めることとなった。

 普段は平穏に過ごしてはいたものの、ユウは事ある毎に家族のことを思い出し、悩み、苦しんだ。

 そのつど制御できないほどの強い怒りにかられた。

 どうして、父は、母は、姉は、あんな目に遭わなければならなかったのか。

 許せなかった。

 あの女を殺して復讐を果たすことを、ずっと考えてきた。

 夢見てきた。

 そうだ、自分は何のためにここまで来た? 今ここに二人、人間がいるじゃないか。当初の予定通り、あの樹に触れさせてしまえばいい。それだけであの命の炉は稼働する。

 だが、――。


 ユウは芙蓉を見た。

 もう照れもないのか、彼女はユウの肘にくっついたままだった。顔を半ばユウの胸にうずめるようにしている。

 本当にいいのだろうか。

 どうして自分は迷っているのだろうか。

 芙蓉という女の子の心が、少しだけ分かったような気がした。

 でもそれだけじゃないか。


「……いいよ」


 突然かけられた言葉に、思考を中断された。

 言葉の意味はすぐには理解できなかった。

 声は自分の体のすぐそばから聞こえていた。

 肘に腕をからませたままの芙蓉が言ったのだ。

 いい、とは。

 いいとは何だ。


「命を吸いたいんでしょ。あたし、いいわよ」


 はっきり言われてようやく理解が追いついた。

 驚きはしなかった。意表を突かれただけだ。

 だが鼓動はやけに強く打つ。


「やっぱり、そのつもりで付いてきたの? でも」


「そのつもりで、連れてきたんでしょ」


 返す言葉もなかった。

 たしかに彼女は自分から行きたいと言ったが、少しでも罪悪感や理性が残っているのなら断るべきだったのだ。

 それを、言われた通り連れてきてしまった。

 今さら何を取り繕うと言うのか。


「あの青い樹が、『命の炉』っていうやつなの?」 


「うん、そう……だよ」


 ざく、ざく、と土と草を踏む足音がする。

 振り返ればリースが近づいてきた。

 彼女の長い足が踏むたびに、青い光が朝露のようにはじけて消える。

 彼女の言動は明らかにおかしい。だが今のところ危険は感じない。いつもより明るすぎるというだけだ。

 ひとまず、そのままにしておいていいだろうと判断した。

 それよりも目の前にいるこの少女、芙蓉について考えるほうが先だ。


「教えて、この遺跡のこと。命の炉のこと。あたし、知りたい」


 ユウは悩んだ。

 話すべきか否か。

 だが、彼女にはそれを知る権利がある。そんな気がする。

 だって芙蓉は、自分の命を、僕に……。


「……泉の底に、青い岩石がたくさんあるのが見えるだろ」


 ユウは話すことに決めた。

 泉に向かって指を差す。


「あれは、ただの石じゃないんだ。周囲の土や砂を取り込んで再構築を繰り返す、生きた石だ。欠けても直り、風雨にさらされても形が変わることがない。この遺跡文明は、あれが始まりだって言われてる」


「へー、生きてるんだ。すごーい」


 リースが驚きを口にする。

 茶々を入れるような、場にそぐわない口調だ。

 その口調が気になったが、ユウはかまわず続けた。


「もとから地の底にいたのか、隕石に含まれて降ってきたのか、とにかく命を持つ鉱石が太古から静かに息づいていたんだ。だけど石とは言え、再構築を続けるのにはエネルギーがいる。この鉱石はね、さながら食虫植物のように有機生命を取り込んでるんだ」


 芙蓉が肩をびくっと震わせる。


「命を、吸う?」


 芙蓉のつぶやきに、ユウは静かにうなずく。


「うん、僕たちが食事するのとは全く異なるメカニズムで命を取り込む。有機生命には、古い細胞を壊して新しい細胞に組み替えるっていう基本的なシステムがあるんだけど、この石はそのシステムだけをそのままそっくり奪い取るんだ。組織とか器官とかを奪い取るんじゃなくて、その方法だけを写し取ってる。食事とは違って、分解吸収して取り込むわけじゃない。あくまで構造は石のまま、無機物のままだ」


「え、なに? よく分からない……。システムだけを奪うってどういうこと? それってエネルギーなの?」


「凄いエネルギーだよ。壊れないよう、腐らないよう、形を保ち続けるのは、生命だけが持つ奇跡的なエネルギーだ」


 諸行無常。


「生きるものはいつか死に、形あるものはいつか壊れる」


 熱力学第二法則。


「宇宙の絶対の法則だ。だからこそ、これを乗り越える力は凄いんだ」


「ああ、うん。それ知ってる。エントロピーのことね。そのエントロピーを乗り越える力を、エネルギー源にしてるってこと? あの石はそのシステムをどうやって写し取ってるの?」


「分からない。具体的にミクロレベルで何が起こっているのか、まだ解明されてない」


「……それで、取り込まれた生き物は、どうなるの」


 ぎくりとする。それこそが聞きたいことだったのかも知れない。


「石に取り込まれた生物は、一瞬のうちに命を吸われる。命のシステムを奪われたら、あとは残り滓だ。ゆっくりと石のなかで溶けて分解される。そして、目に見えないほど細かく砕かれて、原型をとどめない塵芥になって捨てられる」


 ユウは誤魔化さず答えた。

 芙蓉は何も言わない。

 このまま説明を続けることにした。


「遺跡を造った連中は、この青い鉱石の特徴を利用していた。どうやっていたのかこれも未だ不明だけど、命の特性を抽出して様々なものに付与していたんだ」


 ユウは一息に話していく。

 固い岩に付与して、青く光る石材を作った。

 壁や床に使われて、地下の光源として利用されていたようだ。途中、階段や壁に使われているのを見たはずだ。

 柔らかい粘土に付与して、特定のコマンドで形状を変えるセラミックを作った。

 二人で開けた、あの仕掛け扉がまさにそうだ。

 鉄などを含む鉱石に付与して、半永久的に壊れない金属を作った。

 自分の持つ刀は、それを近代(おそらくは江戸時代)の人間が加工して日本刀に打ち直したものだ。

 そして古代人たちは当然のことながら、命ある生き物にも、命の特性を付与しようと考えたようだ。

 つまり命の重ね合わせだ。

 ついに話題が、あの青い樹、命の炉に及び始めた。


「そのなかであの樹が作られたらしい。樹と言っても便宜上そう呼んでるだけで、僕たちが普段よく見かける植物じゃない。命を吸って、ほかの命に重ね合わせるための工場みたいなものだよ」


「それが、命を強くするって意味なのね。……それって、どう、やる……の……」


 今にも消え入りそうな、しかし聞き取りやすい声で芙蓉は聞いてきた。

 リースを見ると、聞いているのかいないのか、ユウの後ろでしゃがんだまま小石を泉に投げている。

 その、のどかな様子はあまりに場違いだったし、臆病なリースらしくなかった。


「あの樹の表面、ぶよぶよしてるだろ。どこでもいい。あれに人間を触れさせるんだ。そうすると樹が勝手に命を吸ってくれる。そのあと樹は吸った命を一カ所にまとめて、小さくくるんでおく。それが『命の実』だ」


 命の実ができる過程は、実体験として知っている。

 父親が変わり果てる様子をこの目で見ているのだから。

 あのとき一瞬で命の実はできた。本当にあっという間の出来事だった。


「この命の実を口に含めば、粘膜からすぐに吸収される。血液に入って全身に巡る。それで命の強化は済む」


 この辺りの知識は、有志による検証サイトからの引用だった。

 それによれば、強化された命は、身体能力が上がり、致命傷すら自力で治癒し、寿命も延びるのだと言う。

 ばかりか、他の生物に干渉することまで出来るようになるらしい。

 さらには驚くべきことに、命の特性を付与した物質との組み合わせで、体構造を変換して不老不死になることも可能だと言う。

 これらの話がどこまで本当か眉唾ものだが、少なくとも恐ろしく強靱になることだけは確かだ。あの女がそれを証明している。


「それって、人間じゃなきゃだめなの」


「同じ生き物じゃないと、命を重ねられないみたい。それにアレは基本的に人間しか『実』にできない。人間が、人間の命を吸うための工場だ」


「そんなものを造った人たちって、一体、なんなの……」


 遺跡を造った古代人がどんな連中だったかは分からない。

 現世人類の祖先とは別種だったとも言われている。


「結局、分からないことが多いのね」


「うん……ごめん」


「それで?」


「……これで、大体の説明は終わり」


「そう……。ありがと。話してくれて」


 じゃあ、と芙蓉は歩き出した。泉の際へと。


「あれに触ればいいのね。でも、一つだけ。さっきの返事、まだ聞いてないけれど」


「え……」


 ユウは、自分でも思いがけないほどに激しく動揺し始めた。

 芙蓉は本当に行くつもりか。

 あの樹に触れるつもりなのか。

 命を吸われて、実になるのか。

 それ以前に、返事をしなければ。

 どう答える?

 扉を開けたとき、自分は何かを伝えようと思っていた。

 だが頭が真っ白になり、何も浮かんでこない。

 何を言えば、どう言えば……。

 いや本当に行かせていいのか、死なせていいのか?

 常になく心を揺さぶられ、冷静さを欠いていた。

 そのせいで、右手に持つ刀の鞘からすうっと重みが消えていくのに気付けなかった。

 気付いたときはすでに遅かった。


「はーい。刀もらっちゃったあー」


 自分は、さぞかし間抜け面をしていたことだろう。

 リースはけたけたけたと白い歯を出して笑っていた。

 その手には、ユウから奪い取った抜き身の刀があった。


「ごめんね、ユウくん」


 そのままリースは走り出し、岩壁に向かって大声で叫んだ。

 ユウはそれまでリースの大声など聞いたこともないので、ひどく驚いた。そして背筋が寒くなった。


「おねーさーん! やりましたよー」


 果たして、岩壁の際にある茂みから姿を現したのは、リクルートスーツを纏ったボブカットの女だった。


「あらあら、リースちゃん。よくできたわね」


 芙蓉はわけが分からないといった表情をしている。自分も分からない。

 これは、いったい何が起こっている?


「ごほうび、ちょうだい。ごほうび」


「はいはい。分かってるって」


 CAはリースの顎を優しくつかむと、そのまま自分の顔へ引き寄せ、唇を合わせた。

 リースの桃色の唇と、CAの毒々しいルージュの塗られた唇がぐねぐねと蠢く。

 そのうちリースの瞳が恍惚としてきた。

 膝ががくんと折れ、両腕をCAに回して上半身を支えている。その体は喜びに打ち震えているかのようだった。

 唇を合わせているそのさなか、横目で薄く、女の瞼が開いた。

 冷たく妖しい煌めきを有している。

 行為はそのままに、呆然としているユウと芙蓉を如才なく観察している。

 長い長い接吻が終わったあと、見せつけるようにしてCAはリースから口を離した。

 と、同時に、彼女から刀を受け取る。


「お、おまえ、いったい、いったい、リースに何をした!」


「ちょっと過激なキスよ。告白したばっかりのカップルにはまだ刺激が強いかしらん」


「ふざけんな、リースの様子がおかしいのは、お前が何かしたんだろうっ」


 リースは快感のあまりか、膝立ちの状態で余韻に浸っていた。

 目が虚ろになり、口元からは涎が垂れている。表情はこれ以上ないくらいに幸せそうだった。明らかに異常だ。


「ふふっ。あたしはね、魔法が使えるの。命あるものの、体と心を自由自在にする技よ。うちの会社では『命術』と名付けたわ。命を強化すればその素養を持つことができるの」


「め、めいじゅつ?」


 聞き慣れない言葉で、馬鹿みたいにオウム返しをしてしまった。


「でね、この子を捕まえたあと、その魔法を使って快楽中枢に極限まで刺激を与えたのよ。実験では覚醒剤と同等の効果が確認されているわ。一度、脳にすり込まれた凄まじい快感は、人生のありとあらゆる何物よりも優先されるようになる。もちろん、友達なんかどうでもよくなる」


「そ、そんなこと、できるわけないだろ。嘘つくなっ」


「でも実際に、言う通りに動いてくれたわよ? お友達を裏切って」


「それは、なにか、それこそクスリでも打ったんだろう! なにが『めいじゅつ』だ、なにが魔法だ、ふざけんなっ!」


 CAはいまだトリップしているリースの頭に手を当てた。

 金色の髪が、CAの指の間からこぼれる。憐れむような目でユウを見返しながら、ふうっ、とため息を吐いた。


「見た方が早いわ」


 言うが早いか、CAはしゃがみ込んでいるリースの二の腕あたりに刀を突き刺した。

 反対側のシャツを裂いて、刃の先端がのぞいている。赤銅色の刃には、赤い擦ったような血糊が付いている。

 芙蓉が短く息を吸い込む音が聞こえた。

 リースの二の腕は完全に貫かれていた。

 刃には血が付着しているのに、腕から血はあまり出ていない。

 シャツにも血は滲んでいない。

 それよりも、リースはまったく痛みを感じている様子がないのが奇妙に思えた。


「あれ、おねえさん? なんで? あ、あはは、なんであたし、痛くないのかな?」


 リースは自分の腕に刺さった刃物と、CAの顔を交互に見ている。


「どう? 止血するのも、痛みを消すのも、自由自在。ほかにも色んなことができるのよ。びっくりした?」


 ユウの隣で、芙蓉がひきつるような呼吸をしている。悲鳴を上げようとしているのに、うまく声が出ないようだ。

 ユウは動転してしまい、何も言えず、何もできなかった。


「あんたたちの処分は、どうしようかしら。殺すのはもう決まっているから、そうねえ、やっぱり命が勿体ないじゃない? せっかくここまで来たんだし、あそこの樹に触れて命を吸ってもらいましょ」


 刀の先を泉の中央に向けて、顎でしゃくった。


「さあ、行けっ」


 絶体絶命だった。

 こんなことになろうとは。

 この女に追いつかれて対決するという可能性を、まったく考えていないわけではなかった。

 勝ち目があるとは思えないが、もう一度逃げることぐらいはできたかも知れない。

 だがそれも切り札である刀があってようやく出来ることなのだ。

 それをあっさりと奪い取られた。

 油断していた自分が悪いのだが、この女が魔術師じみた技を持っているなんて知らなかったのだ。

 ユウと芙蓉が立ったまま動かずにいると、女は命令を無視されたと思ったようだった。

 目がすぼまれ、目尻がつり上がった。

 眼光も鋭くなったように見える。その瞳の奥に、残酷な本性がほのめかされている。

 やおら刀を大きく振り上げると、CAは真っ直ぐ垂直に振った。


「きゃあああっ!」


 今度こそ、芙蓉は声を形作って悲鳴を上げた。最後は喉がかすれ、声が裏返った。

 ユウもさすがにその場にへたり込みそうになった。

 女に対する怒りも憎しみも、陽炎となって消えた。

 残ったのは恐怖心だけ。

 命をこれっぽっちも斟酌しない、冷酷な人間を目の当たりにした恐怖だった。

 握る力を無くしたユウの手から、刀の鞘がするっと抜けて地面に落ちた。


「リース、だ、大丈夫なの……」


 ひとしきり悲鳴を上げたあと、芙蓉が力なく聞いた。

 リースの肩は完全に切断されていた。

 落ちた腕からは鮮血が出ているが、肩の傷口からはほとんど出血がない。

 何一つ、大丈夫なわけがなかった。

 それなのに、本人はけろっとしている。

 落ちた自分の腕と、何も生えていない肩をぐるぐると見ている。切られたのが他人事のようだ。


「あれ、あたしの手、なんで? なんで?」


 彼女の頭に乗せられたCAの手が、指でマッサージするように金髪をくしゃくしゃと掻き回している。

 あの触れた手で、命術とやらをかけているのだろうか。


「痛みも、快感に変換させているから大丈夫よ。止血もうまくいってるし、死にはしないわ。でも、どうかしら。さらにもう一本腕がなくなっても、足がなくなっても、無事でいられるかしら。うふふっ、首がなくなっても、大丈夫、か・し・らぁ?」


 ふざけているようで、その台詞は脅すように聞こえた。

 なぜCAがリースの腕を切って見せたのかがユウには理解できた。

 哀れなリースは彼女の手駒にされたのと同時に、人質にもされたのだ。

 『言うとおりにしなければ、この子を殺す』、CAはそう言っている。

 ユウはリースの横顔を覗き、何か心の内が読み取れないか探ってみた。

 リースは自分の状況が分かっているのだろうか? 命術のせいで気持ちが昂ぶり、快楽だけが最優先になってしまっているのだろうか? 本当にもう、自分たちのことをなんとも思っていないのだろうか。

 リースの目から、涙が流れた。

 青い瞳が潤み、次々と涙が垂れていく。膝立ちでしゃくり上げている。

 ユウはそれを見て、彼女が完全に心を失ってはいないことを確信した。

 痛みがなくとも、快楽を与えられようとも、泣くだけの悲しみとつらさがあるのだ。

 可哀相なリース。

 ヤク漬けと同じにされ、いいように道具にされている。

 たとえ自分たちがCAの言うことを聞こうと聞くまいと、彼女は運命は決まっているように思えた。


「さあさあ、行って行って」


 CAは今度は刀をユウの胸先へ直に当てて、せっついた。

 冷たい汗が首筋を伝う。

 自分の意志に反して、ユウは自ら樹のほうへ歩み始めていた。

 CAとリースのほうに顔を向けながら、後ろ歩きで進んだ。

 寄りかかるようにして芙蓉が付いてくる。

 靴の踵が、水を踏んだ。

 ついに泉の中に足を入れたらしい。首をわずかに回して後ろを見れば、足元から波紋が水面に広がるのが見える。

 水面のあちこちから、太い根っこが顔を出していた。青白くぼんやりと光り、産毛のような細かい根毛を生やし、蛇のようにうねりながら泉に自然の橋を形作っている。

 その根を渡れとばかりに、女は刀を短く振った。

 このまま渡ってしまえば、青い樹に放り込まれる。

 死ぬのは、殺されるのはいやだ。

 だけど逃げようにも、一体どうすればいい。

 いきなり、がつり、と、鈍い音がした。

 CAの頭が横へぶれ、肩が傾いだ。

 続いて、拳大の石が、重い音を立てて地面にバウンドする。

 どこからか、石が飛んできたようだ。

 それがCAの頭へ命中したのだ。

 CAがこめかみを押さえ、石の飛んできた方角を睨む。

 ユウも芙蓉も、その方向へ目を向けた。

 やや離れた小高い場所に、小柄な体躯の少年がいた。


「……虎ちゃん?」


「あ、あいつっ! 水路に叩き落としたのに、どうやってここまでっ?」


 石礫が次々と飛んできた。

 脅威の力を持つあのCAが、ただの投石に怯んでいる。命術というのは、距離があると意味がないのかも知れない。

 下腹に石がめり込み、CAはぐうっと呻いて前屈みになった。

 ユウは芙蓉と目配せして、一気にCAのそばを横切った。

 このまま、虎ちゃんのところまで走って逃げようと考えた。

 しかし急に思い直して方向転換すると、座り込んでいるもう一人の仲間のもとへ駆け寄った。


「リース! こっちへ来いっ!」


 後ろからシャツの襟をつかんで無理矢理立たせ、背中を押して走らせた。

 腕は、仕方がない。諦めるしかない。

 リースは腕がなくなったせいか、重心が安定せずうまく走れないようだった。

 その横へ芙蓉が駆けつけて、転ばないよう小さな体で支えた。

 虎ちゃんが、激しく手招きした。顔に焦りが見える。

 三人が十分近寄ったのを見計らって、彼は足元にある缶詰に似た物体を拾い上げ、ぱかっと蓋を開けた。

 ほどなく、大量の赤い煙が積乱雲のように立ち始める。

 あれはおそらく発煙筒だ。彼は山登りに慣れている。もともと持っていたのだろう。

 なんて用意周到なんだ、さすがだと感心してしまう。きっと、あの大きなリュックに入っていたに違いない。

 濃く赤い煙を突っ切って走り、彼のもとに辿り着いた。別れ別れになった四人がようやく再会できた。


「ありがとう、虎ちゃん」


 ユウは虎ちゃんが無事だったのが嬉しかった。

 頭ではどう考えていようが、心の奥底では彼のことを心配していた。

 見れば彼の服は行きに来ていたジャージとは違う、薄い上下のレインスーツだった。

 水場へ落ちたのは本当のようだが、着替えまで持っていたのかとあらためて感心した。

 虎ちゃんは返事はせずに、代わりにいつもの屈託のない微笑みを向けた。そしてよく通る声で「あっちに僕が通ってきた隠し通路があるから、みんな付いてきて!」と言うと、先頭にたって走り出した。

 かと思うと、彼はいきなり九十度曲がって方向を変えた。

 その方向はユウたちが来た仕掛け扉のある方角だった。

 はっと気づき、彼の考えを汲み取り、ユウたち三人もそれに続いた。

 うまく騙されてくれるといいと思う。

 仕掛け扉はまだ開いたままだった。発煙筒の煙が残っているうちがわずかなチャンスだった。

 このまま逃げ切れるだろうか、不安が胸を掠めたそのときだった。

 もうもうと立ち籠める赤い煙から、風とともにCAが疾走してきた。

 瞬く間にユウたちを、虎ちゃんを追い抜き、扉の前で振り返るや刀を一閃した。

 虎ちゃんが体を捻り、斜めに倒れた。


「きみ、なかなか頭の回る子ね。それに運動神経も悪くない」


 虎ちゃんのレインスーツの、左胸から鳩尾にかけての部分がざっくりと切れていた。

 うっすらと血が滲んでいる。

 すぐに起き上がれたところを見ると、傷は比較的浅いのかもしれない。彼

 は痛みに耐えているが、悲鳴は上げていなかった。


「胴を真っ二つにするつもりだったんだけどね。あのタイミングで避けるなんて凄いわ」


「運も、悪くないほうです」


 虎ちゃんがそんな返事をしたので、CAは不愉快そうに眉を寄せた。


「強がっちゃってまあ。でも、どっちみちおしまいよ。みんなとそろってあの樹に放り込んでやるから。残念だったわねえ、あんたたち。もうちょっとで逃げられそうだったのに。さあ、さっきのところまで戻るのよ」


「あの樹、あれが命をエネルギーに変える炉、ですか?」


 痛みをこらえた表情で、しかし淡々と虎ちゃんは質問した。

 相手は呆気にとられた表情を見せた。


「僕たちをあそこへ入れるんですね」


「ええ、そうよ」


「なら、その前に少しだけ、みんなと話をさせてください」


 CAは毒気を抜かれた顔で、ぽかんと虎ちゃんを見下ろしていた。


「んもう……この状況で、なんて肝の据わった子かしら。感心するのを通り越して呆れるわね。まあいいわ、話くらいすればいい。ただし、話をする場所はあの樹の手前よ」


 燐光を放つ太い根が何本も泉の上を這っており、それを何度か乗り換えて渡っていくことで巨大樹に辿り着くことができる。

 CAはその直前の根の上でなら、話をしてもいいと言っている。

 おそらく、出くわしたときのように二手に別れて逃げられないようにするためだろう。

 たしかにその場所なら泉に飛び込むくらいしか逃げようがない。

 けが人二人を連れて不安定な根の上を歩くのは楽ではなかったが、なんとか指定の場所にまで進むことができた。

 根は太く、苔が生え、よく滑った。

 胸に怪我を負った虎ちゃんに芙蓉が肩を貸して二人三脚のようにして歩いた。

 彼の傷は浅く済んではいるが、やはり痛みは強いようでときおり顔をしかめていた。

 リースのほうはユウが腰に手を回してふらつく彼女を支えた。

 この組み合わせはそれぞれの体格を考慮してのことだった。

 CAは泉のほとりで止まり、それ以上は付いてこなかった。

 だがこちらから目を離さず、片手に刀を持ったまま立っている。何か不穏な動きをすればすぐにでも駆け寄ってくる気だろう。

 四人は太い根の上に腰掛けた。

 すぐ真後ろ、数メートル先には濁った青色の巨樹が鎮座している。

 向かい合わせで座っていると、行きの列車でのボックス席を思い出した。

 ほんの半日しか経っていないのに、かなり久し振りであるような気がする。


「虎ちゃん、さっきはありがとう。でも、話って何? それに、どうやってここまで来たの?」


「ああ、えっとね、タブレットで、ネットに繋げて道を調べたの」


「タブレット? そんなの持ってたの?」


「うん、ミニサイズの、リュックに入れてた」


 タブレット? 山登りにタブレットを持ってきてただって? 何に使うつもりだったんだ。

 まったくなんて人だろうか。


「ほら、ユウくん、ネットで遺跡のことが調べられるって言ってたじゃない。それで試しに繋いでみたら、地下なのに意外と電波状況良くって。遺跡のことが載ってるサイトも簡単に見つかったんだ。それで道を探したの」


 そう簡単なことでもないと思うのに、彼はこともなげに言う。

 しかし、虎ちゃんが言えばできてしまえそうだから不思議だ。

 それにしても、ネットで調べられることを彼に話しただろうか。いや、話していないと思う。

 会話の端々に出てくる単語や、話し方、微妙なニュアンスで気がついたとしか思えない。


「あと、ユウくん。これ」


 虎ちゃんはパーカーのポケットから黒い塊を取り出した。


「な、に? それ……。石、じゃなくて炭?」


「なんか気持ち悪いわ」


 芙蓉が顔をしかめた。


「これ、あのニンギョウだと思うんだ」


 一瞬何を言われたか分からず、ユウは目をしばたたかせた。

 もう一度、彼の手元を見てみる。

 大きさは少し手からはみ出るほど。魚のヒレに似た手が生えている。

 丸い頭に、短いしっぽ、炭のような真っ黒な体。さながら黒いクリオネだ。

 ユウは目を瞠って、彼の顔を見た。

 まさか――、ほんとにニンギョウ? あの『バグで取れないコイン』?

 そんな、嘘だろう?

 虎ちゃんが見つけただって? 誰も今まで取れなかったアレを?

 あの女の会社ですら取れなかったのに?


「あまり大きな声出さないでね。できるだけ、自然に、不安そうにしてて。あの人に勘づかれるとまずいから」


 虎ちゃんは樹に向く方向に座り、水際に立つCAには背を向ける格好になっている。

 CAは泉のほとりで、刀を片手に仁王立ちしていた。この角度なら、手に持つ黒い塊は見えていないはずだ。


「実はね、水路に落とされたとき、誰かに手を引っ張ってもらったような気がしたんだ。水路の端に体が運ばれてなんとか這い上がることができたんだけど、水から上がったあとに右手を見たら、これが張り付いてたの。こう、手をつかむような形で」


 虎ちゃんは黒い塊から伸びるヒレ状のものを、ぺたりと自分の手に付けた。

 ニンギョウという呼び名から、それが彼の手をきゅっと抱きしめているように見えてしまう。


「僕、あのとき、水に落ちて溺れそうだった。リュックも背負ったままだったから、かなりまずかった。水の流れは急で、揉みくちゃにされて上下左右の区別もつかなかったんだ。自分が助かったのは、これが引っ張ってくれたおかげだと思う。僕、変なこと言ってると思うけど、なんでかそう思えるんだ」


「ううん、助かったのなら、なんでもいいよ」


 そう答えながら、そんなこともあるんじゃないかと考える。

 命の特性を持つ遺物は、同じく命を持つものに反応するとされる。

 なかには吸い寄せられるようにして、自ずから接近してくるものもあると言う。

 ニンギョウは人を求めるという話だ。意志があるようには見えないが、人を助けようとしても不思議じゃない気がする。

 それにしても、と思う。

 それにしても、ニンギョウは水路の奥にあったのか。

 長年その存在が分かっていながら、同業者たちが見つけることができなかった理由が分かった。

 水路に落ちたら命の保証はない。だから誰も水の中に入ってまで探さなかったのだ。

 上から見えたのは水路の中を漂っていたせいだろう。水路は遺跡中を走っている。見える範囲内にある水路を漂っているときに、その姿が確認できたのだ。時々姿が消えたのは、見えない水路に入ったか、それとも水面で光が屈折したからか。

 しかし信じられないことだった。

 CAとの会話で虎ちゃんは冗談か本気か探してみたいと言っていたが、偶然とは言え本当に見つけてしまったのか。

 遺跡文明について何も知らないはずの、素人である彼が。


「これね、もともとあった場所から何かの拍子で水に落ちちゃったんだと思う。見つけられたのは不幸中の幸いだった。でもどっちかと言うと、コレのほうが僕を見つけたのかな。きっと水の底で誰かが来るのをずっと待っていたんだね。これが本当に生きてるのなら、そういうこともあるんじゃないかな」


 ユウは驚きを顔に出さないようにしながら、彼の言葉を聞いていた。

 襲われて落とされた先にそんな宝物が落ちているなんて。出来すぎだ。一つの偶然じゃ片付けられない。

 いくつもの偶然の掛け合わせだ。なんという強運だろう。

 さっき彼自身もCAに対して、「自分は運もいいほう」と言っていた。それは、このことを意味していたのかも知れない。


「そんなモノより」


 芙蓉が口を挟んできた。


「どうして一人で逃げなかったの」


 はっとして、虎ちゃんの顔を見た。そうだ、そのまま上へ逃げればよかったのに。

 それに対して、彼はさほどでもないといったふうでこう、答えた。


「えっとね、みんなのことが心配だったから」


「は……」


 そんな理由で?

 そんな理由で戻ってきた……?

 ユウは愕然とした。

 虎ちゃんは人間関係は愛想だけでこなしているように思っていた。

 だがそれは自分の思い違いだったようだ。

 一見、上辺だけで付き合っているように見えても、本心では自分たちとの関係を大切に思ってくれていたのだ。


「ちょっとぉーっ、もういい加減、待ちくたびれたんだけどー!」


 甲高い、上擦った声が岸から飛んでくる。

 そこには苛立ちが含まれている。もう、時間は残り少ないようだった。


「それで、これからどうする?」


「どう……しよう……ね? 生きて、帰れるかなあ」


 虎ちゃんは黒い塊をユウに押しつけて、にっこりと笑った。


「ユウくん、これ、持ってて。ユウくんのほうがきっと、相性がいいと思う」


 黒い塊は重く、じっとりと肌に張り付くようだった。

 ユウは彼の意図を図りかねてちょっと悩んだ。だが悩む時間もないので素直に受け取り、CAに見えないよう、急いでポケットに放り込んだ。

 手渡す際に、虎ちゃんは「こんなものがあるんだ」とそっと耳打ちしてきた。彼の手には十徳ナイフがあった。


「ねえ、ユウくん。僕にまかして。僕が何を言っても、何をしてもびっくりしないでね。チャンスがあったらすぐに二人を連れて逃げてね」


 思わず顔を上げて彼を見た。

 見れば、彼の表情はいつもと変わらない、穏やかな笑みだった。

 芙蓉が短く声をかけてきた。小さくてよく聞き取れなかったが、注意を促す声色だ。

 同時に音もなく、人影が虎ちゃんの後ろに立った。


「まったく、いつまで待たせんのよ。もう待てないから来ちゃったわよ」


 グレーのリクルートスーツを着込んだ女が、沸き立つように現れた。

 ボブカットの黒髪に、醜く歪む赤い唇、ぞっとするような酷薄な微笑みをたたえている。

 落ちたリースの腕を片手でつかんで、もう一方の手に赤銅色の刀を抜き身のまま持っていた。


「で、話はすんだの? お別れの挨拶をしてたわけじゃないわよねえ。何かいいアイデアは出たわけ?」


 性悪な物言いをして、鳩のようにくつくつと喉を鳴らした。


「はい、あの、提案があるんですが」


 CAはふんっと鼻で笑い、続きを言えとばかりに顎をしゃくった。


「ひとり差し出しますから、残りの三人を見逃してくれませんか」


「ん?」


「さっき石を投げたことは謝ります。勝手にこの遺跡に入ったことも謝ります。でも、なにも全員殺さなくてもいんじゃありませんか」


「だから、それは、うちの社の方針なんだって」


「じゃあ、残りの三人をその会社で雇ってください。そうすれば監視もできるし、一石二鳥じゃないですか」


「ふ~ん、……まあ、そういう前例が、ないわけじゃないけど」


 彼女はきれいな顎先に、白い指を当てて苦笑交じりの表情をした。


「それで? 誰を差し出すって言うの」


 迷い無く、虎ちゃんはユウを指差した。


「ユウくんです」


 これにはCAも驚いたようだった。

 ユウも段取りを聞いていなかったので、驚き、かつ少し不安を感じた。

 いや、虎ちゃんは自分にまかして、と言った。彼を信じよう。


「話を聞いていると、どうもユウくんとあなたは因縁がありそうに思えます。彼なら、あなたも納得なのではないですか」


「……気にくわないわねえ」


「だめです……か?」


「考えてあげる」


「約束してください。お願いします」


 虎ちゃんは握手を求めるように手を差し出して、ゆっくりCAのほうに進んで行った。

 女は彼の態度に疑わしげな様子で、自分からは近寄って来なかった。

 だが虎ちゃんの柔和な笑顔のせいか、十分に警戒しているようには見えなかった。

 二人の間の距離は、少しずつだが縮まっていった。

 そして手が届くくらいのところまで来たとき、虎ちゃんは急にもう片方の手で十徳ナイフを取り出して、ぽんっとダーツのようにCAの顔面目がけて投げつけた。

 彼女にとっても咄嗟のことだったのだろう。それを刀で受けるしかなかったようだった。

 そしてナイフを受けたときには、虎ちゃんに体ごとぶつかられていた。

 瞬間、白刃が煌めいたが、その光の残像を残してCAは大きな音を立てて泉へ落ちた。

 千載一遇のチャンスだった。

 リースがうまく走れないのは分かっていたので、芙蓉と一緒に両側から肩をつかんで強引に走らせた。

 振り返って見れば、すでにCAは根につかまって泉から上がろうとしているところだった。

 しかしそこでユウは立ち止まった。

 虎ちゃんが四つん這いになったまま動いていなかったのだ。


「虎ちゃん!」


「ごめん、ユウくん。切られちゃったみたい」


 赤い血溜まりが、彼の足元にできていた。

 右の足首が深くえぐれている。

 さきほどCAが泉に落ちる際にやられたに違いなかった。

 傷口からすると腱が切れているかも知れない。だとすれば虎ちゃんはもう逃げられない。


「行って、ユウくん」


 戸惑っていると、肩をつかんで支えていたリースの体がずるっと崩れた。


「あたしも……置いていって」


「リース、だめえっ」


 芙蓉が残っている片腕を両手でつかんで強引に引き立てようとした。

 が、いかんせん体格の差があり過ぎる。

 リースの体は動かなかった。彼女はそんな芙蓉を見て、ふるふると頭を横に振った。


「あたしが悪いの、刀取っちゃったから……。二人で逃げて、おねがい」


 悩んでいる時間などなかった。ユウは芙蓉の手をとって走った。

 根を渡り、泉を通り越して、地面に着く。

 そして入ってきた仕掛け扉へ向かって全速力で走った。


「あんたたちーっ、いいのかしらぁ? こっち見なさーいっ」


 女の声が耳に飛んできた。甲高く、上擦っていて不快な声だ。

 振り返っては駄目だ。

 駄目だと分かってはいても、やはりユウは振り返ってしまった。

 そして見てしまう。

 CAが、水から上がっていた。

 その傍らには虎ちゃんが仰向けで倒れている。彼の体はぴくりとも動く様子がない。

 CAはリースの真後ろに立って、刀を天高く掲げていた。

 空気を切る音とともに、リースの肩から、腕がまた、離れてぼとりと落ちた。

 大きく弧を描き、再び刀が上へ昇る。

 CAがリースの背中を足蹴にして屈ませた。

 その格好は否が応でも、昔の処刑を連想させた。

 ユウの背に芙蓉の手が食い込む。食い込んだ手が震えている。

 CAの目線が、リースの頭に向いた。

 屈まされた状態で頭を上げられないリースは、睨めあげる形でユウと芙蓉を見た。

 潤み、諦めの浮かぶ青い瞳と目が合った。

 考えるより先に体が動いていた。

 たった今走り抜けた道を、ユウは突進していった。

 頭は真っ白で、感情だけが渦巻いていた。

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