第10話 アドレッセンス 5
二人一緒に暗闇の中を歩き進むのは、かなりの緊張と圧迫感を伴うものだった。
ユウは決してCAに対して気を許さず、刀を抱え込むようにして持ちながら、付かず離れずの距離をとっていた。
「あんたさあ、いつまでそうしてんのよ。こっちは腕を縛られて、そっちは武器持ってるのに、ほんと情けないガキだわ」
「……うるさい」
女は眉根を寄せて、剣呑な表情をした。
「あ? なんて? まったく、口の利き方がなってないわ。こっちは年上ですけどねえ」
ああ、もうっ、本当にうるさい。
途中、調子に乗っていろいろと会話をしたが、話すうちに女の機嫌が悪くなり、気が付けば険悪な雰囲気になっていた。
そもそも話しかけるべきではなかったと思った。
ユウは精神的な疲労を感じていた。
この奇妙な関係性もそうだし、光が一切存在しない闇のなかで手に持つライトだけを頼っているのもストレスだった。
黒い闇に密着されているようで、息苦しく窮屈なのだ。
二人で歩き始めて数十分しか経っていなかったが、この緊張と圧迫感にはもうこれ以上耐えられそうになかった。
そんなユウの気持ちを知ってか知らずか、女は続けざまに耳障りなことを延々と喋り続けた。そのほとんどがユウに対する理不尽極まりない人格攻撃だった。
ユウは脳を回転させて、女をやり込められる可能性のあるネタを探した。
一つ、思いついて、喋り続けている女の口を遮って質問してみた。
できるだけ、意地の悪い表情を作って、嫌みったらしく言ってやった。
「ね、なんでピアス付けてるの?」
CAの顔色が見る見る赤くなった。効果は覿面だったようだ。
「エロガキ! 忘れなさいっ」
「左の、おっぱいの先っちょだったよね。なんであんなところにピアスしてるの?」
「くっそぉ、腹立つ。男のため、よ。ああいうのがいいっていう男がいるのよ」
「ええ?」
男、というのは榊のおにいちゃんのことを指しているのだろうと思った。
おにいちゃんは、あんなのに興奮するんだろうか。まあでも、彼にはサドっ気があるみたいだから分からないでもない。
「それはそうと、あのピアス、なんかシルバーアクセみたいだったね。リングじゃないピアスなんて初めて見た。おっぱいに刺さっているのも初めて見たけど」
「ふん、へんなとこ、よく見てるじゃない。ほんと気持ち悪い。あれはね、会社の社員証みたいなもんよ。うん? ……じゃなくて、むしろ首輪みたいなもんかしら」
首輪? 首輪とは、妙な表現をする。
「何なの首輪って。会社の飼い犬ってこと?」
「いやみで言ってるつもりだろうけどね、当たりよ。うちの会社は表向きまともだけど、裏では非合法なこともやってる。それで社員はみんな、何某かの『印』を付けることを義務づけられているの。絶っ対に辞められないようにね。うちの社長、冷血動物みたいな白人男なんだけどさぁ、これが怒らせるとおっかないのよ。私が勤めていた三年で、何人も社員が殺されたわ」
「なにそれ、どういう会社なの、なんでそんなとこ勤めてるの?」
「うちの会社のことはさっき話したでしょ。何度も言わせないで、めんどくさい。海外にも展開している、非合法の、外資系会社。世間には普通を装ってるけど、裏では命を動力源にしていた古代文明を研究しているのよ。勤めてる理由なんて決まってる。会社に必要とされているからよ。私ね、これでも会社からは重宝されてるんだから。なにせ最初っから遺跡のことも知ってたし、強靱な命も持ってたし」
CAは左胸に手を当てた。
「このピアスはね、ウェールズにある遺跡から発掘された遺物を加工して作られた特別品よ。社長が手ずから嵌めてくれたの。うふっ、あれ痛かったわぁ。でも、気持ち良かった。これで私はあの人のものになるんだと思うと、下っ腹がぞくぞくしたわ。こうやって取り付けられた『印』はね、許可なしに取り外してはいけないことになってんの」
てっきり榊のために自分でピアスしたと思っていたものだから、ユウは驚いた。
しかし非合法というのは、どういう意味だろうか。
単なるブラック企業などとは違う気がする。
最初に出くわしたとき、女は部下に榊を殺すよう命令していた。非合法とは、おそらく利潤のためならばなんだってするという意味ではないだろうか。
違法なことに手を染めてまでも、その会社はこれらの遺跡群を研究している。
それだけの価値があると考えているからに違いない。
会社が広く海外まで展開していることを考えると、どうやらこの遺跡と同じ文明系は、自分が思っていたよりもずっと壮大な規模で世界中に存在しているようだ。
それにしても、その白人社長というのはなんて奴だろうか。
さっき女が口にした『男』というのは榊ではなく、この社長のことだったのだ。
新人の女子社員の乳首にピアッシングするなど、怖気が走るほどのサディスティックな変態だ。榊のおにいちゃんなんて比じゃない。
白人の社長が女を自室に呼びつけて、上半身をはだけさせるところを妄想してみた。
これから行われるであろう行為に不安と期待を感じている女に、痛みを伴う『印』を付ける。
針が乳首を刺すとき、社長は、女は、いったいどんな表情をするのだろうか。
「あんた、変なこと、想像してんじゃないでしょうね?」
棘のある女の声で、妄想から引き戻された。
いけない、いけない。まったく、自分で自分が恥ずかしい。
その後またしばらく無言で歩いたが、先ほどまでの緊張感はいくぶん和らいでいた。
途中の道筋を確認するため、ユウは再びスマホを開いた。青と赤が混じった光が、顔を照らす。
それを見て女がぼそりと言った。
「そういうサイト、まだあるのね。散々潰したのに。いったい誰が管理してんだか。ここがうちの社の私有地になってから、入って来た奴ら片っ端から殺してやったんだけどね」
そういうことをしていたら、なおさらなくならない気がするがユウは黙っておいた。
暗闇に目が慣れていると、この色鮮やかに光る画面は目に痛い。映っている画像もすぐにははっきりと見えなかった。
ふと、ユウは何気なくスマホを開いたまま、動かしてみた。
画面の形をぼんやりと保ったまま、色の着いた光が残像として残る。右へ、左へと動かすと、光の残像は流れる帯のように宙を舞った。
そんなことをしていると、光の帯の向こうで何かが動いたように見えた。
それは小さな子供に思えた。
髪は少し長くて肩までかかっている。赤い服を着て、スカートをはいていた。幼稚園くらいの女の子だった。
その姿にユウは懐かしさを感じた。
その女の子は後ろ向きで立っていた。後ろで両手を組んで、ちょっとだけつま先立ちになっている。
ユウはその子の名前を知っている気がした。
心の中でその子に呼びかけると、まるで聞こえたかのようにこちらへくるっとターンをして振り返った。
前髪が目元までかかっており、顔はよく見えない。
その子はやおら片手を上げると、大きくこっちこっちと手を振った。そして再び背中を向け、足早に走り出した。
「ま、待って!」
ユウは驚いてその子を追いかけようとした。
「ちょっと、突然どうしたって言うの?」
CAは怪訝そうに問いかけた。
だがユウは返事をしなかった。この女の子を追うほうが優先だった。
「待ちなさいって」
CAに肩をつかまれ、走りだそうとするところを引き止められた。
ユウの見ている前で、女の子は闇の中へと走っていき、その姿はふわっと煙のように消えてしまった。
「あ、え、あれ?」
「なに、なんか見えたの? あたしには何も見えなかったけど」
「女の子がいた。僕を手招きして、走って行った」
「何言ってんの。あたし、夜目がきくんだけど、誰もいなかったわ」
話しながらCAは眉をひそめた。
そして次に、何か思い当たることがあったのか、含むような笑いを浮かべた。
首をやや傾けて、ユウを斜めから見下しながら説明をした。
「あんた、幻を見たのね。暗闇で光が動くのを見ると幻覚を見やすいって言うわ。でも、単なる幻ってわけじゃあなさそうね」
「幻? あの女の子は、現実じゃない……?」
たしかに、ここに来るまでに何度か同じように女の子の姿を幻視していた。
さっきのもそうだったのだろうか、それにしてもかなりはっきりと見えた幻だった。
「あんた、ここへ前に来たことがあるでしょ」
「え? あ、うん」
「そのときの光景が、幻となって蘇ってるのね。面白いわ。ずっとずっと昔の、物心つくかつかないかの幼い頃の記憶が呼び覚まされているってわけね。くくくっ。あははははっ」
CAは両手で腹を抱えるようにして呵々大笑した。体を『く』の字に曲げて、目を細め、赤い唇を大きく開けて笑っていた。
「何がそんなにおかし……」
このときになってユウはようやっと、女がさっきから両手を自由に使っていることに気が付いた。
両手は榊によって後ろ手に縛られていたはずだ。いつ外したのだろうか。
瞬間、女への恐れでユウの体は凍り付いた。
かじかむような手を無理矢理動かして、刀の柄を握る。
女が笑いを止め、自然な足取りで懐に入ってきた。
あっ、と思ったときには刀の柄を押さえられていた。これでは刃を抜けない。たとえ抜いても振る間合いがない。
「昔のこと、覚えてないんでしょ? 思い出したいんでしょ? あたしが協力してあげるわ。そのときと同じ状況になれば、思い出しやすいかもよ、ふふっ」
そう言ってCAは、ユウの頭に手を乗せた。
しまった、と後悔するが遅かった。
榊のおにいちゃんは、触れられるなと警告したはずだ。だが易々と触れられてしまった。
最初は頭を触られる感覚しかなく、何も起こらなかった。
拍子抜けしていると、急激に胸の中に言いようのない恐怖心が沸き上がってきた。
悪夢のなかで得体の知れないものに追いかけられる感覚に似ていた。
理屈ではない、根源的な恐怖がユウの心と体を侵食し始めた。心臓の鼓動が速くなり、汗が背中を流れ始める。
ユウは後ずさって、女との距離を取った。
刀を抜いて切りつけようなどという考えは出てこなかった。
「さっき質問してきたわよね? これが『命術』よ。体の機能を増幅させたり、触れた命に干渉したり出来る。肉体にも、精神にもね。ま、一種の魔法だと思えばいいわ」
喘ぐ息を吐き、恐怖にかられながらも、CAの顔を見た。
嗜虐的な笑みだった。
「安心しなさい。そんなひどいことはしないから。ちょっと、恐怖を煽っただけよ。あたしに対する恐怖をね。大人は恐いものよぉ。さあさあ、お逃げなさい」
そのとき、ユウは手を誰かにつかまれたような気がした。そのまま弾けるようにして走り出す。
手は誰かの手につかまれたままだ。引っ張られ、逃げる先を誘導されている。
「ほおら、はやく逃げないと追いついちゃうぞお」
後ろからおどけた女の声が聞こえてくる。それすらも怖ろしく感じる。頭の中が恐怖でまっ白になる。
ユウはがむしゃらに走った。
手に持ったライトは大きくぶれて、道具としての役割を果たしていない。
闇でほぼ何も見えない状態でただひたすらに走り抜けた。なのにどういうわけか、道に関して心配はしていなかった。
手を引いてくれる誰かを、自分は信頼しているようだった。
自分の手を見ると、小さな紅葉のような手がつかんでいる。
つかまれている自分の手も、また同様に小さくなっている。ユウの体は幼い頃の姿に変わっていた。
自分をつかんでいる手の先に、女の子の姿があった。
闇のなかで陽炎のようにゆらめきながら映っている。消えたり、浮かんだりを繰り返しながら、ユウの手を引っ張って懸命に走っている。
自分たちは二人して、何かから逃げているようだった。
それが何かは分からないのだが、とても恐ろしいものだということは知っていた。
道の途中、石壁に横穴が開いていた。
別れ道でも部屋の入口でもなさそうだった。大人一人が身を縮めてようやく入れるくらいの大きさだ。
女の子はユウを引っ張り、その穴へと入って行く。
ユウもそれに続いた。
「ちょ、ちょっと! あんた、どこ入っていくのよっ」
恐ろしいものが声を発して、驚かしてくる。
まだ小さな子供の自分たちには、あれは怪物にしか思えない。
「そっちは正しい道じゃないわよっ! さっきあんたのスマホ見てマップを確認したから、間違いないって。そんなとこ入ったらどこに出るか分からないわよ! おいちょっと、聞いてんのか、こらっ!」
無視して穴の中へ入ると、同じスペースでずっと狭い通路が続いていた。
通風口か下水道のようだった。
まるで蟻の巣か、地中に住むほ乳類の巣を思わせる造りだった。
這って四つん這いで進んで行く。
この先がどこに続いているのか知っているような、そんな気がする。
「こ、こんな隠し通路があるなんて。これはあたしたちも把握してなかったわ。いったい、どこへ通じているの? まさか……」
女の驚く声が、ほぼ真後ろから聞こえてくる。
悲鳴が喉元まで出かかる。
慌ててスピードを上げて四本足の獣のように駆けた。
急に体を支える床がなくなった。穴の出口に出たようだ。
ふわっと浮くような感覚のあと、空中で半回転し、どすんと落ちてしたたかに背中を打った。瞼に光を感じた。
恐る恐る、ゆっくりと目を開くと、そこには別の星にでも迷い込んだかのような光景があった。
右へ、左へ、顔を向けて眺めてみる。
青い世界だ。
広い空間を、青い光が満たしている。
陽の光が一切差さないこの地下に、こんな明るい場所があるとは驚きだった。
青い光は粒子のように宙をたゆたい、渦を巻いている。
奇っ怪にねじ曲げられた背の高い植物が生い茂り、淡く発光している。同じく青く光る蔓草が、蛇のようにして辺り一面をのたくっている。
さらに奥には広大な泉が広がり、水面は藻や水草によって青と緑のコントラストが描かれていた。
そしてその泉の中央に、巨大な粘液の塊がそびえ立っていた。
藍と黒を混ぜ込んだような汚い青色をして、表面は所々不気味に盛り上がっている。見上げるほどに高い。
枝のようなものも伸びていて、見ようによっては巨木にも見える。
ここがどこかなど考えるまでもない。
そこはまさしく、榊とともに目指してきた遺跡の最深部に違いなかった。
「ここ、ここって......!」
ユウはこの場所に、はっきりと見覚えがあった。
幼い頃、遺跡に迷い込んだときに自分はここまで来ていたのだ。
あの女の子と一緒に。
それは偶然、辿り着いたのかもしれない。
あの狭い通路の入口は、子供でなければ入れない、入ろうとは思わない穴だった。
必死で逃げて逃げて、穴に飛び込んで、そしてここへ辿り着いたのだろう。
必死で逃げて?
痛みをこらえ、立ち上がる。
そうだ、あのとき確かに何かから必死で逃げていた気がする。
「やっぱりここに繋がってたのね。そう……、なるほど」
CAが高い岩壁に開いた隙間から顔を出していた。
思ったよりも高い場所にある。あんな所から落ちたのかと思うとぞっとした。
CAは両足を穴の端にかけて、軽やかに飛んで降りた。
「ふー、さあて。どう? 何か思い出したこと、ある?」
「僕は、僕たちは、逃げていた。何から逃げていたんだろう。とても恐ろしいものから逃げていたと思う」
CAはさも可笑しそうに、手の甲を口元に当ててくすくすと含み笑いをした。
「それはそれは、ずいぶんと恐いものだったんでしょうねえ」
その物言い、その笑いに不穏な様子を感じ取った。
この女が敵であることを自分に言い聞かせる。
刀を鞘ごと両手で持ち、近づくのを拒否するように真横にして構えた。
「なんなの、その態度。気に入らないわね。だいたいその刀、あなたが思っているよりもずっと貴重な代物なのよ。個人で所有して良いものじゃない。それは、私の勤めている会社へ持ち帰ることにするわね。悪く思わないで頂戴ね、と」
CAはユウのほうへ歩み寄りながら、片手をおもむろに伸ばしてきた。
ユウは柄に手をかけ、刃を引き出した。
鍔と鯉口の間に、赤銅色の刀身が鈍く光る。
「無理しなくてもいいわよ。足がふるえてるわ……。さっきの命術の効果がまだ残っているのね。一度組み込んだ恐怖はそう簡単に拭えないわよ。さ、その刀を渡して」
指摘されたとおり、体は恐怖で竦んでいた。足はももの辺りから足首まで微細な震えが続いている。
ふわふわと浮いているようで、走って逃げようにも力が入らない。せいぜいが足の裏をずりながら後ろに動くのが関の山だった。
女に距離を詰められた分、後ずさる。
それを何回か繰り返したところで、右側の視界に何か奇妙な紋様が見えた。
大きな葉っぱを思わせる模様だった。
どうやらその葉の模様は、岩壁の上に描かれているようだ。
周囲の岩肌と比べ、紋様のある箇所だけ質感が異なって見える。岩壁に空いた穴を、粘土のようなもので埋め固めたみたいだった。
あれはまさか、榊のおにいちゃんと合流する約束をした、例の仕掛け扉なのでは?
根拠はないが、そう考えた。
もしそうなら、その向こう側に榊のおにいちゃんが待っているはずだ。
ユウは扉の向こうに榊の存在を意識して、大声を上げた。
「おにいちゃんっ! 僕はもうこっち側に入ってるよっ!」
女がちら、と壁へ目を向けた。
返事はない。
ユウは焦りを感じた。
榊のおにいちゃんは、まだ仕掛け扉に辿り着いていないのか? やっぱりあれは仕掛け扉ではないのか?
このままでは、女に大事な預かり物の刀を盗られてしまう。
この状況は、自分で切り抜けなければいけない。しかし果たして、榊のおにいちゃんでさえ勝てるかどうか分からないと言ったCA相手に、どうすればいいのか。
背中にごつごつとした固い岩の感触がした。
後ずさり続け、とうとう壁側に追い詰められてしまったのだ。
葉の模様のある箇所が自分のすぐ右手にあるのは、無意識にその方向へ移動していたからだろう。
刀を切っ先まで抜いて、ユウは女に対して正眼に構えた。
刀身がゆうらゆうらと揺れて定まらない。自分でも恥ずかしいほど慄いている。
「やめとけば? 素人が刃物振り回すもんじゃないわ。剣道三倍段って言うけどねえ、裏を返せば習得にはより努力が必要ってことよ。下手すりゃ自分の体を切っちゃうわよ。悪いことは言わないから、ケガしないうちに私に渡しなさい。そうすれば別に危害は加えないから。安心していいわよ」
ユウはそれでも構えを解かなかった。
女の言葉を信じたい気持ちもあったが、刀を渡せば何をされるか分からない。
肩に、手が触れた。
あっと思った瞬間にはもう、ユウの体は崩れて落ちていた。
触れたのが目の前にいた女の手だと、倒れ伏してから気が付いた。
全身にしびれが這い回る。指先を動かそうとするだけで電流が走る。長時間、正座したあとのしびれを何倍も強くしたような強いしびれだった。
つま先から頭のてっぺんまでくまなく、激烈なしびれが這い回っている。
「痛い? ね、痛いの? ほら」
背中を女の指がつついた。その場所を中心にして体がひびわれるような強烈なしびれが生じた。
悲鳴をあげようとしても、声にならなかった。
「大丈夫よ、死にはしないから。一時間もすれば感覚も戻ってくるわ。さ、刀をもらうわね」
女が刀を取り上げようと、ユウがかろうじて握っている柄に手を伸ばした。
指に力を込めて抵抗しようとしてみる。
しかし指の感覚がぼんやりとして、自分の手が棒のようだった。なんとか声だけでも出そうと、吐く息とともに声帯を動かした。
「や、め……」
「あら、喋れるの。すごいわね」
そのとき、葉の模様がある壁の奥から小さな物音が聞こえた気がした。
じりっと、靴が地面を踏む音に思えた。
続いてくぐもった男の声が、扉を挟んで聞こえてきた。
「ユウ……。そっちにいるのか……」
「お、にい……ちゃん……!」
やはり、あの紋様の壁は待ち合わせをしていた扉だった。榊はたった今、その場に来たようだ。
「どうやって入った……。あの女もそこにいるのか……」
CAがおどけて代わりに返事をした。
「いるわよぉ」
「ちっ。ユウ……、今ひょっとしてやばいのか……」
ユウは助けを求めたかった。しかし、しびれが強く、声がなかなか作り出せない。
CAがまた代わりに答えた。
「うん。すっごく、やばいわぁ」
扉を介して、榊の気配が強くなった。
なにか怒りに似た感情が伝ってくるように感じられた。
CAもまたユウと同じように感じたらしく、面食らったように少しのけぞった。
「助けがいるのか、ユウ。だけど刀はお前が持っている。お前自身でなんとかするんだ」
CAは刀の柄を持ったまま引っ張った。
ユウの指が柄から離れず、片手が釣られて持ち上がる。身悶えするようなしびれが肩から放射状に飛び散った。
自分でなんとかしなければ。そんな思いが頭を支配した。
榊のおにいちゃんは助けに来られず、女は無情にも自分を痛めつける。
刀を奪われたら、次は多分切られるだろう。
柄にへばりつかせている指を離したら、一巻の終わりだと思った。
「このガキっ、なんで」
CAが苛立って、何度か柄を振り回した。そのつど、ユウの手が凧糸のように引っ張られ、伸びたり、たわんだりした。
そして、そのたび、痛みを伴うしびれが生じた。
「手、離せって!」
持ち上がる右手の、脇の下を蹴られた。
パンプスの尖った先端が肋骨の間にめり込んで、凄まじい痛みとしびれが襲った。
銃弾で撃たれたように体がびくりと跳ねる。
ユウは歯を食いしばってこの痛みに耐えた。
「あんたねえ、やせ我慢も大概になさい」
CAは今度は背中を踏んできた。踏んでから、背骨を探すように動かし、踵でぐりぐりと捻って踏みつけてくる。
扉からの気配が、より濃厚になった。
怒り以外にも、暗澹とした感情が色々と綯い交ぜになって伝わってくる。それが扉から周囲の壁へ、空気へ、染みてくる。
CAはユウを踏みつけながら、扉に向かって言葉を投げかけた。
「あんたもさあ、何そこで傍観決め込んでんのよ。その気になれば、一人でもこっちに来られるんじゃないの? あんたとはちょっと話したいことがあんのよ。さっさとこっち来れば?」
言い終わったあと、踏んでいた足をふり上げた。膝が宙で止まる。短いスカートがめくれ、白い太股が露わになる。
そのまま、がんっ、と激しくユウを踏んだ。
ユウは何度も攻撃されるうち、段々とこのしびれに耐えられるようになってきた。
かなり強烈だが、それでもさっきよりかは抵抗できそうな気がする。声も、今なら明瞭に出せそうだと思った。
「おにいちゃん、大丈夫、ちょっと……待ってて」
頭を上げ、上半身を起こした。
左手で体を支え、感覚のない膝を地面につける。
女が驚愕の相で目を瞠っている。
女の足を背に乗せたまま、ゆっくりと立ち上がろうとした。
CAは驚きつつも、感心した様子を見せた。
「あんた、やっぱり……」
力を込めれば、痺れが引いてくる。
ユウの体は次第に、感覚が戻ってきた。
支えていた左手を地から離す。まだ背に女の足が乗っている。あまり触りたくなかったが、女のふくらはぎを手で払ってどかした。
立ち上がり、足の指で大地をつかむようにして、下半身を安定させる。
しっかりと二本の足で立つことができたところで、ユウは刀を取り合っていた右手を真下へ思いっ切り振った。
空気を切る音が鳴る。
CAの手が柄から離れて、なんとか刀を取り戻すことに成功した。
そのまま構えつつ、背を岩壁にあずけてもたれかかった。
相手がすぐに攻撃してこないことを確認すると、ユウは目を離さないよう気を付けながら、後ろ手で刀の切っ先を背中側の岩に突き立てた。
この刀の異様な切れ味から、ひょっとして石も切れるのではないかと考えた。
事実、最初に榊が刀を振ってCAに避けられたとき、足元の岩場を切ったように見えたのだ。
切っ先は何の抵抗もなく岩壁に切り入った。
ともすればそのまま勝手に刃だけがずぶずぶと埋もれていきそうになる。推測通りとは言え、岩すら難なく切り通すその切れ味にユウは内心おののいた。
これなら、たぶんできる。確信を持った。
「おにいちゃんっ、下がって!」
感覚だけで、背中側の仕掛け扉のほうへ刀を振り抜いた。
するっ、と抜けるようにして岩壁を刃が通った。
続いて扉のところで厚い肉を切るような感触がした。そしてそのまま刀は振り抜いた方向へ通り抜けた。
扉を切るとき、何か弾けるような感覚が刀を伝わり、続いて火が消えたときに似た喪失感を覚えた。
びしゃっと汚い音を立てて、扉が崩れて落ちた。
「あーあ。この遺跡にたった一つ残った貴重な仕掛け、壊しちゃって。まだ解析が済んでないのに、もったいない」
崩れた扉は、腐りきった死体のように変わっていた。
それを足蹴にして奥から榊が姿を現した。顔はいつものへらへらした表情だった。
さっきまで伝わってきた仄暗い感情は、微塵も感じさせなかった。
「よくやったな、ユウ」
「おにいちゃん。はい、これ」
榊はユウから刀をもらい受けると、刀の感触を確かめるように、びしっと一回強く空を切った。そして片手だけで刀を持ち、だらりと下げた。
肩の力の抜けた、自然体の構えだった。
実に様になっている。刀が腕の延長に見え、切っ先まで神経が通っているように感じられる。自分とは大違いだ。
「あんた、私の命術に耐えたわね。やっぱり、やっぱりそうだったのね」
「おまえ、なにぶつぶつ言ってるんだ。それより、なあ、ユウ。この場所、何か思い出さないか? 小さい頃、この遺跡に入ったんだろ? そのとき、この場所まで来てたんじゃないのか。どうなんだ」
言われて、ユウはあらためて周りを見渡した。
青白く燃えるような灯りを点し、奇妙な草がねじ曲がりながら宙に向かって伸びている。
何本も、何本も、何かをつかもうとしているかのように伸びている。
それらの向こうには、大きな泉が湧いている。水草と藻が、泉の端を覆っている。
水は澄んで冷たそうだ。青い光に当てられて、泉の水面が、青、白、緑、と明滅する。絶えず湧き続ける水が底の砂を巻き上げ、水面に波紋を立てている。
そしてその泉の中心に、先程も見た不気味な外観をした物体がそびえていた。
それは巨大な樹に似た何か、だった。
薄汚れた感のある、半透明の濁った青色をしている。表面は不規則に隆起し、太い静脈が絡まり合っているかのようだ。
ユウの目には、ぶよぶよとして柔らかそうな質感に見える。
仮に樹と表現するとして、その大きな樹は人が抱えられないほどの太さを持ち、見上げれば遺跡を真っ直ぐ貫き通すように屹立していた。
枝のように見えるものは、気色悪い触手にしか見えない。非対称に生え、遠く、岩壁にまで延々と伸びている。
伸びて届いた先の壁で根を張るように引っ付いている。枝のほうは鮮やかな青色をしており、葉も花も一切ない。
樹と表現してみたものの、ユウの知る植物とはおよそ似ても似つかないものだ。
ふと、ユウは泉のふもとに誰かが立っているのを見た気がした。
また、あの女の子だ。
小さな手をこっちに振っている。
女の子は泉に足を踏み出した。ユウは思わず、「あっ」と声を出した。
だが女の子は水に落ちず、水面を渡っていく。
水の上にまで太く張り出した樹の根を選んで踏んでいる。その先には青色のおぞましい樹が待ち構えている。
ユウは自分の頭のなかに、落雷が落ちたような衝撃を受けた。
幻は消えた。
足元をじいっと見て、必死に記憶を掘り返す。
これは、いつか見た光景だ。このあと、女の子はどうなった。どう、なった?
幼い頃とは言っても、忘れてはいけないはずだ。
ここで自分は何を見た。
どうして、忘れていたんだ。
いつの間にか、ユウ自身が泉の水際まで来ていた。後ろには、榊のおにいちゃんとCAの気配がする。
二人は殺気だけで牽制し合いながら、ユウのそばに立っている。
「どう、だ。何か思い出したか」
「ぼ、僕は、確かにここに来たことがある。女の子が一緒だった。それで、あの樹みたいなもののほうへ」
ユウが樹の根を踏んで水面を渡り始めると、榊が柄になく真剣な口調で警告してきた。
「おい、アレにあんまり下手に近づくなよ。触れたら最後、捕食されて終わりだぞ。そうなったら俺でも助けられん」
「捕食? まさか、おにいちゃんが言ってた命を吸うシステムなの? あの変な樹が?」
「ああ、そうだ」
頭のなかに、過去の映像が断片的に蘇ってきた。
あの女の子は、自分を連れて何かから逃げていた。それはとても恐ろしいものだった。逃げて逃げて、そしてここへ辿り着いた。
逃げられたのは良かったが、代わりに今度は出られなくなった。
帰り方は分からない。一日、二日とこの場で寝泊まりした。持っていたチョコや飴を食べて過ごした。
不安もあったが、二人なら寂しくはなかった。大人たちがいつか助けに来てくれるのでは、という淡い期待もあった。
綺麗な泉とその中心にそびえる不気味な樹には、二人とも好奇心を強く刺激された。そこの泉の水を飲んだし、体ごと漬かって水遊びもした。
気味の悪い樹にはあまり近づきたくなかったが、恐い物見たさもあって少しずつ近寄る距離を縮めていった。女の子も負けじとこの樹へ近づいた。
ついに数日後、女の子がその樹の根元にまで渡った。無邪気に素手でぶよぶとした幹に触れようとした。
ユウはおおよそのことを、思い出した。
あまりのことに慄然とする。意識が白くなりかかる。
背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
CAに与えられたしびれはとうに消え去り、代わりに小刻みに体が震動し始めた。
榊が頃合いとばかりに話しかけた。
「ユウ、どうして俺がお前をここへ連れてきたと思う」
「ど、どうしてって、僕が遺跡へ行きたいって頼んだから……」
「そうだ。だけどもとはと言えば、お前が三歳のときに体験した神隠しを解明するためだったんじゃなかったか? お前は自分と一緒に消えて、ついに帰って来なかった女の子のことを気にかけていただろう」
そうだった。自分は、あの子の行方を探すためにここへ連れてきてもらったんだった。
ユウの足に、何かが当たった。
草ではない。石でもない。柔らかい、布のような感触だった。
奇怪な草を手で払って掻き分けると、幼児用と思われる小さな靴があった。年月と水と泥で、ひどく汚れていた。
それでも元の色合いといい、柄といい、愛らしさの欠片は残っていた。小さな女の子のための靴だとすぐに分かった。
それを掬い上げるようにして、両手で拾い上げた。小さな靴を乗せる手が震えている。視界が霞んでくる。
瞼を閉じれば、頬を熱い涙が伝った。
「ユウ、俺はな、お前がここで何があったのかを思い出して欲しかったんだ。ただ遺跡見学をさせるためじゃなかった。昔のことを思い出してもらって、それを踏まえてお前に言いたいことがあったんだよ」
「僕は、ここに女の子と一緒に来た。あの子は樹に触れて、それで、それで……」
言い淀んでいると、後ろから脛を蹴られた。
蹴ったのは女のほうだった。
「思い出したなら、言ってみなさいよ」
榊が女を睨む。
女は動じず、無言でユウのそばへ寄った。
「言えないんなら、代わりに説明したげよっか? 私の命術に耐えられるっていうことはね、あんた、命が強化されているのよ。潜在的に命術の素養が備わっているんだわ。それはつまり、こういうことね」
白い指をタクトのようにかざして、CAは朗々と語り始めた。
「あんたは三歳のとき、幼馴染みの女の子と一緒にここへ来て、帰れなくなった。そして女の子はそうと知らずにあの樹に触ってしまって、命を吸われた、と。ここは命を燃料に変換する工場のようなもの。吸われた命は即座に汎用エネルギーへと変えられ、あんたの前に現れた。ほら、あそこ、見てみなさい。壁まで伸びる枝の途中、一部だけ色が濃い固そうな出っ張りがあるでしょ。あれは実が生った跡よ」
「実が、生った?」
「そう、あんた、二週間近く行方不明だったじゃない。食べ物はどうしてたの。お腹が減ってたんでしょ。あんたはね、女の子が形を変えた命の実を食べたのよ。空腹に耐えられなくなって食べちゃったのよ。そして命が強化されて、しばらく何も食べなくても生きられた。自力で帰ることもできた。単なる推測だけど、あたしの命術に耐えたのがその証拠だわ」
ユウは自分がかつて言った言葉を思い出していた。
一緒にいた女の子はどうしたの、と大人たちに聞かれたことに対し、こう、答えた。
『食べちゃった。』
分かっていたんだ。口にしたものが何なのか。
なんとなくかも知れないが、うっすらと分かっていたんだ。
だからそう答えたんだ。
僕は――。
僕は、小さい子供の頃のこととは言え、なんてことをしたんだろう。
取り返しのつかないことをしてしまった。
あんなに仲が良かった女の子を、本当に、食べてしまったのか。
しかも薄情なことに、自分はあの子の顔も、名前も思い出せないのだ。
自分が心底、嫌になる。
「ユウ、大事なことを聞くぞ。お前、そのとき、なんでここへ来るはめになったんだ?」
榊に問いかけられ、はっと顔を上げた。はらっと涙が落ちた。
手のなかの靴に涙が吸い込まれていく。
「僕は、僕たちは、何かに追いかけられていた。あ、あれは」
ユウは首をゆっくりと少しずつ回した。
淀んだ青色の樹、触手を思わせる枝ぶり、太い根でできた架け橋、視界がハンディカメラで撮影しているように移っていく。
水草の浮かぶ水面、奇妙に伸びた草、渦巻く青い光、そして影、人の足、グレーのスーツ。
視界の隅に、女をとらえた。
黒い髪に、白い顔。目が合うと、にいいっと唇を曲げた。
それは赤い亀裂のような、薄気味悪い笑い方だった。
ユウは息を飲んだ。
笑いの意味が理解できた。
「やっぱり、そうか」
榊が苦々しく吐いた。
「なあ、ユウ。お前の手前、我慢してきたが、俺はもう限界だ。あの女を生かしておいたらこの先、何人犠牲になるか分かったもんじゃない。俺はあの女を殺すぞ」
「そ、それは……」
「お前に自分で思い出して欲しかった。前もって情報を教えなかったり、この女と二人っきりにさせたり、そんな回りくどいことをしたのも全部そのためだ。俺はその上でお前に納得して欲しかったんだ」
女が、あははっと甲高い笑い声を上げた。
「律儀なことねえ。イカれてるかと思っていたけど、意外だわ」
「おにいちゃん、そんな、なんで? だって、二人は付き合……」
「なにをまだ寝惚けたこと言ってんのよっ!」
笑い声から一転、女は怒鳴り声を上げた。
上擦って、聞くと心がざらつく声。何度も聞いたものだ。
悲しいことに、昔からの癖でその声色に身が竦んでしまう。
「そんなの、見せかけに決まってるじゃない。まあ……こいつとの関係も、それなりに楽しかったけどさ。全部上っ面の付き合いだったのよ。そもそもこいつはね、自分の復讐する相手を精神的に追い詰めるために、住んでる家までやって来たのよ。ほんの二回会っただけの奴が数年後に住所を突き止めるなんて考えもしなかったわ」
「俺も必死だったんだよ。手がかりがほとんどなかったからなあ。『会社』経由で調べるのは無理そうだったし」
ユウは榊の変化に気付いた。
榊の顔付きが、言葉を発するたびに徐々に変わっていく。
「だから、この遺跡のそばの住人に片っ端から聞いてまわったんだ。情報は足で稼ぐってことだな。そしたら興味深い話を聞くことができたぜ。当時は頻繁に行方不明事件が起きて、子供が何人も消えたそうだな。唯一の生還者は小学校高学年の女子で、しかもこの子は何度も行方不明になっちゃあそのたびに一人だけ帰ってきたらしい」
ユウは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
女と榊は、一体、何の話をしているのだ。
「そんなことが何度も繰り返されてよ、町の人間もそろそろおかしいと思い始めた矢先、今度はその子と一緒に、その子の弟と近所の女の子が行方不明になった。で、また姉一人だけが帰ってきた。こりゃ、さすがに怪しまれるだろ。結局すべて事故として扱われたようだが、家族は引っ越しせざるを得なかったみたいだな。ま、引っ越し先を突き止めるのは簡単だったが」
ユウにとっては初耳だった。
その小学校高学年の女子とは、きっと自分の姉のことだ。姉も遺跡で行方不明になっていたなんて聞いていない。
それも、何回も行方不明になっていたとは。
ユウは二人の関係について、若干の疑問を持っていた。その疑問は当たっていた。
二人はこれまで極めて近くにいながら、お互いを常に監視・威嚇し合っていたのだ。
女が上擦った声質のまま、ユウに話しかけてくる。
「あんたさあ、こいつが初めて家に来たときのこと覚えてる? 突然やって来て、家に上がり込んでおいて、それで何もせずにただだらだらと話をして帰ろうとしなかったのよ。私も外の世界ではそう易々と法に触れることはできない。いくらなんでも警察沙汰は個人的にも会社としてもまずいからね。それで対応を考えあぐねていたら、タイミング悪くあんたが帰ってきて鉢合わせになった。とっさに付き合ってるなんて嘘ついて誤魔化したら、こいつはそれを逆手に取って本当に付き合ってるかのように振る舞い始めた。それで平気な顔して何度も家まで来るようになった。私のこと、殺したいほど憎んでいるはずなのによ? 訳が分からないわ。あんた妙に懐いてるけどさあ、分かってんの? この男の性格は尋常じゃないわよっ!」
二人の顔を、交互に見比べた。
ユウと会話をしているのに、二人は互いのちょっとした動作ですら見逃すまいと、睨み合っていた。
瞬きもせず、攻撃的な感情を剥き出しにして、それをぶつけ合っている。
榊のおにいちゃんのこれほど真剣な顔付きは見たことがなかった。いつもへらへらして、どこを見ているか焦点の合わない目をしていた。
それが今、静かに燃える炎のようにたたずんでいる。
女にしてもそうだった。
長い間見てきた相手だったが、怒ることはあっても刹那的で、どこか冷めたところがあった。こここまで激しく感情を爆発させる姿など、記憶にない。
「ユウ、俺は『外』でこの女と会うときは恋人を装っていたが、いずれ遺跡の『中』で出会ったら、そのときは命のやり取りになると覚悟していた。それまでちょっと遊んでみようかなっ……てな。くくっ。この女はな、けっさくなことに、社会人ってだけあって世間体を結構気にしているんだよ」
「当たり前よ! やくざでもよっぽどでなきゃ、街中で白昼堂々人殺しなんかしないわよっ。やるなら法の及ばない、世間と隔絶した世界の中でだけよ。社長にもおおっぴらな事は避けろと厳命されているしね。でも……でも、もう、問題無いわね」
「ああ問題無い。遺跡の『中』は無法地帯だ、お互い遠慮はいらない。それで……ユウ、いいよな? こいつは死ななければいけないんだ。分かってくれ」
二人はどうしても、ここで決着を着けるつもりのようだ。ユウには割って入る勇気は到底なかった。
「一つ聞いていいかしら。さっき、私を拘束したとき、どうして殺さなかったの。絶好のチャンスだったのに。もう、二度とあんな機会はないわよ」
「いろいろあんだよ。ユウの見てるところで殺りたくなかった。お前の口から直接聞きたいことがあった。それに、殺るんなら場所は『ここ』がよかったしな。あと、そうそう。いっぺん、思いっ切り恥ずかしい思いをさせてやりたかったんだよ。裸にひん剥いてな。俺の知ってる女にそんなことされた奴がいる。ちょっとは屈辱を味合わせてやりたかったんだ」
「こんの、ど畜生があ」
「お前にだけは、言われたくないな」
榊はユウに向けて腕を大きく振った。
「ユウ、お前はもう帰れ。道は分かるだろ。帰って、家で待ってろ」
「おにいちゃん、僕も一緒に」
「一緒に、なんだ? やめとけ。それにこれは一対一、タイマンってやつだ。過去の因縁との決着だ。お前は先に帰るんだ」
「そうねぇ。帰って、どっちが戻ってくるか楽しみにしててね」
「行けっ!」
ずりずりと後ずさりしたあと、ユウは踵を返して走った。
途中、崩れた仕掛け扉のところで振り返ると、榊と女が距離を詰めて今まさに互いに手を出そうとしているところだった。
顛末を見届けようか悩んだが、それはかなり危険な気がした。
自分はなんて力の無い、弱い生き物なんだろう。なんて勇気のないガキなんだろう。
自分が情けなくて、悔しかった。
ユウは遺跡の内部を走って戻る間、ただの一度も振り返ることはなかった。
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