第9話 ジュブナイル 5

 ユウは小学生のときに遭遇した事件のせいで、周囲に無頓着な少年になっていた。

 クラスメートとは適当に話し、名前は覚えず、顔すら覚える気にならなかった。

 当然、友人はできず、誰かと遊びに行くこともなかった。

 それで何の不都合も感じなかった。

 自分には、どうしてもやらねばならないことがある。

 それは人の道に外れる行為だが、絶対にやり遂げてみせる。

 それ以外に興味はない。

 ただ、それを為すには絶望的に力が足りない。もう少しあと、大人になるまで、いや、高校生になるまで我慢しよう。

 そして再び、あの遺跡の探索を行うのだ。

 あそこには命を吸って燃料に変え、人間を強化するシステムが今もなお生きている。

 そこで力を得て、数年来の恨みを晴らすのだ。

 そうやって心のなかで計画を立てて、ユウは自分を保ってきた。

 そんなユウに、中学三年になって初めて、友人とは言えなくとも知り合いができた。

 『はぐれ組』の連中だ。

 彼らと交流をしてるうち、復讐心は具体性を帯び始めた。

 ひょっとして、彼らをうまく連れ出して遺跡に入らせれば、計画の第一段階は簡単にいくのではないだろうか。

 ユウの胸のなかに、黒カビのような汚い感情がはびこり始めた。

 いけないと思って何度か理性をもって拭っても、それはまた心の片隅から点々と生えてくるのだった。

 もし本当にあの遺跡まで連れて行くつもりなら、会って話すだけの関係では足りないだろう。

 できるだけ仲良くならなければ。

 そう、考えた。


 ユウは修学旅行中、三人との関係性をより確かなものにすることに努めた。

 特に芙蓉とリースの二人には気を遣った。

 その甲斐あってか、多少なりとも友人と言えるような関係を築くことができたと思えた。

 これなら、あるいは、誘えば遺跡まで付いてきてくれるかも知れない。

 そんなあさましい期待を抱くまでになった。

 だが修学旅行が終わって班は解散となり、自然と元の会話のない関係に戻ってしまった。

 あっさりと振り出しに戻ったのだった。

 内心、ユウはほっとしていた。

 自分の計画は、彼らを殺すことに他ならない。

 修学旅行が終わってしまえば互いに話をする機会も減り、仲が深まる理由もなくなる。

 当然、自分の計画を遂行することもない。

 これでいい、と思うことにした。


 一旦は断念した計画を再び実行する決心をしたのには、奇っ怪な理由があった。

 ある日、自室で勉強していると戸棚からカタカタと物音が聞こえた。

 虫かねずみでもいるのかと思い、戸棚を開けて見ると、袋に入れて厳重に封印していた刀から物音は生じていた。

 急いで袋を外し、刀を取り出すと、音は止んだ。

 この刀が生きていることは知っている。

 ときどき取り出して打粉をかけて磨き、光を当てなければ色合いがくすんで刃が錆色になる。切れ味も格段に落ちる。

 食い詰め学者だった父が最初に発見したときには、これはただのぼろぼろに錆びた金属棒に過ぎなかったらしい。

 発見した際、偶然手から落としてしまい、地面に刺さった刀を引き抜くと新品同様に変わっていたそうだ。

 土の成分を取り込んで蘇ったのだと、あとになって分かった。

 打粉の内容は、刀が取り込む要素を基に調合されている。

 この刀を見つけたことが、父が遺跡探求にのめり込むきっかけになった。

 そしてそれはつまり、家族が全滅するきっかけにもなってしまった。

 ユウにとって復讐心の象徴になる、因縁深い刀だった。

 ユウは刀が手入れを求めていると思い、その日は夜を徹して刀の世話をした。

 しかし、次の夜も、また次の夜も刀は鳴った。

 それはまるで別の何かをユウに訴えかけるかのようだった。

 ユウが就寝してからも、カタカタと鳴り続け、次第にユウの心に圧迫感を与えるようになった。

 刀が鳴るようになってからほぼ同じ頃に、ユウはよく悪夢を見るようになった。

 それは数年前の出来事の夢だった。

 自分にとってかけがえのない人が無残な死を遂げるさまを、目の前で見させられた、あの、思い出したくはない、しかし決して忘れてはならない光景。

 その悪夢を見ている間ずっと、あのカタカタという刀の鳴る音が唸るように続いているのだ。

 刀はこう、言っているように思えた。

 どうして、どうして……平気でいられる。

 自分だけ安穏と暮らして、それで満足なのか……。

 宿っていた憎しみの火は消えたのか……。

 悔しいと思わないのか……。

 お前の感情は、それほど薄っぺらいものだったのか……。

 血で、購え。

 そうでなければ心は満たされない……。

 心を、鬼にしろ……。

 そして悪夢は決まって最後に、死んだ者たちが現れて自分を怨嗟の籠る声で責めるのだ。

 彼らは三人並んでユウに語りかける。

 父と母が両側に立ち、そして姉が中央に少し前に進み出て立っている。

 死んでも死にきれない。

 こんな死は認められない。

 同じく死を与えてくれ、殺した者に、お前の手で死を。

 どうか、お願い。

 お願いよ、ユウ。

 この夢は幾度となく続いた。

 自分なりに分析はしてみた。

 夢は、自分が望んでいること、または恐れていることが現れると言う。

 ならば、この夢は自分の中の願望と恐怖が両方とも顕現したものだろう。

 今の自分では仇討ちなど望むべくもない。

 返り討ちに遭うくらいなら、このまま平穏に暮らしていけばいい。

 だがユウは一足飛びで力を得る方法を知っている。

 自分はそれを実行する寸前だった。

 この悪夢を見始めたのは、計画を諦めてからだ。

 自分はそれを後悔しているのかも知れない。

 これでいいなどと思ってはみたものの、本心ではやはり、人の命を吸って強くなりたいと願っているのだ。

 一方で、強く恐れていることもあった。

 恐いのは人を殺すことではない。

 人の道を外れることではない。

 近い将来に友人になり得るクラスメートたちを死なせることではない。

 恐れているのは、自分の意識から怒りと憎しみが消えることだ。

 だからあんな夢を見る。

 何のことかあらん。彼らのことなど、自分の人生のベクトルの途中で、ほんのわずかの刻だけ交差した者たちだ。

 どうせ高校へ行ったらもう二度と会うことはないだろう。

 それは昔から付き合いのある虎ちゃんでさえもそうだ。ほかの女子二人については、離れた人生のベクトルはそのまま互い違いに別方向へ進み、偶然にも出会うことはない。

 彼らの命なんて、自分の目的に比べたら安いものだ。

 他人がどうなろうと、自分の人生が、自分の目的が、一番の優先事項だ。

 そのために彼らの命を使わせてもらう。

 命を燃料にして、自分の命を磨き、輝かせる。

 結局、自分にとって大事なことは何なのかを再認識することになったのだった。


 そしてユウは、実際に計画を実行した。

 途中までは上手くいっていた。

 まさかの邪魔が入り、計画は断念せざるを得ないかと思いきや……。

 ――まだ、運は自分を見放してはいないようだ。



 今、ユウは芙蓉と一緒に遺跡の下層に向けて走っている。

 あの女は出口へ逃げた虎ちゃんとリースを追っているはずだ。

 こちらへ向かうまでにまだまだ時間はある。

 しかしまずい事態だった。

 よりにもよって、追ってきたのがあの女というのは。

 先程も勇気を持って対峙したが、とても敵うとは思えない。

 だが、このまま進んで最深部まで辿りつけば、あるいは勝機を見いだせるかも知れない。

 考えようによっては、仇がわざわざ探すまでもなく自分からやって来てくれたのだから、手間が省けていい。

 虎ちゃんとリースは無事に逃げ切れただろうか。

 あの女に捕まったらどうなるか、想像に難くない。

 心配だが、自分たちだってまだ危機を脱していない。

 打開策はある。

 このままなんとか最深部まで行って、当初の計画通りにすればいい。

 幸いにして自分一人ではない。芙蓉が一緒にいる。

 一度は戻った良心が引っ込み、また冷徹なユウに戻っていた。

 なぜか胸がじわりと苦しくなったが、気にしてなどいられなかった。

 どれくらい走ったろうか、段々と芙蓉の足元がふらつき始めた。

 呼吸も尋常ではないほどに速い。

 さすがに走りっぱなしは彼女にとって体力的にきつかったようだ。

 後ろを警戒し、止まって一旦、休憩をとることにした。

 芙蓉は四つん這いになって呼吸を必死で整えようとしている。

 呼吸は不規則で、時々口を渋そうにへの字にしたかと思うと、えづいて口から黄色い液体を流した。

 ユウはひとまず彼女を安心させようと、ハンカチを取り出して口元を拭くように促し、背中に手を当てた。

 芙蓉はハンカチで口を覆いながら、自分の背中に伸びるユウの腕を後ろ目で眺めた。

 眼鏡が汗で鼻の途中までずり落ち、長い睫毛が涙で湿っている。

 ユウは背中に当てた手をさすり、大丈夫かと声をかけてみた。

 ひょっとしたら拒絶されて腕を振り払われるかと思ったが、芙蓉はいじらしく、こくんとうなずいた。

 あらためて、周りの景色を眺めてみる。

 地下に埋もれた遺跡だというのに、そこかしこに宿る青い灯火のおかげで遠くまでよく見える。

 テナントの入る前の、空のビルディングのような殺風景な内部構造だった。

 遺跡というと原始的な文明のものを連想するが、ここはむしろ近代の建築物に近いように思える。

 何かの目的に使われていた施設なのは明らかだ。工場か、それとも研究所か。

 中には貴重な遺物――アイテムが残されていた可能性が高いが、残念ながら盗掘に遭って今はもう空っぽだった。

 通路には片側だけ壁があり、もう片側には石室のような部屋がいくつも区分けされて並んでいる。

 こういった部屋に貴重なアイテムがあったのかと考えると悔しく思う。

 それはきっと吸い出した命を用いて造られたのだろう。

 今、手にしている刀と同様に。

 もうあと一つくらい、こういったものが手に入れば、目的の達成がぐっと簡単になると思うのだが、ないものはしょうがない。

 芙蓉の呼吸が落ち着いたところで、二人は再び前へと進み始めた。

 長く休んではいられなかった。

 芙蓉は走るのはもう無理そうだったので、やや早歩きで行くことにした。

 刀は抜き身のまま刃を晒している。危ないと思ったが、あの女の恐怖が抜けきらない。

 まだ追いつかれないとは思うが、抜いたまま持っていないと恐くて堪らなかった。

 刀は芙蓉と反対側のほうの手に持ち、刃が自分の体に触れないよう気をつけて持ち歩く。


 ユウたちが通ると、体温かまたは音にでも反応しているのか、青い光が二人の行く道を先回りするように灯された。

 二人のすぐ近くに広めの側溝があり、水が流れている。

 結構、勢いが強い。

 そこから蛍のような光が舞い上がっている。

 風もないのに吹き上がり、上空へ昇って自ずと消える。

 CAから逃げてきたときと同じように、ユウは芙蓉の手をしっかりと握って歩いた。

 芙蓉は文句は言わず、おとなしく黙って付いてきた。

 歩いていると、その手が突然、痛いくらいにぎゅっと握られた。

 手は小刻みに震えている。

 芙蓉の不安が手を通して伝わってくる。

 安心させるように握り返すと、彼女は小さな頭を上げてユウを見上げた。

 黒い瞳が潤み、睫毛がしとどに濡れていた。


「ねえ……、さっきの女の人が言ってたこと、ほんとなの……」


 言葉少ないが、芙蓉が聞いているのは、CAが口にした『友人を殺すつもりで連れてきた』というくだりだろうと察しがついた。

 ユウは咄嗟に嘘をつこうと思った。

 しかしどういうわけか、口が動かない。

 言葉を出そうとしても、喉はつばを飲み込むばかりで何の音も発しなかった。


「なんで黙ってるの、やっぱり……、ほんと、なんだ。そうだよね、だって、刀であたしたちを脅したもんね……」


 比較的、声は落ち着いているように聞こえた。

 しかし足取りは話すごとに鈍くなっていく。

 握る手はかじかんでいるかのように冷たく、震えていた。

 指は力が入らないのか、掌だけで握り締めている。


「どうして、なんで……? あたしたちのこと、そんなに嫌いだったの」


「違う、そうじゃ、ない」


 やっとのことで返事ができた。

 多分、嘘ではない、本心だから言えたのだろう。


「僕は、どうしてもやることがあるんだ。絶対に、どんなことをしてでも、やり遂げるつもりだよ」


 芙蓉は顎を下げ、うつむいてしまった。

 小さな頭が垂れている。

 髪が周囲の青い光を反射して、艶のある光の輪を成している。


「そのために、あたしたちのことを? そんな、自分勝手な理由で……。あなたって、そんな人だったの、そんな、そんなひどいことを考える人だったの……」


 芙蓉の声は、次第次第にかすれてきた。

 すんすんと鼻を鳴らす音も混じる。


「……そうだよ」


 ユウは絞り出すようにして答えた。

 こんなに言葉を出すのがつらいと感じることは、今までなかった。


「あの人、CAって名乗っていたあの女の人って、何なの。ぐすっ……。知り合い?」


「ああ、うん。数年前に一回会ったきりの、知り合いだ」


 話しながら、脳裏に過去の映像がフラッシュバックした。

 同時に頭の中が怒りで真っ赤に染まる。

 意識せず、手に持つ刀の柄を握りしめた。

 抜き身のままの刃が、青い光を反射する。


「……あいつだよ」


「えっ?」


 突然、怒気を孕んだユウの声に、芙蓉はびくっと肩を動かした。

 涙を隠そうともしないで、顔を上げてユウを再び見上げた。


「あいつだよ。あいつ、あいつだ。僕がやりたいことって言うのは、あの女を……殺してやりたいんだ」


 芙蓉は何も答えなかった。

 ユウもそのあと何も続けなかった。

 しゅー、しゅー、という奇妙な音がすぐ近くで聞こえる。

 どこから聞こえるかと思えば、それは自分の唇から漏れる吐息だった。

 顎を強く噛んで、怒りを抑えていたために、荒い呼吸が狭い歯の隙間から吹き出ていた。

 奇妙な音はそのせいだった。

 芙蓉は恐る恐る、涙でかすれる声で再び話しかけてきた。


「あのCAって人を、なんで、殺したいの? あの人、あなたに何かしたの……」


 またも過去の光景が蘇りそうになり、ユウは激しく頭を揺すって強引にかき消した。

 それでも苛烈な感情だけはさらに積もった。

 これを和らげるには人に聞いてもらうことが効果的だと思うが、果たして芙蓉に話しても良いものだろうか。

 その答えを考える間もなく、勝手に口から言葉が滑り出していた。


「家族を殺したんだ。あいつは」


「えっ……」


「親父はどこの組織にも属さずに、単独で遺跡を探索してた。あの女は企業の社員だって言ってただろ。どっか外国の会社で、こんな遺跡を世界中で研究している。会社にとって親父は邪魔だったんだ。母親も姉貴も、巻き添えで一緒に殺された。運良く僕だけが逃げ切れたんだ」


 喋る合間に、深く何度も呼吸を繰り返した。

 そうすると、段々と心も落ち着きを取り戻してくる。


「仇を討ちたい。だけど、あの女の体は異常だ。まともにやっても勝ち目がない。勝ち目があるとすれば、この遺跡で他の命を吸って自分の命を強くするしかない」


「それ、あの人も言ってたけど、命を吸うって、強くするって、具体的にどうするの?」


「この先、遺跡の最深部に大きな泉がある。そこに不気味な樹が生えてる。それが『命の炉』なんだ。そこへ人間を放り込むと、命の実が得られる。それを食べれば命を強くできる」


 芙蓉が息を飲んだ。

 聞けば馬鹿馬鹿しい話のはずだった。

 だが自分の恨みと怒りに満ちた語り口が、先ほどのCAの話と相まって、嘘や冗談と思わせなかったようだ。

 芙蓉が握る手は、掌も力を失いつつあった。

 前を向いた一瞬、ほほに流れる涙が見えた。


「最初っから、あたしたちをそこへ入れるつもりで、連れてきたのね……」


「そう……だよ……」


 女が余計なことを喋ったせいでばれてしまった。全部、台無しだ。

 しかしユウは諦めきれなかった。

 このまま進んでも仕掛け扉のせいで最深部には入れない。

 だけどほかに方法がないわけじゃない。

 そのためにはやはり芙蓉の協力が不可欠だ。

 なんと言って彼女を説得しようか、そればかり考えながら話していた。

 だが、いくら考えても良い案は出てこなかった。

 当たり前だ。

 殺されると分かって、どうして芙蓉が手を手を貸しくれるというのか。

 そのとき、思わぬ質問が口から出た。


「……戻る?」


 聞いてみてから、何を言い出すのかと自分で自分に驚いた。

 それは長年の計画を諦めるということを意味していた。

 だが……。


「それは、いや」


 芙蓉は、はっきりと答えた。

 たしかに考えてみれば、今から戻るとあの女に出会う可能性が高くなる。

 それもまた危険なことだった。

 いやだと答えるのも仕方がないと思った。

 ところが、芙蓉が次に口にした台詞は、まったくの予想外だった。


「あたしも行ってみたい。その泉に」


 ユウは息をのんだ。


「分かれ道、通り過ぎたけど、もう最深部には行けないの?」


「え……」


 本気だろうか。こいつは、一体何を考えているんだ。


「……行けないことは……ない。これを見て」


 刃に注意して刀を足下に置き、服のポケットから自分のスマホを取り出した。

 この地下遺跡は、どういう理屈か電波がよく通る。

 その理由として、山全体が遺跡なので実際は地下ではないからだとか、遺跡自身が生物としての特徴を持っているからだとか、幾つかの意見をネット上で目にしたことがある。

 『お気に入り』から即座に『遺跡探索』のサイトにアクセスし、この遺跡の三次元マップを選択する。

 3Dで描かれたマップは分かりやすく、現在地もほぼ特定できた。


「この遺跡にはあの女が言ったとおり、隠し通路や横道がたくさんある。もともとの通路だけじゃなく、下水道とか、排気口とか、石が死んで壊れたところとか。それに盗掘した連中が掘った穴もある。今いる場所からほんの少し進んだところに、二股に分かれるY字路がある」


 Y字路とは言うが、もとは一本道だったはずだ。

 それが何者かによって壁や土が掘られ、狭い通路を経て反対側の分岐路にショートカットできるようになっていた。

 ここを通れば当初の計画通り、左右両側から仕掛け扉にアプローチできる。


「そこで別れればいいのね」


「本当に行ってくれるの?」


「ええ」


「それって、どういう……」


 意味か分かってる? と聞きそうになり、やめた。

 分からないわけがないのだ。

 もう彼女は全部知っている。

 自分の目的も、復讐する相手も、その理由も。

 分かっていて、一緒に行くと言っている。

 自分が彼女のことをどう扱うつもりなのか、泉に連れて行ったらどうするつもりなのか、全部承知の上で言っているのだ。

 ユウにしてみれば願ったり叶ったりだった。

 なのにどうしてか、嬉しいとは思えない。

 彼女はいったい何を考えているのだろう。

 自殺でもするつもりなのか。自分が心変わりをすると期待しているのか。ただの興味本位なのか。

 分からない。

 何でも良い、気が変わらないうちに行こう。

 ひとまずそう考えることにした。

 芙蓉のスマホは神社で取り上げてしまっている。ユウは自分のスマホを彼女に手渡した。


「Y字路の左のほうに行って。あとは、この通りに進めばいいから」


「そっちが本来の通路なの? あたしは、べつにどっちでも」


「もう一つは普通の道じゃないんだ。誰かが勝手に作った道だ。狭くて窮屈だろうし、きっと足場も悪い。それにいつの時代にできたものか分からない。短い距離だけど、もし崩れて埋まったら即オダブツだよ。そんなところ、とても勧められない」


「……分かった。それで? あなたは反対側の分岐路に入ったら、そのあとどうやって進むつもりなの」


 芙蓉は手渡されたユウのスマホを見つめた。

 液晶にマップが映されて、ぼうっと光を放っている。


「僕は、道を覚えているから。大丈夫」


「そう……」


 芙蓉はこのやりとりの間も、何故か決して手を離そうとはしなかった。

 握る力はすでに失われ、人の体の一部とは思えないくらいに冷たくなっていた。

 振り払えばほどけるくらいに弱々しいものだったが、ユウにはそんな無下なことをすることはできなかった。

 繋いだ手を通して、何か強い気持ちが伝わってくるようだったからだ。


 Y字路が見えてきた。

 二つの道はわずかな角度で分かたれている。

 分かつ壁には大きなひび割れや、崩れて生じた穴ぼこがいくつも見られた。

 それらは所々で繋がり、二つの道の間にいくつもの風通しを作っていた。

 芙蓉が左側の道を、ユウが右側の道を進んだ。

 ユウが自然にほどけるように気を配りながら、指を広げて手を離した。

 そしてゆっくりと自分の手を彼女の手から引き抜こうとした。

 すると芙蓉はやおら強く手をつかみ直してきた。


「お、おいっ」


 芙蓉はそのまま別れ道を歩いていく。つられてユウも並行するしかなかった。

 二人の腕は、二つの道を分かつ壁の隙間をすり抜ける形になった。

 壁に空いたひび割れに腕を入れたまま、壁際に沿って歩いて行く。その壁の内部で、指がしっかりと握られている。


「このまま、もう少し。お願い……」


 鼻をすすり上げる音が続いた。

 もう顔は見えなくなったが、残りの片方の手で涙を拭いているのが想像できた。

 壁を見やる。

 不可思議な光景だ。

 壁に開いた隙間から少女の手が伸びて、自分もそこへ手を伸ばして、真ん中でしっかりと握り会っている。

 気のせいか、芙蓉の手に暖かみが戻ってきたように思えた。


「あたし、あたしね」


 お互いの姿が見えなくなったからか、芙蓉は泣くのを我慢しなくなったようだった。

 すすり泣く声が、石の壁に反射して遺跡内に響いた。


「あ、あたし、あなたのこと……、すきだったのに……」


 すすり泣きから、うっ、ああっと声を立てて泣いた。

 ユウは自分の耳を疑った。

 なんだ? 今のはいったい、なんだ。

 彼女は、何を言った?

 聞き間違いとしか思えないようなことを、聞いた気がする。

 心が、瞬時にしてさざ波立った。


「も、もう一度、言って。いま、なんて」


 無粋にもほどがあると分かっていたが、聞き直さずにはおれなかった。


「二年生のときから、あなたのことを見てた。こ、こんな人だなんて、思わなかった……。強くて優しい人だと、そうだとばかり思ってた……」


 冷静になって、考えてみることにした。

 いくら何でも、こんなときに告白なんてあり得ない。

 それ以上に、自分を好きになる女子がこの世に存在するとは到底思えない。

 ああ、そうか、と思い至る。

 命乞いなんだ。

 もうすぐ自分が殺されそうなこの状況で、なんとか助かる方法を考えて、情に訴えようとしているのだ。

 きっと、そうだ。

 ユウはそうと結論づけると、心を落ち着けようとした。

 晴天の大海原をイメージする。しかし落ち着いたのは束の間のことで、瞬時にして海は嵐となって掻き乱れた。

 助かりたいなら、一緒に行かなければいい。逃げればいい。命乞いであるわけがない。

 彼女の泣き声が、放った言の葉が、繋いだ手が、指が、嘘ではないと訴えかけてくる。

 なんで……、どうして僕なんか。


「僕のことなんて、何も知らないだろ」


「知ってるわ」


「何を」


「ずいぶん、ひどい目に遭っていたじゃないの」


 思わず、壁に向かって呆けた顔を向けてしまった。

 何を言っている? ひどい目に遭っていたのはそっちじゃないか。

 確かに学校内の認識では、自分も同時期、つまり中学二年のときにクラスから執拗ないやがらせ、いじめを受けていたとなっているはずだ。

 だが、幼少の頃に悲惨な光景を目の当たりにした自分にとって、そんなものはどうでもいいことだった。

 自分にとっては如何にして強さを得て、復讐を果たすかが最大の関心事だった。


「あなたは、誰に何を言われても、何をされても動じたふうはなかった。他人の悪意なんてどこ吹く風で、ときには周囲を威嚇すらしていたように見えた。それが、あたしにはとても、強く、かっこよく見えたの」


「買いかぶりだし、きみの思い違いだ」


 自分は、あるいはすでに数年前に心が壊れていたのかも知れない。

 だからこそ、どんな攻撃にも不感症でいられたのだろう。

 ときには肉体に実害を及ぼすような攻撃をされることもあったが、それだって我慢の必要すらなく、通り雨みたいなものだった。

 度が過ぎれば、あの女への殺意を思い出して睨むだけで相手は怯んだ。

 それでも暴力が収まらないときは、人目のつかないところで塀や壁越ごしに、この切れ味抜群の刀でちくっと軽く貫いてやった。


「あと、それにさ、優しいって何? そんなこと言われたことないよ」


 僕が優しいだなんて、何を見て言っているんだろうか。


「いやがらせをされて困っている人を、助けたりしてたじゃない」


 そんなこと、あっただろうか。

 もしあったのなら、それは自分にも火の粉が降りかかりそうに思えたからだろう。

 自分から積極的に他人を助けた憶えはない。


「修学旅行のとき、リースが大人にナンパされて困ってたときも助けてくれた」


「いや、あれは……」


 班長としての責務を全うしただけだ。


「それにさっきは、あたしたちをあの女から逃がそうとしてくれたわ」


 それは、そうするしか、なかったから・・…。


「あたしは本当はあなたのようになりたかった。でもあたしは、ほかの人がしてくることにがまんできなかった。あたしの持っているものは言葉しかなかったから、言葉で身を守って、言葉で戦うしか、考えつかなかった。それで精一杯で、人に優しくするなんて余裕はなかった。あなたのように芯を強く持ったまま、学校へ通うことはできなかったの。隣のクラスだったけど、あなたのことを偶然見かけたときから、あたしの理想になったの。……ほんとよ」


「だから、それはきみの見込み違いだ。残念ながら、僕はそんな……理想になれるような人間じゃない」


「あなたがどう思おうと、あたしはそう思ったの。あたしの気持ちの問題なの」


 なんて勝手な理屈だろうと思った。

 然して、人の感情なんてものは、勝手なものなのだろう。

 自分の怒りだってそうなのだ。

 お互いの歩く道は少しづつ距離が生じ始めていた。

 壁も厚くなり、腕を通している隙間も狭まってきた。

 袖や手の甲をごつごつとした壁の内部で擦りながら、ユウと芙蓉はそれでも手を繋ぎ続けている。


「でも、でもやっぱり、あなたが言うとおりなのね……。あなたは、あたしが思ったような人じゃなかった。まさか、一緒に旅行に行ったクラスメートを生け贄にしようと考えていたなんて……」


 ユウは何と答えようか、悩んだ。

 けれど悩めばいっそう言葉は出ない。

 そのうち、一方的に芙蓉だけが話しているようになった。

 それも歩き進んで道が離れ、壁が厚くなるにつれて、くぐもって聞きとりづらくなっていった。


「けど……、あなたの……つなら、それでも……」


「生き……も、……らいだけだわ……べつに、いつ……んだって……」


 もう限界が近づいていた。

 伸ばした手は、たった三本の指の腹だけで触れ合っていた。

 芙蓉の指は、冷たくはなく、むしろ熱いほどだった。

 一際高い声が、壁の向こうから響いてきた。

 涙で嗄れてはいたが、厚い壁を通してユウの耳にはっきりと届いた。


「あたしの気持ちは、うそじゃないからっ。あなたはいやかも知れないけど、合流したら返事を聞かせて! どんな答えだっていい! お願いよっ」


 言い終えた瞬間、がつっと手に痛みが走った。

 隙間は途切れ、壁の内部に手が当たったのだ。壁が二人の間を切るようにして遮ってしまった。

 唐突な別れに、余韻に浸る間もなかった。

 芙蓉はまだ喋っているようだった。


「そうしたら、あたし……」


 その言葉を最後に、ついに声は途切れた。

 そうしたら、そうしたらどうするつもりだと言うのだろう。

 ユウの手には、気が強いように見えていたか弱い少女の指の感覚が残っている。

 手の先は彼女の指の熱のせいで、痺れるようだった。

 いつの間にか、天井が低くなっていた。横幅も狭くなって袖を擦る。

 刀をまだ鞘に入れおらず、抜き身のまま引っ提げていることに今さら気がついた。

 あの女への恐怖と、芙蓉との会話に気を取られてそれどころではなかった。

 足元には瓦礫がいくつも転がっていて歩きにくい。明らかにこれまでの舗装された道筋とは異なっている。

 進むうち、少し傾斜が上がってきた。

 身をかがめ、頭を下げて登っていく。

 と思えば今度は急に下り坂となり、細かい瓦礫の上を滑るようにして降りた。

 その先に、反対側の分岐路と思われる道が繋がっていた。ユウは周囲の景観と頭に残っているマップとを対比させ、深部へと向かう道を確認した。


 ユウは一人、青白い灯が淡く照らす石造りの道を歩んだ。

 歩きながら、彼女のことを考えていた。

 さっき言ったことは、いったい何だったのだろう。

 この期に及んで何を言い出すのか。

 まさか、本気なのだろうか。

 正直、疑り深い自分でも、彼女の言葉はやはり嘘には聞こえなかった。

 このまま進めば、彼女はユウに殺されると推測できていたはずだ。

 それなのに、どうしてあんなことが言えるのだろう。

 ユウは自分の頭が混乱して、収拾がつかなくなっているのを自覚した。

 歩いて行くと、どこからか、かん、かん、と音が伝わってきた。

 音の出所を探すと、それは遠く彼方、今自分が歩いている場所と対称的な方角から聞こえてくる。

 芙蓉が歩く足音かと思ったが、それにしては不規則だった。

 音は何かを壁で叩いているのだと気付いた。

 そう言えば、芙蓉は刀の鞘を拾ったままずっと持っていたな、と思い出す。

 彼女はきっとその鞘の端で壁を叩いて、こちらに信号を送っているのだろう。

 試しにユウも刀の柄で壁を二、三度叩くと、それに呼応するかのようにして音が返ってきた。

 いったい何故、音を送るのだろう。

 逃げずに同じ方向へ向かっていると伝えるためだろうか、それとも無事であることを伝えるためだろうか。

 幾ばくか休憩を挟みながら、かーん、かーん、かーん、と音は断続的に繰り返された。

 それはユウが返答をしなくなっても決してやまず、続いていた。

 それを聞きながら、ユウは芙蓉にどんな返事をするべきかを考えた。

 進む先に階段が見える。

 遺跡の最深部へと続く最後の通路だ。

 ここを降りきったところに、例の仕掛け扉がある。

 この階段の壁石も青い光が滲み出していた。

 進む方向を示すように、時折明滅する。神社から降りたときの石段によく似ていた。

 あれは遺跡と同時代にできたものではないとされている。

 こうやって見ると、のちの時代の人間が遺跡内の床や壁石を切り出して勝手に付け足したものだとはっきり分かる。

 明らかに模倣している。

 最初の一段目に足をかけた。

 次の二段目は、足取りが重くて労力を要した。それは単に肉体の疲労だけではないはずだった。

 あの女子は、芙蓉は、自分のことを好きだと言った。

 彼女は自分とは全く状況が異なるにしても、同様に悲惨な体験をしている。

 それは同年代の人間に比べたら比較にならないほどのものだ。

 それなのに、どうして人を好きになれるのだろう。

 どうして人間に絶望しないのだろう。

 どうして世の中を憎まないのだろう。

 自分はこんなにも、他人に対して関心を無くしたと言うのに。

 怒りと憎しみでここ数年、頭は一杯だったというのに。

 芙蓉は性格の悪い女子だとばかり、ずっとそうだとばかり、信じてきた。

 だけど、ひょっとしてとんでもない思い違いをしていたのではないか?

 自分が知っている芙蓉は、話しかければ悪口が返ってくるものの、基本的には冷たい石のような寡黙な女子だった。

 昔はどうだったかは知らない。

 聞いた話しか知らない。

 高慢ちきで鼻持ちならない性格だったと聞く。

 男子が嫌いで特に貶め、また同性の女子とも馴れ合うことはなかったらしい。

 今とはまた違った形で、ひどく社交性に欠ける人間だったようだ。

 だけど、実は彼女は、自分の気持ちを言葉にうまく表せないだけの、よくいる不器用な人間だったのではないだろうか。

 たとえ気持ちを表わそうとしても、何故か悪口雑言になってしまう。

 そして、そんな自分を密かに恥じていたのではないだろうか。

 かーん、かーん、とまた音が壁から伝わってきた。

 山彦のように、辺りの壁からも、かーん、かーん、と音が反射して響く。


 かああぁ~ん、くあぁあああん、あぁああぁああん……。


 それは鐘の音のように響き、頭のなかを駆け巡った。

 聞き続けているうち、かつて刀に責められていた頃のことが思い出された。

 段々と、その音が、自分を責めているように聞こえてくるのだ。


 ――卑しい人間め、彼女はあんな酷い目に遭いながらも、恋をして前を向いて生きている。

 それに比べて、お前はなんだ。

 せっかく知り合った仲間を犠牲にして、自分の復讐の糧にしようとしている。

 自分のことばかり考えて、なんてさもしい人間だ。

 本気で彼女を生け贄にするつもりか。

 お前に人の命を自由にする権利があるのか。

 お前に生きる資格が、あるのか。


 刀が喋るわけがない。生きてはいるが、口も舌もない。意思もない。

 これは自分が勝手にそう感じているだけだ。

 カラスの鳴き声が不吉だとか、ヒグラシの鳴く声が郷愁を誘うとか、そんなのと同じだ。聞く側の気持ちの問題だ。

 だとしたら、今の自分の気持ちは、いったい何だ……。


 石段を降りる足が自然と止まり、ふっと、向きを変えて段の上を見た。

 このまま戻ってしまおうかという考えが、頭を横切った。

 何を馬鹿なことを。

 自分で自分に呆れてしまう。

 額を石壁にわざとぶつけた。痛みで気を引き締める。

 もう、すでに遅い。

 何のためにここまで来たと思っている。

 賽はとうの昔に投げられたのだ。

 心を鬼にしろ。

 そう強く、自分自身へ言い聞かせた。

 石の階段は行きに下ったものと同じくらいに長かったが、悩み、考えながら進んだせいか、気が付いたときにはとっくにかなり下にまで辿り着いていた。

 最後に聞こえた壁を叩く音は、お互いがかなり近くにまで来ていることを物語っていた。

 合流部はもうすぐだった。

 急に目の前が行き止まりになった。石段の最下段に、奇妙な石版が嵌まって行く手を塞いでいる。

 石版は、周囲の壁や天井にぴったりと隙間無く合わさっている。

 その表面には広葉樹の葉脈のような紋様がある。

 これが、この遺跡に唯一残っている古代の仕掛け扉だった。


「芙蓉、……いるか」


 おずおずと扉に向かい、話しかけてみると、


「う……ん」


 と線の細い声が聞こえてきた。


「手、どこでもいいから扉に当てて。べたっと、掌を貼り付けるようにして」


 仕掛け扉は、全体として縦長の三角柱の形をしており、道を塞ぐ両面から命あるものが触れれば、それに反応して粘土のように変形する。

 そうして、残りのもう一つの方向へと進むことができるようになる。

 この扉もまた生命の特性を備えているのだが、詳細は不明らしい。

 ユウが手を触れた場所から、扉がぐにゃりと曲がって横へひしゃげた。

 同時に、目の前に芙蓉の立ち姿が現れた。

 彼女も手を前へ突き出している。

 分岐部で別れてから一時間弱しか経っていなかったが、歩いてきた時間はそれより長く感じられた。


「……これ」


 芙蓉は持っていた鞘をユウへ手渡した。

 黙って受け取り、刃を鞘に納めた。

 そのあと芙蓉は何も言わなかった。

 ユウを見つめたまま動こうとしない。

 左に開いた道から青い光が差し込んで、彼女のきれいな顔に陰影をほどこした。

 それが妙に艶っぽく見えて、不覚にも胸が高鳴った。

 しばしの間、静かに二人で見つめ合う。

 芙蓉がようやく口を開いた。


「返事、聞かせて……」


 何を言えばよいのだろう。

 答えは考えても思いつかなかった。

 ただ、彼女の気持ちを受け入れることだけは絶対にしてはいけない気がした。

 そんなことをしたら、最後は双方が傷つくことになる。きっと、そうなる。

 言うべきことは、決まっていた。

 ユウは腹に息を吸い込んで、返事をしようとした。

 なのに「かっ」とか「はあっ」とか、かすれた溜息のような声が漏れるばかりで、一向に思い描いた言葉を作ることができなかった。

 もどかしい時間が、流れていく。

 芙蓉はユウのそんな姿を見て、ぐっと顎に力を入れて唇を噛み締めた。

 への字に曲がった唇が、今にも溢れそうになる感情を必死で抑え付けているようだった。

 いつもはつり上がっている目は、想いの強さに負けて半ば閉じかかっていた。

 頬には涙が乾いた跡が残っている。それをなぞるようにして、また一粒、二粒、涙がぽろぽろとこぼれていった。

 彼女は、自分の言葉がユウを激しく困惑させてしまったことに気付いて、かえって自分自身が傷ついたようだった。

 そしてユウのほうもまた、彼女の涙を見てしまい、心に針が刺さったかのような痛みを感じた。


「芙蓉……、あのさ……」


 ようやっと、言葉が出た。

 それを聞いて、芙蓉の小さな頭がかすかに反応した。

 瞼をすーっと開いて、目の前にいる男の子を見据えた。


「なあ……に……」


「僕は……。僕は、きみを……」


 なんとか声を絞り出そうとした。

 これからすることを考えれば、やはり返事はするべきだった。

 どんな内容であっても、それが彼女に対する礼儀だと思った。


「きみを? なに? はやく。はやく、言って……」


 芙蓉の目は、答えを期待して見開いていた。

 まばたきするごとに、涙が落ちた。

 ごくっと、彼女の喉が涙を飲み込んだ。

 ユウは今まで女子の瞳をここまで真剣に、真っ直ぐ見たことはなかった。

 瞳の奥、黒目が大きく広がって自分を映している。熱っぽく潤み、しっとりと濡れている。

 ユウがまさに返事をしようとした、そのときだった。

 急に、芙蓉の瞳が横へずれた。

 何かを見つけたのか、驚愕の相を呈している。

 見ている方向は、遺跡の最深部、泉のあるほうだった。

 直感が脳髄を走った。

 ついさっきまで浸っていた苦しくも甘ったるい感覚とは百八十度打って変わり、瞬時にして凄まじい寒気が襲った。

 ユウもまた芙蓉が凝視する方向へ首を向けると、そこに予想していなかったものを見た。

 視界に映ったのは、目映いばかりの青の光が満ちる大きな泉だった。

 異様な形態の草木が、蛍光を発して生い茂っている。

 大量の青い光が大銀河さながらに、泉を中心にして大きく渦を巻いている。

 そして泉の中心を上下に貫くようにして、藍色の巨木がそびえている。


 その泉のほとりに……、背の高い女が立ってこちらを見ていた。

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