海が消えた日

九頭見灯火

ふたりだけのショー。

 フーは天才だ。ぼくは夜空を見上げてそう思った。フーの作り出すドローン・アートはぼくにとって魔法そのもので、いつまでも見ていて飽きない。花火職人の家系のぼくはフーとともに夜空をカンバスにした。そうだ、きっと忘れない。夜空は花火とドローンで輝いている。ぼくは打ちあがる花火の音を聞きながら、フーの作るドローン・アートを見つめている。


 フーがいつからぼくとパートナーになったのかはよく覚えていない。あれは例えばジャングルジムの上で暮れゆく夕焼けをふたりで見たことなのかもしれないし、ふたりで走ったグラウンドの砂ぼこりの味だったかもしれない。ぼくらには過去はなく、代わりに未来だけが横たわっていた。フーは手先の器用な少年でぼくは絵を描くのだけが取り柄の女の子だった。ぼくはフーの作る、大人が見たらガラクタだと言う厚紙とテープの塊から透明な龍やライオンを透かして見るのが好きだった。雑な、丁寧でない力強い仕事だ。そうだったからぼくはいつもフーに惹かれたんだ。

 彼の作ったライオンは叫ぶ。遠くへ、遠くへ。ぼくの描いた色を乗せて、遥か遠くへ。宇宙へだって飛んでいく。ぼくたちは宇宙飛行士にだって、船乗りにだって、海賊にだってなれた。そうだったんだ。ぼくたちは何にでもなれたんだ。


 高次元空間への船旅がぼくたちになにを見せたか。それはたとえば折り畳まれた鯨だとか、音になってしまったペンギンだとか。

 波動のペンギンはゲヘッゲヘッって鳴く。鳴き声だけが聞こえる。折り畳まれた高次元の海の生き物たちをぼくはスペース・ボードで横切る。かつて海が高次元に折り畳まれて、海の生き物たちは押し花みたくなってしまった。押し花の記録はいつでも引き出せる。それがフーも、おじいちゃんもおばあちゃんもおとうさんもおかあさんも一緒に押し花になってしまったことを思い出せる。ぼくはあの日、ふたりで夜空を描いたことをスペース・ボードのなかで回想している。場面が切り替わって、ぼくたちは海が消えた日に帰っている。そんなに長いこと経ってないはずだけれど、ぼくたちは海が消えた日からずっと遠い世界を飛んでいる。

 高次元断層から逃れるように、人類のうちの数パーセントが生き残った。ぼくたちは何度も何度もあの完璧な瞬間、完璧な時間に立ち返ろうと努力したけれど、スペース・ボードに乗るぼくにはあの波動ペンギンの呑気な鳴き声だけが響いていた。ペンギンの群れが迫っている。


 ぼくらは、今にも泣き出しそうな笑顔で出会った。

 フーはあっちでも天才なのは変わらなかった。

 次元と次元のあいだ――、次元断層――、そのひび割れにフー自身の描いた軌道を重ね合わせる。ぼくはフーの描いた軌道を、移動するスペース・ボードのうえで見た。いや、聴いたんだ。それは絵画で、音楽で、もっと言えば最高のなにか。

 フー、やっぱり君って天才だよ。

 スペース・ボードの波しぶきのあいだから、ぼくは君を待っている。それがどんなに遠い現実だって構わない。場面は変わる。

 ぼくはいつかの夜空を見上げている。ぼくはきっと何度もこの光景を思い出すだろうと押し花みたく頭のなかに光景を焼きつけていた。ぼくたちにはきっとこの瞬間だけ、この一時だけが、最後の時なのだと、知っていた。

 フーの操作するドローンの点描が、つぎつぎと形を変えていく。

 ――海が消えた。

 点描はやがて龍になる。

 ――もうすぐここもやばいらしい。

 龍は、獅子になる。

 ――家族で逃げなくちゃ……

 獅子は、鯨になる。

 ――地球は滅びるって、ほんとうなの……

 鯨は、魚の群れになる。

 ――ふたりで生きていこう。

 魚の群れが赤く染まる。

 ――そんなの無理だよ、ぼくら小学生なんだよ……

 赤い魚の群れがぱっと消える。

 ――じゃあ、約束しよう。ぼくらが生き延びられたら……

 ふたたび、明かりが灯る。

 ――ふたりでショーをするんだ!

 明かりが海原を滑空する人鳥に変わる。

 ――さよなら……

 

 スペース・ボードのうえで、泣きながら、ぼくはボードの舵を切る。

 ここももうじき高次元断層に囚われるな、そう思ってぼくはふたたびスペース・ボードに意識を戻す。音になってしまったペンギンたちの群れがぼくに襲い掛かる。それは千切れそうな、はち切れそうな、ぼくの慟哭だ。ここからぼくのいる惑星へもいずれ高次元断層が来るだろう。かつて海があった場所へ戻ることはできない。ぼくには、分かっていた。もう何度もその破れた押し花をリピートできないんだって。記憶の、深い、あまりに苦しい現実を見なくて済むんだって。それが大人になることなんだって!

 ぼくには、もう分かっていた。もういいんだ。

 残響がフーの声を再生する。ほら、やっぱりフーは天才じゃないか。その音になってしまった過去と過去の安らぎと昂りをもう忘れたいんだって、フーは気づいていたんじゃないかな。

 さよならの言葉がぼくを解き放ってくれるように、そのグッド・バイはいつまでも耳から離れず、何かを言おうにも喉をつかえている。また会えるよねって声にならない。遠くから人鳥の鳴き声がリフレインしている。〈了〉

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