第10話

 いったい何が!?


 俺は横たわったままその方向に虚ろな目を向ける。すると一台の車が壁に激突しているのが見えた。状況を頭の中で整理し始めた時、それを遮るように横から声が聞こえた。グイと首を捻ると同じような格好で男が倒れていた。俺はその顔を見て目を見開いた。


 なんと阿久沢だった。


「大丈夫…か?」


 倒れた拍子にどこか痛めたのか、阿久沢は辛そうな声を出し俺の顔を見た。


「どうしたんだ」


 事態が呑み込めないとばかりに俺は起き上がりながら尋ねた。阿久沢も一緒に腰を上げた。


「八神だと思って声を掛けようとしたら車が突っ込んで来るのが見えてさ。気が付いたら走って突き飛ばしてたよ」


 立ち上がった阿久沢が微苦笑を浮かべる。


「そうだったのか」


 ようやく理解したともう一度車に目をやった。運転していたのはどうやら高齢者らしく車の背後にはそれを示すマークが付いていた。エアバッグが開いているのも見えたが、あたふたしているのを見ると大した怪我はしていないらしい。騒ぎに人が集まって来る。電話を掛けている人の姿も見えた。


 不意に俺は電話中だったことを思い出し辺りに目を向ける。スマホは数メートル先にあった。慌てて拾いに行く。通話は切れ画面は割れていた。


「悪いな。壊しちゃったみたいで」チラとそれを眺めて阿久沢は片手を挙げた。


「気にするなって。それに礼を言うのはこっちの方だ」そう言って肩を一つポンと叩き、俺は阿久沢に感謝を伝えた。




 その一週間後。俺は公園のベンチに腰掛けていた。


「そう。そんなことが…」


 割れた液晶を見せながらその時の様子を話して聞かせると、隣からホッとしたような声が届く。画面は割れたものの、とりあえず使うことは出来た。それでこうして顔を合わせることになったわけだが、返信や電話に出なかったことなど松原さんは詫びた。なんでもないと俺は顔を振る。


 あんな話の後だ。理由は訊くまでもない。


「実を言うと良からぬことがあったんじゃないかって心配していたんですよ。また疫病神になったんじゃないかって」


 言葉を聞いて戸惑う松原さんを見て俺はすぐに冗談だと言って笑った。


「でもご無事でよかった。もしそこで八神さんに何かあったら私の方こそ疫病神ですから」


 声のトーンは比較的明るかった。それほど思いつめてもいないのだろう。だから俺はつい笑ってしまった。松原さんも一緒に表情を崩した。


「少し歩きませんか?」


 俺の問いかけに松原さんは一つ頷き腰を上げた。大きな樹木で遮られた夏の日差しの中をゆっくりと歩み始める。二つの靴音に心地よい調和を感じ始めた頃、


「美恵子さん」


 前を見ながら呟くと重なり合った音が一つだけになったため、俺は足を止め振り返った。


「初めてですよね。名前で呼んでくれたのは」そこで一旦言葉を切ってから「なんでしょう?」と微笑んだ。


 俺はまた前を向き独り言のように話した。


「ベランダにあるプランターの花、うちの庭に植えませんか?」


 再び歩を進めたのは照れ隠しなのだろう。何歩か歩くと斜め後方から足音と共に声が聞こえた。



「持って行くのはお花だけですか?」


 意表を突かれたかに思わず俺は立ち止まった。


「なんでしたら荷物も一緒に。ほらお義母かあさんも娘だと思ってるようだし」


 俺は微笑みながら美恵子さんの顔に視線を移す。戸惑った様子はなく穏やかな瞳で俺を見ている。


「少し考えさせてもらっていいですか?」


 美恵子さんの問いかけに思わず俺は前を見る。そして明るくこう呟いた。


「もちろん。一年でも二年でも」


 するとすぐさま、「そんなにお待たせしません」という声に合わせて美恵子さんが俺の手を掴んだ。


 尋ねる方も応える方も遠回し。これも年齢のせいなのかはともかくとして、優しい温もりを感じた瞬間、俺の中に長年潜み続けたあの言葉が夏の空に溶けていくのを感じた。




                                    完

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疫病神 ちびゴリ @tibigori

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