俺だけが「黒」だった話

独立国家の作り方

第1話 五色の敵

 高校を卒業してすぐ、19歳になったばかりの事です。

 私は家の決まり事がとても厳しい家庭に育ったため、一人で遠くまで行った事がありませんでした。

 そんな事情もあって、友人の鉄道好きから「青春18きっぷ」の存在を聞き、憧れだった関西への旅を決意します。

 男は一人で行くなら「旅行」ではなく「旅」に出るものだ、と、米軍のダッフルバックにハーモニカを携えて本当に行ってしまうような、痛い男子でしたので、、、痛たたたた(1回目)。

 私は、てっきりこの切符は「18歳限定」だと思い、慌てて旅を企画したのを覚えています(これも、黒歴史と言えばそうなのですが、、、)

 各駅停車の鉄道に揺られ、十代の私は宿もとらずに気ままな一人旅、案の定、初日は大阪に到着できず、名古屋で電車が終わり、その日は名古屋のホームレスに紛れて、公園などで寝ました。

 翌日、ようやく大阪に到着、私は頑なにホテルなどには泊まらず、行き当たりばったりの旅に挑んでいました、それは、、、、

 これも痛い発想ではありますが、「男はどんな場所でも寝れなければいけない」と、「一番底辺から世の中を見てやる」でした、、、、ああ、、、もう、、本当に痛たたたた(2回目)。


 さて、大阪に着いて、甲子園の高校球児を見て、銭湯に行って、なんとなく環状線の電車に乗ってと、目的も無い旅路を楽しんでいましが、結局夜はやって来るもので、今夜の寝床を探していると、終戦の日特集のオールナイト企画をやっている映画館を発見しました。

 私は、ここならエアコンも効いているし、映画でも見ながら寝よう、と思っていました、、、ところが、その恐ろしく古い映画が始まると、その面白さに引き込まれて行き、寝ているどころではありませんでした。

 戦時中の映画なので、漢字も旧字体、出演者も知っている名前なんて「原節子」さんくらい(めちゃくちゃ可愛かったです、、、)。

 その映画は、日本軍がハワイとマレー半島を攻略したエピソードの再現映画で、当然本物の攻撃シーンは出て来るはずがありませんでした。

 当時美術を志す学生だった私は、戦時中の映画が特撮なんて出来る訳がない、聞いたことがない、と正直バカにしていた部分があったと思います。

 「視覚的に人を騙す」という事に、とても興味を持っていた私は、日本映画の特撮に、多くは期待していませんでした。


 ところがです


 映画が始まり、真珠湾を攻撃しているシーンが始まって、私は強い衝撃を受けました。

 とにかく、特撮シーンがハイレベル過ぎて、何処までが本物の戦地なのか、区別に困るほどでした。


 なんだこの映画は?


 私は、まさか戦時中に、これほどの特撮を撮影することが出来る人物がいるなんて夢にも思っていなかったため、愕然としたのです。

 

 その日以来、私にとって、その映画の特撮を手掛けた人物こそが、私の生涯のライバルだ、と勝手に闘志を燃やします、、、、、ああ、痛たたたた(3回目)。


 こうして地元に帰って来た私は、予想以上の成果を感じつつ、あの特撮の男の正体は誰か、と調べてみました。

 映画のスタッフには「圓谷」という苗字の人が特技監督(特撮監督)をやっていたことまでは読み取れたのですが、何と読むのか解りませんでした。

 そして、その人物が、後に特撮の神様と呼ばれていた人物であることが解ります、その人は、「円谷英二」といい、日本の特撮界をけん引した人物でした。

 (「圓」という字が、戦後は「円」となるのですね)

 あの唯一白黒で撮られた初代「ゴジラ」を作る12年も前の戦時中、昭和17年に、あの私が見た映画「ハワイ・マレー沖海戦」が公開されていたのです。

 この映画は、今でこそ知る人ぞ知る映画となっていますが、公開当時はキネマ旬報のランキング1位の映画で、金字塔と言えました。

 こうして私は、一人で勝手に特撮の神様をライバル視するようになり、、、痛たたたた(4回目)。


 ただ、ライバル視しているだけでは憧れと変わらない、私はこの円谷英二という人物と、会ってみたいと思うようになり、円谷って、なんとなく「円谷プロ」ってあったような、と思い電話番号を調べて、電話をしたのです。


「すいません、円谷監督の特撮を見て感銘を受けた者です、そちらで雇っていただくことは出来ないでしょうか?」


 ああ、もう、、、、書いていて、痛いです(5回目)!

 若いって、、、、恥ずかしい!


 しかし、円谷英二さんは、かなり前に亡くなられていて(当たり前です)、円谷プロも、その時は特撮の業務がありませんでした。

 それでも「アルバイトなら、ある」と言われたので、当時まだ祖師ヶ谷大蔵にあった「円谷プロ」に、鼻息を荒くしながら向かったのです。


 私はもう、日本の特撮界を牽引しようと日本中から若者が集まっていると勝手に勘違いしており、気合を入れてネクタイを締めてトレンチコートに帽子の出で立ちで挑んで行きます、、、、痛たたたた(6回目)。


 すると、世田谷の円谷プロに集まっていた若者達は、なぜか全員、ジャージ姿でした。

 、、、随分、体育会系の人たちがいるな、と思っていたのですが、詳しく事情を聴いてみると、今は特撮の仕事は無いけど、アクションの仕事ならある、と言われ、とりあえず希望するなら、やってみるかと聞かれたので、よく解らないまま、鼻息荒く「やります!」と即答でした。


 円谷プロと言えば東宝系ですが、当時はウルトラマン系のショーの仕事が少なく、何故か東映系の特撮のショーをよくやっていました。


 私の初仕事、、、その時は、8人のメンバーで現場に向かいました。

 アクションの基礎的な動きを教えてもらい、一通りのトレーニングを終えて、いよいよ初めての現場、、、それは、あの5人戦隊ショーでした。


 ここで8人と言うのが、、、とても重要です。


 この5人戦隊モノは、初代「秘密戦隊ゴレンジャー」から脈々と続く男の子の聖域、当然、ちびっこのファンが多く、ショーには多くの親子連れが集まっていました。

 ここで、8人のメンバーの配役です。

〇 MCのお姉さん

〇 怪人のボス

〇 黒い全身タイツの戦闘員×4人

〇 カラフルなヒーロー5人、、の内の2人


 この二人が、最初に戦闘員4人に襲われ、ヒーローはピンチ、という所からステージは始まります。

 しかし、現場は8人で回さなければいけません、カラフルなヒーローが増援に駆け付ける度、黒い方の戦闘員は一人づつ消えて行きます。

 そして、最後、5人が揃うと、こう言うことになります。

〇 MCのお姉さん 1名

〇 怪人のボス 1名

〇 黒い全身タイツの戦闘員 1名

〇 カラフルなヒーロー 5名

             計8名


 、、、おい、黒いタイツが俺一人じゃないですか!


 怪人のボスもいい気なもので、「おのれ、やってしまえ!」

 と5色の5人相手に、言うわけですよ、私一人に。

 でも、、、やるしかないんですよね、ショーは始まっていますし、私、チームで最年少の最下っ端なわけですから。


 頑張りましたよ、5人相手に。


 そりゃ、カッコよかったですよ、カラフルで。

 惨めでしたよ、私、黒いですし、なんだか虫歯菌みたいで。

 で、思う訳ですよ、なんで俺、5人のヒーローに、寄って集ってボコボコにされているんだ?って。

 当時はコンプライアンスなんて言葉、あまり浸透していませんでしたから、誰もそこにはツッコミを入れない訳ですよね、、、これは、いじめなんじゃないかって。

 で、まあ、当たり前ですが、惨敗する訳です、ボスもろとも。

 集まったちびっこまで、わたしをステージの袖から靴脱いで殴って来る始末、、、何だろうこれは、と、思う訳ですよ。

 それ故に、私は今でもあの、5色の5人組に、あまり良い印象はありません!!。

 ああ、、、、、痛たたたた(7回目)。


 そして、コテンパンにやられて行く中で、思い出すんですよね、、「ハワイ・マレー沖海戦」。

 あれ?、何で俺、5色の5人に袋叩きにされているんだっけ?

 円谷英二、、、何処へ行った?

 、、、、、あれー?、、と。


 ダジャレではありませんが、本当に「黒」歴史でした。

 それでも、こうしてカクヨムでネタに出来たのだから、まだ良しとしなければですが、その後の私は、こんな痛い事が連続して起き続け、私の黒歴史は増え続けて行くのです。

 それでも私の特撮への情熱は、ここが入口にしか過ぎません、当然この先もまだまだ続いて行くのですが、、、また機会があればいずれ!

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