本編

 SPOT 1 アルプ


 そこにあったのは紛れもなく夢の中に出てくる建物だった。

 ペンキを塗り損なったような燻んだ白壁とそこから突き出した黄色いオーニング。

 無造作に引かれた燕脂色の帯模様と同じ色で揃えた細い木製ドア。

 昔ながらのたばこ屋のような四角い窓の販売口と、その窓枠の上に丸っこい字で『アルプ』と書かれた横看板。

 子供の頃、両親に連れられて来たことがある。

 奥はイタリア料理店になっていて美味しいピザやパスタが食べられる、そういう店だったはずだ。

 私はゴクリと喉を鳴らし、目線をスライドさせる。

 それはグリーンの木枠で囲われたアーチ窓のすぐ傍。

 夢の中で少年が立ち尽くしているのはその壁際だ。

 目線を向けるとそこはかとなく曖昧で不穏な気配が立ち込めているのを感じた。

 いますぐ踵を返し、駅に戻った方がいいと頭の中で誰かが呟く。

 けれどその警告とは裏腹に、私の足は吸い寄せられるようにゆっくりと壁へと近づいていく。 

 やがて壁際まで数歩と迫ったその時、視界の中央がモザイク状に揺らいだ。

 そしてそこに人間の形をした影が浮き上がり、次いで瞬く間にそれは夢に現れる白装束の少年の姿へと置き換わっていく。

 恐怖が身体中を駆け巡った。

 思考が止まり、喉は一瞬にしてカラカラに干上がる。

 それなのに私の口は勝手に開き、項垂れた少年に夢と同じくこう問い掛ける。


「ねえ、キミどうしたの」


 すると少年はゆっくりと顔を上げた。

 そしてやはり夢と同じく前髪の隙間から三白眼が覗く。


「遅いよ。ずっと待ってたんだよ、僕」


 雑音も音飛びもないクリアな声が響き、少年の唇が半円を描いて耳元まで裂けた。

 

「じゃあ、一緒にあそぼ」


 私は逃げ出してしまいたい気持ちをなんとか抑え込んで尋ねる。


「ねえ、キミは誰なの」

「僕? 僕はマサヒコ」


 そう答えた彼の口もとからひと雫、赤黒い血液が流れ落ちた。

 私は恐怖に頬を引き攣らせながらも呟いた。


「マサヒコ……くん?」

「うん。忘れちゃったの? 前に会ったことあるのに」


 私はその言葉に呆然とする。

 全く記憶にない。

 ゆるゆると首を振るとマサヒコの顔がうつむいた。

 

「やっぱり、忘れちゃったんだね」


 私は首を左右に何度か振り、それから再び訊く。


「でも、どうして私を待ってたの」

「だって一緒に遊んでくれるって約束したから」


 マサヒコの裂けた唇が拗ねたように歪んだ。


「した……のかな」


 たしかに私はそう言った。

 けれどそれは夢の中の話だ。


 けれどそのとき、この悍ましい姿の少年が心の底から不憫に思えて、私は後も先も考えずにこう告げていた。


「うん、分かった。いいよ、どこに行こうか」


 こわばった笑顔を無理やり作ると、はにかんだ少年の三白眼の瞳がきらりと輝いた。


「駄菓子屋さん。ずっと行きたかったんだ」


 私は頷いてみせるとマサヒコはゆっくりと確かめるように商店街通りへと足先を向けた。



SPOT 2 N's Kitchen & labo



 マサヒコの背中を追いながら閑散とした商店街を少しばかり歩くと左手に少しグレーがかった水色の壁が現れた。その店先にはアンティークな感じのリビングソファやベンチなどが並び、観音開きの木製ドアはその片側だけが開けられ、その上に『N's Kitchen & labo』と落ち着いた文字で書かれた木製看板があった。

 子供の頃、こんな店があっただろうか。

 不意にそんな疑問が浮かび、私は無意識に立ち止まる。

 開いた間口を覗き込むと正面のショーケースにボリューミーなパンやスイーツが並んでいるのが見えた。

 どうやらそこはベーカリーカフェらしく、大きなガラス窓の向こうに席に着いた数人の女性客がティータイムを楽しんでいた。

 

「ねえ、早く行こうよ」


 その声に私は我に返る。

 見下ろすとマサヒコがその悍ましく歪んだ唇を器用に尖らせていた。

 けれど少し慣れたのだろうか。さっきよりも恐怖は薄らいでいる。

 私は再び歩き始めた彼の後ろ姿に声を掛けた。


「あのさ、この商店街に駄菓子屋さんなんてあるの。こういうカフェとか大人が好きそうなお店はちらほらあるみたいだけど」


 率直な疑念だった。

 シャッター街と成り果てたこの通りに子供向けの店舗などないように思える。

 実際ここに来るまでに開いていたいくつかの店も取り扱っているのは雑貨や陶器ばかりだったし、そもそも子供の姿が見えない。


「うん、大丈夫。あるよ」

「どこに?」


 するとマサヒコは耳まで裂けた唇を三日月のように深く湾曲させた。

 その恐ろしげな顔に再び背筋が凍りついたが、同時にそれが彼の笑った表情だと気がついて私は漏れ出しそうな悲鳴を押し留める。

 マサヒコは強ばらせた私の顔を三白眼でじっと見つめて言う。

 

「そっか、お姉ちゃんには見えないんだね。じゃあ、こうすればどうかな」


 不意にマサヒコが右手を差し伸べてきた。

 私は喉をゴクリを鳴らし、覚悟を決めて透き通るほど真っ白な彼の手を取った。

 

 すると奇妙なことが起こった。

 マサヒコの背景がまるで花でも咲かせるようにふわりとカラフルに色づいたのだ。


 えっ……?


 瞠いた私の目に映り始めたのは大勢の人が行き交う活気にあふれた商店街だった。

 見回すとさっきまでベーカリーカフェだった『N's Kitchen & labo』は店先にブリキのバケツやタライなどを並べた金物屋になっていた。

 また右手のすぐ先にはお好み焼き屋があり、開け放たれた入り口の奥に白い割烹着を着たおばさんが大きな鉄板の上で忙しくコテを振るう姿が見えた。

 その向こうには惣菜屋が開店していて軒先で揚げたてのじゃこ天やちくわを売っていて、さらに奥に目を移すと店先に野菜を並べた八百屋があり、古民家の民宿があり、その先には『眼鏡』や『扇風機』という手書き文字で記された看板やのぼり旗がある。

 見上げると少し燻んだ色合いのドーム型のアーケード。

 そしてそこに『三津浜銀天街』と大きく書かれた立派な横断幕が掲げられていた。

 さっきまでの閑散とした商店街通りはいったいどこに消えてしまったのか。

 唖然として立ち尽くしていると不意に左手が強く引かれる。


「なあ、早う行こうや」

 

 視線を手元に下げるとそこにウズウズとした笑みを浮かべたマサヒコの顔があった。そしてよく見ると彼もその姿を変貌させていた。

 顔の上半分を覆っていた前髪はすっきりと額で揃えられ、後ろは盛大に刈り上げた典型的な坊ちゃん刈りになっていた。

 また睨み上げるような三白眼は優しげなタレ目に変わり、裂けた口は修復されてふくよかな唇から健康そうな白い歯が覗いている。

 そして白いローブのような衣服もいつのまにか取り除かれて、霞んだ青空のような薄い水色の半袖シャツに黒っぽい色の半ズボン、そして真っ白な運動靴を履いていた。それは古い記録映像か何かで見たことがある昭和の男の子の姿だった。


「駄菓子屋はすぐそこよ。ほやけん、はよ行こうや」


 口調まで伊予訛りになった。

 私が表情を緩めて頷くと左手がさらに強く引かれて体が前につんのめった。



SPOT 3 三津住吉公園


 

 洋品店、革細工店、魚屋さん。

 歩いていく道筋にいろんな店がある。

 お客が入っている店もあればそうでない店もある。

 畳屋さんの店先では縁台で中年の男性が向かい合って将棋を指し、お肉屋さんの軒では昔懐かしい編みかごを下げた女性が品定めをしていた。

 私はそんな光景に目を奪われつつ、マサヒコに手を引かれるままレトロで賑やかな商店街通りを歩いた。


「駄菓子屋さんに着いたで」


 立ち止まったマサヒコが振り返って嬉しそうに私の顔を見上げた。

 けれどさっきまで見下ろしていたはずの彼の顔がわりとすぐ近くにあり、もしやと自分の姿を確かめると私は水玉模様のワンピースに衣装替えしていた。

 うなじに当たるものがあり、触ると後頭部からおさげが生えていた。

 それは昭和の格好をした小学四年生の私だった。


 なぜだろう。

 戸惑いよりも楽しさが勝った。


 足を踏み入れた駄菓子屋の狭い店内にはその中央に子供の腰の高さの広い台がでんと居座り、そこにブリキの箱に入れられた駄菓子が隙間なく並んでいた。目線を上げると天井からは風船やスーパーボールの景品が台紙に貼り付けられた状態でいくつかぶら下がって扇風機の風に揺れている。

 壁際には瓶のコーラやファンタが入れられたガラス扉の四角い冷蔵庫が置かれていて、その横にもお菓子や人形が入ったショーケースがいくつも積まれていた。

 私はよっちゃんイカを物色しているマサヒコの後ろを横切り、店奥にいるおばちゃんに声を掛けた。


「ねえ、おばちゃん。私、このブローチのくじ、やりたい」


 私は完全に童心に返っていた。


「はいはい、一枚十円やで」


 そう言っておばちゃんは銀色の缶箱を差し出してくる。

 中を覗くと端っこを捲るように折り曲げた赤い紙片がたくさん入っていた。

 お金を取り出そうとショルダーバッグに手を掛けるとそれはリボンが付いた淡いピンク色のポシェットに変わっていた。中にはやはりピンク色の小さながま口。

 おばちゃんに三十円を渡してくじを三枚取る。

 狙っていたのは二等のマスカット色をした大きなブローチ。

 ドキドキしながら一枚ずつ爪先でくじを開けた私は最終的に落胆の声を落とした。

 二枚はハズレで当たった一枚も七等の白い髪留めだった。


 憮然として振り返るとマサヒコがくつくつと笑っていて、口もとがますますへの字になった。


 マサヒコもくじを引いた。

 すると宇宙戦艦ヤマトの大きなメンコが当たり、彼は興奮して何度かその場で飛び跳ねた。他の子供達が上げた歓声にマサヒコは得意満面で、けれど恥ずかしそうに肩をすくめた。

 その後、八十円のカップ焼きそばを二人で買って並んで食べた。

 そして私は棒状のゼリーを買い、マサヒコはヤングドーナツと瓶コーラを買って店を出た。するとアーケードの外が茜色に染まっていた。


「あーあ、もう夕方やん。もっと遊びたかったのになあ」


 残念がるマサヒコに頷くと、彼はちょっと寂しそうな顔つきになってはにかんだ。


「そやけど面白かったけん、ええわ。僕、お姉ちゃん、待っといて良かった」


 そう言ってマサヒコが私に背を向けて歩き始めると辺りの景色がぼんやりと霞みはじめる。

 ハッとして振り返ると駄菓子屋はすでになく、代わりにいくつかの遊具があるのっぺりとした児童公園が広がっていた。

 視線を巡らせるとさっきまでの人通りで賑わう三津浜銀天街は霧が晴れるように消え失せ、元の閑散とした商店街が夕暮れに沈もうとしている。

 ふと見下ろすとオフホワイトのシフォンブラウスにデニムパンツを履いた大人の私がいて、その足元から駅の方に向かって長い影を伸ばしていた。

 慌てて目線を戻すとずいぶん進んだ道の先でオレンジの逆光を背景にマサヒコの後ろ姿があった。

 そのシルエットの裾はひらひらと揺れ、脚は黒ずんだマッチ棒のように細く頼りない。彼もまたどうやら元の姿に戻ってしまったらしいと察すると、このままここで見送ってしまった方が良いのかもしれないと思えた。

 光の中でマサヒコの影が陽炎のようにゆらめく。

 さよならを呟こうとした。

 けれど、なぜだろう。

 そのとき胸の内側にあるわだかまりのようなものがその声を押し留めた。

 気が付くと私はマサヒコを追って足を踏み出していた。



SPOT 4 旧濱田医院



 ローヒールが石畳を跳ね、人通りのない石畳にその靴音がカツンカツンと響き渡る。十数メートル先をいくマサヒコはゆっくりとした足取りで進んでいた。

 それなのに早足の私と彼との距離はなぜか縮まらなかった。

 やがて行く手の丁字路でマサヒコが左に折れる。

 すぐ後を追って左へと曲がるとそこは古い民家に挟まれるように伸びる細道だった。そしてその道のずっと先に白装束の背中が見えた。


 待って、キミに伝えたい言葉があるの。


 駆け出した私は心のうちでそう叫んだ。

 けれどそれも虚しく彼の姿はさらに遠ざかり、やがてフツとその姿が消える。

 消えた場所は幾分広い道と交差した十字路で、息を切らせながら辺りを見回すと右手に一瞬だけ白い影が過ったような気がした。

 そして再び駆け出して辿り着いてみるとそこにはレトロな白壁の洋館が一棟、夕焼けに照らされていた。

 

 旧濱田医院。


 不意に記憶が鮮明に甦った。

 子供の頃、廃墟となったこの場所で白い影と交わした約束があった。


 一緒にあそぼ。

 いいよ、でもまた今度ね。


 愕然としながら見上げると二階の窓に白い影がぼんやりと映った。


「マサヒコくん、私も楽しかったよ。ありがとう」


 そう叫ぶと白い影がゆらゆらと手を振ったような気がした。

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『約束』 SARF×カクヨム 短編こわ~い話コンテスト参加作品 那智 風太郎 @edage1999

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