こもれびを言葉にのせて
沢田こあき
こもれびを言葉にのせて
ヒナタの言葉はいつだってわたしを苛だたせ、けれど惹きつけてやまなかった。柔らかくって、詩的な美しさのあるその言葉たちは、彼女がいなくなった後も、わたしの頭の中で響き続けていた。
カチリ。ポータブルラジオのスイッチを入れる。ダイヤル式のレトロなこのラジオは、ヒナタがフリーマーケットで見つけてきたものだ。黄色くてかわいらしい見た目がお気にいりだったらしく、少し前まではこれで毎日のように天気予報や音楽を流していた。
周波数を合わせると、ラジオはヒナタがよく口ずさんでいた曲を歌いだした。しっとりとした静かな曲調──彼女にいわせれば、淑女が流す涙のような。リビングのソファに腰かけていたお母さんは、ちらりとこちらを見て、すぐにまた手もとの本に視線を戻した。
「消しなさい」不自然なくらい落ち着いた声で、お母さんはいった。「早く消して」
大人しくラジオを切った。お母さんは黙ったままだった。わたしも黙ったままだった。ページを繰る音が大きく響き、以前は会話で埋まっていたはずの、何もなくなった空間に、じわじわと吸いこまれていった。またこの沈黙。こんなときはいつも、自分が消えてしまったような気分になる。
去年の春にヒナタが交通事故でこの世を去ってから、一年が経とうとしていた。
三つ歳の離れた姉のヒナタは、明るくて美人で、何をやらせても完璧にこなしてしまう少女だった。できそこないのわたしと違って。ヒナタを失ったお母さんの瞳は曇りガラスのようになってしまって、わたしの姿は長いことそこに映っていない。
ううん、そうじゃない。ヒナタが生きていたときだって、お母さんはわたしのことなんかぜんぜん見てくれていなかった。
苦いものがふつふつと、お腹の底から沸きあがってくる。無言でラジオのスイッチを入れて、音量のダイヤルを最大まで回した。激しい音が滝のような勢いで流れでて、部屋に満ちている不快な静寂をやぶった。
お母さんは本を置いて近づいてくると、ラジオのスイッチを乱暴に切った。すかさずわたしは声を張りあげる。
「消さないでよ。わたしが聞きたいんだもの。どうして消さなきゃいけないの? どうしてこの曲を避けるの? ねえどうして?」
ふたたび、沈黙が落ちる。頭の内側で声にならない怒りがガンガン鳴っていて、今にも叫びだしてしまいそう。その衝動を振りはらうように、わたしはラジオに手を伸ばした。
パシッ。お母さんがわたしの手を払いのけた──。身体がすっと冷たくなり、またすぐ熱くなって──喉の内側から剥がれた言葉が、唇の端を伝いおちていった。
「ヒナタを思いだすから聞きたくないんだよね。いつもいつも、ヒナタのことばっかり。わたしのことなんてどうでもいいのよ」
今までうつむいていたお母さんが、はっと息を呑んで顔を上げる。
「はっきりいえばいいじゃない」溜めこんでいた言葉が、感情が、どんどん溢れて止まらない。「わたしが、わたしがヒナタの代わりに事故に遭えばよかったんでしょ!」
空気が揺れて縮んで、また揺れて。わたしはラジオを掴むと、走って家を飛びだした。
丘を駆けおりて、林の入り口に生えている松の下にしゃがみこむ。重く垂れ下がった枝が、湿った影の中にわたしを閉じこめた。頭上を見あげれば、朝の雨で濡れた葉の先に、灰色にくすんだ雲が引っかかっていた。
何でもいいから言葉がほしくて、沈黙なんか聞いていたくなくて、すがるようにラジオのスイッチを入れた。カチリ。
『寂しそうな顔してるよ』
ノイズに混じって耳に入ってきたのは、聞き馴染みのある大人びた声。心臓が跳ねて、わたしはちょっとの間、呼吸を止めた。
「──ヒナタなの?」
恐るおそる尋ねてみる。声が鮮明に聞こえるよう、ダイヤルを慎重に合わせた。
『みんなはあなたをよく知らないだけ。大丈夫よ。わたしが隣にいるから。わたしならコズエのことをわかってあげられる』
やっぱりヒナタの声だ。これとそっくり同じ言葉を、幼い頃に聞いたことがある。
あのときわたしは、近所の子どもたちの遊び仲間に入れてもらえなくて、公園の隅でぽつんと立っていたんだっけ。ブランコの横で友だちと話していたヒナタは、わたしに気がつくとすぐに駆けよってきてくれた。
『コズエが一人でいたくなかったら、いつでもわたしを呼んでいいのよ』
のどかな午後だった。絹のような風がさらさら頬をなで、カエデの葉から落ちたこもれびが、足もとでたゆたっていた。そのとろりとした光はとても温かくて──なのに指先は冬の日みたいにかじかんで動かなかった。
わたしの顔を覗きこんでほほえむヒナタに、返した台詞は忘れてしまったけれど、気づかれないように呑みこんだものはよく覚えている。澄みきったヒナタの言葉とは正反対の、黒く濁った、わたしの気持ち。
「勝手なこといわないでよ。寂しい思いなんかしたことないくせに」
わたしのことを一番わかっていないのはヒナタじゃない。友だちに囲まれて、お母さんからも大切にされて、たくさんの言葉をもらっているあなたに、沈黙の中にいるわたしの気持ちなんかわかるわけないじゃない。
──もしこんな劣等感で汚れた言葉を吐いていたら、ヒナタはどんな顔をしただろう。美しい言葉を愛していたあなただもの。わたしのこと、きっと嫌いになったよね。
林の木々がお互いにぶつかってざわめく。重なり合う緑の奥で、かすかに、泣きたくなるような雨の匂いがした。
『言葉ってなんのためにあると思う?』
聞こえづらくなった声を追いかけてダイヤルを回すと、しまっていたはずの記憶がまた浮かび上がってきた。お父さんが家を出ていった夜、二人で並んで寝たベッドの中で、ヒナタがふと口にした言葉だ。
まぶたを閉じればよみがえってくる。月の光に白く照らされた四つの足と、冷たいシーツの肌ざわり。背中を向けていた彼女の表情は見えなかったけれど、いつも穏やかなその声は、不安定にゆらり揺れていた。
「淑女が流す涙のような」
ラジオを抱える手に力を込めて、わたしは小さく呟いた。
『言葉はね、心をのせて届ける道具になるの。上手に使えば、どんなに遠く離れた相手にも、受けとってもらうことができるのよ。だからコズエ、届ける言葉も、受けとる言葉も、大事にしてね』
冬の名残を含んだ風が、丘を走りぬけていく。ざわざわと空の彼方で鳴っていた枝葉の音は、少しずつ、少しずつそばに近づいてきて、ラジオのノイズに変わっていった。
ザーザザー。ダイヤルを回す。ヒナタがまた何かいってくれないかと期待して。ザザーザー。彼女の声は、もう聞こえてこない。
目尻が熱を帯び、視界が徐々にぼやけていく。カチリカチリとダイヤルを回し続ける。
わたしはずっと、ヒナタの優しい言葉が、妬ましくて腹だたしくて仕方なかった。自分のことだけでいっぱいいっぱいのわたしと、つねに誰かのことを考えている彼女との差を、突きつけられているようだったから。
でもね、ヒナタ。あなたの言葉に憧れていたのも本当なの。大好きだったのも本当なの。わたしに向けられた言葉を、素直に受けとることはできなかったけれど。心の奥の奥のほうでは、あなたと同じ視点で世の中を見て、あなたみたいに、綺麗な言葉を使えるようになりたいと願っていた。
ついさっきお母さんに叫んでしまった言葉が、ノイズと一緒に目の前を回りだす。どうしてわたしは、間違った言葉の使い方しかできないんだろう。お母さんとわたしの距離は、今も遠く離れたままだ。
「お願いヒナタ、何か話してよ。隣にいてよ。ヒナタがいてくれないとわたし、どんな言葉を使ったらいいかわかんない」
涙が頬を伝い、まるい粒となって地面に落ちていく。抱えたひざに顔をうずめ、わたしは声をあげて泣きだした。
どれくらいそうしていただろう。草を踏む足音が聞こえてきて顔をあげると、松の枝をくぐって、お母さんが隣にやってきた。家を飛びだしたときの自分の姿が脳裏をよぎり、いたたまれなくなって視線を落とす。
「ごめんね、コズエ」お母さんはぎゅっとわたしを抱きしめた。「あなたを遠ざけるような態度をとってしまってごめんなさい。一人で抱えこませてしまったわね。ヒナタがいなくなった悲しみを、言葉にするのが怖かったの。あなたがどうでもいいわけないじゃない。コズエもヒナタも、大好きなんだもの」
震える声。わたしの肩も、一緒になって震えている。お母さんの心が言葉にのって、真っすぐわたしのもとに届けられると、胸に残っていた沈黙はじんわり溶けていき、まばたきをした途端に瞳からこぼれた。
ああ、ヒナタ。あなたの言葉が忘れられないのは、そこにのっていたあなたの心が、こんなふうに温かかったからなのね。まるで、むかし公園で見たこもれびみたい。
「わたしも、ごめんなさい。ひどいこといってお母さんを傷つけちゃった」
お母さんの背中に腕をまわして抱きしめ返す。ふわりとしたぬくもりが心地いい。
わたしたちは二人とも、言葉を上手に使えていなかったんだ。届ける方法も受けとる方法もわからなくて、すれ違っていたの。ヒナタの声がなかったら、この先も歩みよれないままだった──。ヒナタがわたしとお母さんを、沈黙から救いだしてくれたのよ。
丘の上の草花は、黄金色に笑いさざめく。舞い踊る風がまとうのは、高く透明な鳥の声。流れていく雲はゆっくりとした春の時間をにじませて、雨に洗われた松の葉のすき間から、淡い光がさしている。
いつか、言葉を上手に使える日がくるだろうか。誰かに寄りそい、誰かを救うことが、わたしにもできるだろうか。あなたの言葉がこもれびを届けてくれたみたいに。
ラジオのノイズに混じって、優しい声が、そっと、ささやいたような気がした。
こもれびを言葉にのせて 沢田こあき @SAWATAKOAKI
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