第12話 魔術とは道具か、それとも道か

 放課後の学院は、黄昏色の空に包まれていた。

 西の空には深いオレンジが広がり、その境界線を淡い紫が彩っている。

 地平線の向こうには、金色の光がわずかに残り、やがて訪れる夜の気配と交わるようだった。

 東館の屋上バルコニーはその光景を一望できる場所だった。


 オルレアは鉄製の手すりにもたれかかりながら、手にしたタバコをふかしていた。

 火種が淡く揺れ、吸い込むたびに赤く燃え上がる。

 彼はその視線を遠くの方に向け、その景色に思考を預けるように、ぼんやりとした目をしていた。


「……向いてないのかね、やっぱ」


 自嘲とも嘆息ともつかない呟きが、タバコの煙とともに宙へと消えていく。

 冷たい風が髪を乱し、夕焼けの中で小さく火を灯し続けるタバコの灰が風に飛ばされていく。


 五階建ての豪華な校舎の屋上から見渡せる景色は、壮麗で心を奪われるものだった。

 複雑に絡み合う敷石の歩道が学院の敷地を縫うように走り、その向こうには中世の古城を思わせる旧校舎がたたずんでいる。

 その古びた石造りの建物には、長い歴史と魔術の伝統が染み込んでいるようだった。


 少し目を移すと、薬草農園が規則正しく広がっている。

 整然と植えられた薬草たちは、遠目にはまるで色鮮やかな織物のように見え、夕陽を受けて美しく輝いていた。

 農園の先には、青々と茂る木々が迷いの森を形作り、その奥深くには謎めいた古代遺跡がぽつんと存在感を放っている。

 石碑や柱が苔むした状態で残されており、学院の研究者たちにとっては貴重な資料でありながら、同時に魔力を秘めた神秘的な場所でもある。


 さらに遠くには転移塔の尖塔がそびえ立ち、その独特なフォルムが人工物と自然の境界を曖昧にしていた。

 塔の先端は魔力の波動でわずかに揺らめき、時空を超えた旅を可能にする装置として、学院にとって欠かせない存在だった。

 人工物と自然が入り乱れるこの光景は、一見すると調和が取れていないようで、どこか不思議な美しさを湛えていた。


 オルレアはそんな光景を眺めながら、手すりに肘をついてぼんやりと呟いた。


「まぁ、向いているわけないよな……進む道が違うのに、何を教えるっていうんだ……」


 生徒たちが魔術の探求に一生懸命なのは理解していた。

 特に、あの――なんだったか、セレ、何とかという女学生。

 彼女の真剣な態度や、魔術を極めるために日々切磋琢磨している姿勢には、ある種の純粋さすら感じていた。

 彼女に迷いはない。目指すべき頂きが明確で、揺るぎない目的意識を持っていることは明白だった。

 その点については、少しだけ感心する部分もあった。


 しかし、それだけだ。

 暗記能力と計算能力こそ高いのかもしれないが、彼らは自分の頭を使って何かを考えているのだろうか。

 そう考え始めると、無性に苛立ちが湧き上がってきた。


「まるで模範解答の塊だよな……」


 彼らは与えられた答えをただ丸暗記して、新しい魔法や理論を次々と覚えていく。

 それがどれほど優れているかを誇らしげに語るが、その中身は空っぽだ。


 自分の頭で考えようとしない。

 彼らの学びは、疑問を持ち、それを自分で考え、解決するというプロセスを完全に欠いている。

 疑問を持つことさえ面倒だと切り捨て、模範解答をすらすらと暗記してしまう。


「自分の役に立つことしかやりたくないってのが丸見えだな……」


 その上で、自分を賢いと信じ込んでいるから、滑稽で仕方がない。

 オルレアには、彼らが自分自身を疑ったり、深く考えたりした痕跡がまるで見えなかった。

 そう考えが及ぶと、彼の苛立ちは生徒たちだけでなく、彼らを教える側――魔術師たちにも向かった。


 ほんの一部を除けば、彼らもまた同じだ。

 目先の出世や名声を追い求めることばかりに執着し、考える力を自ら放棄している。どのように立ち回れば上に行けるのか、そればかりに頭を使い、知識を身につけることすらそのための手段に過ぎない。


「で、どう立ち回れば得するか、そればっかりだ……」


 疑問を持ち、それを解決するために時間をかけ、努力を積み重ねる――そんな過程は彼らにとって無駄だと思われているのだろう。

 新しい魔法を一つでも覚えた方が有利になる。効率的な生き方こそが正義であり、それ以外は愚かだと。


 彼らの生き方は功利主義そのものであり、彼らはスーパー・ユーティリタリアンなのだ。

 すべては自分の利益のため、自分にとって役に立つことしかやりたくない。

 とにかく自分の役に立つことだけをやって、出世するのが一番偉いんだと。

 そんな生き方を疑うこともなく、目指すべき正解だと信じている。


「帝国の魔術師は、もう終わってるな……」


 彼らのあり方すべてが不快だった。

 真の探求心もなく、疑問を持つことすら放棄し、ただ自分を欲を満たすためだけに魔術を利用する――そんな者たちに囲まれていると考えるだけで胸が悪くなった。

 本当に関わりたくない。

 そんな浅薄な価値観に染まった人間たちに、関わる必要などないのだ。


「だが、俺は……何者でもない」


 タバコの灰が地面に落ちる。彼の視線は遠くに向けられたまま動かない。

 セレスティアたちのような魔術師を嘲笑しながらも、彼自身もまた、その生き方に少しだけ羨望を抱いていることに気づいていた。


 功利主義者である彼女らは目的が明確だ。

 どこへ進むべきか迷いがない。

 自分の利益のためなら、どんな手段でも取り、目標に向かって突き進む。その執着が滑稽に見える一方で、少しだけ眩しく感じる自分がいる。


「もしかしたら俺も、あの程度の大衆的な人間に堕ちたかったのかもしれないな」


 孤独な荒野から抜け出したい。

 そんな思いが心の隅でうずき、彼の胸を締め付ける。


「やっぱり、俺、ここにいるべきじゃないよな」


 セレスティアを前にしたとき、これ以上酷いことを言わずに済む自信はない。

 オルレアの魔術師への嫌悪は根深い。それはもう功利主義者を超え、魔術師という存在全体へと向けられていた。

 だが、一つだけ譲れない点がある。

 どれだけ自分が破滅的であろうと、女子供を泣かせるのは嫌いだった。それだけは、どうにも気分が悪くなる。


「フローゼには悪いが……」


 オルレアは懐に手を入れると、折りたたまれた紙を取り出した。

 それは辞表だった。

 白い紙が夕焼けに照らされ、オレンジ色の光を帯びている。

 彼はそれをしばらく眺めた後、肩をすくめてポケットに戻す。


「よし、帰ったら銀行強盗か金の密造か、どちらをするか考えよう。とりあえず、それで借金を返すか」


 最低最悪の前向きさを胸に抱え、オルレアは屋上を後にしようと足を向けた。

 そのとき、不意に背後から響いた声が足を止めた。


「それ、どっちも犯罪ですよ」


 振り返ると、そこにはルシエルが立っていた。

 金髪が夕陽を受けて輝き、柔らかな微笑みがその整った顔に浮かんでいる。

 

「おいおい、盗み聞きか?」


「盗み聞きだなんて人聞きが悪いですね。ただ、あなたの物騒な計画が耳に入ってしまっただけです」


 オルレアは呆れたように眉を上げたが、ルシエルは気にする素振りもなく近づいてきた。

 彼はその微笑みを見て、眉間に軽くしわを寄せた。

 目の前の優男の落ち着き払った態度に少し苛立ちを覚えながらも、何も言わずにその場に立ち尽くす。


「生徒にずいぶんと酷いことを言ったそうじゃないですか。それに加えて、ロックハート教授に殴られたとか」


 ルシエルは、特に怒っている様子もなく淡々と話を続けた。その目にはどこか探るような輝きが宿っていた。


「流石のツァラトゥストラ先生も、何か思うところがあったのではないですか?」 


「なるほどな、喧嘩を売りに来たのか?」


「違いますよ」


 ルシエルは笑みを絶やさずに言い切った。

 その表情には嫌味や攻撃的な要素は一切なく、むしろ純粋な善意のようなものが浮かんでいる。


「実は、これから行きつけの店で一杯飲もうと思っていたところです。それで、ツァラトゥストラ先生を誘いに来たんですよ」


「俺を誘うために、わざわざこんな場所まで来たのか?」


 彼の口元には、親しみやすい笑みが浮かんでいる。

 どこか自然体で、押しつけがましさのない雰囲気だが、その提案の背後に隠された意図をオルレアは探るように相手をじっと見つめた。


「ええ。少し話もできますし、ビリヤードもあるので、楽しめると思いますよ。それに、もちろん僕が奢りますからね」


 その言い回しは、友好的というよりも、ただ一緒に時間を過ごしたいという純粋なものに聞こえた。

 オルレアはため息をつき、ポケットに手を突っ込んだまま動かずにいた。

 視線は黄昏の空を一瞥し、それからゆっくりとルシエルに向けられる。

 足を動かそうとせず、少し考え込むように間を取るその様子には、迷いがにじんでいた。


「少し唐突かもしれないが、その誘いに乗る前に、一つだけ聞きたいことがある」


 問いかけを受けて、ルシエルは自然な仕草で頷いた。

 その顔にはいつもの柔らかな微笑みが浮かび、興味を引かれた様子を見せる。


「どうぞ?」


「エヴァンゼル教授にとって、魔術とは何だ?」


「それは、唐突な質問だ」


 その言葉を聞いたルシエルは、しばし考え込むように顎に手をやり、視線を少し遠くへと投げた。

 黄昏の光に映えるその横顔は、静かな思索の深さを表しているかのようだった。

 短い沈黙を挟み、やがて言葉を紡ぎ出す。


「道である、というのが適切かもしれません」


 その一言が落ちると、オルレアは驚いたように微かに目を細めた。

 すぐに目元は緩み、口元にほんのわずかな笑みが浮かぶ。

 その表情には、いつもの皮肉や冷笑ではなく、どこか満足げな感情がにじんでいた。


「……そうか、道か」


 その呟きは自分自身に向けられたものであり、ルシエルが聞き取れたかどうかは関係なかった。だが、確かに何かが腑に落ちたような、安堵のような感情が彼の中に浮かんでいるのが分かる。

 ルシエルはオルレアの反応を見て、柔らかく微笑んだまま軽く肩をすくめた。


「では、どうですか? 僕の行きつけの店に寄ってみませんか?」


「……いいだろう。ついて行ってやるよ。俺も君と少し話したくなってきたからさ」


「それは良かった」

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堕落する魔術講師とパンドラの匣~その先に救いがあるのかはまだ見えないが、それでも進む~ 柿うさ @kakiusa

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