第18話 己を曲げるということ
オルレアは廊下をゆっくりと進んでいた。彼の足音が廊下に響くたびに、その静けさがより一層際立った。
彼の心は、教室での講義を振り返りつつも、どこか別の場所に漂っているようだった。
授業中の彼の熱心さは、一時的なものに過ぎないのかもしれない。だが、少なくとも今は、何かが彼の中で変わりつつあるのを感じていた。
研究室の扉に手をかけると、オルレアは一瞬立ち止まり、深呼吸をした。そして、ゆっくりと扉を開ける。
そこには、フローゼがいた。彼女はまるで自分の家のリビングにいるかのようにくつろいでいて、優雅にお茶を楽しんでいた。
彼女はオルレアが入ってくるのに気づくと、穏やかな笑みを浮かべて彼を見る。
「どうぞ、私に遠慮せず、くつろいでちょうだい」
まるで主人のような物言いだ。
「いや、ここは俺の研究室なんだけどな。なぜ、当たり前のように居座っているんだ?」
「お前は忘れっぽいな。前にも言っただろう? 私はヴァレンティーノ家当主だと」
彼女の姿は、まるで何事にも動じない権力者そのものだった。
その瞳には、深い自信と共に、何かしらの余裕が感じられる。
彼女の態度はどこか気高く、それでいて親しみやすさも兼ね備えている。
オルレアは思わずため息をついた。この状況に対して抗うことの無意味さを感じていたのだろう。
「そうだったな。でも、研究室くらいは俺が主人でありたいよ」
オルレアは彼女の言葉に反論する気力を失い、仕方なく椅子に腰を下ろした。
フローゼの存在は、いつもながらに圧倒的だ。だが、その圧倒感の中にも、どこか温かさがあるのを感じる。
「それで、何の用だ。ただお茶を飲みに来たわけじゃないだろ」
「今日、この学院に用があったから、そのついでにお茶を飲みに来ただけよ」
彼女の口調は軽やかだが、どこかしら隠された意図があるように感じられる。
「ふーん。なら、そのお茶を飲んだら帰れよ」
「えぇもちろん。でも、黙ってお茶を飲むのも味気ないし、世間話でもしない?」
「世間話?」
「そう世間話。今日、理事長から聞いたんだけど、ここ数日は真面目に授業をやってるそうじゃない。何か心境の変化でもあったの?」
「そんな話か。別に今じゃなくてもいいだろ。家に帰ったらいくらでもできるぞ」
「今じゃなくてもいいわよ。でも、今してはいけないという理由もまたないでしょ?」
オルレアは少し言葉に詰まった。
フローゼはいつもそうだ。何気ない会話を装って、核心に触れようとする。
彼女の言葉には、どこか抜け目のない鋭さがある。
「皮肉だよ」
尋問でもされているかのような空気に耐えられなくなったのか、オルレアはついに口を開いた。
「皮肉が通じなかったから、やり方を変えたんだ」
フローゼはしばらくの間、じっとオルレアを見つめていた。そして、何かを悟ったように頷き、再びカップに口をつけた。
「皮肉ね。それは、以前の授業態度のことを指しているのかしら?」
「そうだ、その通りだ。あの態度には、確かに個人的な感情が混じっていたかもしれない。全くの無ではなかった。だが、それ以上に俺が伝えたかったのは、現状そのものだった」
彼の声には、どこか諦めにも似た響きがあった。
それは、無駄な抵抗をやめ、ただ事実を述べるような口調だった。
オルレアは、その場に漂う静けさを感じつつ、言葉を紡いでいく。これまで胸に秘めていた感情を、まるで自分自身に語りかけるようにして。
「生徒たちの欠点や無智を、皮肉という形で晒すことで、それを自覚してもらおうとしたんだ。気づきなくして、改善は生まれない。それが俺の考えだ」
オルレアは一息つき、彼女の顔を一瞥した。
フローゼは無表情のまま、ただ黙って彼の言葉を受け入れているようだった。
その無言の中に、オルレアは自分の話が届いているのだろうかと一瞬不安を感じた。しかし、彼は続ける。
「だが、俺の皮肉に気づいてくれる人間は、極めて少なかった。多くの者が、その言葉の表面だけを受け取り、ただ頭にきていたんだ。俺を、生意気だ、社会不適合者だと決めつけ、排除しようとする。そんな連中の中で、俺がやる気を持てるはずがなかった。皮肉を理解せず、ただ攻撃と受け取る者たちに、どうして正しい道を示せるというんだ?」
オルレアの言葉には、蓄積されてきたフラストレーションと、誰にも理解されなかった孤独が滲み出ていた。
彼は、自分の教えを生徒たちに伝えようと試みたが、そのやり方が攻撃としてしか伝わらず、現状を晒す皮肉は彼らには通じなかった。
孤独な戦いだった。自分の意図が届かない中で、それでも何かを伝えようとする行為は、どこか虚無的で、自己を削り取るような感覚に近かった。
「それで、お前はどうしてやり方を変えたの?」
「人は進歩するためには試行錯誤が不可欠だ。皮肉が通じないなら、そんなに本学よりも実学が好きならば、魔法が大好きならば、そんな彼らが知りたい知識を通して、自由と倫理を教えてやるよということだ」
オルレアの行動には、二つの意味があった。
まず第一に、彼はどんな手段を使ってでも、生徒たちが自分たちの倫理と教養の欠落を自覚し、改善させることを目的としていた。
彼らが信じる価値観がいかに脆弱で、外部からの影響で簡単に揺らぎ崩れてしまうかを、彼ら自身の興味を利用して示そうとしたのだ。
しかし、この行動にはもう一つ、より深い意味が込められていた。
それは、オルレアが抱いていた希望と絶望、そしてその狭間で揺れ動く感情だ。
この時点で彼は明らかにキレていた。
彼の中で、倫理と合理がバランスを取りながらも衝突し、ついには矛盾を抱えることになった。そしてその結果、彼は自分自身であることを捨てる決断をしたのだ。もしくは、意図せずしてその一部が剥がれ落ちたと言える。
それは、彼のアイデンティティが死んだ瞬間であり、彼が本来の皮肉を通して生徒たちを導くという考えを捨て去った瞬間でもある。
この変化を引き起こしたのは、オリバーとルーカスという二人の生徒だ。
彼らがほんの一瞬見せた希望が、オルレアにこの決断を強いたのだ。
それに対する絶望と、それでもなお彼らの成長を願う希望が、彼をしてこうした選択をさせたのだ。
「なるほどね。いいんじゃない。そのやり方は若干人を馬鹿にしてる感じはするけど、全体的には効果的だと思うわ」
「ヴァレンティーノ家の御当主様に褒めて頂けるとは光栄だ。心の内をわざわざ話したかいがあったよ」
「そう嫌味を言うな。お前もこうして話してみて楽になったでしょ」
フローゼは微笑を浮かべながら言った。
その表情には、どこか含みがあったが、彼女の声には温かさが感じられた。
彼女の言葉は、単なる同情ではなく、彼が抱えていた重荷を少しでも軽くしてやろうとする意図があったように思える。
「確かに気が楽になった。やはり思想、概念、見解、考えを共有したいのは、人間共通の性だろう。この俺も例外ではないということか」
彼はいつも、自分の内側にある複雑な思考を抱え込み、それを外に出すことをためらってきた。しかし、フローゼの前では、その鎧が少しずつ剥がれ落ちていくのを感じていた。
「そうね。やはりお前もひとりの人間だということなのかもね」
話が一段落し、フローゼはカップを置いて、ふと姿勢を正す。
その瞬間、彼女の態度が少し変わったことにオルレアは気づく。それまでの緩やかな会話の流れが、今ここで一転するのだということを暗に伝えていた。
「世間話も済んだことだし本題に移ってもいいか?」
「その質問をするということは、俺に選択権があるのかな?」
「もちろんない。礼儀として聞いただけよ」
フローゼの冷ややかな微笑みは、礼儀の皮を被った軽い挑発のようだった。
彼女の目には、かすかな冗談めいた光が宿っているが、それは同時に彼女が本気であることを示していた。
オルレアはその微妙なニュアンスを感じ取り、思わず肩をすくめた。
彼女のこうした態度には慣れているはずだったが、それでも時折、彼女の切り返しの鋭さに内心で舌を巻くことがある。
「では、どうぞ」
彼が言った瞬間、その言葉の中には皮肉とも諦めとも取れる響きがあった。
まるで、このやり取りが彼にとっては既定路線であり、抵抗すること自体が無駄であることをすでに理解しているかのように。
「お前のクラスには、不登校の生徒が一人いることは知っているか?」
「知らないな」
彼にとってクラスの生徒一人一人を個別に気にかけることは、これまで考えたこともないことだった。この反応も無理はないだろう。
「それくらい頭に入れておきなさいよ。名前はエレノア。エデンガルド帝国の名門セレウコス家のご令嬢よ」
フローゼの言葉に、オルレアは一瞬だけ反応を示した。
セレウコス家の名は、エデンガルドでも広く知られている。
三代に渡って、大臣を輩出した名門中の名門だからだ。だが、その一瞬の反応は、彼の内側でかすかに波立っただけで、すぐに無関心の波に飲まれた。
オルレアは興味がなさそうに窓の外を見つめる。
フローゼが言ったその名前にも、彼の表情には何の変化も見られなかった。ただ、彼の中で何かが一瞬引っかかったような感覚があったが、それを言葉にすることはしなかった。
「彼女はその問題児というか、かなり自由奔放な性格でね。周囲の者とよくトラブルを起こすらしいのよ」
オルレアはそれを聞きながらも、特に興味を示す様子はなかった。
問題児という言葉には、彼にとってはただのレッテルに過ぎないものだと感じていた。つまり、問題児や自由奔放なんてのは、子供の個性の一つであり、周りが騒ぎ立てるほどのことでもないと考えているのだ。
「前の担任も彼女と少しトラブってしまい、謹慎処分になったそうよ」
その言葉が、オルレアの意識を引き戻す。謹慎処分――学院の教師がそんな形で職を追われることは珍しい。
そんな理由で、ポストが空いたのか。
まぁ、セレウコス家の令嬢を怒らせたとなると、何もおかしくはないが。
だが、彼はその思いを口にすることはなく、ただフローゼの言葉の意味をじっくりと噛み締めた。
「それで何が言いたいんだ?」
「率直に言うと、彼女を再び登校させてほしいということよ。理事長や他の教員も頑張ったみたいだけど、無駄だったみたい」
「知っての通り、俺はロクな大人じゃない。もっとマシな奴がいるだろう」
「その通りだ。お前はロクな人間じゃない。それだけは断言できる。だからこそ、私はお前を推薦したのよ。問題児だからこそ、問題児の考えや気持ちを理解できるでしょ」
フローゼはオルレアがどんな人物かを知っている。
彼の中に潜む鋭さと、他者とは異なる独特の感覚。それこそが、この難題を解決する鍵だと信じているのだろう。
「それは侮辱しているのか? それとも褒めているのか?」
オルレアは軽く眉を上げ、やや困惑した表情でフローゼを見る。
「もちろん、褒めてるわよ。セレウコス家はヴァレンティーノ家とも懇意にしているのよ。私の顔を立てると思って……ね」
「めんどくさいな……仕事を増やさないでくれよ。俺も忙しいんだよな」
「いつも私に迷惑をかけているのは、どこの誰かな?」
フローゼは軽い調子で言ったが、その声の奥には微かな圧力が込められている。
「たまには私の頼みを聞いてくれてもいいと思うのだけど」
「わかったから。そんな人を非難するような目で見るな」
「私はお前を信じていたよ。必ずそう言ってくれるって」
フローゼはそう言って、まるで最初から結果が分かっていたかのように微笑んだ。
その笑みには、自信と安心感が同時に漂っていた。
彼女の表情には、一切の迷いや不安がなく、全てが計画通りに進んでいるという確信が見て取れた。
「ということで、セレウコス家にはもう連絡しておいたから、早速会いに行ってね。今日の講義はもう終わったでしょ?」
フローゼの言葉には、いつもの柔らかな語り口とは裏腹に、圧倒的な強制力と実行力が滲んでいた。
彼女は単にオルレアにお願いしているわけではなく、すでに状況を整え、次のステップを彼に押し付けている。
彼が何を言おうと、何を考えようと、その流れを変えることはできない。それがフローゼという人物の真骨頂であり、彼女の存在感だった。
「それはご丁寧にどうも」
オルレアは最後の抵抗として、やや皮肉を込めてそう言ったが、フローゼの表情には微動だにしなかった。
むしろ、彼の皮肉に対して、優雅なお辞儀で返す余裕さえあった。
魔法学院のロクでなし講師、捏造された道徳規範を打ち破り、堕落の倫理を説く!(旧タイトル:最強の魔法使いは堕落の道を歩きたい) 柿うさ @kakiusa
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