第二章 自由と無秩序

第17話 新しい方針

 それから数日が過ぎた。

 オルレアは、エデンガルド帝国学院の教室でいつも通りの授業を行っていたが、ここ数日の彼はどこか違っていた。

 普段の穏やかで抑揚の少ない口調ではなく、少し熱がこもったような話し方をしていた。教室内には、彼の言葉が響き渡り、微妙に緊張感が漂っている。


「キラーワスプとその巣の関係は、共感を超えた、つまり共同精神を超えた共同身体にまで至っている。他にもジャイアントアントなどの社会性が強い昆虫型の魔法生物はこの傾向が強い」


 普段なら教卓に足を乗せたり、椅子にだらしなく座り込み、時には居眠りしそうになるくらいの態度で授業を行うのが彼の常だった。しかし、ここ数日間の彼は違っていた。教卓にしっかり立ち、板書をしたり、生徒の方をきちんと向いて話す。その姿は、まるで普通の教師のようだった。


 生徒たちは、そんなオルレアの姿に少し戸惑いを覚えていた。

 彼が特に熱心になったわけではない。ただ、いつもよりも真面目に見えるだけだ。しかし、それが彼らには異様に映った。

 普段の彼の態度があまりにもルーズで、教師らしさを感じさせなかったからだ。


「キラーワスプは、鏡像段階が完成する前に、鏡像段階と視点取得の間にとある教育を施す。それは、あなたは巣であり巣はあなたであるというものだ。つまり、巣を襲うものは私を襲うものであり、私を襲うものは巣を襲うものである、ということになる」


 キラーワスプは、個々の存在としての意識を持ちながらも、同時に集団としての存在を強く意識している。

 この「あなたは巣であり巣はあなたである」という教育は、彼らの社会において、個と集団が一体化する感覚を育てるための重要な要素となる。

 個体が自身の存在を巣全体と一体化させることで、集団全体の利益を優先し、個々の犠牲もいとわない行動が可能になるのだ。


「自我の境界線を曖昧にする教育を行うのが、キラーワスプの社会だ。しかし、ここで重要なのは、自我の境界線を完全に消滅させるわけではないということだ。あくまでも曖昧にするだけであって、そして自我の調整を行っている」


 これは、個々のキラーワスプが完全に個性を失うわけではなく、生存率を高めるために個性の良い面も取り入れているということだ。

 全ての個体が同じ行動をとってしまえば、個性の良い面である、多種多様な個性は様々な困難に対処するために必要であるという面を無視してしまうことになるので、完全には無視しないということだ。


「流石のキラーワスプさんも、個体によってはその教育を拒絶するものが現れる。『俺は巣にいないぞ』と言わんばかりに、抜け出してしまう個体もいるんだ。それがストレイワスプと呼ばれる上位個体だ。彼らは原種よりも高度な自我を持ち、その能力も段違いとされている」

 

 教卓に肘をつくこともなく、まっすぐ立ち、しっかりとした姿勢を保っている。

 オルレア自身もこの変化に気づいているのだろうが、特にそれを意識している様子はない。ただ、いつもより少しだけ丁寧に、少しだけ生徒に向けた意識が強くなっているだけだ。


 言葉に力があるわけではないが、その内容には重みが感じられる。

 普段ならば、どこか適当な言い回しで終わらせるようなところを、彼はここ数日はしっかりと説明している。

 教室内の空気は、どことなく引き締まっていた。生徒たちは静かに彼の話に耳を傾け、いつもとは異なる彼の一面をじっくりと観察しているようだった。


「また、ジャイアントトードなどの天敵に巣が襲われているとき、共同精神を超えた共同身体を持っているキラーワスプは、天敵に対して死をも恐れずに襲いかかる。しかし、個体の中には、死を恐れて戦うのを躊躇するものもいる。これが個性だ」


 オルレアの言葉は、どこか哲学的な情熱を帯びていた。

 彼がこのような話し方をするのは珍しいことで、まるで彼自身がこのテーマに深い思索を巡らせているかのように感じられる。

 彼は一瞬、黒板の文字に目を落とし、次に話す内容を頭の中で整理しているようだった。普段の授業ならば、教科書を乱雑に読み上げて終わるところを、ここ数日は深く深く掘り下げたり、よりかみ砕いて生徒たちに説明する。


 キラーワスプやジャイアントアントといった社会性の高い生物も、全ての個体が同じ行動をとるわけではなく、例外的な行動を見せる個体が存在する。

 巣から離れて独立したり、危険を避けて攻撃を躊躇う個体がいるのは、その一例だ。


 進化論的に考えれば、これは生物が多様な環境に適応し、生き残るための戦略の一環と見ることができる。

 集団全体としては、自己犠牲を伴う強力な結束、共同身体性が有利であっても、状況や環境の変化に適応するために、異なる行動を持つ個体がいることが、集団全体の生存可能性を高めることになる。

 ある程度の個性や多様性を残しておくことが、長期的な進化の中で有利に働くことがるということだ。


 先ほど出した例で言えば、巣から出ていく個体は新しい巣を見つけて繁殖し、遺伝子を残す可能性があり、攻撃を躊躇う個体がいることで全滅するリスクを軽減することが考えられる。

 このような異なる行動が、結果的に集団の適応力や進化を支える要因と成り得るのだ。


 オルレアは、黒板に向かっていた身体をゆっくりと生徒たちの方に向け、教室内を見渡した。

 その視線が、徐々にオリバーとルーカスの座っている席へと移動する。彼の目は柔らかく、冷静さの中に親しみを帯びていた。


「お前ら、ここまでで分からないところはないか? あったら何でも聞いてくれよ」


 オリバーとルーカスは顔を見合わせ、若干苦笑いを浮かべる。あの事件以降、オルレアはかなり熱心に教えてくれ、親身に質問を受け付けるようになった。

 気分は悪くないが、どうも慣れない様子だ。

 そんな中、オリバーが思い切って口を開く。


「そもそも、鏡像段階って何?」


 オルレアは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みに変わる。

 そこからか、と言いながら彼は頭の中で説明を組み立て直すように少し考えた。


「鏡像段階というのは、簡単に言えば、幼児が鏡に映った自分を認識することで、自分という存在を初めて理解する段階のことを指している。この段階では、自分が他の人と違う、個別の存在だと認識し始めるんだ。この鏡は化学文明が発達し生まれた鏡でなくとも、池や川などの水面に映る自分、もっと言えば、母親の瞳に映る自分でもいい」


 オリバーとルーカスは、オルレアの言葉を真剣に聞いていた。

 彼らの表情には、理解しようとする意志が滲んでいた。

 普段の授業とは違い、ここ数日のオルレアの説明は頭に入ってくる。

 彼の説明はいつもよりも明瞭で、彼らが理解しやすいように心を配っていた。


「このような視覚情報だけでなく、言語などの音や花や他人の匂い、周りの人達がどう自分に接してくるのか、それもまた鏡像段階の一つだ。その認識が進むと、自己と他者の境界線が明確になる。自分とは異なる他者、つまり環境を通して、自分は自分だという確立された意識が生まれる」


 オルレアは、彼らの目を見つめながらさらに説明を続けた。

 彼の声は落ち着いており、自分の中で長年熟考してきたことを、今ようやく形にして語っているかのようだった。


「この鏡像段階を経たのちに、次に訪れるのが視点取得だ。自我が誕生した幼児は、その目に映る他者の視線の先にあるものを読み解く能力を身につける。いったいこの人は何を考えているのか、その表情や声の大きさ、イントネーションなどを敏感に察知し、もう一度自分を見直す。これが客観性というものだ」


 一見すると複雑で抽象的な理論だが、彼の口から語られると不思議と納得感があった。

 彼はキラーワスプの行動を人間社会の構造に照らし合わせながら、彼らの個性と集団性について深く掘り下げていた。


「この視点取得のプロセスを通じて、幼児は他者の視点から自分を見つめる能力を得る。これによって、共感性が生まれ、他者と自分の違いを理解しながらも、社会の中での自分の位置を知ることができるようになる。そして、キラーワスプもこの視点取得により、共感性を持つようになる。他の個体や群れのルールの影響を受けて、個性を育てるのだ」


 彼の話す内容は、キラーワスプの成長過程における鏡像段階や視点取得を、人間の社会的行動に結びつけるもので、非常に分かりやすくより身近なものだ。

 

「もし、自我が育たなければ、キラーワスプは自分と味方、さらに自分と天敵を見分けることができないということになる。これは生物として非常に不味い状態だ。そして、視点取得がなければ、女王なんてどうでもいい、巣なんてどうでもいい、という思考に至る。そうなると、仲間を襲ったり、幼虫の餌を横取りしたりして、巣は崩壊してしまうだろう。それもまた不味い」


 オルレアは、生徒たちを見回しながら、一つ一つの言葉を慎重に選びながら話していた。

 彼の目は真剣で、いつもの気だるげな様子とはまるで別人のようだ。

 彼の姿勢や態度には、普段の授業にはない熱意が感じられる。


「だからこそ、それを調整するために、鏡像段階と視点取得の間に『あなたは巣であり、巣はあなたである』という教育を差し込むんだ。これは、個体としての意識を持ちながらも、巣との一体感を強化し、集団の中での役割を果たすための重要な教育プロセスだ」


 オルレアの声が教室に静かに響く中、授業終了の鐘が鳴り響いた。

 彼は一瞬、静かに息をついてから、教室全体を見渡す。その視線は、どこか穏やかでありながらも鋭さを帯びていた。


「今日の講義はここまでだ。もし、今日の授業で、いや、それ以外でも分からないことがあれば、いつでも俺の研究室を訪ねてこい」


 彼はそう言うと、教科書を片手に持ち、教壇からゆっくりと降りた。

 生徒たちが彼の背中を見送る中、オルレアはいつもの無気力な姿勢ではなく、どこか毅然とした歩き方で教室を後にする。

 オルレアが教室を出て行った後、教室内には微妙な沈黙が広がった。

 誰もが彼の突然の変化に戸惑っている様子だった。

 普段の彼とは全く異なる姿を見せたことで、生徒たちの間には困惑が広がっていた。


「最近のツァラトゥストラ先生、どうしたんだ?」


 一人の生徒がぽつりと呟いた。


「さあ、頭でもぶつけたんじゃないか?」


「どうせ、何かの気まぐれよ。あと数日もすれば、元の無気力な彼に戻るに決まってるよ」


 別の生徒が皮肉っぽくそう言い、教室に乾いた笑いが広がる。

 誰も本気で彼の変化を信じていないかのようだった。むしろ、突然の変わりように戸惑い、どう処理すればいいのか分からないでいる。そのため、軽口を叩いて現状を受け入れようとしているようにも見える。


「まあ、何にせよ、化けの皮が剥がれるのも時間の問題だろうね」


 また別の生徒が、椅子に座り直しながら言った。

 その言葉に対して特に反論する者もおらず、オリバーとルーカスを除く全員が暗黙の了解のように頷いている。とは言っても、やはり二人もオルレアの異変には思うところがあるようで彼らに対して何か言うことはない。

 彼らは、今のオルレアが一時的なものだと信じ込んでいる。

 普段の授業の適当さがあまりにも定着していたせいで、逆にこの数日の真面目な態度が不自然に映っているのだ。

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