恵雨

天野和希

恵雨

 アスファルトの熱気に世界が揺らいでいた。少女は一人バス停に座っていた。

 周りに木は見えないのに、どこからだろうか、蝉の声が聞こえる。まだ7月だと言うのに太陽は笑ってしまうほどに眩しく、梅雨が残した水たまりに反射していた。

 バスが来ても、少女は小説に落とした視線を上げる事すらしなかった。睨むように空を見上げて、垂れる汗を拭くことしかできないスーツ姿の男とは対照的に、少女はその陶器のような肌に汗1つかいていなかった。

 エンジンの音、ページをめくる。蝉の声、風鈴が笑って、足音。またページをめくる。

 少女はまるで人形のようにその綺麗な姿勢も、何を思っているのか分からない表情も崩すことは無かった。ただページをめくって、文字をなぞって、まためくる。

 バスが去って、少しして、数人の子供たちが笑い合いながら走ってきても、少女は気にも留めなかった。

 うだるような暑さなんて気にしないような、世界の美しさしか知らないようなその無邪気さは残酷だった。

 猫が1つにゃあと鳴いた。少女の膝の上に座って、少女は小説を読んだまま猫を撫でる。

 少女は何かを待っている。ただ確かなのは、それがバスではない事だけだった。

 またバスが来る。幼い赤子を抱え、買い物袋を持った主婦が降りてくる。赤子は静かに寝息を立てている。女は疲れた顔をしながらも、どこか幸せそうだった。

 腰の曲がった老婆が降りてくる。

「乗らないのかい?」

 少女が顔を上げるのは今日初めてだった。

「はい、待っているだけなので」

「お友達?」

「いえ……、家族と言った方が、近いかもしれないです」

 猫を撫でながら、少女が答える。

「遠野白秋の夕立。良い小説よね。私も好きよ」

「そうですか。私は好きじゃありません」

 少女は表情も姿勢も変えずに、ただ静かにそう答えてまた視線を小説に落とした。残りのページはわずかだった。

 老婆も去って、太陽はまだすぐそこにいるのに、段々と建物の輪郭が赤くなっている気がした。

 途端に世界から音が消えた気がした。たった一瞬だけ。服の擦れる音。木々や虫の声。エンジンの唸る音。ページをめくる音。世界を彩る全てが、ほんの1秒にも満たない時間、消えて。

 そして、ザーという轟音に全てが覆われた。

 少女は小説を読み終わっていた。ベンチから立ち上がる。エンジンの音は聞こえなくても、向こうからやってくるバスの姿は確かに少女の瞳に写っていた。

 静かに歩きだす。小説を片手に持って、伸びた背筋は美しく、歩く姿は百合の花が揺れるようで。強い雨に打たれてしなる花のように、少女は倒れ――。

 夕立は全ての音を消した。

 夕立に濡れる少女は安心したように笑っている気がした。

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恵雨 天野和希 @KazuAma05

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