眼鏡を踏み潰す

千羽稲穂

だって、眼鏡ってダサいじゃん。

「前の席が良い人」と先生が挙手しました。「後ろだと見えないやついるだろう」先生はくじびきをいじります。黒板には教室の席図が描かれていました。私の学校の嫌なところ、毎学期ごとに席が入れ替わるところ。そして必ず眼鏡の私は周囲の視線を集めるところ。眼鏡をかけている生徒なんてこのクラスではノボルくんと私くらいです。「はい」と最初に手を上げたのは、足どうしをすりすりさせているコトノちゃんでした。「廊下側がいいです」「お前はストーブの近くに行きたいだけだろ」とクラスのガキ大将、カズトがクラスをわかせました。えへへ、バレたか、とコトノちゃんはかわいらしく頭を傾げます。先生がクラスをたしなめると、前問題である視力が悪い子を探します。

「まあ、まずは木上は前が良いよな」

 これはノボルくんのことです。図にノボルくんの名前が書き付けられます。教卓のまん前で、先生からよく見えるところです。

 そして、あとから「園倉」と私の名前を呼ばれます。「どうする」周囲の視線が痛いほど私に集中します。漫画のコマでいったら集中線が私を中心に伸ばされる感じです。それが気まずくて仕方ありません。

 でも、やっぱり私は一番前になりたくありませんでした。ぼやけた視界でも目を細めれば十分に後ろの席からでも見えますし、眼鏡なんてかけたくもありません。かけると、「かけたかけた」「頭良さそう」とくっきりと見える視界にくらくらするのです。だから、いつもランドセルの中に眼鏡をしまっていました。授業中も、ノートを写すのができなくても、私は気になりません。こんなものかけるくらいなら、死んだ方がマシでした。

「前で良いよな」

 先生のそれは、処刑宣告とおんなじでした。私は周囲の線が身体のあちこちに刺さっていたものですから、頭を縦に振るしかありませんでした。

 くじびきは前から後ろから順に受け渡されていきました。ここ数年は、その中にも入っていません。私を飛ばして、次の方へ。黒板にはいつもと同じ席に名前が書かれていました。「時間かけるくらいなら、最初からそう言えよなぁ」くじびきで楽しげな会話をしているさなか、そんな言葉が耳に飛び込んできました。それを言った人を探そうと振り返りましたが、見つかりません。どの人も肌色ののっぺらぼうにぼやけて見えます。かすかなに顔に載せられている黒でその人がどんな顔をしているかが分かるくらいです。ケラケラと笑い声が発せられていました。見えなくて良かった、人の嫌なところを直視しなくて良かった、とほっとしました。

 ノボルくんを振り返ると、眼鏡の線がぼやけた視界の中でもくっきりと浮き上がって見えました。どうして、その位置を受け入れられるのでしょうか。誰もかけていないのに。

 席を持ち上げて、みんなが教室中を巡る中、私とノボルくんだけはその場に立ち止まっていました。


 席のことをのぞけば、目が悪いことはそんなに悪いことではありません。授業中に文字が見えなくてノートに書き写すことができない、とかそのくらいです。誰がどこにいるかくらいは見えました。あ、今コトノちゃんがストーブの前で暖をとっている、とか。ガキ大将のカズトがノボルくんの眼鏡を取り上げた、とかは分かります。眼鏡を貸してもらったカズトは、そのままかけて私たちの目が悪い視界を覗き込みます。う、わー、きっつ。濁る視界に気分が悪くなった彼はすぐにノボルくんに眼鏡を返します。

 彼らの顔は、ぼやけて見えず、声だけははっきりと聞こえました。私は、その見えなさにいつも安心します。のっぺらぼうに表情という色合いがつくと、よけいな痛みをともなうことがあるからです。

「眼鏡かけてるって賢く見えるよな」

 カズトがノボルくんに話しかけてました。

 実際、そんなことはありません。こんなもの顔につけているといつもと顔が違うから、賢く見えるだけです。

 顔に異物があると、おかしな顔に見えます。眼鏡のないふつうの顔の方が何万倍もかわいく見えます。それは眼鏡、というものに区切られないからかもしれません。女の子は自由、に見えるからかもしれません。

 なんとなく、嫌なんです。

 ノボルくんとカズトの会話が聞いていられなくて、席をたってトイレに駆け込みます。行く途中でもう一度帰って、ランドセルから眼鏡を出して持って行きます。


 女子トイレの鏡で眼鏡をかけてみました。くっきりと私の姿が映されます。他の女の子よりも眼鏡をかけた分、派手に見えます。長い前髪で遮断された視界が、眼鏡をかけることによって目がはっきり見えますし、前髪は行き場をなくして眼鏡の上にのっかっています。これは、とても奇妙でおかしな姿。ふっくらした太りすぎの頬の上に横長の眼鏡は、陰気でネクラで、オタク気質のように見えて、地味で。顔に区切りをつけられているし、目が小さく見えるし。眼鏡をせずにいると、ぼやけた私の顔はいくぶんかマシに見えるのに。もう一度かけ直すと、目が小さくなり、狐目のように細くみえて、ああ、もう全てが嫌です。

 ダサい。

 なんて言葉が過ります。

 私は眼鏡を落として、踏みつけてしまいます。親が選んだフレームはこんなこともあろうかと踏みつけても柔軟に変形するシリコン製で壊れません。レンズが粉々になれば二度とかけられなくなると思って足を踏み下ろして眼鏡目がけて力いっぱい踏みつけます。ぐにゃ、ぐにゃ、とあっちへいったりこっちへいったり。だんだん虚しくなってきます。頬が膨張して、目が熱くなります。

 これを一番初めにかけたときのことを思い出しました。「あ、眼鏡じゃん」とあの、クラスメイトたちの健やかな顔。「これまで眼鏡かけないの? かけたほうが良いよ」と何度も注意していました。あの頃はノートを書き写せなかったときに頼っていたのです。それが眼鏡をかけた途端、もうしなくていい、と晴れやかに。それまでは「また?」と言われていたこともありました。親も親で「眼鏡かけなさい」と促してきました。見えないでしょ。そして眼鏡をかけた後の態度は「ようやく分かってくれた」と言った表情で。

 どの人も、注意が実った。言うことを聞いてくれた、私を上手く操作した、と見え透いていて、私はそれが一番卑しく思えていました。

 これはただの反抗期、なのかもしれません。

 ただ、どうしても眼鏡の区切られた世界の中に、私を押し込めているようで、息苦しかったのです。これからも、こんなふうにみんなが注意してきたものを、自分の「嫌」を払いのけてしていくのでしょうか。

 そう思うとひときわこの眼鏡が嫌らしく思えてきました。

しかし、なかなか壊れません。壊れなかった眼鏡を拾い上げて、私はかなしくも教室に戻ります。


「眼鏡」と席に戻ると、ノボルくんが声をかけてきました。私は何も言わずに引き出しに眼鏡を放り投げます。代わりに次の受業の教科書を用意しました。

「かけないの?」

 ノボルくんが怖々とした声で話しかけているのが分かりました。そんな声で話しかけるのなら言わないでほしかった。

「かけない。ダサいし」

 ノボルくんも同じように教科書を用意していました。彼の顔は見えません。だから、いっそのこと、きくのは怖くありませんでした。

「ノボルくんはさ、眼鏡、ダサくないの?」

 とん、とノボルくんは教科書の角を置いて、私をのぞきみました。

「なんで?」

「だって、眼鏡かけた自分ってダサくない?」

「そう? 僕はけっこう気に入ってる。園倉さんはさ、眼鏡かけた自分がダサいって思ってるんだね」

「うん。みんな、この息苦しさがわかんないんだよ」

「自分で視界を選べるって最高だと思うけどな。見たいものをみたらいいんだよ」

 ノボルくんは他の声を払いのけるように、くいっと眼鏡を押し上げます。

「それに、僕はさ、園倉さんの眼鏡姿、似合ってると思うよ」

 教科書を置いて、ノボルくんはこちらに顔を向けました。私はむしょうに、今のノボルくんが見たくて、仕方なくなって。

 しょうがないので、眼鏡をはめてみました。

「ほら」ノボルくんがはにかみます。

「最高に、似合ってる」

 はにかみ笑顔でピースをつくってます。

 私は区切られた世界の中で、ノボルくんだけを区切って見つめ続けました。ノボルくんは前を向き直り、先生を見上げます。

 ほんの少しだけ耳が赤くなっていました。

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